アナザー・エール 月光 後編
「……ちっ!」
最悪だ。
自分のおかれた状況分析を短い舌打ちで終えて、私は頭の中で残りの魔力の計算に入った。
落ち着け。
暗黒と化した夜の森の中では、木の精霊が見える私の方が有利だ。
でも、ここはアジトの目と鼻の先の場所、……地の利は相手にあるし、トラップがあるかもしれない。
何より、大きな音を立ててさらに仲間を集めてしまうのは不味い……。
……ケチらずに、【時空間転移】も陣形布を用意しておくべきだった。
走り始めてから何度目かもわからない反省と後悔を繰り返しながら、息を殺して私は走り続ける。
時間が、時間がない。
今私にできる最善は、1秒でも早くラルクスに転移してギルドと騎士隊に増援を要請することだ。
『紅』のエバと、『鉄塊』のダウンゼン。
あの2人なら、きっとすぐに動いてくれる。
……だけど、それでも時間が足りない!
いつまでたっても成長しない自分の愚かしさに、悪態すらも思いつかない。
それに今は、そんなことをしている場合じゃない。
走れ、走れ!
あの2人は、まだ助けられ……!
「……!!!?」
その瞬間だった。
突如前方から叩きつけられる、圧倒的な魔力。
まるで水の中に入ってしまったかのような、全身を握り潰される威圧感。
それが、疾走する私の思考を凍てつかせる。
「……、大いなる大樹の子、永久なる……」
……間違いなく、決戦級。
黒衣に黒いマント、黒いフードをかぶった魔導士が視界に入ってしまった段階で、私は覚悟を決めた。
「フレイム」にここまでの高位魔導士がいたのは完全に誤算だけれど、いずれにせよ相手が格上である以上はこのまま逃げる方が逆に難しい。
最大戦速で隙を作って。
一気に切り札を叩き込み。
傷だけでも負わせて、何とか距離と時間を稼ぐ。
「「!!!!」」
発動した【青毒之召喚】。
その帳を貫いた【樹弾之召喚】を黒衣の男が【氷返鏡】であっさり防いだのを視認しながら、私は自身の最速で契約詠唱を重ねた。
……半年前のあの日、レッツェンからどうやってビスタに移動したのかを私は覚えていない。
目が覚めたのは翌日の昼過ぎで、そのとき私は中央区から少し外れたところにある終日営業の酒場のテーブルに突っ伏していた。
鈍器でこめかみを殴り続けられているような二日酔いの頭痛と、まっすぐにならない視界。
焼けつくような喉の痛みと口に残る酸味と苦み、……そして、呆れを通り越して恐怖の視線を向けてくる店主の表情。
記憶はなくとも、私は昨夜の自分の狂態がどれほど酷いものであったのかを思い知らされ、そして自己嫌悪でまた涙した。
何とか酔いを冷まして身なりを整える余裕ができたのは、結局その日の夕方になってからだ。
通りに面した窓から差し込むモルガナの瞳の色を見て、……またひとしきり泣いた後。
翌朝一番にクロタンテへと転移した私は、翌日には「影踏み」を条件に行きずりの商隊の馬車へ転がり込み、カイラン大荒野の何もない風景をぼんやりと眺めていた。
やがて地平に緑が増え、青が増え、埃っぽかった空気の匂いが完全に変わったのは、幾度かの夜と朝を迎えた後だ。
アーネル王国最南の城塞都市であるリーカンに入って私が感じたのは、その豊かさに対する感動ではなくやり場のない怒りだった。
糞みたいな場所。
モルガナが自国を称したその言葉の響きが、同じ最前線の都市でありながらゆったりと流れる時間と水の匂いで想い起こされる。
視界にも地図にも記される、無数の湖沼と数え切れないほどの河川。
黄色い大地を覆い尽くす緑の草原と、それ以上に広がる野菜や麦の若葉。
帝国に比べれば圧倒的に規模の小さい貧民街と、都市全体に広がる和やかな空気。
もちろん貧しい人の生活や奴隷となった人の扱いこそ大差ないものの、……それでも採掘集落などというふざけたものはない。
同じ大陸の北と南で、こうも違うものなのか。
持つ者と持たざる者で、こうも差が出るものなのか。
満たされし国と乏しき国で、ここまで瞳の輝きが違うのか。
200年続いているという南北戦争の勝敗を、私はこのときはっきりと悟った。
血走った目で高地全体を見渡し、殺気立った空気で実戦さながらの演習を繰り返すクロタンテと。
それをはるかに超える数の騎士と冒険者が真昼間からのんびりと往来で語らい、笑顔がそこら中に浮かんでいるリーカン。
比べることも、論じることも時間の無駄でしかない。
もしかしたらこの南北戦争の価値自体、両国ではその重みがかなり違うのではないだろうか。
ウォリア高地の影に広がる影は、本当に実体のないただの影に過ぎなかったのではないだろうか。
そんな幻想と錯覚の可能性に呆然としながら、ならばモルガナやメリルやガラシャの死には何の意味があったのだろうと、私の思考は迷走した。
……ただ、チョーカでもアーネルでも変わらなかったことが1つだけある。
戦争をなくして多くの人を救いたいという私の考えは、この『満たされし国』でも異端だった。
冒険者、騎士、商人、職人。
ギルド、食堂、酒場、広場。
いつ、誰に、どこで、どんな風に話してみても、私は無視されるか気味悪がられるか、笑われるか疎まれるかした。
特に冒険者の態度は、ただでさえ落ち込んでいた私をさらに絶望させた。
ある程度の覚悟はできていたものの……、それでも、チョーカのそれより質も量もはるかに勝る名うての冒険者たちがチョーカの惨状に一切の興味を示さなかったことに、私の心は日々摩耗していった。
「冒険」とは、己のためにするもの。
そんな彼らにとって当たり前のことを理解していなかった私は、彼らからすれば紛れもない異端だった。
お金、名声、地位、権力、異性……。
報いがあってこそ危険を冒すのだというある意味でわかりやすい論理は、結果として私をさらに孤独にし……。
そして、さらなる力を求めさせることに繋がった。
リーカン、アーネル、アーネルポート、エリオ、ラルポート、ラルクス……。
それからの私は、主立った大都市を回りながらAクラスになることだけを目指してギルドの依頼を受けまくった。
魔物や赤字を屠り、1人で闘い抜ける強さを求め続けた。
優れた装備品を揃え、子供たちに銅貨を握らせ、いずれ他の冒険者を雇えるようにお金を稼ぎ続けた。
何より、万人から無条件に畏敬の念を持たれるAクラス冒険者としての発言力と権力が、私は欲しかった。
理解し合える仲間を望めないのならば、自分だけの力で。
善意での協力を望めないのならば、即物的な雇用で。
願いへの応えが望めないのならば、力を背景にした命令で。
淡々と強さだけを求め続ける私の姿勢は享楽的な他の冒険者の生き方とは合わず、森人であるということとは関係なく私をさらに1人にしていった。
森に潜む魔物と。
人を喰らう赤字と。
私は1人だけで戦い続け、1人だけで殺し続けた。
「フレイム」という盗賊団の合同討伐任務に参加したのはそんな生活を続けていたある日、ラルクスに入って少し経った頃だ。
付近の北部森林を根城にする大型の盗賊団を殲滅するということで、制圧や後方支援、そしてその前段階のアジトの発見のために50名以上の冒険者がその任務を受け、私は他の数パーティーと一緒にアジトの特定を行うことになっていた。
……今になってみれば、この長かったソロの生活が、Bクラス冒険者として重視すべき他パーティーとの連携をおざなりにしてしまったとしか思えない。
私がまた失敗し、そして弱さ故に敗走し。
……そして。
彼と出会ったのは、その夜の森の中でのことだった。
「申し訳なかった」
「……とりあえず、治療しろ。
ロッキーの薬だから、すぐに止血できるはずだ。
回復系の霊術は使えるよな?」
「……」
ソーマ。
自陣片を見せてそう名乗り、そして白字であって盗賊の一味ではないことを示したその魔導士は、頭を下げる私に何故か困ったように止血剤を投げてきた。
他の都市に比べれば良心的とはいえ決して安価ではない薬を、それも自身を襲撃した人間にポンと渡してきたことに私は若干戸惑う。
ただ、少なくともソーマが薬の代金に困るような人間ではないということはすぐに理解できていた。
無表情の黒瞳が背を預けた、……巨大な氷の塊。
その中にはガブラを筆頭に、ドーダルやグレートラビィまでもが封じられている。
どうやったのかあのガブラの半身を消失させ、素早いグレートラビィの頭を正確に吹き飛ばし、巨大なドーダルをほぼ無傷で。
そして、個人で捕らえる実力。
この黒髪黒瞳の……多分、私と同じくらいの年齢の青年が、超の付く高位魔導士であることは疑いようもない。
何故か不機嫌そうに目を細めているこのソーマという人物は、おそらく世界で最強の水属性魔導士だ。
【樹弾之召喚】、【青毒之召喚】、【緑壁之召喚】。
そして【大顎之召喚】と【死槍之召喚】……。
私の総力で放った魔導の全てを正面から完封したその強さは、……正直、もう恐怖の域に達している。
こんな相手に戦いを仕掛けた自分の馬鹿さ加減と520万というあまりにでたらめなソーマの魔力値に、もう呆れることしかできない。
だけど、数ヶ所を小さく抉られた私の右腕の痛みが、それを事実なのだと証明していた。
……強い。
このソーマという人物はAクラスがどうとか上位精霊がどうとかではなく、もはやあの『声姫』と同じレベルで強い。
『創世の大賢者』や『浄火』、そんな伝説と比べた方がわかりやすいほどに強い。
世界を支配し、創り、滅ぼす事ができるほどに強い。
「……」
「……」
無言のまま【治癒】を発動させる私を、無言で見つめているソーマに対して……。
私の心の中に、ほとんど消えかけていた朱色の光が灯る。
世界を変えられるほどに。
世界を救えるほどに強い。
この人の手は、私の手よりも大きくて、強い。
私が届かなかった全てに……きっと世界の果てまでも届く。
「手伝ってほしい」
連れ去られた2人の冒険者。
サーヴェラや、プロンの住人たち。
貧民街や夜の都市で物乞いをする子供たち。
モルガナの、叫び。
本当に久しぶりに口にした……祈りにも似た私の言葉は。
彼の黒い瞳に、小さな小さな波紋を作った。
「私は、この近くで出没していた盗賊団のアジトを突き止める依頼を受けて行動していた。
全員が赤字で30人を超える大きな盗賊団。
それなりの武装で、霊術の心得もあるメンバーもいて、集団戦に長けている。
冒険者や街道を使う商人の馬車が襲われる被害が多発していた」
「……」
非常に意外なことに……。
ソーマは私の言葉に無言で頷いた後、事情を説明する私の隣を歩いてくれていた。
歩きながらでいい、と告げた冷やかな横顔に、私は冷静に、そして懸命に状況を説明する。
……ただ、森の中をアジトへと戻りながら、私の胸中には先程までの高揚とは……真逆の感情が湧き上がっていた。
「アジトは発見できたのだけれど、その時に女性の冒険者2人がそこに運び込まれているのを見てしまった。
奇襲をかけて助けようとしたのだけれど、撃退されて、さらに追跡されていた。
ようやく振り切ったところで、目の前に出てきたのが、あなた。
盗賊団の一員だと思って、先制攻撃をしかけてしまった。
……本当に、申し訳ない」
怖い。
隣を歩いているソーマという人間が、恐ろしい。
盗賊。
それに浚われた女冒険者。
それを助けられなかった私のミス。
そして、私が本気でソーマを殺そうとしたこと。
その全てに対して、彼は何の反応も興味も示さなかったからだ。
相槌は打つし、話はちゃんと聞いてくれている。
内容も理解しているし、これから自分が何を見せられて何をさせられようとしているのかも理解している。
その上で、それら全てに興味がない。
人が水面を挟んで海の中を覗き込んだときのように、他人事だとしか思っていない。
全てに、一切の価値を見出していない。
「あなたの強さがあれば、討伐隊を呼ばずとも盗賊団を壊滅させられる。
少なくとも、さらわれた2人の救出は可能。
ガブラやグレートラビィを倒す実力と、私の【大顎之召喚】を完璧に防御しきれるだけの戦力があるなら、賭けるべき。
私が失敗したせいで、盗賊団はアジトを移動する可能性がある。
そうしたら、あの2人は絶対に殺される。
討伐隊を組織しても、ラルクスからアジトまでは6時間はかかる。
それでは間に合わない。
それに……」
この人は、確かに強い。
でも、それは誰かを助けるための強さなのだろうか。
ただ残酷で、冷たい力なのではないだろうか。
「当初予定されていた討伐隊全員の魔力を合わせても、あなたの足元にも及ばない。
というよりも、そんな比較自体に意味がない。
魔力量523万……。
あなたは……、……何?」
あなたは、何?
「……」
「……!」
絶対に人間にするべきではない問いと共に、彼の瞳を覗き込んだとき……。
私は、失意と共にその答えを理解した。
黒。
まるで夜に湖の底を覗き込んだような、凍てつく黒。
冷たくて深くて、ただどこまでも続く闇のような黒。
世界よりも大きくて、氷よりも冷たい影のような黒。
痛みも、苦しみも、怒りも、哀しみも。
その全てが永遠に氷結した、極寒の絶望。
永遠に広がり続ける、世界の影よりも冥い虚無。
「……申し訳ない。
冒険者の素性を聞くのはマナー違反。
ましてやあなたには、あなたを突然殺そうとした私の失敗の尻拭いのために……。
見ず知らずの2人を助けるために、命を懸けさせようとしている。
許してほしい」
言葉だけは論理的に続けながら、私の頭の中にはただ混乱と……絶望だけがあった。
氷。
私が……おそらく最後となる希望を寄せたソーマという人間は、冷たい氷の化身だった。
何の色も、匂いも、味もしない。
ただ冷たくて、不変の塊だけがそこにはあった。
何の生き物も住めないという北の最果ての海のように、その中には何も存在していなかった。
これほどの魔力を、あれほどの強さを持ちながら、彼の心の中には私やモルガナのそれを超える絶望しか残っていなかった。
何の光も、熱もない。
この世界に、何の希望も意義も認めていない。
ただ凍てついた闇だけが、黒としてその瞳には映っていた。
「……」
「……」
あなたは、何を見たの?
何を聞いたの?
何を言われたの?
何をされたの?
何を、したの?
共に隣を歩いているだけで、私は凍てついた湖の底に沈んでいくような……、決して妄想ではない寒さと……。
そしてただ、冷たく果てしない絶望を感じていた。
「!」
冷たい!
同行者に肩を掴まれ撥ねるように振り返った私を、人差し指を口につける仕草でソーマが黙らせる。
闇の中で尚黒いその瞳には、やはり何の光もなかった。
「……ミッションはさらわれた女冒険者2名の救出だが、既に死んでいた場合は遺体の回収でいいか?
それから、アジト内の赤字の捕縛。
ただ、難しければ遠慮なく殺すからな。
それから……」
……やはり、彼の世界ではあの2人は生きていても死んでいても同じことなのだ。
赤字の命など、最初から存在しないものなのだ。
何の脚色もされていないその可能性を、微塵の躊躇いもなく語るソーマは。
ただ、虚無の瞳でこの世界を俯瞰していた。
……だけど。
だけど。
だけど。
それでも、私はそれに頷いた。
「この件の報酬は?」
一拍を置いて付け足された彼の質問に、私は即答する。
「私の体を、好きにしていい」
私は、それでも彼に全てを捧げることにした。
おそらくは、世界が望むのとは全く違う方法で世界を変えるのであろう彼に、救いを求めることにした。
世界に絶望しかけている私ができるのは、世界に絶望しきった彼の強さに。
それでも、縋ることだった。
「……」
「大丈夫。
私は初めてなので、病気の心配はない」
彼にならって現実的な部分だけを抜き出した答えに、だけど彼は硬直する。
何かを問いたげな彼に、私はただ事実だけを返した。
「私は、私の都合であなたに命を懸けさせることになる。
今の私に、あなたの命に見合うだけの対価は用意できない。
私にできるのは、私を差し出すことくらいしかない」
事実だった。
私では、あの2人を助けられない。
彼なら、あの2人を助けられる。
私では、この世界を変えられない。
彼なら、この世界を変えられる。
私は、弱い。
彼は、強い。
その間を埋められるものを、私は私自身しか持っていなかった。
「……1つだけ聞かせろ」
「何?」
そして、もし……凍てついた彼が、私の夢を理解してくれるなら。
「そのさらわれた2人は、お前にとって何なんだ?」
「……人間関係という意味でなら、全く知らない人。
今日初めて見た」
「……何でそのために、お前がそこまでする必要がある?」
「助けられるから」
私では救えないこの世界を、彼が変えてくれるなら。
「私だけなら、諦めるしかなかった。
事実、失敗した。
でも、あなたが戦ってくれるなら、助けられる。
そして、私があなたに支払えるものは、これくらいしかない」
「いや、だから……」
「少し手を伸ばせば助けられるなら、少し手を伸ばして助けるべき」
差し伸べた私の手を彼が握り、そして彼が世界へとその手を伸ばしてくれるなら。
「これは私の矜持の問題で、私があなたに命を懸けさせるのは、私の都合。
だけど……」
私の未来全てなど、彼に捧げて当然の対価だった。
「お願い」
私を絶望から、どうか救って。
あなたの絶望を、私は共に背負うから。
頭を下げた私はただ祈り、願う。
冷たい氷に、自分の姿を映そうとするように。
私は彼と、その絶望を交換しようとしたのだ。
……だけど、彼は。
ソーマは。
決して、氷ではなかった。
「わかった」
その声に応じて頭を上げた私は、いつしか寒さを感じなくなっていたことに気がついた。
何が、琴線に触れたのかはわからない。
何が、彼を変えたのかはわからない。
だけど、……あたたかい。
透明で、どこまでも清浄な彼の魔力が私の体を包み込む。
まるで、お母さんに抱き締められているような……。
いや、それよりもっと原初の、自分がもう持っていないはずの……お母さんの、お腹の中にいたときのような……。
そんな絶対の安心感に、私の心は温められていた。
「……」
……光が、灯っている。
目の前で……どこか楽しげに揺れる黒い瞳には、小さくも確かな光が浮かんでいた。
どこまでも、どこまでも澄み切った、あたたかい黒。
いつの間にか周囲の闇を払っていた月の光が、まるで別人のように微笑む彼の瞳の中を照らしている。
……何故なのか、自分でもよくわからない。
だけど、もう怖くない。
少しも、寒くない。
もう、……冷たくない。
ただ、心の奥底から……あたたかい。
「ただ、報酬に関しては後で考える方向で頼む」
「……不満?」
「違う!
……あ、いや違う、というか」
「胸?」
そんな彼に一歩引かれたことに……何故か今まで意識したこともない女としてのプライドが傷付き、自分から……聞いてしまう。
結局あなたも胸が大きくないと駄目なのかという落胆に似た怒りと、意外と傷ついている自分への情けなさが同居した結果、笑顔を浮かべるべき私の表情は完全に相殺されてしまっていた。
……おかしい。
落ち着かなきゃ。
想定外の、彼の急激な変化に自分の感情がコントロールできなくなりつつあることを……、熱くなりつつある心臓が自覚し始める。
「……そういうことじゃない。
ミッションの難易度に対して、報酬が高すぎるからだ」
そんな私の心中を知ってか知らずか、苦笑混じりに淡々と会話をするソーマが憎らしい。
……人の気も知らないで、その余裕は何?
「実際には苦戦しないかもしれないし、あっさり解決できるかもしれない。
その場合は、命を懸けた、とは言えないだろう?」
破顔こそしないものの明らかに楽しそうな彼の瞳は、信じられないほど穏やかな光を反射していた。
「……確かに」
「そういうわけで、報酬は終わってから相談ということで」
「わかった」
「……まぁ、でも命くらいは懸けてやるよ。
少なくとも、お前を放って逃げたりはしないから」
そして、あっさり私にとどめをさす!
……何で、ここでいきなり笑うの!?
そんな表情ができるなら、最初からすればいいじゃない!
命を懸けて、って言ったけど、言ったけど……!
「それから、赤字との交渉と戦闘は全部俺が引き受ける。
アリスへの攻撃は全て防ぐから、2人の救助と治療、町への転移だけに集中してくれ。
薬や霊墨も全部渡しておくから」
「わ、わかった」
びっくりするくらいにあどけなかった笑顔を披露し、私のために命を懸けると簡単に言い切った彼からポーチを託されながら……。
私は、今自分が……激しく「動揺」していることを認めざるを得なかった。
……何故かお母さんのニヤニヤ顔が頭に浮かんできて、慌ててそれをかき消す。
お父さんがしかめっ面をしているのは、……見なかったことにする!
……ぅぁあ、違う、今はそんな場合じゃない!
……そう。
今すべきなのは、2人を救出すること。
「交渉と戦闘の内容には口を出さないこと。
悪いけど、赤字については、殺した方が楽な場合は殺すからな」
「……わかった」
私が口にも表情にも出さなかったはずのそれに同意したかのように、急激に彼の口調の温度が下がった。
氷から水へ、水から氷へ。
自らを自在に変化させるように、あたたかかった彼の瞳が再び絶対の黒に凍てつく。
「じゃ、行こうか」
前を向いたソーマが差し伸ばした、右手の人差し指。
そこに生み出された氷は、無色の軌跡を残して眼前の闇を切り裂いた。
……何かが崩れ落ちる小さな音と共に、私はいつの間にか月がその姿を隠していることに気が付く。
今からはもう、漆黒が支配する時間だ。
「……アジトはここから1キロほど先の洞窟。
出入り口は2ケ所だけ」
「近い方に案内してくれ」
歩き出したソーマの唇は緩くつり上がり、私の隣からは莫大な魔力が噴き上がり始める。
後に、この世界を在り様を大きく変える『黒衣の虐殺者』。
そして、その権能をもって世界に君臨する『水の大精霊』。
すなわち、『魔王』が誕生した瞬間だった。
「アリス」
そのソーマと結婚してから、数ヶ月。
ウォルの寝室、また耳掃除を終えた後の彼に膝を貸してあげていると、まどろんでいた黒い瞳が私の名前を呼んだ。
……やわらかい顔になったな、と思う。
初めて会ったあの夜に氷を背にしていたときの人間と同じ瞳とは思えないほど、私を見つめる黒は穏やかで優しい。
「何?」
上下逆さになった彼の髪を右手の指で梳きながら、私は最愛の人に微笑みを返す。
同じように、お前も色んな顔をするようになったよな、と以前笑っていた彼は、逆に左手で私の髪の房を弄んでいた。
家族も愛も失った、彼の絶望と。
この世界の理不尽と自分の弱さに打ちひしがれた、私の絶望。
それを交換しようとした、あの夜の闇の中。
だけど、そこで私たちが得られたのはお互いにとっての希望の光だった。
私は、彼に愛する家族を。
彼は、私に世界を変える強さを。
あの月の光の下で、私たちはそれぞれが心の底から望んでいたものを共に与え合っていた。
それから、わずか2ヶ月で南北戦争を終わらせ。
ウォルとウォルポートを築き。
私は、家族と和解し。
フォーリアルと契約し。
彼と私は、家族となり……。
そして、共に1歩1歩を歩み続けていた。
「ウォルもウォルポートも落ち着いたし、ようやく帝都から帝国民台帳も届いたしな……。
そろそろ、チョーカからも子供の引き取りを始めようと思うんだけど?」
「……うん!」
そして、それはまだまだ終わらない。
私は彼となら、どこまでも進むことができる。
彼が望むなら、私はどこにだって共に歩いていく。
「……ソーマ」
「うん?」
「ありがとう」
「……ああ」
上下逆さの彼の額にキスをした、私の……。
その左頬を包む彼の掌は、とてもあたたかかった。




