アナザー・エルフ 雷鳴の夢 後編
本話をもって、3部は終了となります。
「ソーマは……、水の大精霊」
だけど、あらためて話すとなって、私はソーマという人物を語ることの難しさに直面していた。
メリッサと同じように、彼もまた異世界の人間。
それも、精霊や魔石どころか魔法そのものがないという私には想像もつかない世界から【異時空間転移】で……。
……生贄として召喚された人。
そんな、彼が私にすら言うのを躊躇っていた事実を、軽々しくメリッサに話していいわけがない。
「精霊?
ソーマとは人間ではないの?」
「人間だけど、水の大精霊でもある」
結果、彼を表す最も端的な一言を優先した私に対して、メリッサは不思議そうに当然の質問を重ねてきた。
第一、この少女の世界にはそもそも精霊がいないのだ。
人間だけども大精霊、という確かに珍しい事実を説明する私を見る彼女の視線は、どんどん混沌としたものになっていく。
「魔王というのは?」
「それは、二つ名。
あとは『氷』とか、『黒衣の虐殺者』とか」
もしかしたら、メリッサの中での彼のイメージは化け物に近くなってしまっているのかもしれない。
それを少しでも修正しようと、私は彼の二つ名、客観的な評価でもあるそれを口に出した。
「…………虐殺って」
「……」
だけど、……どうやら私は選択を間違えたらしい。
聞いておきながら完全に興味なさ気に、それでも一応は私に向けられていたメリッサの瞳には、『虐殺者』という単語を聞いて明らかに蔑みと憐れみの感情が浮かんでいた。
「べ、別に討伐の対象になったり赤字……、犯罪者だったりするわけじゃない!
それなりに尊敬もされてるし、仕事はちゃんとやってるし、……優しいし」
その反応をみとめた瞬間から、私は彼の妻として猛然とソーマ=カンナルコという人物の補足説明を始めた。
確かに彼は『魔王』と恐怖され、『黒衣の虐殺者』と呼ばれるだけのことをしている。
だけど、それは私が彼に求めたことの結果でもあるのだ。
少なくとも、私の前での彼への悪口は許さない。
それに、彼は『氷』と敬遠されるほどに冷たいだけの人間では決してない。
そうでなければ、子供たちがあんなに彼を慕うはずもないだろう。
ソーマという人間を理解するためには、冷たさとあたたかさという、真逆とも思えるその在り方を理解しなければならないのだ。
「…………へぇ」
「……」
だけど、……どうやらそれはメリッサにはうまく伝わっていないらしい。
数秒前まで可哀想な人を見る目つきで私を見ていた少女の黒い瞳には、それを超越した慈愛と優しさすら浮かび始めていた。
……間違いなく、何かを誤解されている。
「……ソ、ソーマは凄いもん!」
「…………ほぉ」
「世界で2番目に強い人間で1人で戦争を終わらせたし、だけど優しくて公平で真面目だし、ウォル……自分の領地での仕事も真剣に頑張ってるし、アーネルやチョーカの人たちはもちろんフォーリアルだって一目置いてるし……」
完全に、信じられていない。
眼前の少女の、先を促しながらも生ぬるい感情しか込められていない不誠実な相槌を打ち消そうと、私は思いつく限りの彼の美点を挙げていく。
『声姫』に次ぐ魔力を誇る、Sクラス冒険者。
冷徹だけれども、その分冷静かつ平等な判断力。
意外と凝り性で勤勉。
仮にも『王』と称されるだけの風格……。
「…………はぁ?
誰がどうとかは解らないけど、領主が仕事を頑張るのは当たり前じゃないの」
だけど、それすらもメリッサは一刀両断した。
実際には剣など持ち上げられもしないような細い指先で首の辺りをポリポリと掻きながら、彼女は……ある意味、当然のことを言う。
……確かに、それはそうかもしれ……、……いや負けるな、『最愛』!
「そ、それに旦那さんとしてだって凄いもん」
ソーマは、男性としてだって優れているのだ!
「……へぇ、どんな風にぃ?」
「カッコいいし、キレイ好きで掃除や洗濯もすごく上手だし、作ってくれる料理やお菓子もすごく美味しいし、私が作ってちょっと失敗しちゃったものも美味しいって残さず食べてくれるし……」
メリッサの中では「ソーマ」という人物の評への優先順位が下がったらしく、半分閉じられた少女の黒い瞳はもう私の膝の上で欠伸をしているカルビンの尻尾に向けられている。
その視線を再度私の顔に向けさせようとその目を覗き込みながら、私は、私とミレイユくらいしか知らない彼の意外な姿を列挙していった。
何かに集中しているときの、ドキリとするほど真剣な視線。
水の大精霊らしく、どこか優雅さすら感じさせるほどに合理的で洗練された家事のやり方。
私の料理の先生であるミレイユすら驚かせるほどの調理の知識と、完全に温度と水分を見切って作られる美味の数々。
その上で、おそらくは物足りなくても……私を励ましてくれる優しさ……。
「世界第2位の実力者さんに対して随分と苦行を強いるのね、奥さんは」
……そこまでハッキリ言う!?
思わず全力で握りしめてしまった両手や多分赤くなってしまっている私の耳に注意を払うこともなく、少女はどこかうんざりした様子で隠す気のない悪意を吐き捨てる。
「忙しく働いて奥さんの失敗作を残さず食べさせられ美味しいと言わざるを得ないなんて…………ソーマって人、マゾ?
もしくは恐妻家で逆らえないだけとか?」
「ち、違う!」
私は『恐妻』じゃない!
王都の歓楽街を中心に『魔王の最恐』なんていう変な二つ名が最近流行っているらしいけど、別に私は何もしていない!
それに、彼が被虐趣味でないことは誰よりも私がよく思い知らされ……、……いや、これも今はどうでもいい!
「……!」
何故かメリッサがハッとした表情を浮かべたけれど、それもどうでもいい!
「ソーマは私のことを愛してくれてるもん!
寝る前と起きるときは必ずギュッてしてくれるし、一緒にいると安心できるし、私のことを大切にしてくれるし、大好きだって毎日言ってくれるし、私の夢のために命を懸けてくれてるし、若干変態だけどよる……」
だけど、どうでもいいとは頭で思いつつも、私の必死さはそれを上回った。
夜も凄い……、と危うく口走りかけて、慌てて私は唇を閉じる。
初対面の、しかも未成年に私は何を言おうとしていたのか。
暑さというより熱さすら感じる顔をメリッサの視線から背けながら、私は逃避のためにカルビンの背を撫でる。
少し乱暴になってしまったらしく、ニャア、と迷惑そうな鳴き声が私の手の下からは発せられた。
「…………変態って」
「……」
呆れ果てたように復唱された4文字は、聞こえなかったことにした。
そんなところにだけ、興味を示さないでほしい……。
……。
……うん。
ソーマのカッコよさや優しさは、私だけがわかっていればいいのだ。
別に、こんなお子様に1から10まで説明してあげる必要はない……。
「……」
「……」
…………大人げなくなんか、……ない。
「……そ、それじゃあミサキっていう人は?」
いいもん。
ソーマはカッコいいし、優しいもん。
頬を撫でる風に、先程まではなかった涼しさと……敗北感を覚えつつ。
明後日の方向を向いたままで、私はなげやりに話題を反転させた。
「世界最高の魔術師であり、師匠に屈服した国からは『魔導師』の称号を献上され今は学校や商会の代表、そして我が姉貴分でもあるスタッシュ領領主の相談役、さらにさらに国中からありがたがられる物語を書く作家としても活躍されているわ」
「……そう」
ミサキ=ハーベスト。
私にとってソーマがそうであるように、メリッサにとって最も大切な人だというその人の名前を出した瞬間に……、……隣の少女から発せられる魔力が少し増した。
「そのお姿は女神すらひれ伏すというか女神そのもの、いや、むしろ女神が師匠の足下にも及ばない」
いや、というか……、若干……身の危険を感じる魔力になった。
日常会話で使うことがあまりない「神」という単語を連呼しながら両手を広げ、どこか恍惚とした表情で天を向く少女の姿は、……怖い。
その黒い瞳は軽く瞳孔が開いているのかさらに黒さを増し、そこに目元を引きつらせた私の顔はもう映っていないようだ。
認めたくはないけれどあえて近いものを挙げるとすれば、それは彼が「あちら側」に行ってしまう……すなわち、私に敬語を使う瞬間の闇のような瞳に似ていた。
錆びきった鏡に炭を塗り付けさらに数百年は放置していたかのような、救いようのない色。
完全に、自分が信じるものしか見ていない目だ。
「その知恵は他者の既成概念に捕らわれず自由にして、むしろそれこそがこの世の法則よ」
「……」
そんな私の心中を読み取り、それを追認するかのような哲学的な言葉を少しだけ緩んだ唇から発するメリッサがいよいよ怖くなってきて、私は思わず上体を動かした。
座ったままお尻の位置もずらし、拳1つ分ほど隣の黒い少女から遠ざかる。
正直、チラリとメリッサの方を見て無音の溜息をついたカルビンが膝の上にいなければ、すぐに立ち上がってしまいたかった。
「……そ、そう。
魔導士で、学校と商会の代表で、領主の相談役で、作家だと、……ミサキさんはかなり忙しい人?」
この場合の唯一の対処方法は、相手を現実に引き戻す事だ。
具体的で生活感しか感じないような質問をして、相手をこちら側の世界に引き戻す。
……ただ、残念ながら彼相手には1度も成功したことがないけれど。
「ええ、学校と商会は部下と弟子もいるけど大変よ」
しかし、幸いにして今回は成功したようだ。
私の切った札で多少なりとも闇を祓われ、得意そうに頷くメリッサに私も作り笑顔で応対する。
……ただ、「あちら側」から「こちら側」へ帰ってくるまでのタイムラグが一切ない。
もしかしたら、さっきのアレは正気だったのだろうか?
そうだとしたら、そちらの方がはるかに恐ろしい。
完全に「あちら側」になった人間がどういう振舞いをするかを、私は幾多の悶絶と共に思い知らされているからだ。
「……そう。
……その間、あなたは何をしているの?
商会か、それとも学校の方のお手伝い?」
そして、おそらくだがこの少女のそれは彼よりもはるかに危険だと思う。
……残念なことに、私の経験則がそう告げている。
自分の夢の中で『魔王』以上の狂性と歪みを抱えた近族に出会ったことに頭痛すら覚えつつ、私は何とか彼女を「こちら側」に固定し続けようと必死で会話を展開し続けた。
「まず、何はともあれ師匠がお酒を欲する気配を見逃さないようにするのが一番の仕事ね。
おつまみの準備も重要よ。
師匠は何もなければ何もないで何も仰られないけど、空酒は体に悪いもの。
いつでもどこでも召し上がって頂けるように準備は欠かせないわ。
……この間なんて、町中で一緒に歩いているときに喉が乾いてらっしゃったようなので氷魔術で冷やしておいたワインを差し出したら、誉めて頂いたわ!」
「……????」
だけど、その結果として得られた情報は私をさらに混乱させた。
一瞬、私の世界とメリッサの世界の「お酒」は別のものなのかとも思ったけれど、「おつまみ」や「空酒」という単語を聞く限りではどうやらそうではないらしい。
飲むと酔っぱらう、あのお酒のことのようだ。
……だとすると、それが一番の仕事とはどういう状況なのだろうか?
そして、それがいつでもどこでも、町中を歩いているときも必要というのは、もう「好き」とかいう嗜好の問題ではなく「中毒」という立派な疾患ではないのだろうか?
「……えっと、でも領主との会議のときもあるんでしょう?」
「飲みながら会議をしてるけど?」
「……お酒を?」
「勿論よ。
会話の妨げになってはいけないからお酌をするタイミングがなかなか難しいのよ!
それもこの間、『メリッサは一番空気を読んで酒を注ぐな。見事だ』と言って頂いたのよ!」
「……」
ソーマはあまり細かい決まり事を課すタイプではないし、相手の礼儀作法にもうるさく言わない。
それでも、会議や真面目な話し合いの途中にその相手が目の前でお酒を飲み出したら怒るだろう。
私も、それが普通だと思う。
それが、私たちの世界での常識だ。
だけど、それをさも当然だと胸を張るこの少女の世界では違うらしい。
お酒を我慢できないのは一般的には恥ずかしいことだと思うけれど、……きっと文化の差なのだろう。
ドワーフというお酒が好きな種族が存在するあたり、その辺りには独特の価値観があるのかもしれない。
「あなたの世界では、皆がそうするの?」
「既成概念に囚われない師匠だからこそに決まってるじゃない!
一般人と一緒にしないで頂戴!」
「……」
……ないんじゃない!
ただそのミサキという人がだらしないだけでしょう!?
既成概念がどうのこうのじゃなくて、完全に病気じゃない!
それに、それを誇らし気に語るあなたも充分におかしいから!
「……作家、というのは?
それもお酒を飲みながらお話を書いているの?」
「ええ!
そのまま寝ちゃうこともあるから、こぼさないように見守らないといけない重要な仕事を私は任されてるわ!」
もっと重要なことに気がついて!
お酒を飲みながら書くのは大人としての自由だけど、こぼさないように見守られないといけないのは赤ちゃんと小さな子供くらいだから!
嬉々として語るメリッサのまっすぐな瞳、先程までのそれとは違う非常に前向きで楽しそうなその光を見て、私の心の中には違和感や焦りを通り越し、冥い影が広がる。
もしかして、この少女は洗脳でもされているのだろうか?
あるいは、その不幸な現実を認めまいと必死に虚勢を張っているのだろうか?
「もしかしてミサキさんは、学校や商会の仕事もお酒を飲みながらしてるの?
それもあなたが用意して、お世話をして、こぼさないように側についているの?」
「ええ!
他の弟子が授業のときは私がお酌できるんだけど、私の授業を見て下さるときは光栄だけどお酌のタイミングがどうしてもずれてしまって……。
……まぁ最近ちょっと慣れてきてそれも何とかなりそうだけど!
商会のときは私は特別何もなければやることないから、師匠の視察に付いていけるけど」
「……目を覚まして、メリッサ」
嬉しそうに、楽しそうに、誇らしそうに、幸せそうに。
そのミサキという人物のことを語り続けるメリッサの表情に耐えきれなくなって、私は声を絞り出した。
確かに、この少女と私は別の世界の人間だ。
それぞれに育ってきた環境は違うし、今まで見聞きしてきたものも出会ってきた人たちも、夢見て信じているものも違う。
何を喜び、誇り、幸せと捉えるかもきっとそれぞれだと思う。
それでも、「森人」と「エルフ」。
非なるとはいえ私と似ているこの少女には、どうか正しい道を歩んでほしい。
少しだけ先を生きた者として私は、ポカンとしているメリッサの黒い瞳をまっすぐに見つめる。
「……そのミサキという人は、アルコール依存症という病気。
これは心の病だから、魔法で体だけを治しても意味はない。
お酒の手に入らない場所に軟禁して、完全にお酒を抜かないといけない。
あなたがやるべきはお酒をこぼさないようについていることではなく、ミサキさんが立ち直るのを見守ること」
真摯に。
心から。
私は、狂信に囚われた少女に言葉を紡ぐ。
「それに、あなた自信も立ち直る必要がある。
そんなだらしない人の側にいてはダメ。
そんな人に仕えられて、……さっきの雷みたいな高位の魔法も使える立派な魔術士なんだから、もっと自分の人生のことを考えなくちゃ。
……そのお姉さんだという領主さんやあなたの友達に、自分の現状を相談してみた?
お父さんやお母さんは、あなたがミサキさんの側にいることをどう思って……、……?」
「………………、……」
だけど、そんな私の声はほとんどがメリッサに届いていないようだった。
話の途中からワナワナと震え出していた少女は、うつむき加減にブツブツと何かを呟いている。
「……メリッサ?」
「…………か、……の」
ダラリと垂れた髪の隙間から覗く長くとがった耳や、中空で骨が軋むほどに握りしめられた両手は死人のように白い。
こちらを睨む黒い瞳はグルグルと回り、眼球の白い部分には雷のような赤い血管が浮き出していた。
ニャア、と呆れたような声を残して私の膝から立ち上がったカルビンが、尻尾とユラユラと揺らしながらこの場から離れていく。
「我が師を愚弄するか、無礼者!」
私の言葉に対して、悪鬼のような形相となったメリッサが紡いだのは。
「!!!!」
パリパリと迸る無数の雷光と、雷鳴のごとき絶叫だった。
「……!」
メリッサは一切の予備動作なしにその場で立ち上がり、私に右拳を突き付ける。
私を睨み下ろすその黒い瞳に沸騰した憎悪と明確な殺意が浮かんでいるのを見て取った瞬間、私は彼女の唇が動く前に全力で体を捻った。
「は!?
……く、無礼者が、無礼者が、無礼者がぁああああっ!!」
「!!」
光。
それを間一髪でかわした私に一瞬だけ向けられる、少女の唖然とした表情。
それを横目に、私は崩れる重心に合わせて草原に右手を叩きつけ、転がりながらとにかく距離を取ろうとする。
閃光、閃光、閃光。
燃えて、黒い炭に変わる草。
細く上がる白い煙。
その先で、ブルブルと震えている白い拳と黒いドレス。
私が右手を離したまさにその場所、まさにその瞬間に爆発する地面と、それを成した3発目の雷を放った少女に慄然としながら。
私は3回半の回転を終えて立ち上がり、さらに大きく後ろに飛び退いて間合いを作った。
「避けるんじゃない!」
およそ5メートル。
その先で私に無茶な要求を咆哮するメリッサの全身からは、フォークで皮膚を刺されるような鋭い魔力が放射されている。
魔石を握り込み、親指の爪が中指に食い込んで血が滲む右手と、……私の杖を折り砕かんばかりに握りしめる左手。
声が割れる程に叫んだ唇の隙間からは、全力で噛み締められた犬歯が覗いていた。
……とりあえず、私の発言のどこかがメリッサを怒らせたらしい。
明らかに敵意と害意のある魔法を撃たれたことに怒りと驚きを感じながらも、私の理性はその一点だけで踏み留まる。
防御の準備だけはしながら、それでもすぐに反撃をすることはなく。
「……どういうつもり?」
そう、努めて冷静に声をかけた私の、その理性を。
「己をまずは恥じなさい! この無礼者が!」
メリッサはあっさりと、一瞬で。
「そもそも綺麗好きとか優しいとか以前に『黒衣の虐殺者』だの『魔王』だの名乗っていい気になってる恥ずかしい奴に洗脳された己の脳味噌を心配しなさい!
しかも変態の!
変態の!
大事なことだから再度言うけどへ!ん!た!い!の!
奥さんとして生きるとかって、私だったら首吊ったまま風葬されてた方がマシだわ!
掃除や洗濯も料理やお菓子も上手!?
妻なら貴方がやりなさいよ!
ちょっと失敗しちゃったものを喜んで食べる!?
失敗した本人にとっては少しの失敗も他の人間には大抵『大惨事』に決まってるのよ!
貴方の言う愛情って『都合が良くて好き』とかそういう打算的な感情を勘違いしてるだけじゃないの!?
そんな奴にどうして上から目線で私と我が女神との関係を口出しされなきゃいけないのか真面目に理解できない!
貴方はまず自分が狂ってるっていう自覚を持つべきだわ!」
「……」
……。
……。
……。
……蒸発させた。
「夫婦の愛がどういうものなのかも知らないお子様が、好き勝手言わないで!!」
頭の中のどこかで何かが千切れた音を聞きながら、私はメリッサに剥き出しの怒りを叩きつける。
「だ、え、お、お子様!?
変態の奥様によるお子さま扱いとかこの世の誰が該当するのか理解不能だわ!」
「あなたに言っている、メリッサ=スペズナルド!
夫婦でどう暮らしていくかは、その夫婦だけが決めていいことなの!
結婚をしたこともない、ましてやソーマに会ったこともないあなたが私と彼の生活に口を挟まないで!
だいたい変態、変態って……!
そこも含めて私はソーマを愛してるんだから、別にいいでしょう!
彼の過去や覚悟も知らないくせに、その部分だけ抜き出して彼を貶めないで!!」
彼と、その彼が何より大切にしている家族を、馬鹿にされた。
その事実が、普段なら絶対に表にしない悪意を声に変えてしまう。
「そもそも、それを言い出すならあなたとミサキという人はどうなの!?
『魔導師』か代表か相談役か作家か知らないけど、お酒がないと生活できないなんてただのアル中じゃない!
そんな病人を、社会不適合者を女神とか法則とか言って崇めるあなたの方がよっぽど狂ってる!
本当にその人のことを想ってるなら、お酒を止めさせるべきでしょう!
優しさと甘さの区別もつかないお尻の青いお子様が、偉そうに愛を語らないで!!」
大人として、年長者として。
胸の中に包んでおくつもりだった罵詈雑言の全てを、眼前の少女に叩き返す。
「……死ね!」
結果、少女の理性は完全に裂光と化した。
もはや咆哮すら超えて唸り声のような低い叫びを上げたメリッサの瞳は、完全に魔物のそれだった。
爆発のような怒りに染まった黒の双眸は、狂気にも似た光で満たされている。
可愛げのない態度や言動を差し引いても充分に美しかった白い顔は、今は空を覆う雷雲のようにまだらに赤く染まっていた。
だけど、私も他人のことは言えないかもしれない。
私と、何より私を愛してくれるソーマを完膚なきまでに侮蔑したメリッサに、私は久しぶりに本気の怒りを感じていた。
首の骨と頭蓋骨の継ぎ目から発熱し、視界が赤く染まるような激情。
噛み合わせた奥場の根元と、普段は使わない鼻の周りの筋肉が痛い。
それこそ、彼には見せられないような表情をしているに違いない。
ただ……その一方で、激怒するメリッサと激昂する私の間には明確な差異もあった。
殺意だ。
左手で私の杖を握りしめ、指の骨が浮き出すほどに強く握り込んだ右手を私に突き付けるメリッサからは、まさしく雷のようなそれがバチバチと叩きつけられてくる。
相手を殺してやろう、という本気の殺意。
いくら大切な人を侮辱されたからとは言え、たかが口論で、しかもつい先程会ったばかりの人間にそれを向けることができるメリッサの幼さと愚かしさに、逆に私は冷静になりつつあれた。
同時に、結婚してからはついぞ遠ざかっていた「命の危険」を、久しぶりに身近に感じる。
……そもそも、この場所で。
夢だと思うこの場所で死ぬか、あるいはそれに近い大怪我をすれば私はどうなるのだろうか。
猫足亭のベッドの上、彼の腕の中で、冷や汗まみれになって飛び起きるのだろうか。
あるいは……、……!
「デオボルド!」
「っっっっ!!」
どちらにせよあまり楽しくはない想像を中断して、私は【緑壁之召喚】を発動!
同時に、その防壁の真後ろからずれるために、目を焼くような光の中を右後ろへ跳躍する!
木属性中位魔導【緑壁之召喚】。
草原から一気に伸び上がりつつ絡み合い、瞬時に構築された2メートル四方ほどのその防壁が私の視界の端で小さくなりながら……、爆散。
空気を裂くような甲高い雷鳴の残響のせいで、無音の両耳。
夕日を浴びたように炎上する蔦の壁の残骸と、噴き上がる白い煙。
そして、目を見開いた私の周りにまで飛んでくる黒く炭化した葉や枝の欠片。
それらにぞっとしながら、私は着地し膝を曲げた体勢のままでメリッサを睨みつける。
長い年月を経た大樹でさえも一撃で裂き、場合によっては森の一画を炎に包む、雷。
自分で吹き飛ばした【緑壁之召喚】を見て呆けた顔をしている少女が右手から放ったのは、まさしくその金色の天災だ。
先程の、おそらくは中位相当だったのだろう一筋の雷の魔術。
それとは桁違いの規模の致命傷となり得る極光を何の躊躇もなく私に向けた眼前の少女に、私は初めて彼に会ったときのような戦慄と恐怖。
「……!」
そして、あらためてフツフツと沸き上がってくる怒りを感じていた。
「……」
ただ、一方でそれほどの狂気を放っていたメリッサは、何故かその後に追撃をしてこない。
少しばかり理性が戻ったらしい黒色の瞳は、彼女の5メートル前でほとんど灰に変わった緑色の壁に固定されている。
「……」
「……メリッサ?」
……木属性魔導。
彼女にとっては未知であるその魔法を見て、虚を突かれたのかもしれない。
それに思い当った瞬間……。
私は自分でもぞっとするほど「優しい」声で、メリッサに微笑んでいた。
「!!」
彼女の視界に、立ち上がり、ゆらりと右手を前に出した私がどう映ったのかはわからない。
だけど、まるでグズグズに壊死した自分自身でも見たかのように、メリッサの瞳には初めて恐怖の色が混ざる。
そんな目の前の少女の表情を見つめながら、伸ばした自分の腕、視線の先の何かを掬い取ろうとするように掌を上に向けながら。
「メリッサ……、……全力で防御した方がいい」
私は、誰かさんのように、唇をさらにつり上げる。
「あい…………!!!!」
何かを叫んだメリッサの周りに半透明の黒い壁が出現すると同時に、メリッサの前後左右の地面が爆発した。
「…………!?」
何事か声を上げて周囲を見回す、防御魔法で薄暗くなったメリッサの表情を微笑と共に見つめながら、私はまるで王のように右手をゆっくりと握り込んだ。
その先では、ショッキングピンクの4本の柱がウネウネと体を震わせている。
『カラミタ』という名前のこれは、だけど建築物や動物ではなくれっきとした植物だ。
カミノザでも遭遇したBクラス相当のこの食獣植物の姿は、見たままを言うなら「何百本もの腕が表面から生えた5メートルほどの柱」だった。
腕のように見える茎と手指のように見える葉が無数に絡み合っているその姿は、その毒々しい色も相まって人間に生理的な嫌悪感を催させる。
表面がテラテラと光っているのは、消化液も兼ねた強力な接着液を全身に纏っているからだ。
まるでヘビかウナギのようにグニャグニャと動き回るこの腕に捕まればもう逃げられず、そして物理的に骨の髄まで溶かされることになる。
木属性高位魔導【千手之召喚】を発動させた私は、そんなカラミタを意のままに操っていた。
外側から見てなお鳥肌の立つこの光景、内側から見れば一体どれほどの衝撃か。
引きつった顔のメリッサを捕らえようと無数に伸ばされるカラミタの手は、まるで紙か布のように薄い壁にベタベタと貼り付いていく。
水のように向こう側が透き通って見えるその不思議な防御魔術は、確かにそれなりには堅固なようだった。
だけど、あくまでもそれなりには、だ。
四方から千以上の手を貼り付かせたカラミタをそれぞれ逆の方向へ動かすと、その壁にはパリパリとひびが入り出す。
今は私が手加減しているだけで、これが本物のカラミタならばとっくにメリッサはその虜囚になっていただろう。
「……反省した?」
「はぁ!?」
その余裕と呆れが、声に出てしまったのかもしれない。
普段の自分の声音より幾分か冷やかなその問いかけに、メリッサは防御魔法の向こう側でギョッとしたような表情を浮かべた。
そもそも、たとえどれだけ罵詈雑言を浴びせられ、明らかに殺すつもりの魔法を撃たれようとも……。
私は、メリッサを殺すつもりはなかった。
たかだか口喧嘩の果てに致死性の高い毒系の魔導を使うなんて、魔導士として以前に人として失格だ。
でも、だからといってメリッサに言いたい放題、したい放題されたままにするつもりもなかった。
私だって、怒るときは怒る。
そして、聞き分けのない子供を叱るのは大人の役目だ。
「メリッサ=スペズナルド。
……反省したか、と聞いている」
小さな子供に、完全にコントロールされた危険や恐怖を体験させてあげるのも大人の仕事ですわー。
そんなことを言いながら微笑むミレイユの横顔を思い出しながら、私は目の前で半狂乱になっているメリッサに再度問いかける。
住んでいる世界が異なるとはいえ同じ「エルフ」を、幼い同族を導くのも、やはり年長者の務めだろう。
「貴方、どっかおかしいんじゃないの!?」
「そう、……残念」
……『魔王』として嗤うときの彼の気持ちが、少しだけわかる。
悪夢のような光景を前にしても折れない強情なその心を粉砕しようと、私はさらに笑みを深くした。
これは決して、ソーマをまるで恥ずかしい人みたいに侮蔑されたからではない。
「変態の奥さん」呼ばわりされたからじゃない。
家事が苦手なことを馬鹿にされたからじゃない。
ちょっとだけ失敗した手料理を……、……だ、「大惨事」と言われたからじゃ……ない…………。
「ひぃッ、シショーーー!!!!」
皮肉なことに雷のようなひびに覆われていた防御魔術がついに粉砕され、ショッキングピンクの粘る腕の波濤がメリッサに向けて流れ込む。
金切り声を上げる少女の姿に小さな爽快感を覚えつつ、留飲の下がった私は【千手之召喚】を解除する準備を始めた。
「「……?」」
その、瞬間だった。
私は、自分の体が全く動かないことに気がついた。
……いや、それは正しくない。
正確には。
メリッサや。
カラミタを含む。
この世界の全てが。
停止していることに。
私は、右手を掲げた姿勢のままで気がついていた。
「「……」」
それは、無色となって凍り付いたままのカラミタに囲まれたメリッサも同じらしい。
体を守ろうと反射的に両手を前に出したその姿勢のまま、少女の瞳は大きく見開かれていた。
空も。
草原も。
蔦の壁も。
カラミタも。
私とメリッサを除く全ての景色が静止し、停止している。
声が出ない。
手が動かない。
足が前に出ない。
時間さえも凍てついたような無色透明の世界の中、混乱する私とメリッサの視線だけが交錯する。
「ニャア」
「「……」」
その中央を、黒い影が飛び跳ねた。
戦闘が始まる前に優雅に立ち去り今の今まで姿を消していたカルビンが、何故か異常過ぎる現在の中で普通に歩いている。
そのすぐ頭上を先導するように舞う、虹色。
最初に見かけて……、そういえばどこかに消えていた、あのチョウだ。
ヒラヒラ、ヒラヒラ……。
まるで何かを告げるかのように私とメリッサの間を舞うチョウを、黒ネコが夢中といった様子で追いかける。
カルビンを含めてもモノトーンの景色の中で、再び現れたそのチョウの羽だけが豊か過ぎる色彩を放っていた。
「「……?」」
私とメリッサは、そんな両者を視線だけで追う。
彫像のように固まった私たちの瞳には、困惑の色しか浮かばない。
「ニャアッ!」
「「!!!!」」
だけど、それはすぐに光に変わった。
追いかけていたカルビンの爪がチョウに触れた瞬間、私とメリッサの視界は白一色に焼き尽くされる。
緑と黒。
驚きに満ちたお互いの瞳の色も、爆発する光に塗り潰される中。
ニャア、とまるで別れの挨拶のような軽やかな鳴き声だけが、私の五感には残っていた。
「……」
目を開けた私の視界は、まだ薄暗い白に包まれていた。
……いや、違う。
これは、顔の上に載っているシーツの色だ。
夢の通りに掲げていた右手を下ろすと、それにあわせて純白は私の視界の下へ下へと消えていく。
まだ少しぼんやりした瞳に映るのは、もう見慣れた猫足亭の専用室の天井で……。
「……ああ、起きたか?」
「……」
仰向けの私が顔だけを傾けたベッドの隣、【灯火】の光の下で本に目を落としていたソーマの横顔だ。
上半身裸でイスに座り、ミニテーブルの上からオレンジ色に染まった苦笑を向けてくる彼の黒い瞳には、悪戯っぽい光が反射されていた。
「……いつから、……起きてたの?」
「んー……、……お前がいきなり体を捻ったときから、だな。
それまでも何かボソボソ言ってたような気もするけど、ベッドから出たのはそのときだ」
「……うぅ」
普段以上にしわが寄って、まるで洗濯の最中のように半分が丸まったシーツ。
ベッドの上からは消失し、彼の足下で死体のように積み重なった2つの枕。
布団の中央どころか、彼が寝ていたはずの左側のスペースに斜めに陣取っている私の体。
……どうやら、相当に暴れていたらしい。
それこそ、あれだけメリッサに自慢したその夫にベッドからの避難を強いるくらいに。
「ごめんなさい……」
「いや、別にいいけどさ。
まぁ……、でも確かに、あんなにハッキリ喋ってたのは初めてかもな。
……どんな夢、見てたんだ?」
……初めて、ということは、私が知らなかっただけでこれまでも結構寝言は言っていたのだろうか。
知りたくもなかった真実を知らされて頭を抱える私は、恥ずかしさというよりも自己嫌悪で泣きそうになっていた。
パタン、と本を閉じる音。
ズボンを脱いでベッドに上がってきたソーマは私の後ろに腰を下ろし、お腹に左腕を回した。
引き寄せられるまま彼に体重を預けると、視線を逸らした目元に優しいキスをされる。
「……で?」
「すごく……不思議な、夢だった」
穏やかな瞳の黒に火照った体と毛羽立った心が落ち着いていくのを感じながら、私はおずおずと口を開いた。
この世界ではない、だけど少しも不安のなかった不思議な世界。
どこまでも続く草原と、広がる青い空。
虹色の羽を持つ「チョウ」と、それに連れられるように現れた黒ネコのカルビン。
そして、メリッサ。
森人ではなく「エルフ」だという、黒い髪に黒い瞳の少女。
『魔導師』ミサキの弟子で、雷を操る魔術師。
生意気で、自分勝手で、沸点も低くて、見た目からは想像もできないほどに手強い少女。
……だけど、きっと真っ直ぐで、自分の愛に正直な女の子。
最終的にぶつかりはしたけれど決して憎めなかった、その「もう1人のエルフ」との出会いから別れまでを話す間、私を抱きかかえたままのソーマはずっと楽しそうに相槌を打っていた。
意外だったのは、彼が「長寿のエルフ」や「お酒が好きなドワーフ」の存在を知っていたことだ。
ただし、それは彼の世界にいたわけでもなく、架空の物語の登場人物として。
あくまでも、想像上の幻想的な存在としてだけどな、と彼は笑っていた。
「んー……、……悪いけど、そのメリッサっていう奴にはあんまり会いたくないかな。
性格っていうか、相性が悪そうだし。
……でも、そいつの師匠だっていうミサキには会ってみたいな」
それよりも彼が食いついたのは、ミサキという人物の方だ。
アルコール中毒のくだりでは声を上げて笑っていたけれど、賢者や経営者としての面、そして何より自分と同じく国家を屈服させたというその強さや精神性に、『魔王』様は興味をひかれたらしい。
「そいつには、色々聞いてみたい。
……色々、な…………」
「……そう」
どこか曖昧な言葉でそう感想を結んだ彼は、私の労をねぎらうように。
目の前のつむじに、キスを落とした。
「……」
「……っ」
同時に、お腹に回された腕がギュッと抱き締められる。
お尻、背中、首筋、髪、耳、頭……。
密着する彼の体温と匂いは私の中に残っていた小さな炎に、夢の中だったとは言え命がけの闘いを終えた後のその昂ぶりに、再び爛れるような熱を与えた。
お腹の下の方にズクンと灯った重みが……、徐々に私の体温を高くする。
「ソーマ……、……何だか、目が冴えた」
「そうか」
……ちょうど、明日までは休日。
ここは、いつもの猫足亭。
メリンダもバッハも、ソーマと私がここではひたすら怠惰な時間を過ごすのは知っているし、それを周りに悟らせないように気も回してくれる。
何より、私は彼の妻だ。
甘えるのに、何の遠慮もいらない。
求めるのに、何の迷いもいらない。
ソーマに、トロトロになるまで私を融かしてほしい。
ソーマと、ドロドロになるまで溶け合ってしまいたい。
ソーマが、欲しい。
だって、彼と私は……。
「じゃあ、聞いときたいんだけどさ。
お前、人に俺のことを説明するときいちいち『変態』だって言ってるの?」
そう、変……、……たい!?!?
「……え?」
幸せな熱に浮かされていた私の頭は、その一言で一気に冷まされた。
だけど、何で?
どうして?
「その単語」に関する部分は、「上手く編集して」伝えたはずなのに!?
「かなりハッキリ、寝言で連呼してましたが?」
混乱する私に不吉を知らせるように、氷のような答えが降り注ぐ。
「……あぅ」
ぅうわあぁぁぁぁああああ!!!!
心中で絶叫しながら、私は必死で無表情を保った。
何とかを弁解しようと決死の覚悟を決めながら、ゆっくりと背後の『氷』に振り返る。
「……ソ、……あ、え?
…………ぅぁ……」
だけど、その瞬間に私の舌は。
彼の、カラミタのようにテラテラと輝いている笑顔を見て。
一瞬で、凍りついていた。
……【水心装衣】。
それは全身の薄皮1枚、それこそ1ミリほどの厚みだけを【精霊化】させる、大精霊としての精緻な水の制御能力の極みとも言える超高位魔導。
……だけど、同時にこれは世界で最悪の魔力の無駄遣いでもある。
【氷鎧凍装】のような絶対防御能力があるわけでもなく、【氷艦砲】のように一軍を殲滅できる攻撃力があるわけでもない。
どころか、有益性という意味では日用霊術の【生水】や【冷却】にすら劣る。
この全身【精霊化】の効果は、……あの【悪魔の腕】のように全身を微振動させる。
それだけ……、だからだ。
腕も、手も、指も、爪も、唇も、歯も、舌も……、…………も。
温度や硬度を自由自在に、部分的に変えながら、相手がどうなろうと拘束し続け、ただひたすらあの悪魔的な快感を与え続ける。
すなわち全身の【悪魔化】とも言えるその最悪の魔法で身を包んだソーマは、……無言のまま私に微笑んでいた。
「……や、あっ、あ、……まっ、待って、ソーマ、ちょっと待ってっっ!!」
当然ながら私を抱き締める腕も【水心装衣】に覆われていることに気が付き、無駄だと知りつつ必死で身をよじる。
……だけど、やはりそれは無駄でしかない。
たとえ1ミリしかなくとも、ここに込められているのは世界の半分を支配できる魔力。
一応は世界3位であるはずの私がどれだけ暴れても、テラテラと【灯火】を反射する両腕は……、……びくともしない。
そう、1度【水心装衣】に捕まればもう決して逃げられず。
そして、骨の髄まで融かされることになる……!
「ソーマ、違うの!
あれは、あんまりメリッサがあなたのことを馬鹿にするから……!」
「で、変態だと?」
「……そ、それは弾みで!!」
「弾みで言うことでしょうか?」
「ちゃんとフォローしたもん!!!」
「いや、そういう問題じゃなくて。
うん……、もうこの際変態でも何でもいいんですけどね。
……そ、れ、を、初対面の人に言うって、アリスさん、何考えてるんですか?
俺を、社会的に抹殺したいんですか?
もしかして、俺が知らなかっただけであなたはいつもそういう風に俺のことを人に言っていたんですか?」
敬語。
本来はかしこまった気分になるはずのそれを聞いて、何故か私の顎はガクガクと震えていた。
深い笑みを浮かべる悪魔は、だけど全く笑っていない黒い瞳で涙を浮かべる私の瞳を覗き込む。
「でも、……それでもあなたのことが好き、って、……言ったもん」
呼吸さえ止まりそうな予感の中で、それでも私は気力をふり絞った。
冷徹だけれども、だからこそ守られる彼の平等公平な考え方。
そこに、一縷の希望を託す。
それに……。
「……まぁ、確かにな」
「うん!」
彼は、優しいのだ!
わかる、メリッサ?
これが、ソーマの優しさなの!
簡単に「あちら側」に堕ちたりしない、しっかりした大人なの!
お子様のあなたにはまだわからない、夫と妻の間の……。
「じゃあ、俺の魔力が切れるまでで赦してあげますよ」
「愛……、……ぃえ?」
ぞっとするほど優しい笑みを浮かべた『魔王』が、私のお腹に回していた左右の腕をそれぞれ上下に分かれさせた。
脱力した私の左腕を押さえつけたまま右胸を包み込む、指先だけが冷たい左手と。
同様に右腕を押さえ込んだまま、勝手知ったると言わんばかりに足の間へと侵入していく……、あたたかい右手。
「ぁ、……あ、ああ!?
待っ、ソーマ、待ってっ!!
わかったから、私がわりゅっっっっ!!!?
み、耳……、んっ……、耳、耳食べちゃダメ!!!!」
もう、全てが手遅れになったことを悟りながら。
それでも私は全力でもがき、私の左耳をモグモグ噛んでいるソーマを必死に呼び続けた。
瞳孔が開ききり、「あちら側」に行ってしまった闇の深奥。
錆びきった鏡に炭を塗り付けさらに数百年は放置していたかのような、救いようのない色。
完全に、自分が信じるものしか見ていない漆黒。
耳が液状化してしまいそうな舌の熱さに翻弄されながら、横目に入るその色に私は涙を滲ませる。
優しくて。
公平で。
真面目で。
カッコよくて。
キレイ好きで。
家庭的で。
あたたかい……。
だけど、『黒衣の虐殺者』。
お子様なんて比較にならないほどの恐怖と狂性を宿す彼の沸点を、私は測り違えたのだ。
……ああ、そうだ。
もしも今度メリッサに会う機会があったら、カラミタなんてけしかけたことを謝ろう。
どんな生意気を言われてもどんな失礼な態度を取られても、大人として笑顔で聞き流してあげよう。
共に魔法を使う者として、異なる世界の近族として。
愛する者を持つ者として、そして少しだけ先を生きる者として、優しく接してあげよう……。
「……、……じゃあ、アリスさん」
次があれば、だけど……。
「いってらっしゃい」
ここではない世界の、もう1人のエルフ。
あの雷のような少女にとった大人気ない態度を、深く反省しながら。
私は……悶……、……~~~~!!!!!!
エルフ先生、お元気ですか?
『クール・エール』は、ちゃんと完結できましたよ。
『ミサキ』、また読みたいです。




