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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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ショート・エール 守るべきもの、変わるべきもの

今回の語り手ですが、


・地の文の「私」→わたし

・台詞内の「私」→わたくし


となります。

最初だけ打っていますが文章がルビだらけになってしまうので、この場でのご説明とさせていただきました。

お手数ですが、脳内補完をお願いいたします。

「ねぇねぇ、シムカのおかあさんはどんな人だったのー?」


それは、やや浅い湖の底。

水草の産みつけられた小魚の卵から、まさに稚魚が出ようとする瞬間だっただろうか。

その光景と、食い入るようにそれを見つめていた主君の後ろ姿を眺めていたわたしを、いつの間にか幼子のような瞳が覗き込んでいた。


アイザン様。


数年前に先代のクロムウェル様から大精霊の座を引き継がれたこの当代の水の大精霊様は、このように非常に根源的で……突拍子のないことを聞いてくることがある。

過去を振り返る限りでは、人間とはこの世界で最も賢く博識な動物だったと認識しているのだが……。

しかしアイザン様は、何年たってもこのように無邪気で幼いままだ。

ようやく言葉を話せるようになった幼児が母親に手当たり次第に「これはなに?」と聞き続けるように、日々私を質問攻めにしていた。


わたくしの……そして我ら兄弟姉妹の母は、アイザン様です」


とはいえ、別にそれに対して困っているわけではない。

大精霊様から頼られるなら、それに全霊で応えるのが我ら兄弟姉妹の務めだ。

この身が生まれたときから剣となってお支えし、魂砕けるときまで盾となってお守りする。

答えを望まれるならば、その答えをお与えしよう。


「……んーー……」


「?」


が、私の回答はアイザン様の期待していたものではなかったらしい。

首を前に戻したアイザン様は、我らと同じ水を媒体としたその小さな頭を左右に揺らしながら唸っている。

同じく半透明の卵の殻を破った稚魚が、その水の流れの中を必死に泳ぎ始めていた。


「いや、そういうことじゃなくて……」


「……は」


「んー……、……そう!

えっとね、シムカは誰が産んだの?」


あるいは、自身の問いの方が適切でなかったと悟られたのだろうか。

聞きたいことは同じでもその意味が大きく違う言葉をもって、アイザン様はまた振り返られた。


「この世界の、ことわりです」


「……コトワリさん?」


「特定のかくの名前ではなく、この世界そのもの、という意味です」


私の回答に、アイザン様はまた唸りだした。

ただ実際のところ、私たち精霊自身も自分たちがどうやって生まれるのかは正確に理解していない。


熱くも冷たくもなく、明るくも暗くもなく。

広くも狭くもなく、近くも遠くもない場所。

この世界にあるのかもわからないそのどこかで、ぼんやりと自我を確認した瞬間が、我らの始まりだ。

やがて、自分を呼ぶ誰かの声。

そのときに初めて聞き、何故か既に知っていた自分の名前に応えると、そこに世界が現れる。

……いや、世界に自分が顕現したのだと、理解することになる。


そして以後は、その「どこか」とこの世界を自由に行き来することができるようになり、この世界で実体を完全に破壊されるかあるいは自我を保てなくなるそのときまで、それぞれの主君にお仕えする。


それが我らの誕生であり、精霊と呼ばれる者のせいだった。


付け加えておくならば、この世で自分の体をかたどるものが異なるだけで、我らからすればそれぞれの属性の精霊に大きな違いはない。

5属性はもちろん、私も数体しか見たことのない命の者や、おそらくは時の者でも同じはずだ。


「……じゃあ、この世界がシムカたちのおかあさんなんだね」


「……そうなりますね」


が、アイザン様がそれをどう受け取られたのか、私はまた理解することができなかった。

どこか寂しそうに、そして何故か羨ましそうにつぶやくアイザン様に私は当座の言葉を返す事しかできない。


それこそ、根源的な。

決して埋めることができないのであろう、……何か。

……そう、ようとも言うべきものに、大きな隔たりがあることを感じてしまう。


「……」


「……」


しかし、私にはそれを一言で表す言葉が思いつかない。


「……ま、いーんだけどね。

わたしには、シムカがいるんだし!」


「……は」


それでも、アイザン様は何らかの結論を出されたらしい。

小さな笑顔を作って立ち上がられたその姿が、湖の底を静かに蹴って上へと向かう。


「どっちかって言うと、……シムカはおばあちゃんっぽいけど」


「当代様……?」


「ごめん、嘘嘘嘘ーーー!!!」


多分に笑みを含んだその単語に私が反応し……やや強めの視線を送ってしまうと。

アイザン様はキャラキャラ笑いながら、水面の上へと上がっていった。





「……」


動物のように呼吸をしない我らは、当然溜息をつく必要もない。

それでも何故かしてしまうその動作と共に、私は「私」を認識した。

徐々にクリアになっていく周囲の透明な光景と、無音というべき音。

エルベ湖の底に、自分の意思で顕現した私がいる。


セイ様にお仕えして以後1600年以上を生きた私は、現存する中では最古の水の精霊だ。

かつてのいくさでその先頭に立ち、いにしえより続いていた国の在り様を変えた、人間たちが記す書物にやや誇張して描かれている多くの大精霊様。

あるいは、何もせずに人知れずこの湖でただ静かに過ごし、それでも確かな何かを遺されていった数多の大精霊様。

お仕えした全ての大精霊様の数を合わせれば、150を軽く超える。


その全ての方の、そして全ての方とのその記憶を、私は順番に語ることができる。


「……」


が、その中でも……先代。

かつて先々代のクロムウェル様より『愛を讃ずる』と名付けられたその幼い大精霊様との記憶は、私にとって特に鮮烈なものだった。

光のような笑顔、レブリミとふざけ合う姿、私をからかう瞳、……透き通った涙。

その偉大で、そして愛しき大精霊様は、生きられた時間の長さを別にしてもあまりに多くのものを私に遺していた。


あの最期の言葉も、その1つだ。


……もう、そろそろ向こうも落ち着いた頃だろうか?

私は記憶の中で、以前訪れたあの場所の景色を強くイメージする。

徐々に薄れ、霞み、そして小さく分解されていく視界の中で、私は自分が一時的にこの世界から「外れた」事を自覚した。

熱くも冷たくもなく、明るくも暗くもなく、広くも狭くもなく、近くも遠くもない、どこか。

おそらくは人間が眠気と呼ぶ感覚に似ているらしい、自身を手放したようなそのやわらかい感覚の中で、私の意識は強くイメージしたその場所へと移動した。




「ィイ、ヤッハーーーーッ!!!!」


「……」


自身の透明な体の表面に、濃淡を問わない無数の緑色と茶色が映り込んでいることを確認しながら……高い気温と湿度の中で、私はまた溜息をつきそうになっていた。


ネクタ大陸中心部。


人間、そして森人エルフがカミノザと呼ぶ聖域。

木の大精霊、フォーリアル様がいらっしゃる場所から数キロほど離れた地点に実体化した私に、奇声と……やかましい魔力が叩きつけられる。


「ぉおりゃぁああああ!!」


赤茶色の見事な大木と、白く朽ちかけた古木の間。

鋭い棘のある厚い葉を持つ草の茂み、腰くらいまでの高さがあるそれを裸足で踏みつけて突進してきたのは……。

ソーマ様とアリス様の結婚式の前後でも大騒ぎしていたヒエン、当代の木竜だ。

おおよそ1年前に初めて会ってからこれがもう4度目になるはずなのだが、それをわかっているのかいないのか、私に向けられているのは肩の後ろまで振りかぶった右拳だ。


針葉樹の表皮を想わせる褐色の肌に、やや目に痛い明るい緑色の髪。

同色の衣服から大胆にさらけ出している体には、しなやかながらも歴戦の戦士のような硬質の筋肉。

苔むした地面を破裂させながら踏みきり、5メートルほど先から拳と共に迫る獰猛な笑顔には、子供のように享楽に輝いたエメラルドの瞳。


……一応、私だとわかった上での行動らしい。


まぁ、最初のときのように竜の姿で突っ込んでこないだけマシだろうか。

長い腕を活かしてまるで矢か槍のように霞んだ茶色の残像を眺めながら、私はそのときと同じように自分の右手を顔の前にかざした。

同時に展開する、掌よりもやや大きい程度の、鉢やカメの甲羅を裏返したような……、『あの娘』の言葉を借りれば「大きいコンタクトレンズ」のような氷の盾を、左右斜めに傾ける。

ヒエンから見れば凹型おうがたの面が右から左へ流れている、そんな奇妙な形状の盾はひたすらに薄く、そして華奢だった。


その右縁にヒエンの振るった拳、その固く握った小指の外側がほぼ水平に接した瞬間。


「……っ!」


「ああああぁぁぁぁーーーー!!!?」


ヒエンの突進と速度を合わせながら、私は顔の前の盾を右側へと「払った」。

盾の表面の弧面こめんに導かれるかたちで、焦った表情のヒエンもまた私が伸ばした右手の先、うっそうと大木が密集している森の中へ炸裂音と共に消えていく。

視線の先で傾き、折れ、落ちて行く木々の梢とそのはるか先で響いた轟音を横目に、私は盾を消してゆっくりと右腕を垂らした。


水属性低位魔導【氷返鏡ミカエリィ】。


確か人間たちがそう名付けていた魔法を、これは少しだけアレンジしたものだ。

正面から受け止めるのではなく、滑らせながら受け流す。

私と、……そして私の最後の契約者だった『水鏡みかがみ』と呼ばれたかつての英雄が、最も得意としていた防御術でもある。


「……ふぅ」


とはいえ『浄火じょうか』との戦いからもう550年以上、私も随分と腕が鈍っている。

勢いを完全に受け流す事ができなかったために、私の右腕はまだ激しく波紋を浮かべていた。

あるいは、手加減して尚それだけの威力を誇る木竜の膂力を褒めるべきなのだろうか。


……そう言えば、ソーマ様は破城鎚はじょうついに等しいあれを正面から受け止め、そして吹き飛ばしていた。


やはり、あの方は強い。

おそらくは歴代の大精霊様の中でも、五指に入る強さだろう。

あの方とまともに闘える存在自体、今のこの世界で何人いるか……。


「こんの、阿呆あほうがぁあ!!!!

……お前もお前じゃ、シムカ!

お前ほどの存在が、もう少しやり方を考えんか!」


直線に破砕された森の奥から、ヒエンを蹴り飛ばしながらこちらに歩いてくる木の上位精霊、私と同じその筆頭であるムーでもそれは無理だろう。

今のヒエン、何故かニカニカと笑っている、彼女よりもはるかに強かった先代木竜のヒイラギでも……、いや、どの霊竜でも無理だろう。


腕組みをして笑顔のまま私を見下ろすヒエンとそのふくらはぎをいまだ蹴り続けているムーに、私は深々と頭を下げる。


「……霊竜の躾が大変なのは、いつの時代でも変わりませんね。

お久しぶりです、ムー、……ヒエン」


無論、生まれたときから水の大精霊の下にいることが運命づけられている我らなど、その検討の意味すらない。

だからこそ、私は。


「フォーリアル様に、先日の御礼を申し上げに参りました」


それよりも永く『創世』よりこの世界に君臨し、最古の大精霊と呼ばれるフォーリアル様に。


かつて、ソーマ様の討伐をお願いしたのだ。

















「随分と賑やかじゃったのう……?」


「ご無沙汰しております、フォーリアル様」


ブツブツとこぼし続けるムーと全く反省の色の見えないヒエンに連れられた私に、フォーリアル様は朗らかな声を投げかけてきた。

霊竜の行儀については私も現在進行形で頭を痛めている事案ではあるが、それは今ここで語り合うべき話題ではない。

深く腰を折った私に、ふぉふぉふぉ、と軽やかな声が降りかかる。


若干、端を朱に染め始めた空。

その光を受ける木の大精霊様の梢は、人間がもてはやすきんのように光輝いていた。


「変わらぬようで、何よりじゃ」


「いえ……、……その節は大変にご迷惑をおかけいたしました。

お陰様で……」


「よい」


精霊殺し。

大精霊、あるいはその契約者を討つという、この世界の理を揺るがしかねない暴挙。


それを持ちかけ、そしてすぐにとどめた。

不肖と不躾ぶしつけ、不義と不敬。

謝罪と……、……感謝。

あらゆるものを内包した私の言葉は、しかしその一言で穏やかに封じられた。


その上で、あらためてソーマ様の力と心を試して信を与えた、その最古の大精霊は軽やかに笑う。

暖かい風にあわせてサラサラと揺れる葉の音と共に、それは私の心身を少しだけ軽くした。

腕を組んで手近の大木に背を預けたヒエンとその隣に佇んだムーの視線が、伏せたままの私の横顔からフォーリアル様の威容に移っていく。


「儂としても水の……、ソーマという人間の心を確かめておきたかったのは同じことじゃ。

お前さんの申し出には……、……まぁ驚きはしたが、結果として善き方向に落ち着いたのじゃからのう」


カミラギへの入区。

カミノザまでの道のり。

召喚魔法の真実。

そして、タイミング良く召喚された『海王』との戦い。


「まぁ、『海王』には気の毒だったけどな」


「仕方あるまい」


その全てを仕組み、見届け、公正に判断した最古の大精霊は。


あの日、アリス様の杖と同じように自身の一部を。

そして2つ封印していた立体陣形晶キューブの内の1つ、それを携えさせた木竜を沖にってクラーケンを呼び込み、当代の水の大精霊をはかったその張本人は。


「信念なき力は、本人の意思に関係なく災厄の種にしかならん」


肩をすくめた木竜の物言いたげな視線を、無感情にそう切り捨てた。


「ましてやあれほどに巨大な力となれば、その身動きだけで世界を傷つけかねん。

言葉で通じぬ相手を力で制さぬことは、決して優しさではない」


「……」


ヒエン、その際に指示のなかったちょっかいをかけて手酷く返り討ちにあった木竜は、表情を作らずに緑色の瞳を逸らす。

半分ほど閉じられた褐色のまぶたは、しかし、決してそれに全面的な納得を示してはいなかった。

それをムーも咎めないのは、そこに大樹と竜……。

より正確に言えば、「完全に合理で生きる生物である植物」と「そこに感情が混じる生物である動物」という根本的な隔たりがあることを、理解しているからだろう。


「それは、ただの甘さじゃ」


ある意味で、我ら精霊以上に透徹した思考を持って生きてきた植物。

しかし、その王であるフォーリアル様のものだからこそ、その言葉はどこまでも合理的で厳しく。


「シムカよ。

お前さんの言う通り、ソーマは確かに強く、危うい。

あれだけの力が分別なく奮われれば、文字通りこの世界が傾いたじゃろう。

正対すれば、おそらくは儂であってもただで済んではおるまい」


揺るぎがなく。


「しかし、あの男は決して愚かに暴れ回るだけの悪ではない。

あのときも、自身の固執していたであろう答えを目の前にして、守るべきものをきちんと守り通した」


正しく。


「アリスが隣にいる限り、ソーマがその信を失うことはないじゃろう」


何よりも、信頼できた。


「……私も、アリス様には感謝しております」


話がアリス様にも及び、つい先日にソーマ様の妻となったあの少女にも、あらためて私は深い感謝を抱く。

ただし、これは決して彼女がフォーリアル様の契約者だからではない。





彼を愛して、救ってあげて。


アイザン様からこの言葉を預かってから数日後、しかし、私は湖に叩き込まれる残骸の数々を見てそれが不可能だろうと思い始めていた。

エルベーナと呼ばれ、生贄を供え続けていたその小さな村。

原型がなくなるまで破壊されもはや人数すら数えられないほどにすり潰された人体と、先程まで建物だったことが組まれたままの部品からかろうじてわかる程度の木石からは、人としてのあたたかみが一切感じられない。

湖が汚れないようにそれらを1ヶ所に流し集めながら、おそらくはアイザン様も覚悟していた通り、当代様が妹君の仇を討ったのだということを私は理解していた。


同時に、あまりに鋭利なその切断面や病的なまでに徹底した破壊の痕跡を眺めながら、私の記憶にはもう1つの言葉も蘇っていた。

すなわち、アイザン様からの言伝を聞かせた後で、それでも彼が大精霊にふさわしくないと私が判断した場合は……。


どんな手段を使ってでも、彼を殺しなさい。


「……」


湖底に積もる村だったものの有様は、既に当代様がその権能を使いこなし始めていることを如実に表していた。

……いずれにせよ、このままでは私が取ることのできる手段は非常に限られてくる。

卷属である我らが、直接に大精霊様を害することはできないからだ。

かと言って、適当な人間の軍程度ではあの男を討つことはできない。

仮にも大精霊、下手をすれば世界ですら滅ぼし得るのだから。


精霊殺し。


私の知る長い歴史の中でも3度しかなかったその凶事まがごとを、また成さなければならないと、そのときの私は本気で考えていた。

アイザン様が命を賭したちぎりの前に、水の精霊としての誇りや私の意思など目に映らぬ塵に等しい。


自責と悲哀、罪悪と使命感。

久しく感じていなかった情動に震えながら、私は……ネクタ大陸。

以前の精霊殺し、すなわち『浄火』との戦でも共闘した、最古の大精霊のもとへと向かった。


世界に害をなし、……いや。

アイザン様の名にさらなる傷を付けられる前に、私は当代様を殺すつもりだった。

遺言を伝えた後はネクタ大陸に誘導し、そこでフォーリアル様に討っていただき……。

そして、それを見届けた後、私もじゅんずるつもりだった。


が、結果としてはそうならなかった。


何故か、次に出会ったときのソーマ様の瞳の色には、アイザン様のそれと同じく澄んだ輝きが灯り。

その隣には、アリス様がいたからだ。





「あの方のお陰で、ソーマ様は救われました」


「そうじゃのう」


だからこそ、私は。

最古の大精霊をもってして「強い」と、「危うい」と言わしめるソーマ様を。

にえに捧げられ、アイザン様を死なせ、あのままであればおそらく『浄火』以来の災厄と化したであろう当代様を。


それから守った、アイザン様を。

そこから救った、アリス様を。

心から尊敬し、感謝しているのだ。


「あれほどに冷たく、強い男を救った。

魔に堕ち、『浄火』を超える大過となったかもしれぬ存在の心にくさびを打ち込んだ。

世界を守り、そして変えるだけの強さと優しさと、そして夢を持っておった。

なればこそ、儂もアリスとちぎったのじゃ。

……儂は、あの2人を信じておるぞ」


「……私もです」


何もできなかった私にできることは、それだけでもあった。

















「……にしても、シムカよ?

水殿みずどのは、お前やわらわが……水殿がこの世界の者ではないと知っておったことに……。

その心を見極めるために父上が自分をお試しになったと、本当に気付いておらなんだのか?」


「そんなバカじゃなさそうだったけどな?」


ムーと、ヒエン。

フォーリアル様の言葉を聞き終えた私に、2人はそう……ある意味では当然の疑問を投げかけてきた。


もちろん、明文化された後のこの世界の歴史において、【異時空間転移パールポート】で召喚された異世界の人間は極めて珍しい。

が、私やムーがその可能性に思い当らないほどにいなかったわけでもない。


……現に『水鏡』も。

そして、かつてムーの契約者だったあの少年もまた、それに囚われた人間だったはずだ。


数百年に、1人か2人。

歴史を紡ぐ人間たちからすればいずれ時間の中に紛れてしまう湖底の砂の1粒のような出来事でも、我ら精霊たちから見れば数えられる小石程度には大きくなる。

思考、言葉、行動……。

人間からすれば悠久とも言える年月、数限りないこの世界の人間の生き死にを眺めてきた我らだからこそ、その不自然に思い至ることができてしまうのだ。


そして。

そういった人間たちが最も強い興味を示すのが、あの忌まわしき立体陣形晶キューブであることにも。


あの日。

この場所。

それまでの経緯。

あの状況。


実際に全てを重ね合わせれば、他ならぬこの4名以外にその状況を作りだした疑いをかけ得る人物はいない。

動機にしても手段にしても、それ以外にあれほどタイミング良く『海王』を召喚する術はない。

そんな率直な事実にあのソーマ様なら気付いて当然だろう、と2人が思うのも、無理からぬことかもしれなかった。

……が。


「ええ、ソーマ様は我らを一切疑っておりません」


残念ながら、私にはこう断言できてしまう。


「……」


その答えの残酷さを理解しているからか、フォーリアル様はただ無言を貫いていた。


「……何故、言いきれる?」


「それは……」


一方で、問い返すムーにそれを説明しようとしている当の私自身は、精霊の身で感じられるはずもない吐き気を押し殺していた。


「ソーマ様は……」


アイザン様がソーマ様に遺された、愛とあがない。

それを理解しての、ソーマ様の涙。

アイザン様をうしなって。

ソーマ様の想いに触れて、初めて悟った我らの過ち。

それさえも逆手に取って、最古の大精霊すらも巻き込んだ、私の罪。


「我ら「精霊」という存在の、在り様を……。

……心の底から、信じておられますので」


「「「……」」」


冷たい絶望と凍てついた罪悪感に潰れた私の声は、緑の中に重苦しい静寂だけを生み出していた。


アイザン様を苦しめ、死に追いやった理由。

ソーマ様が狂い、涙した理由。

かつてその妹君が無意味な贄に捧げられ、ついえた理由。

あの村がソーマ様と妹君をこの世界に召喚するほどに、追い込まれた理由。


その全てが、我らの……。

……いや、筆頭でありどの大精霊様よりも長く生きていた、他ならぬ私の無関心と浅薄だったという事実に、私がようやく気が付けたのは……。

愚かしいことに、アイザン様の死とソーマ様の涙を見せられてからだった。


大精霊様が人間から尊ばれるのは、当然のこと。

我らがその大精霊様に従うのは、当然のこと。

アイザン様に無用の罰を与えてしまったのは、それを疑問に思うこともなかった我らの無関心で。

ソーマ様から妹君を奪ったのは、……私の浅はかさだ。

アイザン様を殺し、妹君を殺し、そしてそれ以前の全ての贄を殺してきたのは、……私なのだ。


そんな私を、ソーマ様は心から信頼してくださっているのだ。


気付いてしまったが故に理解してしまったその罪の重さに、私の自我はまた軋みを上げ始めていた。





「シムカよ」


声が、降り注いだ。

いつの間にか膝を落としていたらしい私の視界に、穏やかな緑色が戻る。

肩に載っていたヒエンの左手と、傍らから私を心配そうに覗き込むムーの瞳から、私は自身が気を失いかけていたことを知った。


「……は、失礼いたしました」


「よい」


慈愛と、そして悲哀に満ちたフォーリアル様の声。

その穏やかな声は、私が私であることをゆっくりと思い出させてくれる。


「前を向くがよい」


静かであたたかいその声には、私以上の時間を生き……。


「気付き、迷い、悩み、傷つき、痛みを知るからこそ……。

命ある者は、成長できるのじゃ」


当然のように私以上の苦悩と罪悪を知っているからこその、優しさと。


「自分を責めることだけに、囚われてはならぬ。

お前さん自身がただ苦しみ続けることは、決してソーマへの償いにはならぬ」


そして、厳しさに満ちていた。


「自身の愚かさと罪に気が付いたのなら、それを背負って迷い、悩み傷つき、その痛みをきちんと受け止めるべきじゃ。

そしてそれができる意味と、その先にお前さんが成すべきことを考えよ」


しかし、だからこそそれは穏やかに。


「ソーマはもう、お前さんをゆるしておる。

それは決して、ただの甘さではないはずじゃ。

アイザンがソーマに、そしてお前さんに託したものが何なのかを、忘れてやるでない」


冷たく澱んでいた私の心に、光と熱を与える。


交渉の場での保証。

アリス様の護衛。

エルベ湖の守護。

ウォルを支えていくであろう子供たち。

『海王』からアリス様の……ソーマ様の家族を守ること。


せめてそのめいに応え、必死で尽くそうとしてきた日々を私は言葉のままに振り返っていた。

私のこれまでの生からすれば数瞬といってもいいその時間に、無色ではないが透明な意味が宿る。


私が奪い、背負わせてしまったもの。

それを満たし、守るべきもの。


愛と、救い。


アイザン様に。

そしてソーマ様に託されたものが何だったのかに、あらためて気が付いて……。


「……ありがとうございます」


私は、精霊は泣けないという事実を。

久しぶりに、残念に思っていた。

















全身と全霊で、ソーマ様に忠を尽くそう。

あの方が守りたいものを、私はこの命に代えても守ろう。

ソーマ様の、さいを守ろう。

あの方に、望まれずとも愛を捧げよう。


「……大変失礼いたしました」


贖罪。


私が背負い、尽くし、守り。

そして、成すべきこと。


その確かな形を知った私がようやく顔を前に上げられたとき、もう空は赤く染まりきっていた。

周囲の温度も少しだけ下がり、世界はもうすぐ闇の時間を迎えようとしている。

北寄りの東の空からは、雷鳴と雨音が迫ってきているようだった。





「ときに、シムカよ。

お前さん……気付いておるか?」


「……はい」


「騒がしい……空じゃな」


「……へっ」


フォーリアル様の声には、先程までとは異なる険しさが含まれている。

心の整理がついた私にも、ポツリと呟いたムーにも、どこか楽しげに唇を歪めたヒエンにも、あらためてそれは伝わっていた。


歴史を紡ぐ人間たちからすればいずれ時間の中に紛れてしまう湖底の砂の1粒のような出来事でも、我ら精霊たちから見れば数えられる小石程度には大きくなる。

人間からすれば悠久とも言える年月、数限りないこの世界の人間の生き死にを眺めてきた我らだからこそ、その不自然に思い至ることができてしまう……。


徐々に、徐々に天を浸食するその……黒は。

かつてソーマ様の瞳に浮かんでいた、不安と不穏。

深淵の底で凍てつき、冷え切った憎悪を連想させる。





……550年前のあの凶事の前と、どこか同じ気配。






音を立てて地面を叩き、私の体にも当たり出した大粒の強い雨はまだ彼方に残る西日を受けて。

まるで、血のように赤く輝いていた。


「嵐に……なるのう」


ぬるい風とけぶる雨に、土が濡れた音を立てる。

鉛のようなその重々しさの中に、最古の大精霊の声はかき消された。

「シムカがソーマを認めるきっかけ」は、1部の頃からご質問いただくことがあった部分です。

答えとしては「アイザンの遺言を聞かせた時点」なのですが、3部本編では結局追及されなかった真相も含めてその前後にはこういう流れがあったというお話でした。

本編の「守るべきもの、変わるべきもの」と合わせて読んでいただくと、彼らの会話や反応にまた違ったものを見つけられるかと思います。

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