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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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アナザー・エール 月光 中前編

「……これで規定数に達した。

私はこのまま【棘柱之召喚サ・バリン】を維持しておくから、『デイドリーマー』はヨーンの回収を。

もう毒は解除したから、素手で触っても心配ない。

……『ピエロット』から2人も、回収に加わって。

残り3人は、すぐに【時空間転移テレポート】の陣の作成を」


血泡を吹いてもがいていたヨーン、5頭目のそれが完全に動かなくなったのを確認してから、私は後ろの3台の馬車を振り返った。

乾いた茶色の猛獣を拘束していた【縛蔓之召喚サ・タンブリン】が地面に戻っていく光景から、はねるように全員の視線の拘束も解かれる。

恐怖で怯える馬の手綱を必死で握っていた3人と、その周りでバスタードソードやロングスピア、ボウガンに短杖などそれぞれの得物を構えたまま硬直していた6人。

今回の試験のために雇った2つのパーティーの合わせて9人と、中央の馬車の荷台の上で硬直していたイグノア……。

冒険者ギルドの職員であることを示す規則的な緑と赤の線が染め抜かれたグレーのローブに身を包んでいた若い試験官の表情が、それを聞いてようやくホッとした表情を浮かべていた。


「……わ、わかりました!

シミラとポーズはあっち、トレイは俺とこっちのだ!」


「テスタさんとブリッツさんは、ゼアルさんの指示に従ってください。

……ピニオンさん、霊墨イリスを運び出しましょう」


棘柱之召喚サ・バリン】で防壁を張り。

縛蔓之召喚サ・タンブリン】で捕獲し。

青毒之召喚サ・シーハイ】で毒殺する。


馬と人間を狩ろうとその中に踏み込んでくる凶暴な捕食者相手にそれを5度繰り返して、目の奥から焼けつきそうな疲労の中。

『デイドリーマー』のリーダーと『ピエロット』のリーダーの指示がそれぞれ飛び交うその中で、私は宣言通り右手のステッキの先端に擦り切れそうな気力を集中させた。

大型の肉食獣であるヨーン、アリオンを小屋ほどまで大きくしたようなあの魔物の恐ろしいところはその巨体に似合わない異様な俊敏さだ。

任務が終わって気の緩んだこの瞬間、張り巡らせた【棘柱之召喚サ・バリン】の隙を突かれて防御陣の中に踏み込まれれば、誇張抜きで全滅もあり得てしまう。


馬車隊と忙しく動き回る9人、その前に立つ私を中心に半径25メートルの円周上に三重に展開した濁緑の有刺植物の結界。


その内外に広がる、貧相としか言えない弱々しい細さの木々。

黄色く乾いた、巨大な糸屑か綿埃を思わせる下草の茂み。

その先に広がる、痩せて荒れた地面の続くチョーカ中部に広がる山林の光景。

ネクタの景色と比べればあまりに生命力を感じられないその黄褐色の森の中で、私はそれと同色の巨大な影を探し続ける。


青毒之召喚サ・シーハイ】にしろ【大顎之召喚サ・マスディオ】にしろ、行使できるのはせいぜいが後2回……。

いや、【棘柱之召喚サ・バリン】の修復を考えればギリギリで1回と計算しておくべきだ。

……つまり、余力はない。


凝視していた周囲の風景のせいからだけではない、痒みのような喉の渇きを覚える。

必死で凝らす左右の目の表面がヒリヒリと乾く。

ヨーンの静かな足音を聴き逃さないよう、全身の感覚を研ぎ澄ませる。

時空間転移テレポート】の準備は、まだでき…………。


「アリスさん、お願いします!」


「……わかった」


……できたようだ。


荷台に引っ張り上げられたヨーンの死体と、肩で息をしているパーティーメンバー。

後ろのヨーンが完全に絶命していることを確認しながらも、若干顔を強張らせているイグノア。

3台の馬車が完全に黒い魔法陣の中に収まっていることを確認してから、私もその陣の中に足を入れる。


溢れる白と黒、紫色の光。


全身に満ちる倦怠感と、思い出したように主張しだした空腹感……。

まるで残りの体力を全て奪われるかのように、私の魔力は魔法陣の中に吸い込まれていった。





「Cクラス、ヨーン5体の討伐とその死体の回収。

本件のために雇用した他パーティーのメンバーの安全確保と、任務中のマネジメント。

最後に、同道した試験官の護衛……、全てにおいて任務の達成を確認しました」


チョーカ帝国南東部の中堅都市、レッツェン。

野営を挟んで2日間に渡って続いていた討伐任務を終えてギルドに戻った私は、そのまま3階の支部長室に通されていた。


香油を使ってピタリと撫でつけられた白髪交じりの金髪に、人生の長さ以上に落ち着いた光を放つ茶色の瞳。

丁寧に髭を剃った細い顔立ちの横でパタリと動く、……白い毛に覆われた三角形の耳。

Aクラス冒険者、『白拳はっけん』のハース。

私が苦労して倒してきたあのヨーンをかつて素手で撲殺したという逸話を持つその間獣人ハーフビーストは、イグノアの提出した報告書から目を上げて私に微笑みかけた。


「よって、アリス=カンナルコさん。

冒険者ギルドレッツェン支部長、ハース=サイトの名において、あなたをBクラス冒険者として認定いたします」



氏名 アリス=カンナルコ

種族 森人エルフ

性別 女

年齢 16歳

魔力 32,250

契約 木

所属 冒険者ギルドBクラス

備考 -



「あなたは、紛れもない強者です。

……どうぞ今後も、この町の市民のためにその力を貸してください」


穏やかな表情で返却された自陣片カードには、確かに白い文字で私がBクラスに上がったことが示されている。

家を出て4ヶ月、冒険者としてギルドに登録してから3ヶ月と少し……。

高位魔導士としてもかなりのスピードでBクラスに上がった私に向けられるハースの視線は、純粋に私の成長を喜び、将来を期待する先人の優しさに満ちていた。


「……できる限りのことはする」


……ただ、私の心中に喜びや誇りは……ない。

クラスアップに伴って今後ギルドから支払われる討伐報酬が跳ね上がることだけが、即物的なメリットとして脳裏をよぎる。


そして、私は……強くない。


「失礼する」


その報酬を受け取るため退室しようと手を伸ばした、支部長室の黒い扉。

磨き上げられた木製のその表面には、暗く滲んだ私の顔が映り込んでいた。





「あっ、お姉ちゃんだ!」


「おい、お姉ちゃんが来たぞ!」


フロントで報酬を受け取り、そこから『デイドリーマー』と『ピエロット』への報酬を支払った私が向かったのは都市の北端、ギルドのある中央の地区からずっと離れた貧民街の一画だった。

光沢のある白い石材ではなく、雨や風でボロボロに朽ちたヒビだらけの石。

磨かれた重厚感のある木材ではなく、廃材かそれに近いペラペラの板を打ちつけただけの粗末な掘立小屋。

意識せざるを得ない垢と糞便の臭いと共に漂ってくる腐臭と、……微かな死臭。


「良かった、来てくれた!」


「お姉ちゃん、こっち!!」


同じ国の中、どころか同じ都市の中の光景とは思えないほど荒んだその地区に踏み込んだ瞬間、小屋の中や路地の隙間から無数の小さな影が駆け寄ってくる。


「ちゃんと並んで、皆の分はあるから!」


……先程まで自分がいた中央地区の光景は、実は夢か幻だったのではないか。

そんなことを思わずにはいられないほどに痩せ、そして汚れた50人以上の子供たちに囲まれながら、私は声を張り上げた。

先程ギルドで受け取った報酬、その半分近くを銅貨に両替して貰ってきた皮袋の1つ。

丸ごと奪われないように左手でしっかりと抱えたその中から5枚ずつ摘まみ出した小さな金属片を、絶叫のような懇願と共に伸ばされる細い手に次々と握らせていく。


「やった、ありがとう!」


「お姉ちゃん、こっち、こっち!」


「お前、もう貰ったじゃないか!?」


「お姉ちゃん、アタシにも!!」


「落ち着いて、……喧嘩しない!

ちゃんと、皆の分があるから!」


渡しても渡しても、手は減らない。

徐々に軽くなっていく袋の重みに焦りつつ、周囲の混乱を声で制しながら私は銅貨を配り続ける。

伸ばされる手、手、手……。


あれだけあったはずの銅貨が、幻のように消えていく。

それでもまだ減らない手、手、手……。

その後ろからも伸びる手、手、手……。


終わらない狂乱の中で、私の心にあった余裕は銅貨と一緒になくなり続けていた。

















16歳の誕生日を迎えた翌々日の深夜、「ごめんなさい」の一言だけを記した書置きを部屋に残して、私は家を出た。

さんざん考え、悩み、迷った挙句……、……私は、家族からの心配よりも自分の信念を優先することにしたのだ。

故郷を捨てる以上は夢を叶えるまで絶対に帰らないと私は……今となればただ自己満足に過ぎなかった決断も、このとき同時にしていた。


顔の知られているカミラギノクチではなく、カミラギから一気にカンバラノクチに転移して翌朝出港する船を探したこと。

知らない間に森人エルフが乗り込んでいたことをその当人から申告されて蒼白となった船長を落ちつかせるために渡した、大きな月光石の塊。

……そのときに気がついた、部屋に隠していたはずの荷物やお金が知らない内に増えていたという事実と、……「体には気を付けてね」と一言だけ添えられたお母さんからの手紙。


自分の馬鹿さ加減に少しだけ泣きながらも、私の旅はほぼ計画通りに始めることができていた。


魔物と戦い、あるいは必死で逃げながら、およそ3週間後に船が着いたのはチョーカ帝国。

その南端に位置する帝都、カカだ。

北のアーネル王国と大陸を二分して、200年間戦争を続けている人間の国。

同時に、世界で最も奴隷が多い国としても知られていた、私の最初の目的地だった。


港に着いて最初に私が向かったのは、当然冒険者ギルドだ。

衣食住を確保するためには、とにもかくにもお金が必要。

ネクタとは全く違う、……いや、世界標準で言えばネクタでだけ通じないその常識に従い、そして慣れることが私に課せられた最初の試練でもあった。

とはいえ、「冒険者ギルドEクラス」。

自陣片カードから消えた「サキモリ」の代わりに新しく刻まれたこの文字列に、「お前は今、世界に立っているのだ」と認められているような気がして……。

初日の私は初めて泊まった宿屋の1室で、何の根拠もない自信と一緒にベッドの上を転げ回っていた。


このまま順当にクラスを上げていって、大金を稼げる高位魔導士になろう。

そうして得られた報酬を使って、助けが必要な人に手を差し伸べていこう。

たくさんの冒険者と友達になって、そんな私の夢と信念を理解してもらおう。

多くの人を不幸にする戦争をなくして、もっと優しい世界へ変えていこう。


閉ざされていた故郷を抜け出し、海を渡り、冒険者になり……。

その日の私はただただ有頂天で、自分が望んだ全てのことは必ず実現できると心の底から信じきっていた。





だけど、それは文字通り……夢。

あるいは、幻に過ぎなかった。


「……」


夕食を終え、散策のつもりで日の落ちた通りに出た私の瞳に映ったのは、昼のそれとは全く違うこの世界の闇の姿だった。


孤児なのか浮浪者なのか、店の裏手にあるゴミ捨て場に痩せた人影が群がっている。

何かの汁でベチャベチャになった食べかけのパンを巡って、その中では取っ組み合いが起きていた。

そこから離れた場所では下品な話題と笑い、そして罵声が明かりと共に漏れ出てくる深夜営業の酒場の扉が開いている。

その前ではボロボロのローブを着た少女が何人か、出入りする客に必死に話しかけていた。

彼女たちは大概は無視され、たまに唾を吐きかけられる。

それを何度も繰り返し、数枚のお金を受け取った後に客の後をついて行く少女をみとめて……。

ようやく、私は少女たちが男に何を話しかけていたのかを理解できた。


……どのくらいの時間、私が立ち尽くしていたのかはわからない。

後ろから聞こえた小さな足音で、私はそれに気がつく。


「……おジヒを」


「……ぇ?」


「もう、3日も何も食べてないんです……」


固まった思考で振り返り、思わずステッキの柄に手をかけて後ずさりそうになった私の前で、10歳くらいだろうその少年は直角に腰を曲げた。

両手で捧げられた傷だらけのタンブラーを見て、その単語が「慈悲」だったのだと痺れる頭の後ろの方で理解する。


「……こ、これでいい?」


「あ、ありがとうございます!」


震える手で財布を探し、たまたま指が触れた生ぬるい1枚の銀貨をタンブラーの上で放すと、硬いものと硬いものがぶつかるやけに重たい音が響いた。

直角からさらに深く頭を下げた少年が、全速力で路地の影に消えていく中……。


「!!」


私は、周囲から無数の視線が自分に……。

いや、私が持っている財布に集中していることに気づかされる。


「……お、おやすみなさい!」


誰に向けたのかもわからない、震える声で絞り出した今日という日の終了を宣言する挨拶。

宿のロビーに飛び込んだ私は、面白いものを見せられたと言いたげな視線を送る主人を無視して部屋に飛び込み、枕に顔を埋めて恐怖と……。


そして、恐怖を感じた自分の心に対する嫌悪に、朝まで震えていた。





重たい頭のまま朝を待った私は、その日からあらためてギルドに通い詰めた。


登録さえすればEクラスに認定される冒険者のそこから先は、純粋に実力だけの絶対評価だ。

魔物や犯罪者を討伐し、同時に危険や荒事から自分を守り通すだけの武力。

Bクラス、合同任務となった際にリーダーを務める可能性のあるそのクラス以上なら、他の冒険者をまとめる技量。

まぁ、その上のAクラスになるには生まれつきの魔力資質や上位精霊と契約できる運といった、個人の努力ではどうしようもない部分が必要なのも確かに事実ではあるものの……。

どの道そこに達するにはそういった冒険者たちよりもはるかに秀でた、強者であることが大前提だ。


何かを倒すために必要な、強さ。

自分を守るために必要な、強さ。

誰かを救うために必要な、強さ。

夢を叶えるために必要な、強さ。


その証左を手に入れるため。

私は体力と魔力の続く限り大小を問わず依頼を受け続け、わずか1ヶ月半でCまでクラスを上げた。


さらにその間、私は酒場や露店を回っては他の冒険者や市民と。

そして、昨夜のような孤児たちを見つけては話を聞き、そして話をして回った。


「町に溢れている孤児や奴隷たちは、いつからいるの?」


チョーカに関して言えばどこもこんな感じだろう。

むしろ、帝都はまだ少ないだと思うぜ。


「どうして、そうなったの?」


ボクは、お父さんもお母さんも死んじゃった。

ワタシはお父さんが戦争で死んで、弟と妹を食べさせるためにお母さんに売られた。


「この子たちを救うためには、どうすればいいと思う?」


可哀想だと思うけど、どうにもならないよ。

放っときなさい。


「あなたは、何かしようと思わないの?」


……どれだけ強かろうが、1人や2人でできることには限りがあるだろう?

どうせできないことのために、……俺は何かをするつもりはない。


あるときは酒を飲みながら笑い、あるときは必死にパンにかぶりつきながら。

あるときは溜息混じりに顔を背けられ、あるときは疎ましげに席を立たれながら。

私は朧気ながら、この国の不条理の正体と、そして。


誰もがその理不尽を受け入れ、諦めている現実を理解しつつあった。


ギルドから得られた報酬の内いくらかを銅貨で貰い、子供たちに配るようになったのはそれからすぐだ。

そんな私の行動を見た冒険者や市民に笑われ、溜息をつかれ、疎ましがられ、呆れられ、そして無視されながら。

自分でも対症療法にすらならないことを理解しながら、それでも私は子供たちに銅貨を握らせ続けた。


確かに、数枚の銅貨でこの子たちの10年後は変えられないかもしれない。

来年もこの路地で物乞いをしているのかもしれないし、来月にはどこかに売られてしまっているのかもしれない。

だけど。


少なくとも明日は生きられる。

今日はお店であたたかいパンを買うことができ、汚れた体をでお湯で清めることができる。


たった数枚の銅貨でできることには、確かに限りがあるけれど。

それでも、その銅貨がなければできないことのほうがはるかに多いから。


魔物を狩り、市民を護って得た報酬を、私は日々名前も知らない子供たちに渡し続けた。





採掘集落、という言葉を知ったのもこの頃だった。

チョーカの特産品であるミスリル。

都市に溢れる奴隷や浮浪者たちを徴用して山地に放り込み、命を削りながらその鉱脈を探させるための強制収容地。

身寄りがないというだけの弱者をかき集め、水と食料を鎖に代えて繋ぐその仕組みを知ったとき……私は白くそびえる帝城に怒鳴りこもうとして、門番に取り押さえられた。


……今考えると、私が森人エルフだったという特殊な事情がなければその時点で私の人生は終わっていたに違いない。


帝国にとって命綱の1つであるネクタとの交易に、影響を及ぼしたくない。

短期間でCクラスまで上がった将来有望な冒険者ということで、ギルドの支部長からも寛大な処置を申し入れされている。

都市での振舞いを聞く限り、超弩級の世間知らずだったのだろう。


そんな判断がなされたのだろう結果、私は書面上の罰は受けずに半日の拘留と厳重注意、そして二度とこの都市を訪れないことを条件に帝都から放り出された。

このとき国外追放にならなかったのは、私がすぐにアーネルに渡って、王国側の傭兵として戦場に立たたれることが嫌だったからだろう。

皮肉なことにどこまでも冷静で実利的な帝室の判断のおかげで、私は犯罪者にならずに済んだ。


それからの私は、とりあえず転移できる都市を順番に回りながらチョーカを北上していった。


宿屋に入り、ギルドに向かい、任務をこなし、報酬を銅貨に替えて子供たちに配る。

冒険者に、市民に、子供たちに話を聞き、話をして回る。


他人から見れば不毛でも、私からすれば唯一だったその繰り返しの中で得られ、そして与えることができたものはほとんどなかったけれども……。

その都市でできることをやった後は、帝都の件で騎士隊から目を付けられていたということもあって、私はすぐに次の場所へと移動した。


カカから数えて5つ目の都市であるレッツェンに入ったのは、そんな旅を続けていた1週間前のことだ。

















おそらくは銅貨よりも袋の重みの方が勝る頃になって、ようやく路地裏の混乱は落ち着きつつあった。


この子たちのような浮浪児たちが住んでいる貧民街は、どんな町でも複数箇所存在するとは聞いている。

ただ、チョーカの場合は北、つまり南北戦争の前線に近づけば近づくほどその数と規模が大きくなっていた。

必然、その人数も凄まじい数に膨れ上がっていく。

美しい中央地区の様子、特に帝都のそれや贅を尽くした帝城の外観を間近で見た私の瞳には徐々に大きくなっていく貧民街の姿が、まるでこの世界の影の大きさのように想えてならなかった。


「「ありがとう、お姉ちゃん!」」


「……」


銅貨が完全になくなったことを示し、口々にお礼とお辞儀を繰り返す子供たちが姿を消した後。

夕日の差し込む路地の中で、私は薄暗いその影の中に目を凝らした。

自分の背丈の何倍にも伸びた長く細い影法師と一緒に周囲を見回すと、やがて廃屋……と言うよりもはや廃材に近い小屋の影からこちらを窺う、小さな光と視線がぶつかる。


「……!」


「大丈夫、あなた……たちの分もある」


目が合った瞬間に目を伏せたその少女に呼びかけながら、私は今空になったのとは別の小さな皮袋をポーチから取り出した。

悲哀や絶望の中にも強弱があるように、残念ながら孤児たちの中にも力の序列はある。

体が小さかったり、病気や怪我で弱っていたり……。

あるいは、周囲の子供たちの憎しみと絶望の捌け口として虐めらたりしている子は、施しを求める輪の中にさえ入ることができない。

もう30をゆうに超える貧民街に足を踏み入れ苦々しい衝撃と共にそのことを学んでいた私は、怯えさせないようにできるだけゆっくりと少女に近づいていった。


「……もう1人は?」


できる限り多くの子供に行き渡るように頑張ってはいるものの、それでも毎日都市の全ての貧民街を回れるほどのお金はない。

この貧民街に来るのはレッツェンに来て2回目、この子に会うのも2回目だ。

ただ前回、3日前に来たときは2人だったはずの少女が1人しかいないことに……予感に似た不安を覚えながら、私はその場にしゃがみ込んで灰色の瞳を覗き込んだ。


「……きしさまに、つれてかれた」


「……そう……」


西日を受けても尚暗い影の中で6歳か7歳くらいだろうその少女はポソリと呟き、うなだれる。

か細く小さい、そして短いその言葉で私は全てを理解した。


騎士、すなわち皇帝に忠誠を誓いその臣民からは憧れをもって称賛される、帝国騎士隊。

その中でも、採掘集落の管理を任じられた後方部隊。

都市の治安の維持と労働での人頭税の徴税を名目に、各都市で浮浪者を捕らえて奴隷と共に集落に送り込む、通称「回収部隊」。

大義名分と共に市民から受け入れられていた彼らは……、認めたくないけれど、確かにかつての私と同じ「国を守る者」だ。


だけど連れて行かれた仲間が誰1人帰ってこない以上、貧民街の子供たちにとって彼らは単なる恐怖の対象に過ぎなかった。


「……」


「……」


肩車されて見渡す父親の高い視点や、母親が抱きしめてくれたときに香る優しい匂い。

喧嘩もするけれど、誰よりも頼りになる兄姉のカッコよさ。

友達と一緒に「ぼうけん」に出かけ、並んで叱られた思い出。

今日あったことを報告し笑い合う、家族の食卓。


そんな、本来ならこれくらいの子供たちが持っているべきあたたかい記憶を……。

いや、現在進行形でその中にいなければならないはずのその経験を、もしかしたらこの少女は一切知らない。


……それでも。


3日前まで一緒にいた友達とは、おそらくもう二度と会えない。

そして、いずれは自分も……そうなる。


眼前の少女が、そんな冷たい現実だけは説明されずとも知っているという事実に、私は言いようのない怒りを覚えた。


「……」


だけど、私にはどうすることもできなかった。


絶対に認めたくないけれど、それはこの国では正しいことだったからだ。

回収部隊も、帝国騎士隊も、見て見ぬふりをする市民も、チョーカ帝国も、……それを、受け入れているからだ。

この世界の姿の1つとして、この少女の絶望を容認しているからだ。


……そして、そんな残酷な世界を変えるだけの強さが、……私にはないからだ。


「……これで、ちゃんとしたものを食べて。

もっと、……元気にならないと」


かけられる言葉が、ない。

見せかけにもなっていない救いの言葉しか、紡ぐことしかできない。


「……おねえちゃんも、たすけてくれないの?」


「!」


黙って銅貨を握らせようとしたそんな私の瞳に、灰色の少女の視線が突き刺さっていた。


指が、手が、胸が、息が。

止まる。


真っ直ぐな視線。

かつて、私がお父さんに向けた視線。

自分が間違っているのかと、相手を問い質す視線。


瞳は、確かに見つめ合っているはずなのに。

だけど、今の私はその少女と目を合わせることができない。


「……、……くれないの?」


助けてあげたい。

助けを求めるあなたを、助けてあげたい。

私の手が届く全ての人を、救ってあげたい。


そのために、私は故郷を捨てて旅に出たのだから。


……だけど。


「……ごめんなさい」


だけど、世界はあまりに大きかった。

世界どころか、国どころか、一都市ですら私の手は届かなかった。

私が配る銅貨で数日間だけ救われる人の数は、私が手を握ることができる程度の数の人でしかなかった。


そして、世界はもっと無慈悲で残酷だった。

それは決して悪意などという個人的な感情で動いているのではなく、「多」を活かすために回り続ける巨大な歯車のようなものだった。

貧民にしろ、奴隷にしろ、戦争にしろ……。

それは誰かを守ろうと立ち上がった者の背後にできた、暗く大きな世界の影だった。


「……」


「……」


少女を絶望に放り込み、私が刃向かおうとしているのはそういうものだった。


「……」


「……」


それは、世界そのものだった。





ごめんなさい。


それだけしか言えなかった私の顔を見て、やがて少女は唇を噛んで背を向けた。

黒へと変わりつつある路地の中を走っていく少女の影に送る言葉が、私にはない。


「……」


光のなくなった少女の瞳に浮かんでいた感情が決して私への失望などではなく、他ならぬ、彼女自身の無力への怒りであることを私は知っているからだ。


「……!!」


少女が見えなくなってから、声にならない声で私は激情を叫んだ。

握りしめていた左手を開くと、掌に赤く爪の痕が残っている。

だけど、痛みは感じない。


自分自身への失望と怒りに震える私に、そんなものを感じることはできなかった。

















それから1ヶ月後。

私はプロンという採掘集落を目指して、チョーカ北部の山中を移動していた。

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