アナザー・エルフ 雷鳴の夢 前編
本編は『優しき魔女ミサキ』とのコラボ短編です。
残念ながら、今はあちらの作品を読むことはできませんが……。
私は、不思議な場所にいた。
見渡す限り延々と続く、建物も森も川もない緑一色の草原。
白い雲がゆっくりと流れる、どこまでも青い空。
「……?」
おかしい。
昨日はソーマと私は休日で、2人で『罪の娘』という最近流行りの歌劇を王都の劇場に観に行った。
それが面白かったので、ラルクスに転移する前に「知識の連環」で原作の古典も買った。
ラルクスに移った後はいつも通りギルドに顔を出してから猫足亭に入って、やっぱりいつも通り2人で公衆浴場に行った。
戻ってからはメリンダの作る料理をお腹いっぱい食べて、部屋で晩酌をしながら本を読んだ後、ソーマと一緒にベッドに入った……。
……うん、間違いない。
私は猫足亭の客室で彼と寝ていたはずだ。
それなのに、どうして1人で外にいるのだろうか?
自分の体を見下ろせば、彼のマントの色と同じ漆黒のバトルドレス。
同じ色のブーツに、実家を出て以来ずっと愛用している深い青色のマント。
全裸だったはずが、どうして服を着ているのか……?
「……」
フードを脱いで辺りを見回すけれど、視界には地平線しか映らない。
ただ緑色の草原だけがどこまでも広がり……、……鳥?
……いや、違う。
私の目の前をヒラヒラと横切ったそれは、まるで虹色の小さな紙か、あるいは木の葉を重ねたような可憐な生き物だった。
ヒラヒラ、ヒラヒラ……。
まるで風にあおられる花びらのように、その美しい生き物は私の眼前を舞う。
……もしかして、これが彼の世界にはいたという「コンチュウ」……。
確か……「チョウ」、なのだろうか?
「……」
それに思い当たった瞬間。
私は誰よりも信頼する彼の言葉を思い出して、何となく自分の置かれた状況を理解し始めていた。
明晰夢。
いつか彼が教えてくれた「夢だと自覚できる夢」。
自分がこれまで見たことも行ったこともない……、そして、きっと今後見ることも行くこともないのであろう場所。
いつものように唇と体を重ねた後、ソーマの腕の中で目を閉じた私がいるはずのない場所。
目を開ければ消えてしまう、儚い幻の世界。
「!」
そう意識した瞬間に、まるでそれを証明しようとでもするように私の手の中にはフォーリアルの杖が現れていた。
……いや、正確には違う。
形も重さも同じはずのそれからは、あのあたたかい魔力も静かな意思も感じられない。
それこそ、これは何の力もない幻だ。
「ふぅ……」
だけど、私には一切の不安がなかった。
アリス=カンナルコ。
アーネル王国内自治領、ウォルの領主代行にして領主夫人。
木の大精霊フォーリアルと契約するAクラス冒険者、『至座の月光』。
そして。
ソーマ=カンナルコの妻、『魔王』の……『最愛』。
私の現実を象る全てを意識するだけで、私の胸の中はあたたかな強さと包み込まれるような勇気に満ち満ちていた。
……それこそ、起きた後に最愛の『魔王』様に話せるようにしっかりこの夢の内容を覚えておこう。
そんな余裕すらも感じ始めていた……、そのときだった。
ヒラヒラと私の周りを舞っていたチョウが前方へと、まるで私をどこかへ導こうとするかのように……飛び去る。
その虹の断片を追う、私の視線の先に。
何もなかったはずの、草原に。
「……?」
いつの間にか小さな影が現れていたことに、私は気がついた。
黒い毛に覆われた小さな動物……、……ネコだ。
三角の耳に、フワフワとした尻尾。
突き付けた杖を気にすることなくブーツに顔をすり寄せてくるそれは、……可愛い。
どうせ夢なのだからダメージを受けることもないだろう、とその場に屈んで腕を伸ばし、小さな頭を撫でる。
「「……」」
無言でこちらを見上げる小さな瞳と視線を交換していた、そんな私の前に。
「ちょ、待ちなさい!」
「……!」
さらなる、登場人物が現れた。
黒い髪に黒い瞳の、小柄な少女。
同じく黒の、まるで貴族の子女が着ているような非常に凝った造りのドレス。
可愛らしくも、やや気の強そうな顔。
私と同じ、……とがった耳。
「……森人?」
「……………………へ?」
無意識に漏れてしまった私の声に、その少女は力の抜けた……おそらく驚きの声を返した。
ただ、驚いているのは私も同じだ。
この子は、……誰なんだろう?
手に伝わるフワフワとした感触を楽しみつつ、私はその硬直している少女の名前を見つけ出そうと頭の中の引き出しをひっくり返す。
……基本的に、森人はネクタにしかいない。
ただ、それなら彼女はコロモを着ているべきで、あんな凝った造りのドレスを着ているのはおかしい。
フリルや装飾など細かい部分まで非常に美しく仕立てられながらも、普段着の範疇に押さえられた黒いドレス……。
そんなドレスはネクタでは手に入らないし、それを着るような森人に心当たりも、……ない。
「「……」」
相手も相手で、私が「誰か」……あるいは「何か」を量りかねているのだろう。
私の手の中でニャゴニャゴ言っているネコから私の顔に移った……彼と同じ黒の瞳には、疑念と不審、そして驚きが色濃く浮かんでいる。
……ここは、本当に私の夢の中なんだろうか?
その視線を受け止めつつ、私がそんな疑問を持ち始めた瞬間だった。
「貴様、動くな!
……カルビン、こっちに来なさい!」
「!」
少女が、いきなり叫んだ。
同時に胸の前に掲げられた白い左手、そこから叩きつけられる異様な……威圧感。
私を睨む黒い瞳の中には単なる不審ではない、まるで雷雲のような激しい怒りと憎悪が明滅している。
……心当たりは全くない。
だけど、どうやらこの少女は私のことを敵視しているらしい。
「……何もしないから、落ち着いて?」
カルビン、この黒ネコの名前らしい、から手を離して立ち上がった私は、右手に握る杖の感触を確かめつつできるだけ静かな声で少女に語りかける。
……体つきから見て魔導士。
省略されたらしい詠唱や私に向けられるプレッシャーは、充分に高位のそれ……。
……ただ、命のやり取りが絡む実戦はあまり経験がないのかもしれない。
「…………貴方は誰で、ここはどこか、ここで何をしていたのか、答えなさい」
少し低くなった少女の声は、落ち着いているわけではない。
無理矢理に落ち着きながら、「何かを狙っている」。
そんな意識が、声音からも表情からもありありと浮かんでいる。
「……」
少女がポケットから右手を抜き出すその動作をあえて見送りながら、私は心中で【緑壁之召喚】と【大顎之召喚】のイメージを始めた。
多分、それで制圧でき……。
パシッ!
「……!?」
だけど、そんな私の落ち着きは少女が突き出した右手に光が走った瞬間に霧散した。
パリパリ、パチパチと乾いた音を立てながら、まるで細い糸のように小さく白い拳に纏わりつく、眩い無数の光。
……雷。
火、水、木、土、風、命、時。
7属性のどの魔導でもあり得ない……。
あのソーマでも支配できない、天を灼く轟き。
……この少女は、何だ?
思わず目を見開いてしまった私の、その瞳を見て。
先程までとは逆に、雷越しのあの少女の瞳には心からの余裕が浮かびつつあった。
「……」
だけど、その中で私の脳裏には既視感が浮かぶ。
既存ではあり得ない魔導。
この世界に生きる者の常識を超越した知識。
……彼と同じ、黒い瞳。
……彼と同じ、……異世界の…………。
「……とりあえず、落ち着いて?」
それに思い当った瞬間、私の口元には自然と微笑みが浮かんでいた。
彼と初めて出会ったときの衝撃や、共に旅した中での驚き。
未知なる力を軽々と使いこなす賢さと、それを支える強さ。
冷たく、だけどあたたかい黒の瞳。
そんな彼の瞳が目の前の少女と重なり、私の心にこの状況を見つめる冷静さが生まれる。
……ああ、絶対に。
この夢の中での出来事は、絶対に彼に話してあげなければならない。
「落ち着いて。
あなたに危害を加えるつもりはないし、私もあなたから攻撃される理由はない。
……多分、あなたと同じように、私もあなたのことが誰なのか……。
あるいは、『何なのか』が知りたいだけ」
「……」
どうやら、核心をついたらしい。
少女の表情から、少しだけ険がとれた。
「私は、アリス=カンナルコ。
まずはお互いのことを、話し合いたい」
「……その杖をこっちに寄越しなさい」
「……わかった。
でも、とても大切なものだから丁寧に扱って」
私が微笑みかけたのを見て、ようやく少女は雷を纏う右手を降ろした。
杖、すなわちフォーリアルを預けろという提案には少し躊躇を覚えたものの、どうせ幻なのだからと首肯する。
この場においては、本当にただの木の杖だ。
「よし、投げて寄越しなさい」
「……とても大切なもの、だと言ったはず」
ただ、だからと言って流石に投げ渡すつもりにはならない。
「私にとっては大事ではないもの。
知らないわよ」
「……ここに置いて、下がる。
あなたが、ここまで来なさい」
「わかったわ」
……どうやらこの少女、彼よりもさらに性格が悪いようだ。
不遜に吐き捨てる少女に若干ムッとしつつも、だけど私は年長者として譲ることにした。
浮かべていた微笑みを消しながら、その場に杖を突き立てる。
「あなたが」を少しだけ強調した後、私は後ろを向いてゆっくりと歩き出した。
その隣を……。
「……っ」
まるで従者のように、カルビンがついてくる。
「カルビン、あんたどっちの味方なのよ!?
こっち来なさい!」
いい気味だと思ったりカルビンが可愛かったりで背を向けたまま小さく吹き出してしまった私に気付いたのか、少女は慌てたように大声を出した。
「ニャァア?
…………ニャー」
「何、今、馬鹿にした!?
この馬鹿猫、師匠の猫じゃなきゃ丸焼きにしてるわよ!」
「……ぷっ、……くふっ…………」
はぁあ?
…………全くもう仕方ないなぁ。
絶対にそんな風に鳴き、悪いねー、と言わんばかりの溜息と私への目礼を残して踵を返したカルビンと、それに対する少女の……あまりに幼い反応に。
「ぶくっっ!!」
「何笑ってんのよ!」
私の唇は、ついに決壊する。
「いい加減笑うのを止めなさい!」
しゃがみこんで背中を震わせ続ける私にキレたらしく、背後からは少女の金切り声が上がっていた。
「……じゃあ、『エルフ』は人間よりもはるかに永い時間を生きる……」
「エルフはね」
それから、しばらくして。
草原の真ん中に並んで腰を下ろした私とその少女、メリッサは、お互いの世界のことや魔法のこと、そしてそこに住まう者のことについて言葉を交わしていた。
メリッサ=スペズナルド。
私はこことは違う世界、あなたとは違う世界で生きてきた……。
腰を下ろしてすぐにそう告げた私を胡散臭そうに睨んでいたその少女は、私より2つ下の16歳で「ハーフエルフ」だという。
「森人」ではなく、「エルフ」。
そう名乗ったその少女の話は「魔法のある異世界」ということでいくらか馴染みがあった分、「魔法のない異世界」から来たというソーマの話よりも衝撃的だった。
まず、メリッサのいた世界には3つの大陸があって、主立ったものだけで10以上の国があるらしい。
試しに代表的な大陸名や国名を挙げてもらったけれど、やはり私はそれらの単語を聞いたことがなかったし、彼女もカイランやアーネル、そして『魔王領』の名前を聞いても首を横に振っていた。
「聖鏡会」という存在も、私の世界にはないものだった。
フォーリアルのような7柱の大精霊を信仰するのではなく、いるのかどうかも曖昧な「神様」を崇める宗教……。
その内の1柱と契約し、その内の1柱と……結婚している私には、創世以前の神話や物語にだけ出てくるその習慣が今も主流の世界というものが、どうしても上手く想像できなかった。
それは、魔法のことにしても同じだ。
基本的には、魔術を発動するのには触媒として魔石が必要ね。
……そもそも精霊なんか、私の世界にはいないから。
その精霊と先程まで同衾していた私からすれば信じられないことを若干ぶっきらぼうに言い放ったメリッサの説明を要約すると、彼女の世界では魔法のことを「魔導」ではなく「魔術」と呼んでいるらしい。
ちなみに属性は火、水、風、土、雷、光、闇の7属性。
回復魔法が多いという部分で命属性の魔導と光属性の魔術は似ているような気もするけれど、「闇」というのがよくわからなかった。
そして、精霊との契約もなしにどうやって魔法を……それこそ雷まで操ることができるのかが、全く理解できない。
一方で、メリッサも自身が修めている魔術とは全く異なる体系の木属性魔導や時属性魔導には多少興味をひかれたらしい。
預けたままになっていて、今は私とは反対側の地面に投げ出された私の杖を眺める黒い瞳には、その背格好には似合わない魔導士……ではなく、「魔術師」の才に溢れたハーフエルフとしての深い知性が宿っていた。
「……ドワーフはいないの?」
「ドワーフ……、……どういう種族なの?」
その視線が、思考に沈んでいた私の瞳に向けられる。
初めて聞く単語に首を傾げる私を見て、彼女は困ったように眉間にしわを寄せた。
「……身長が低くて筋肉の塊みたいに力持ちで、さらには大酒飲みの種族」
「……いない。
それは、獣人とは違うの?」
「多分違う気がする」
私とメリッサがそれぞれ住む世界には、当然ながらそこに存在する人類……、その種族においても大きな差があった。
共通しているのは人間が存在していることくらいで、彼女の世界には獣人がいない。
魔族という存在はいるらしいけれども、それも魔人とは全く違うようだ。
そして、ドワーフ……。
……身長や体力はともかく、大酒飲みが特徴に挙げられる種族とは何なのだろうか?
何となく『ホワイトクロー』の4人の顔が浮かんで獣人を引き合いに出してみたけれど、やはりそれは全然違うものらしい。
「……ニャー?」
「あ、ごめん……」
雲1つない青色の空の下、どこまでも続く草原の緑色の中。
私の足、崩した正座のその上で丸まっていたカルビンの催促の声に、私は思考に夢中で止まっていた右手の動きを再開させる。
意外と薄い耳の裏側、顎の下、首輪と首の隙間ややわらかな弧を描く背中……。
「ちっ、…………この馬鹿猫め」
尻尾をユラユラと動かしながら目を細めて撫でられるそんなカルビンを一瞥し、隣で足を投げ出していたメリッサは片手をカルビンに伸ばしながら小さく悪態を吐いた。
本来は彼女の師匠の飼いネコだというこのカルビン、普段はメリッサから触られるのをとても嫌がるらしい。
私の指に合わせてゴロゴロと喉を鳴らしつつ、器用に飼い主の弟子の指から頭を遠ざけるその姿を睨みながら、少女は小さく表情を歪めた。
黒髪に、黒瞳。
白い肌に、整った顔立ち。
私と同じく人間のそれよりも長く、とがった耳。
だけど、森人ではなく、エルフ。
似ているようでもあり、だけどやはり決定的に異なるそれぞれの世界や魔法。
そして、そこで生きる人たちやその暮らしに想いを馳せながら、私は隣で何事かを考え込んでいるメリッサの言葉を再度思い返す。
500年……。
それが、彼女の世界におけるエルフの平均的な寿命。
そして人間とのハーフであるメリッサ自身も、おそらくは200年以上を生きる……。
地理よりも、魔法よりも、種族よりも。
その時間の隔たりこそが、何よりも明確に私と彼女の生きる世界が異なることを示していた。
「……アリス=カンナルコ……、……貴方はエルフでも長寿ではない。
貴方以外のエルフを含めそれが当たり前であって、さらにはエルフの国がある、ということよね?」
「……」
右手をカルビンに前足ではたかれて舌打ちしたメリッサも、ちょうどそのことを考えていたらしい。
どこか不愉快そうに、忌々しげに、……そして、少しだけ緊張したように。
様々な感情が内包されたその問いかけに私は首を縦に振ったけれど……、……だけど。
無表情になった彼女がそれに対して何を想っているのかは、私には想像できなかった。
「……」
「……」
続けられる、言葉がない。
エルフではない私には、エルフであるメリッサがそのことをどう考えているのかを推し量ることすらできなかった。
いや……、もしかしたら彼女自身も、その答えを持っていないのかもしれない。
……白く抜けるような肌に、黒く艶やかな髪。
どこか遠いところを見ている少女の顔に、何故か、いつも笑顔のミレイユの赤い瞳が重なって……。
「……」
それが何で、そしてどうしてだったのかはわからない。
だけど、言いようのない感情で胸がキリキリと痛むのを、私は確かに感じていた。
「……それで、貴方の夫のソーマってどんな人なの?」
だから。
……多分メリッサも話題の転換だけが目的だったのだろうその一言は、少しだけ私を安堵させた。




