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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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ショート・エール 赤月の宴

この世界では、わたしたち魔人ダークスは人類と考えられている。

でも、それは半分以上が間違いだ。

人間、獣人ビースト森人エルフ

そのどれとも大きく異なっている部分があると、魔人ダークスである私自身がそう思う。


それがこの世界の歴史で、この世界の事実だと思う。


「あらミレイユ様、いらっしゃいませ」


「お願いしていたものを、いただきにあがりましたわー」


「かしこまりました。

すぐにミルスカを呼んで参りますね」


だから、こうして買い物に……。

たとえ、それがこのウォルポートだけだとしても、私が街を歩けるようになった現状についてはただただ「嬉しい」の一言だ。


当たり前……と私自身が言うのもどうかと思うが、……人間の天敵とも言える魔人ダークスが都市の中を堂々と歩くことなど、普通はできない。

すぐに騎士や冒険者が駆け出してきて、たちまちその場は戦場になってしまう。

……自陣片カードの確認をろくにしないような小さな集落で、フードやマフラーで顔と瞳を隠して手早く済ませるか。

……あるいは、力と快楽で都市そのものを支配してしまうか。


「あっ、先生、こんにちは!」


「はい、こんにちは。

お仕事の方は順調ですか?」


しかし、このウォルポートではそんな不毛なことを考える必要はない。

都市の治安維持のためにそのチェックが必須である、自陣片カードの確認。

その常識をこの地の領主があっさりと廃止し……。


「あれ、代行は……今日はお休みの日でしたっけ?」


「いえ、今日はこちらに注文していたものを取りに来ただけです。

そちらには、また改めて伺いますわー」


そして同時に、私はこの領内でウォルの住「人」の1人として認知されているからだ。


「おやミレイユさん、お久しぶりです。

……そう言えば、さっきネクタから手前どもの船が帰ってきたところなんです。

明日には店頭で新しい本を並べますので、是非アリス様とおいで下さい」


「ふふふ……、それは楽しみです。

アリスさんには、わたくしから伝えておきますわー」


サイラが奥の工房のミルスカを呼びに行った、『金色こんじきの雲』の店頭。

顔も赤い瞳も晒したまま腕に籠1つだけを提げてそれを待つ私は、黄色い往来を行き交う人々からひっきりなしに挨拶の言葉をかけられていた。


ウォル入植当初は私の生徒であり、今はブーツ職人の下で修業を始めている元採掘集落民の若者。

週に1度のお休みの度に必ず顔を出していてすっかりお得意になった、調理器具専門の鍛冶職人。

ウォルで使うものをまとめて発注する内に顔馴染みになった、イラ商会の中堅商人。


ウォルポートができてから支払われるようになった、お給金。

それを入れた皮の小袋を籠の中で弄びながら、私はその全てに笑顔で挨拶を返していく。


ここでは誰もが、私を「魔人ダークス」ではなく「ミレイユ」として見てくれる。

逃げるか、斬りかかるか、杖を向けるか、あるいは破滅願望に近い快楽欲のためではなく……。

家族に等しい先生か、料理好きの領主代行か、ときには丁々発止の交渉も辞さない好敵手として接してくれる。


同じ人間の1人として、笑顔を向けてくれる。


「すみません、お待たせしまして……。

一応お預かりしたレシピの通りに作ったんですけど、こんな感じでいいんですかね?」


「……ええ、すばらしい出来です。

ふふふ、本場のものと比べても遜色ありませんわー」


それは元冒険者だと聞いているミルスカ、今はウォルポートで大人気となっているこのパン屋の若き主人も同じだ。

短い赤髪をバンダナでまとめた店主がカウンターの上で開けた布包みの中を見て、私は満面の笑みと称賛を返した。


長さ20センチ、指ほどの太さのまるで木の棒のような固焼きパンが1ダース。

その生地中には刻んだ塩漬けオリーブと干し肉、砕いたナッツと粉にした乾燥チーズ、そして大量に練り込まれた香草と香辛料。

何が出てくるかわからない、そして棒のくせに値段が高い。

そんな意味を込めて「魔導士の杖」と名付けられた、サリガシアの特に北西部でよく食べられる贅沢パンだ。


「じゃ、お約束通りレシピはこのまま頂戴しますので。

にしても、パンって言うか完全にお酒のアテですよね、これ。

……結構、お好きなんですか?」


こちらも約束通り材料費分だけの代金を支払い、私は「魔導士の杖」の包みを籠の中に置く。

……これは絶対、彼女が好きな味に違いない。

無言で齧り付くその無防備な表情を想像して笑みをこぼしていた……そんな私の日常に好奇心を覚えたらしく、ミルスカははいを傾けるジェスチャーを示す。


「ええ……」


ただ、それは半分以上が間違いだ。


「……友達とお酒をいただくのは、とても楽しいことですわー」


友達、の部分を少し強調した私の本心からの笑顔を見て、ミルスカは頬を赤く染めて固まっていた。

















その日の、夜。


「ワインに対して果汁の分量は半分ですが、……まぁ好みの範疇ですから厳密に量る必要はありませんわー。

甘さが欲しければお砂糖を足しますけど、それも今回はなしにしましょう。

香辛料はジンジャーとケーヒを使います。

本場では胡椒やチリなど、もっと強いものも入れますけどね」


それは『アクアティカ』……。

Bクラス相当の娼館をウォルポートに設営することが正式決定してから、数日後の夜。


ウォルの領主夫妻が住まうカンナルコ家……。

その台所のかまどの上に火属性低位魔導【固炎ザイム】で掌大の炎の円を作った私は、全ての材料を手早く入れた片手柄かたてえの小鍋を左に立つその領主夫人に渡していた。


「火加減は?」


「温める程度です。

沸騰させるとアルコールが飛んでしまいますから、そこだけは注意が必要ですわー」


「沸騰させない……、わかった」


竃の前に立つアリスは、まるで魔物にでも対峙しているかのように真剣な表情だ。

白地の全体に青い染料で細く雨の模様が描かれ、足元の部分に赤や紫の丸い花と大きな楕円の葉が絵付けられたコロモ。

腰に巻いたのと同じ緑色の帯でその袖を縛り、鍋を揺らしている白い腕。

その動きに合わせて回るダークレッドの波紋からは、徐々に甘い香りが漂い始める。


「……まだ?」


「まだですわー」


私とアリスが作っているこのホットワインは、元々サリガシアで他大陸との交易の間に悪くなってしまったり、雪の中で凍ってしまったワインを無駄にしないために考え出された飲み方だ。

火を通しながら果汁で味を、香辛料で香りを整え、不純物をして飲む。

原産地のため香辛料が安価で手に入るサリガシアの、白い景色の中で体を暖める風物詩。

あるいは栄養補給も兼ねて狩った獲物の生血を混ぜることもある、中々トリッキーなホットカクテルでもある。


「……」


「はい、そろそろいいでしょう。

……タンブラーに注ぐときは、きれいな布で漉すのを忘れずに。

ちなみに、このとき漉し器の中に香辛料や生の果物を入れておくとそのフレーバーだけを付けることもできますわー」


無言のまま見上げてきたアリスに頷きを返すと、緊張感すら漂う様子で彼女は火から鍋を下ろした。

そのまま鍋を滑らせるようにしてダークレッドの中身を軽く混ぜ、もう左手で慎重に漉し器を握る。

固炎ザイム】を解除する私の目の前でトポトポとタンブラーに注がれるホットワインからは、柑橘系の爽やかな湯気が立ち昇っていた。


「……ふぅ」


「力を入れすぎです」


「あなたにとっては何でもないことでも、……私にとってこれは闘いなの」


「ふふふ……。

その真剣に学ぼうという姿勢は、教える側としても嬉しい限りですけどね」


「……失敗してない?」


「ええ、大丈夫でしょう」


「よかった」


「……旦那様が、気に入ってくださるといいですね?」


「……うん」


それぞれのタンブラーを片手に、並んでリビングへと移動する私とアリス。


無表情を少しだけやわらかくしたこの森人エルフの夫であり、このウォルとウォルポートの領主……。

ソーマ=カンナルコが不在のカンナルコ家には、女2人の気兼ねのない時間が流れていた。





「それじゃあ、乾杯」


「ええ、乾杯」


コトリ、と木の杯同士が静かにぶつかる。


「……美味しい」


「ベースは安物のワインですが、使った果物の鮮度と質が違いますからね。

今度作るときは、柑橘以外も試してみればいいですわー」


雪菜葉スペイド凍乳フルン

ほぐしたハネトと潰した白芋ホテルを混ぜて焼いたマルクパイ。

2週間前に仕込んでおいた自家製の紅肉フェゴンと、氷火酒インドラのボトル。

そして、昼過ぎに『金色の雲』で買ってきた「魔導士の杖」。

タンブラーを傾ける私とアリスの間のテーブルには、2人で作ったサリガシア北部の家庭料理が並んでいる。


アーネル王城や4大ギルドの支部、あるいはチョーカ帝室。

ウォルの領主として様々な会合や食事会に出向くことも多くなった彼が不在の夜は、私とアリスはいつもこうして料理の勉強会と、そしてそれを肴にした酒会に興じていた。

入植当初とは違いお互い多忙になった中で、同僚として深夜まで杯を酌み交わし、友達として他愛のないお喋りをする。

そんな、私にとって非常に大切な場であるこの席では……。


「……そんな風にもできるんだ?」


「ふふふ」


私も多少、羽目を外す。

その変化に気がついてタンブラーから正面の私に視線を移したアリスは、感心したように緑色の瞳を丸くした。

笑みを深める私の胸元から頭の上へと移動したその視線は、再度私の瞳をつかまえて穏やかに微笑む。


普段のドレスと同じ……というか形を変えているだけだから当然なのだが、闇のような黒の地のコロモに白の帯。

その袖口と、そして今はテーブルの下になってしまっている足元の部分には、私の瞳の色と同じ、赤いリコリの花のデフォルメを散らしている。

同じく、テーブルの下に揃えた足もいつものショートブーツではなく、素足に血の塊のような赤一色のアシダ。

それに合わせて結い上げた髪の形を片手で確かめながら、ふふふ、と声が漏れてしまう。


「アリスさんの影響で、コロモが流行っていますから。

せっかくですから、わたくしも雰囲気を合わせてみましたわー。

……これで、変なところはありませんか?」


「似合ってる」


「ふふふ、どうも」


特に入浴後の着替えとしてウォルの女の子たちの間でブームとなっている、ネクタの伝統衣装。

普段とは正反対の、かつ、これまで生涯で試したこともないコロモ姿を本場の森人エルフから評価され、私の瞳も細くなる。


「でも、襟の合わせが逆。

……それは、亡くなった人に着せる順番だから」


「……あら」


でも、やはり本場の目は厳しかった。


……だったら、あながち間違いでもないのですが。


思わず口をつきそうになったそんな自虐を口の中で打ち消しながら、私は首から足元までの組成を崩す。

灰が舞うような光景の中で、イメージした正しい合わせを再現した。


「……それでいい。

……たまには、それで外に出れば?」


「ふふふ、そうですね」


……確かに。

あまり気にしていませんでしたが、たまにはそういうのも楽しいかもしれません。


割と真剣にそう考えながら、私はマルクパイにナイフを入れた。

サクリという軽やかな手ごたえと共に、ハネト独特の香りと白芋ホテルの優しい香りが顔にぶつかる。


「……美味しい。

……ソーマも、好きな味だと思う」


「旦那様は、お魚の方がお好きですからね。

……ただ、やはりハネトでは少し匂いが強すぎるかもしれませんわー。

もっとクセのない白身のお魚を使って、……少しだけ香草も足しましょう」


「塩加減はこんなもの?」


「ですね。

焼き加減についても、申し分ありませんわー」


ハネトの脂が沁み込んだ白芋ホテルを舌の上で崩しながら、私は頭の中でレシピに修正をかける。

2切目のマルクパイを飲みこみながら、アリスは紙にペンを走らせていた。


目的は違えど、最終的に食べさせたい相手は同じ。

そのため、私とアリスとの間で意見の衝突が起こることはほとんどない。


「……、……ふふふ」


その相手の味の好みを考えながら……。

無意識に自分が2切目のパイを取ろうとしていたことに気が付いて、私は自嘲の笑みを漏らした。


本来、私たち魔人ダークスは人間の血以外のものを口にする必要はない。

水を含む他の一切の飲食物は、私たちにとってかてとはならないただの異物だ。

ホットワインにしろマルクパイにしろ、私の喉を通った後は体のどこかで消えてしまっている。

私の今の行動を簡潔に述べるならば、食べ物を体内に捨てているだけに過ぎない。


「……挽肉で作っても美味しい?」


「美味しいとは思いますけど、それはもう別のお料理ですわー。

……それから、アリスさんはもう少しお魚を食べるべきですからね?」


「……うん」


それでも、私に食事の癖がついてしまっているのは……。

残念そうにペンを置いたこの少女の最愛の夫が、私にそう命じたからだ。


食事ができるなら、皆が食事をしているときはお前もそうしろ。

多分、その方が楽しいから。


その短い言葉に従って、子どもたちに囲まれながら口に入れるようになった久しぶりの食事は……、……意外に美味しくて、そして確かに楽しかった。


「……これは、普通のミルクじゃだめなの?」


「……構いません。

元々、凍乳フルンはミルクを凍らせたものではなく、外の寒さで勝手に凍ったものですから。

普通のミルクで作った方が、……ふふふ、むしろ美味しいと思いますわー」


「……じゃあ、何でわざわざ作ったの?」


「知ることこそ、学びの一歩です。

……たとえ、それが無駄なものだったとしても」


「……まぁ、美味しいからいいけど」


……それが今では、私自身にとっても普通のことになってしまっている。


凍乳フルン煮とマルクパイの器を下げながら、私は存在もしない自分の胃の辺りにしっかりとしたあたたかさを。

ただ心地よいその温度を、確かに感じていた。





「……旦那様との生活はいかがですか?」


一方で、私にとってそうであるようにアリスにとってもこの会は非常に大切な機会であるらしい。


「すごく幸せ」


ホットワインを飲み干して氷火酒インドラのボトルの栓を開封していたアリスは、席に着きながらの私の問いに平然と惚気た。


……確かに、彼女がこんな話をできる相手はウォルでは私くらいだろう。

ただ、眉間に皺を寄せてコルクを捻る……その動作の合間に何気なくこれを言えるということが、凄まじい。


そのまま私が台所から持ってきた新しいタンブラーの上で、上手く開栓できてホッとした表情のアリスがボトルを傾ける。

2つ並んだ小さめのタンブラー、底から指2本ほどの高さまで注がれた透明な液体からは、激しいアルコールの匂いが上がってきていた。


「水割りでいいですか?」


「うん」


しかし、それは水差しを傾けるにつれて穏やかな甘い香りへとへんじていく。


「どうぞ」


「ありがとう」


銀製のマドラーでクルリと1度だけ混ぜた水割りの片方を差し出すと、アリスはそれを両手の指で包み込んだ。


「毎日が楽しいし、すごく充実してる。

お母さんやお姉ちゃんから聞いてたのより、本で読んだり想像していたのよりも何倍も楽しいし、……幸せ」


「……」


その微笑みがあまりに優しくて、美しくて。

それこそ数百数千、数多の人間を魅了してきた魔人ダークスの私が思わず惹きこまれてしまう。

普段の……どちらかと言えば怜悧な無表情からは想像もつかないようなやわらかさが、その言葉を真実なのだと示していた。


「……不満や、問題もないのですか?」


「ない」


だから、不躾にも思わずそう聞いてしまったのは悪意からではなく、単純な疑問だ。

でも、それにもアリスは何でもないことのように、ただ日常の感想を即答する。


「ソーマは優しいし、公平だし、真面目だし、キレイ好きだし、ウォルのことをちゃんと考えてるし、領主の仕事も真剣に頑張ってるし、皆からも慕われてるし、美味しいものを教えてくれるし、私が作ったものも……ちょっと失敗しても美味しいって残さず食べてくれるし、寝る前と起きるときは必ずギュッてしてくれるし、寝顔はすごく可愛いし、一緒にいると安心できるし、私のことを大切にしてくれるし、私のことを大好きだって毎日言ってくれるし……」


饒舌なわけではなく、ただとう々と。


「私の夢に命を懸けてくれてるし、私を愛してくれてるし……」


自慢するわけではなく、ただ淡々と。


「不満なんて、ない」


「でしょうね」


そう結んだアリスの長い長い即答に、私は苦笑いすることしかできなかった。


「ご実家の方とも、上手くお付き合いされているのですか?」


「……うん」


何となく口の中に感じた甘み、その錯覚を打ち消そうと手にした紅肉フェゴンを噛み千切ちぎりながら、私は話をアリスの実家との方へと向けた。

旨味と塩味えんみ、そして一拍を置いて舌の上に広がる……灼熱。

90点の自己採点を下しながら、残り10点分をどうするか目を細める私に、何故か今度はアリスが苦笑いしながら首肯する。

タンブラーを傾けて小さく喉を動かした後、皿の紅肉フェゴンに手を伸ばしながら緑色の瞳は穏やかに笑っていた。


「お母さんは元々誰とでも仲良くなれる人だったから、最初からソーマにも好意的だったし……、お父さんも、もう完全にソーマのことを認めてるし。

ソーマもネクタでは気を遣って行動してるし結構礼儀正しく振舞ってるから、近所の人やノクチに出入りする人からは割と評判もいいみたい」


「……はい?」


「……気持ちはわかる」


気を使い、礼儀正しい。

カイラン両国で畏怖される『魔王』とはかけ離れたその像が思い浮かべられず真顔になってしまった私に、楽しげに細められた視線が向けられた。


「本人も、多少意識はしてる、って笑ってた。

……でも、それでもネクタや私の実家に行くのがすごく楽しいんだって。

……家族でご飯を食べたり出かけたりするのに、……ずっと憧れてたらしいから」


哀しさ。

切なさ。

愛おしさ。


……愛。


静かに最愛の夫の言葉を回顧しながら、アリスの瞳には深く優しい、しかし強い光が灯る。


「……早く、家族を作ってあげたい」


全ての闇を包み込むような、眼前の少女の微笑みに。


「ふふふ……。

……ええ、それはアリスさんにしかできないことですわー」


私も、心からの笑みを返した。

















その家族を作る行程においての具体的かつ戦略的な、……主に視覚効果における挑発の方法論。

その講義の最中でうっかり口を滑らしてしまい、楽しげに追及されることになってしまった私の過去の恋愛遍歴。

それをかわそうと蒸し返した数日前のカンナルコ夫妻のギクシャクした空気と、やや自慢げに語られたその意外すぎる結末。


面白い話を聞けましたわー、とわらう私に、絶対にソーマには言わないで、と焦りながら約束を迫るアリス……。


深夜にふさわしく多少羽目も外した気兼ねない酒宴が終わったのは、それからしばらくが経ってからだった。

最終的には笑顔で送り出された、その私が歩く道に等間隔で立てられている篝火かがりびも、もうすっかり小さくなってしまっている。

おそらくは日没から今までの時間よりも、もう今から夜明けまでの時間の方が短くなっているのではないだろうか。


何本かの水路を跨ぎ、昼と比べれば明らかに気温の下がったウォルの静かな夜の道を歩いて……。

私は居住区のほぼ中央、最近引っ越しとなった自身の部屋の扉を、音を立てないようにゆっくりと開ける。


「……」


……ただいま帰りましたわー。


常夜灯として天井の片隅に浮かべておいたごく小さな【灯火ライト】の光。

それに照らされながら、そう無音のままに唇だけを動かした私の耳には、7つ重なった安らかな寝息が聞こえてきた。

リュー、エフィ、オーサ、ジェクト、アル、ソカヤ、ペイル。

布団の上、あるいは少しはみ出して寝ている子供たちが全員揃っていることを確認して、私は静かに扉を閉める。


基本的にウォルでは、12歳より上と下の同性を組とした住民2人に1部屋が割り当てられ、片方が子供の場合は年長者がその面倒を見ることになっている。

しかし、9歳のオーサとジェクトから……おそらくは3歳くらいであろうエフィまでのこの7人は、特例として私の部屋をそのまま居室としていた。

7人とも、つい1ヶ月ほど前にチョーカからウォルに入植したばかりで……。

そして、これまでその心に負った傷から大人、ましてや年長者と言えど子供が1人で世話をするのが難しい……、そういった子供たちである。


生まれつき目が見えない。

どういう境遇にあったのか、言葉を話す事ができない。

毎日、悪夢にうなされて泣き喚く。

自分の手を、血が出るまで噛み続ける……。

昼夜を問わず目を離せないこういった子供たちの世話を、私は一手に引き受けていた。


でも、それを苦痛だと思ったことはない。

引っ掻かれようと噛み付かれようと、どうせ私からは血の一滴も出ないのだ。

それに、魔人ダークスは眠る必要もない。

ただ暗く、闇のような……。

そして誰もいない、この寂しい時間が少しでも減ることは、私たちにとってむしろ喜ばしいことだった。


それに……。


「ふふ……、……」


体の半分以上を床の上に投げ出していたアルを布団の上に戻し、ペイルとジェクトに蹴飛ばされていたシーツをかけ直し……。

無意識に漏れてしまった声を、私は慌てて噛み殺す。

こんな深夜に子供の就寝を邪魔するなど……、……絶対にしてはならない。


無言を守って全員の寝姿を整えた私は、音を立てないよう部屋の奥にあるイスに注意深く腰掛け、傍らのテーブルに右肘をつく。

そのまま頬杖をついて目を閉じ、7人の静かな寝息に耳を傾けた。


最初の2週間は本当に酷い状況だったこの子たちも、最近は随分と落ち着いてきていた。

……でなければ、アリスも私を誘ったりはしない。

オーサとソカヤに限るならば、もう普通の部屋に住まわせても問題はないだろう。


でも、エフィとペイルはまだまだ無理だ。

それに、……目の見えないジェクトにどうやって文字を教えるか……。


……いや。


ソーマ……。

彼ならば、その手段も知っているのかもしれない。

この世界を嫌いだと公言し、普通を破壊し、普通でないことを笑み1つで普通にしてしまえるあの「の王」にとっては、意外と簡単なことなのかもしれない。


「……」


最近めっぽう穏やかになったその黒い瞳を思い浮かべながら、私はついこの間……。

いや、あるいは。





遥か昔でもある、あの時代に。





赤い焦点を合わせ、……無音で溜息をつく。


街で買いものをして。

友達とおしゃべりをして。

先生として子供たちに勉強を教えて。


そして、……母になって。


強烈に憧れ、そして妬みもしたそのほとんどが、今の私には叶ってしまっていた。

あれほどに求め、憎み、望み、そして狂った激情のほとんどが、今の私からは消えてしまっていた。


……簡単なことだったのかもしれない。

それは、世界を……焼き尽くすよりも。


「ライズ……」


かつて『浄火じょうか』と名乗ったその男の瞳の赤を思い出し、私の唇からは小さな声がこぼれる。

でも、そこに込められた感情が何なのか……、私たちにもよくわからない。





込めていた魔力を使い果たしたらしく、ついに天井で弱々しく浮かんでいた【灯火ライト】が消える。

それを慰めるように、窓枠の形に切り取られた優しい月の光が赤い光を失った部屋の中にやわらかく届いていた。

穏やかな闇の中、それは青にも銀にも見える。


「……」


外の水路を巡る静かな水の流れが、闇の中の沈黙を否定し続けていた。

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