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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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ショート・エール スリーピング

現世の日本とこの世界での暮らしの大きな違いとして、魔法や精霊の有無の他に気候の違いが挙げられる。

重力があり水平線が弧を描いている以上はこの世界も球状の惑星に存在していることは間違いないと思うのだが、その割に各大陸で四季を感じることはほぼない。


例えば、サリガシア大陸はその7割近くが年中雪に閉ざされた豪雪地帯だ。

当然ながら気温も低く、おそらく年間の平均気温は氷点下を軽く突破するものと思われる。

反対に、ネクタ大陸は1年を通して亜熱帯といっていい環境だ。

3日に1回以上は雨が降り濃緑の森がけぶる光景は、町屋造りの街並みと行き交うコロモ姿も相まって日本の梅雨どきを思い出させる。


そういう意味では、緯度的にはちょうどその2つの中間に位置するエルダロン大陸。

そして、このウォルがあるカイラン大陸は居住に適した環境だと言えるだろう。

まぁ、エルダロンの方は実際に行ったことこそないものの、少なくともカイラン大陸は年中を通して半袖で困らない程度に温暖な気候だ。

雨こそ少なく1から2ヶ月に1度ほどしか降らないものの、エルベ湖を水源とする河川湖沼に恵まれた北側では乾燥に悩むこともない。

人間が住んでいく上では、限りなく理想的な環境であるといっても過言ではなかった。


ただ、それでもここが仮想空間などではない以上、この気候はプログラム的に約束されたものなどではない。

森羅万象、万物万事においてそうであるように、そこには例外というものが発生することもあった。


その中でも最も多いのは、今日のようにいきなり気温が下がる場合だ。

前述した1、2ヶ月に1度の雨の日の翌日かつ、北東からの風が強く吹く日。

この2つの条件が重なってしまった場合、ウォルの気温は一気に10度近く下がってしまう。


とはいえ15度を下回ることなどほとんどないわけで、これは俺としてはギリギリ秋と区分していいくらいの、少し肌寒いかな、と思う程度のむしろ過ごしやすい気温だ。

他の住民たちもそれは同様らしく、せいぜいが上着1枚を追加していつも通りの生活を送っている。

むしろ年頃の少女たちなどはこの稀な日にしか着ない上着をお披露目するのを待ちわびている節もあり、村やウォルポートの光景が一段と華やかになるという意味では基本的にポジティブに捉えられている「例外」だった。


「ソーマ、どこ?」


「ベッドだけど?」


約1名を、除いては。


「……寒くないの?」


そんな休みの日。

普段より遅い朝食と入浴を終えてからベッドに寝転がり、買ったまま積みっぱなしになっていた本を片づけようと集中した矢先に寝室のドアを開けて入ってきたのは、この例外を文字通りの「冷害」と感じる亜熱帯のネクタ出身者……すなわちアリス=カンナルコだった。


「肌寒いと思わなくもないけど、そうするほどまでは寒くない。

1枚羽織ってれば、普段通り過ごせるレベル」


『至座の月光』。

日頃はそう称される美しさと神秘的な雰囲気を持つアリスであるが、ベッドにうつ伏せになったまま振り返った俺の視界に入ってきたのはそれをぶち壊しにする『最愛』の残念な格好だ。

コロモを着てその上から昨日洗濯を終えて片づけていたシーツを被り、さらにその上から予備にしまってあったシーツを体に巻き付ける。

少し泣きそうな顔だけを隙間から出しているその姿は、そんなものがあるのかどうかは別として「てるてる坊主 (業務用)」という言葉を俺にイメージさせた。


「私は、寒い」


「何か、着ろよ」


言外に家の中の空気中の水分子への干渉、すなわち気温の上昇を注文されたことはわかったが、俺はそれに応じず視線を紙の上に戻す。

体をずらして胸の下敷きにしたクッションの位置を調整し……よし。

意識をてるてる坊主から、両手の間の義姉弟のドロドロとした愛憎劇の中へ「寒い」ぅおげふっっっっ!?


「寒い」


無言で後ろを睨んだ俺を待っていたのは架空の王宮で繰り広げられる病的な憎悪と執着のマリアージュではなく、俺の背中に馬乗りになり端的な形容詞を吐くてるてる坊主だ。


深い深い森の奥にそびえる大樹の葉を思わせる、優しい緑色。

あるいはエメラルドのように怜悧で美しく輝く、力強い緑色。


俺がこの世界で最も好きなその色に……。


「……」


「いや、ウォルで暮らす限りはこの先何度もこういう日はあるんだし……。

それに俺がいないときだってあるんだろうし、慣れとけよ」


鎌首をもたげ強酸の唾液をジュタジュタと垂らす巨大ハエトリグサの緑色が混ざり始めたことで、しかし俺は薄々と敗北の可能性を予感し始めた。


ただ、俺も無意味に、ましてや面倒だからなどという理由でアリスの訴えを突っぱねているわけではない。

実際、アーネルやチョーカとの関係を大きく改善したことで2、3日に渡って俺が家を空けることも多くなっているのだ。

アリスが俺がいないと何もできない愚妻だとはもちろん思ってはいないが……正直、眼前の光景は若干の不安を湧き立たせる。


それに、いずれはアリスと共にエルダロンやサリガシアを訪れることになる。

前者はともかくとしても、サリガシアは本家本元の寒冷地だ。

この程度の肌寒さで動けなくなるようでは、サリガシアでは本当に危険な目に遭うかもしれない。


だいたい、せっかくの休みの昼からこうして俺がダラダラと過ごしているのは、外に出たくなかったアリスが外出を拒否したからだし……。

……いや、流石にそれは大丈夫だろう。


「でも、今はあなたがいるもん。

徐々に慣れていくから、大丈夫」


「半年前の今日みたいな日にも、同じ台詞を聞いたけど?」


……大丈夫、なんだろうか。


「とにかく、気温の調整はしない。

他に方法がないネクタでの冷房ならともかく、寒いのは服を着ればしのげるんだからそうしろよ」


一抹の不安は覚えたが、とりあえずこの話は強引に打ち切ることにした。

俺の対応は冷たいかもしれないが、間違ってもいないと思う。

何より他の住民たちが平気なのだから、アリスにとってもそれは平気なことであるはずだ。


アリスも、それはわかってくれると思う。


「……わかった。

今日から徐々に慣れていくようにする」


話が通じたようで、背中のアリスからは不服そうでありながらも承諾と努力の表明が返ってきた。


よかった。

満足のいく結果になったことに微笑みつつ、俺は視線を本に……。





「ついては、今日からはベッドを別々にする。

この気温に1人で慣れるために、まずはそこから始めたい」


「!?」





合わせようとして、全力で振り返った。

冷静にして冷徹、そして恐ろしく冷やかな緑色の輝きが唇をつり上げて嗤っている。


「大丈夫。

私がこれくらいの寒さでも平気になったら、またベッドを戻せばいい。

あなたと一緒に寝られないのは残念だけど、私を『最愛』と言ってくれるあなたならわかってくれると思う」


「ぐ……」


天下の『魔王』を見下ろして冷たく微笑むのは、神話において死槍アスピナを掲げ全てを殺したという死天使そのものだった。


「それでいい?」


「い……」


俺のことを心から信頼し、隣にいる。

そう宣言した通り、アリスは俺の心中を読み切ったかのような必殺の論理を組み立てていた。


ただ、お前は俺の味方で『最愛』ではなかったのか?

それともお前の中で死槍アスピナとは、味方に向けてもいいものなのか!?


「ソーマ。

私は寒いんだけど、……それでいい?」


「……いいはずがない、です」


敗北だった。

白兵戦だとか魔法戦だとか攻撃とか防御とかそういう全ての要素以前に、俺は心を折られていた。

肌を重ねるにしろ一緒に寝るにしろ、アリスに拒否される。

それを匂わされただけで、当代の水の大精霊は全ての戦意を喪失していた。


「ありがとう、やっぱり私はあなたが大好き」


「どういたしまして……」


クッションに顔を埋め長い溜息をついた俺の首筋に、温かいアリスの唇が触れる。

俺を論破、いや論殺できたことが嬉しいらしく、そのまま俺の背中に身を投げ出すアリスは満面の笑みを浮かべていた。

脳裏の【水覚アイズ】でそれを知覚しつつ、苦笑いの表情で俺は顔を上げる。


「はい、どうぞ」


「あっ……」


同時に、俺は自分の体温を43度まで上昇させた。


生体を構成する水への干渉。

当然ながら、それは俺自身に対しても行うことができる。

どころか、俺は水に関するあらゆるダメージを受けないため体温90度などというとんでもない状態を作り出すことも可能だ。


むしろ、これを突き詰めていけばプラズマを作り出すことも……。


「あったかい」


「……そうか」


……いや、今はどうでもいいか。

背中から聞こえてきたアリスの幸せそうな声を受けて、俺も上昇させた体温以上の温かさを感じる。

暖をとろうと体をずらして密着したため、俺の背中ではやわらかいものがふにゃりと潰れた。

さらに両手が体に回され、肩甲骨の間で顔が固定される。

よほど心地よいらしく、アリスは俺を抱きしめたままクスクスと笑っていた。


何というか、俺も自然に口角が上がってしまう。

まぁ、何だかんだ言いつつもこれはこれで……。


「しあわせ……」


「……だな」


あらためて、視線を本に落とす。

低温火傷にならないよう肩甲骨回りの体温を元に戻した俺の背中からは、やがて静かな寝息が聞こえ始めた。

















「……」


「おはよう」


「……ぅん」


それが止まり、俺の背中の上で何かが持ち上がったのは普段なら昼食を終えているくらいの時間だ。


義姉弟がくり広げた狂愛劇の終幕。

謎めいた少年貴族と屈強な女戦士との間の奇妙な愛情。

少女の冒険者がヒロインである少女と出会う、いや既に出会っていたガールミーツガール……。


積み上げていた数多の人生の7割ほどを追いかけ終わった俺の背の上では、その本来の持ち主がクシクシと目をこすっていた。


「……」


その緑色の視線が寝室のドア、さらにはリビングを通過し、水がめの隣の外につながるドア、その外に向けられ……。


「……」


そして、何かを言いたそうに眼下の黒い後頭部に向けられるのを感じながら、俺は溜息をつく。


「そのまま漏らしたら、流石に怒るからな?」


「!」


俺の背にまたがる、すなわち直接触れているアリスの体の水分を俺は【水覚アイズ】で知覚することができる。

水分とはすなわち細胞に含まれるそれであり、血液に混じるそれであり、ギョッとした表情で見開かれる瞳を覆う涙液であり、膀胱を……!


!」


「そんなことしない!」


本を閉じながらの無言の述懐は、背中に振り下ろされる張り手で強制的に停止させられた。

ベチッ! と夫の背を叩いた後に頬を膨らませたまま視線の通りのルートを通ってアリスが向かう先は、やはりというかなんというか離れとして設置しているトイレだ。

水洗とはいえ一応の衛生面を考えて外に設計したトイレに入ると、確かに (アリスにとっては)冷たい外気に身をさらすことになる。

だからと言って、そこに到着するまでのルートとトイレまでを暖かくしてほしいというのは流石にいかがなものか。


「……うー」


水覚アイズ】を切りつつ、ベッドから立ち上がる俺の背からはベシベシと音が鳴っている。

首をコキコキと鳴らしながら寝室の窓に手をかけた俺は、窓板まどいたを持ち上げて両端に留棒とめぼうを噛ませた。

窓から入ってくる空気は、やはり普段と比べれば少し肌寒い。

が、同時に冷やかさとして部屋を満たしていくその温度は、新鮮なそれとして俺の肺の中を浄化していく。


うつぶせで人を乗せたまま数時間を過ごすのは、心にはくても体には悪いか。

そんな当然のことを背骨からの渇いた音で思い知りながら、俺はベッドに戻った。

流石に寝転がる気分にはなれず、壁際に枕とクッションをいくつか積み上げて即席の背もたれを作る。

足を投げ出したままもたれかかり、さぁ残り3割の架空世界の中へ戻ろうか……。


「……! どうして窓なんか開けたの!」


戻ろうかとした俺の鼓膜に叩きつけられたのは、寝室のドアを開けながらのアリスの絶望の叫びだった。


「換気」


表紙を開きつつ端的にそれに答えた俺の前を小走りに、ひったくるように留棒を掴み窓を閉めるのは呆然自失寸前の『最愛』の姿。

ベッドに座り、シーツを被り、かつて挑んだ世界そのものの影が目の前にいるかのように俺をにらむその緑色の瞳は……。


「ちゃんとトイレに行ったのに」


「……はい?」


俺を、その残酷で狂った世界に強制召喚するくらいには怒っていた。


……怒っていた。


「寒かったもん」


お前は、何を言っているんだ。


その言葉を口から出そうとする前に、目の前のシーツの塊はゆっくりと移動を開始する。

毛足の長いモップのような犬。

あるいは、サリガシアに棲息するジャコウウシのようなコーソンという家畜。

手と膝を使ってベッドを横断した『至座の月光』は、そのまま俺の伸ばした足を滑走路のように辿り頭から突っ込んでくる。


「寒いもん」


「……いや、おい」


下ろした本の背表紙に白い布の塊が接触するが、しかしそれは除雪車のように突進をやめない。

やむなく本を隣に置いた俺はタックルを切られた直後のように無防備な姿勢のまま、腰の上にまたがられる。

向かい合うアリスの瞳は、普段と違い俺より少しだけ高い位置。

20センチの身長差を打ち消したアリスは、両腕を俺の首に回し密着する。


「寒い」


「……」


先程までは背中の上にあったやわらかさが胸骨の表面で潰れ、視界の大部分を瑠璃色がかった銀色に支配される。


家の中でさえ寒かったのだから、外のトイレはもっと寒いはず。

そんな寒い中で、寒がりの自分が大人しくトイレに行った。

なのに、暖かいと思って戻ってきた部屋は容赦なく換気されていた。


ひどい。


ついては、早く体温を上げろ。


「……」


寒かったもん、寒いもん、寒い。

そんな逆三段活用からギリギリでそんな意訳を引き出しつつ、その内容のひどさに全身の力が抜けていく。

座ったまま抱き枕にされ、全身を使ってギュッと抱き締められる感覚をどこか遠くで感じながらも。


「……わかったよ」


「うん、やっぱり私はあなたが大好き」


「その言葉で、ここまで複雑な気分になれるとは思ってなかったけどな」


そして呆れの感情も抱きつつ、俺はアリスの背と腰に両腕を回した。


体温はとりあえず40度。

素肌が密着している顔に関しては、38度くらいにしておくか。


心地よさそうに顔を埋めるアリスの耳。

頬に触れるそれは、確かに冷たい。

深い森の中にいるような。

清々しく仄かに甘い、心を落ち着かせる香り。


それに包まれ、幸せそうにやわらかい笑みを浮かべているアリスを抱きしめていると……。


「……ふっ」


何となく、何となく笑いがこみ上げてきてしまう。


「……ごめんなさい、呆れた?」


「いや、それもなくはないんだけどな」


「……?」


人心地がついて、流石に自分の言動を省みる余裕もできたのだろう。

若干きまり悪そうにそれに反応したアリスを、俺はしっかりと抱き寄せた。


「そうじゃなくて、……まぁ。

……俺の奥さんって、可愛いなぁ、……と」


「っ!」


口元にあった長い耳にそうささやくと、白い耳の先が一気に赤くなる。


カッコ悪く。

わがままで。

だらしなく。

呆れられる。





それを許されるということは、すなわちきっと信じられているということなのだ。

俺がそんな姿をアリスにしか見せないように、きっとアリスも俺だからこそそれを許しているのだ。


『至座の月光』アリス=カンナルコのそんな姿を見られるのは、多分この世界でアリスの家族だけなのだ。

その中でも、こうしてアリスが全力で甘えてくるのはマックスでもアリアでもなく、きっと『最愛』たる俺だけなのだ。





「俺も大好きだ、アリス」


「……うぅ!?」


それが、たまらなく誇らしくて。

そして、ただただ嬉しくて。


顔を真っ赤にしてジタバタ暴れるアリスを逃がさないまま、俺はやわらかく同じ言葉を返す。


「うぅ、もういいから!

わかったから、もうあったまったから!」


むしろ、暑いくらいなのかもしれない。

湯上りの直後のように熱くなったアリスは、何とか腕を突っ張って俺から距離を取ろうとする。


「……ふっ」


「意地悪!」


そんな必死の姿が普段の凛と澄ました表情とはかけ離れていて、俺はまた噴き出してしまう。

うっすらと汗さえかいたアリスは、まるで子供のように唇を尖らせていた。


「「……」」


抱き寄せて、それを奪う。


「……自分が馬鹿みたいに思えるけど、あなたはそれ以上に馬鹿だと思う」


「幸せだからいいんだよ、それでも」


「……うぅ」


あっさりと認めると、アリスは諦めたのか再度俺の首に腕を回した。

呆れではない脱力を抱きとめながら、俺も同じように力を抜く。


「あったかいな」


「……うん」


心臓から流れる血液が、アリスと同じ時間を過ごせているという実感であたためられていた。

凍てついた夜の湖が月からの光に照らされているように、今の俺には恐怖がない。


それは、きっとこれからも。


「……でも、少しだけ……寒いかも」


少し悪戯っぽくつぶやいた『最愛』を、俺は強く抱き締めた。

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