ショート・エール ネクスト・スピリッツ
「君がシリング君か……。
わざわざ呼び立てて、すまなかったね」
「……いえ」
待ち合わせ場所、ウォルポートで最高級のレストラン『緋緋色金』。
指定の通り、その個室へと通された俺を迎えたのは、身なりのいい老紳士だった。
商人ギルドからは「さる商会のご隠居様」としか聞かされていなかったが、残念ながら木っ端の行商人に過ぎない俺、シリング=フィッシェにはどの道真偽を確かめる術はない。
「……なーに、おじさん?」
さらに予想外だったのは、部屋の中に子供がいたことだ。
10歳を過ぎたくらいの女の子……孫か?
昼を少し過ぎた時間ということもあり、我慢ができなかったのだろう。
『フラクフライの悪鬼風』……あるいは子供向けに辛さを抑えた『小鬼風』にパクついていた少女は、口の周りに赤いソースをつけたままキョトンと首を傾げる。
「今日は公的な場ではないのでね、大目に見てやってくれ」
「はぁ……」
実際に上流社会の人間なのだとしたら、あまりにマナーがなっていないとは思う。
が、俺には関係のない話だし、深入りしたところで価値がある話とも思えない。
再びフライと格闘し始めた少女からは完全に視線を外し、俺は目の前でポットを傾ける老紳士の正面に座る。
「それで、『兄弟姉妹』について聞きたい、ということでしたが?」
「うむ」
ウォルの主な住民である子供たちを総称する二つ名、『兄弟姉妹』。
それに頷きながら、老紳士は杯の1つを俺の方へ差し出した。
「端的に言えば、ウォルポートで新しい店を……それも、ウォルの住人をターゲットにした商売をやってみたいと思っていてね。
その参考にするために、ここで長い間……それもウォルの初期から彼らを見てきた人間に、話を聞きたかったのだよ」
「と、言われましても、私も一般的なことしか知りませんよ?
確かに私は南北戦争が終わった直後から、まだウォルが数十人しかいない頃から通っていた行商人の1人ですが、ウォルの内部にいた人間というわけではありませんので。
……漏らせるような内部の情報なんかも、持っていませんし?」
「心得ているとも、そんなことは。
こちらとしても、あの『黒衣の虐殺者』の逆鱗に触れるつもりはない。
単に、ウォルに何の伝手もないのでね。
新参者として、詳しい人間の率直な話を聞いておきたかっただけだよ。
……だからこそ、この程度の報酬なわけだ」
同時に差し出された小袋は、確かに軽い。
大金貨2枚。
それでも俺には大金だが、このクラスの人間が支払う口止料込みの報酬であることを考えれば確かにそれなりだ。
こちらも若干軽くなった息をつき、俺も背筋を伸ばす。
……まぁ、わかりきっていることではあるが全てが建前だ。
実際には、ウォルの子供を懐柔してどうにかウォルに、『魔王』の黒いマントの下に入り込めないか。
少なからず、それを考えているからこその茶番劇なのだろう。
くり返しになるが、この老紳士が本当に商会の先代なのかはわからない。
どころか、そもそも商人ですらない可能性もある。
ただ……だとしても、俺は別に難しいことを考える必要はない。
仮にそうだとして商会にも、もちろん『魔王』にも楯突くつもりなんてない。
俺はただ、商人の端くれとして大金貨2枚分の話をするだけだ。
……それに、どうせ気を遣う意味もあまりないのだから。
「まず……食料品はやめておいた方がいいですね。
基本的に、ウォルの中で手に入らない食べ物はありません。
何せ、ウォルには『最愛』がいますからね。
水と一緒にチョーカに輸出してるくらいですから、本当に何千どころか何万人を賄いきれるだけの食料を生産できているんでしょう。
質でも、勝てないでしょうね」
あくまでも商人向けに語り始めた俺の言葉が、室内の花油の匂いに混じり始める。
老紳士の無言を相槌と解釈し、俺は半分以上なくなっているフライの皿に視線を送った。
「しかも、ウォルの人間が食べている料理は『鬼火』やその一番弟子の『緋色』が作った献立ばかりです。
巷では『チョーカの貴族よりも、ウォルの孤児の方がいいものを食っている』なんて言われてますけど……、……あながち、間違いじゃないでしょうね」
それこそ、この店のオーナーでもあるロザリアや、その師匠であるミレイユの料理を日常的に食べられる。
それにどのような感慨を覚えたのか、老紳士の眉間には浅いしわが寄っていた。
「だから、というのもあるんでしょうけど、ウォルの子供は全員背が高いです。
女の子でも5から10センチは違いますし、男に至っては『重天』……まではいかないとしても、やっぱり10センチ以上の差がありますから。
そういう意味では、衣料品のサイズにも注意が必要です。
成長期の子供なら、町のレベルに1歳か2歳足すくらいでちょうどですね」
ウォルポートにいる商人なら誰もが知っている、『ウォルの門番』こと『重天』ヨーキ=ウォル。
かつては見下ろしていたのに今は見上げないといけなくなったあの少年はやはり別格だろうが、それでも俺の語った内容は誇張ではない。
人間の体にとって「食べる」ということがどれだけ大きな影響を及ぼすのかは、同じ年齢のウォルの子供とチョーカの子供を並べてみれば一発で理解できる。
さらには13歳から始まる護身術に武器術、冒険術の授業を修め終わった子供たちは、冗談抜きでその辺りの下っ端騎士よりも強い。
「……本や、文具などについてはどうだろう?」
「あー……」
なら、頭の方ではどうかと、老紳士は考えたらしい。
ただ……商会の人間、ましてやその孫娘がいる前で突きつけてもいい内容だろうか。
一瞬だけ悩んだが……、……「率直」ということなのだから、言っておくべきなのだろう。
それに、どの道ウォルで商売を始めればすぐに思い知ることになるのだから。
「『タルゴスの数理』は、全て終わってらっしゃいますよね?」
「もちろんだよ、16歳のときには最終問題を解き終えている。
……孫は、まだまだ中盤といったところだがね」
『タルゴスの数理』。
それは、『創世』時代から伝わっている、この世界で最もポピュラーな算術教本だ。
初歩的な四則計算はもちろん代数学や幾何学、果てには確率論なども網羅したこの本は、商人や文官なら最終ページの問題までを完全に解ききっているかどうかが1つの目安になっている。
目の前の老紳士の16歳なら「かなり早い方」、孫が……11歳とすれば「普通」、18歳までかかった俺も「普通」といったところだろうか。
……ただし。
「ウォルの子供は、12歳までに全部終わらせるそうです」
「……は?」
ただし、「ウォル以外でなら」を前につけなければならないが。
「今のウォルの子供は6歳から『タルゴスの数理』を始めて、12歳の時点で最終問題を解けるようになるよう教育されているそうです。
……あぁ、商人や文官志望者がじゃなくて、全員が、ですよ?」
「……嘘だろう?」
実際に確かめるまではそう思っていた俺と全く同じ感想を漏らす老紳士に、俺も渋い顔を向ける。
「まぁ、ウォルができてまだ6年という時間は経っていないので、そういう意味では『まだ本当のことではない』ですが。
ですけど、ウォルの12歳以上が最終問題を解けるのは本当ですね。
……私もこの話を聞いたときに、露店で接客するついでに確かめてみたことがあるんですよ。
最終問題の数字の部分を変えて、13歳だっていう男の子に解かせてみたんです。
……どうなったと思います?」
既に顔を引きつらせている老紳士に、小さく肩をすくめてみせる。
「2歳下だっていう、その子の妹に解かれました。
あらかじめ用意しておいた私の模範解答の、計算ミスを指摘するおまけつきで」
あれは、本当に恥ずかしかった。
そして、同時に恐怖も覚えた。
「知っての通り、ウォルの子供たちは成人と同時に『魔王』の祝福を受けて魔導士になります。
ですが、それと同時にあの子らは騎士並みの体と冒険者並みの技術、文官並みの頭も兼ね備えているんですよ。
何千人といる全員が、全員が……ですよ?」
商売の種を探すつもりだったはずの元商会長の顔は、いつしか魔物の群れに囲まれた駆け出し行商人のそれへと変化していた。
ただ、その感想は正しくない。
まったくもって、正しくない。
「……ただ、ウォルの子供たちの本質は、その優秀さではありません」
『十姉弟の長姉』こと『係命』のアンゼリカは、かつてアーネル王室やチョーカ帝室、冒険者ギルドからの徴集を断ったことがある……。
カイラン大陸ではあまりに有名な話だが、実はこれにはまだ続きがある。
「先程の最終問題を解かれた話に戻りますが……その後、冗談交じりでその女の子にこう提案したんです。
『こんなに優秀なら、明日からおじさんの下で働かないか』って。
……何て答えられたと思います?」
もちろん、完全な冗談だ。
今すぐにでも大商会が欲しがるレベルの逸材がこんな場末の行商人の使いっ走りをすることなど、検討どころか想像する価値もない。
子供らしい、無邪気な笑顔を見せてもらってこの悪ふざけは終わりのはずだった。
「……『ウォルより、いい暮らしができますか?』…………かね?」
いつの間にか冷たくなっていた指先でカティの杯を包み、老紳士の回答に首を振る。
「『わたしがあなたのところに行くことで、ウォルの弟や妹たちにどんなメリットがありますか?』……。
……こう、即答されたんですよ」
あれほど、目の前の子供が恐ろしいと思ったことはなかった。
待遇だったり、給料だったり、仕事のやりがいについて聞かれるならまだわかる。
あるいは、『魔王』や『最愛』への恩返しが動機なら理解もできる。
ところが、目の前の11歳の子供が問題にしたのは自分よりも年下の、自分の次の代の、自分が守るべき子供たちのことだったのだ。
おそらく、俺の下につくことでウォルの子供たちに何らかのメリットがあるならば、あの娘は本当に俺のところに来たのだろう。
その瞳が宿す光と熱は、一介の行商人風情が直視できるようなレベルではなかった。
「『古い樹は死んで新しい種の糧となることで、森の生命は廻っていく』……。
ネクタの、森人の哲学らしいですけどね」
そして、それは大商会に君臨してきた男でも変わらないらしい。
目の前の老紳士が幻視する先にいるのは多少手強い程度の魔物ではなく、都市を壊滅させ得る強大な上位精霊だ。
「あの子たちは、本当に家族なんですよ。
文字通りに『魔王』の血を分けた、『兄弟姉妹』なんです」
まるで海、あるいは森。
その中心でポツンと立っているような、語りながらも思い出したその心細さを、俺は冷め切ったカティで流し込んだ。
「……ご苦労でした、サイオン」
「はっ」
力なく微笑んだ行商人を帰した後、私は口の周りのソースを丁寧に拭った。
椅子から立ち腰を折る老紳士……私の近衛の1人であるサイオンを一瞥しながら、舌に残る憂鬱を飲み下す。
規模も陣営もバラバラの商人、職人、冒険者からそれぞれ聞き取りをして、この有様。
大小あれ共通しているのは、ウォルへの畏怖と……帝国への軽視。
なるほど、道理でここ最近貴族や有力者の子供が「病死」したり、「死産」が相次ぐわけだ。
支配者としては冷徹な彼らも、結局は子の将来を想う人の親にすぎないということなのだろう。
……だけど、それなら、やはり彼らが見ても大勢は決してしまっているのか。
古い樹は死んで新しい種の糧となることで、森の生命は廻っていく。
なら、この場合の樹とは、種とは、森とは……。
「……情報は、もう充分です。
すぐにカカに戻ってお姉様に……、……いえ、マール次期皇帝陛下に奏上しなければ。
……たとえ次の代になったとしても、チョーカ帝国はウォルに敵いません」
「ラメル様……」
手を伸ばした杯の表面では、唇を噛むサイオンが上下逆さに映り込んでいる。
「仕方がありません……。
帝室は、古くなりすぎたのです」
わずかに残っていた甘さも辛さも、口にした冷水は容赦なく流し去っていった。




