ショート・エール ミスリーディング 後編
まず初めに言っておくが、……断じて違う。
誓って、俺はアリスを裏切るような真似はしていない。
今日帰宅するまでの行動に一切のやましいところはないし、その意思もない。
あれは、あくまでも領主としての仕事であり……。
……そして、俺のミスだったのだ。
この世界には、俗に『4大ギルド』と呼ばれる組織がある。
もちろんその筆頭は、この世界の最高戦力である高位魔導士を束ねる冒険者ギルドだ。
魔物の撃退や犯罪者の討伐から、旅路の護衛に各資源の採取。
それは市民にとっては便利屋かつ治安維持に欠かせない身近な英雄たちの総元締めであると同時に、命属性魔導士を頼る病院としての機能も兼ね備えている。
普段の会話で頭に何も付けず「ギルド」と言えば、それは冒険者ギルドのこと。
それほどまでに冒険者ギルドはこの世界で一般的な存在であり、そして力の象徴だった。
それに続くのが、職人ギルドと商人ギルドだ。
基本的に、騎士や冒険者以外の人間はこのどちらかに所属していると言い切ってしまってもいいほどに、この2つがカバーする範囲は広い。
何かを作るならば、その専門職のギルドに。
何かを商うならば、その専門商のギルドに。
普段着のボタンを削り出す専門の職人から、決戦級が愛用する魔装備を仕立てる鍛冶師、そして農民まで。
都市の道端で野菜を売る露天商から酒場、食堂、宿屋の店主たち、そして都市経済の根幹たる商会長まで。
ほぼ全ての市民が個別に、そして複数を掛け持ちして加盟する無数のギルドを束ねるこの2つは、文字通りこの世界の生活の全てであり生命線だった。
冒険者ギルド、職人ギルド、商人ギルド。
数多ある小ギルドの全てを束ねるこの3つは、この世界においてもはや国家に等しい存在だ。
もちろん所在地の国内法は遵守するもののその行動方針は国家からは完全に独立しているし、ギルドが決めた内容は世界共通のルールになる。
ネクタでさえ、ノクチでの取引は商人ギルド所属の商人たちとある程度は折り合いをつけているわけであり、この世界でその影響を一切受けない場所など、完全に無人の『死大陸』くらいしか存在しないのだ。
そして、それに並ぶ大ギルドの最後の1つ。
それこそが、娼人ギルドだった。
そもそも、この世界で売春は合法だ。
俺自身は現代の日本人ということもありどうしても違和感が否めないのだが、王都やラルクスなどある程度の規模の都市には漏れなく娼館街がある。
そして意外なことに、その街並みは普通のそれよりも明るく清潔で何より華やかだった。
歓楽街特有の喧騒や暗い影とは無縁の朗らかな空気は不健全ではありながらも不健康さは一切感じさせないし、必然、訪れる人間の表情や行動にも後ろ暗いものは一切ない。
娼館の護衛として娼人ギルドに雇われた数人の高位魔導士が目を光らせているその通りの治安は、都市の顔たる中央区画並みに保たれていた。
当然、この在り様は社会の……。
つまり、「売る側」と「買う側」の意識によるものが非常に大きい。
まず、売る側である娼婦や男娼たち自身が、非常に堂々としている。
彼ら彼女らの立場を説明する上で対比するべき職業は自由意思のない奴隷ではなく、むしろ俺やアリスと同じ魔導士だ。
確かに娼婦や男娼になるきっかけこそ奴隷からの掬い上げがほとんどではあるものの、魔導士と同じようにその実力に応じて稼ぎが跳ね上がる娼人たちにとって自身の借金の完済はそれほど難しいことではない。
それこそ、トップクラスともなれば一夜で決戦級魔導士を雇うくらいの金額を稼ぎ出せてしまう。
金がないから体を売っている、というのは、この世界の娼人たちには当てはまらないのだ。
また、その地位に昇るには魔力と同じく天から与えられた美貌という才能が必要になるものの、彼ら彼女らはそれに胡坐をかかずに努力もしている。
美容整形という概念のないこの世界においてその体型や肌の艶や筋肉を維持するために、娼人たちがどれだけストイックな生活を送っているかなどおそらく大多数の人間は知る機会もないだろう。
それは、知識の面でも当てはまる。
現世で経済界のトップの話相手を務める高級クラブのホステスたちが経済新聞を熟読し日々のニュースを必ずチェックしているように、この世界の娼人たちも勉強を怠らない。
一夜の遊びにポンと金貨を積める相手を虜にするには、技術の他にそれ相応の教養が必要だからだ。
この世界において、賢者とは高位魔導士のことではない。
それはベテランの娼婦であり、最上位の男娼だった。
そんな存在が疎まれ、蔑まれる理由などあるはずがない。
娼婦や男娼になりたいと憧れる人間がどれほどいるかは、また別の問題になるとしても、しかし。
彼ら彼女らは周囲の市民から一目を置かれ、そして愛されるべき偶像として接されていた。
一方で、この世界の社会が一夫多妻制を認めているというのも娼館街を語る上での大きなファクターだ。
上位者とは、魔力に優れた高位魔導士のこと。
国力とは、そんな高位魔導士たちの質と数。
それが絶対であるこの世界において、一夫多妻を認めていないのはネクタだけである。
尚、サリガシアに至っては多夫多妻というわけのわからない家族形態まであるらしいが……。
いずれにせよ、アーネル王国でもチョーカ帝国でもこの考え方は広く認められていた。
要するに、2人以上と恋愛が成り立つとされているこの世界において……。
妻から見ても、優れた女魔導士の夫からしても、娼婦や男娼たちを買うことはあくまでも遊びの1つであり決して浮気ではないのだ。
売る側と買う側のニーズが完全に一致した結果、むしろこの世界で娼館街に出入りすることは上位者のステータスの1つとして捉えられていた。
ただし、これはあくまでもこの社会の一般論に過ぎない。
日本人だった俺は一夫多妻に嫌悪しか抱けないし、森人であるアリスもそれは同じだ。
2人目以降の妻など必要ないし、お互い以外に心も体も許さない。
この世界では少数派であるこの価値観の共有によって、俺もアリスも娼館街を歩くことなど永遠にないはずだった。
「……そう言えば、ウォルポートに娼館は建てないんですか?
人も結構集まるようになってきましたし、そろそろ必要だと思うんですけど」
「「!?」」
「「……」」
「そう言われれば、そうですね……。
娼人ギルドとの相談になりますが、最低でもCクラスの店くらいは必要かもしれませんわー」
「……そう、……なのか?」
「……」
しかし、意外なことにその均衡を破ったのはそんな俺とアリスに最も近しいはずの子供たちだった。
先週の定例会でアンゼリカが何気なさそうに挙げた一言に、サーヴェラやロザリアたちが特に反発せず。
さらにはウォルの子供たちを教え導く「先生」のミレイユも同調したことに、俺とアリスだけが子供のように動揺していた。
結局、俺が先に述べたようなこの世界での娼館の存在意義や娼人たちの実態を知ったのはその日の夜、アリスと並んでミレイユから講義を受けてからだ。
「人間は年中発情する生き物なのですから、合法的に性欲を発散できる場所はある程度の大きさの町には必ず必要です。
……何より酔客と住人の間でのトラブルを未然に防ぐためにも、そういった場所の設置を考えるのは領主として当然の務めですわー」
「……なるほど」
「……わかった」
そう、効率論も交えていつもの笑顔で授業を結んだミレイユの言葉に、俺とアリスは素直に反省した。
ここは、現世の日本ではない。
ここは、ネクタ大陸ではない。
世界の悪習は変えるべきだが、何が悪なのかを先入観だけで決めつけてはならない。
目で見て耳で聞いてから、公平に判断しなければならない。
アリスとミレイユと、その後夜通し話し合った結果。
俺は王都の娼人ギルドの支部を訪ね、視察として娼館の実物や娼婦たち本人の話も確かめに行くこととなったのだった。
「……」
「……」
そうして王都の娼館街を歩いてきたのが、今日の夕方のことだ。
一言で言えばそこは非常に清潔で……、そして普通の場所だった。
江戸時代の遊郭のような毒々しさを勝手に想像していたものの、その街並みは本当にただただ普通だ。
というよりも冷静に、論理的に考えてみれば不潔な場所よりは清潔な場所の方がリピーターがつくのは当然のことなわけで、そういった部分でも俺には勝手な思い込みがあったのだろう。
また、懸念していた娼婦たちの格好もミレイユを見慣れた今となってはそれほど気にならなかった。
……まぁ、子供たちが娼婦を見ても騒がないのが先生で慣れているから、というのはどうかとも思うのだが。
「……」
「……」
……あたたかい湯気に満ちている風呂場のはずなのに、凍えてしまいそうだ。
「……」
「……」
娼人ギルド、アーネル支部長のストーンに案内されたBクラスの娼館の部屋も、それぞれに浴室がある以外は大きめの宿屋の内装と特に変わりはなかった。
『傾軍姫』、齢40にして現役のAクラス娼婦でもあるストーンの言葉によれば……シーツや調度品には一級品ばかりが使われていたらしいが、そういったものにあまり興味がない俺にはよくわからない。
娼館もクラス、すなわち相手をする娼人のクラスに応じてピンキリらしいが、基本的にはほぼ同じ構造ということなので視察自体は早々に終了した。
ただ、俺が閉口したのは部屋に沁みついた香水と化粧品、酒と煙草の臭いだ。
室内で不特定多数の男女が度重なる逢瀬を異常に短い間隔で繰り返し続けた結果、念入りな清掃がされているにもかかわらず部屋の中にはそうしたものの臭いがこびりついている。
ストーンいわく稀に室内で媚薬や幻覚剤の類を焚くこともあるそうで、これだけはどうしようもないらしかった。
「……」
「……」
……久しぶりに、アリスとの無言が辛い。
「……」
「……」
仕事や日々の暮らしについて話を聞いた娼婦や男娼たちも、肩透かしを食らったように普通の人々だった。
自分の力を磨き、自分の仕事に誇りを持ち、適正な報酬を得て、税金の額に愚痴を言う。
日々の楽しさや大変さを語り、笑顔で将来の夢を語る彼ら彼女らに……心のどこかで蔑みの感情を持っていた自身の勝手な価値観を、俺は心中で反省した。
むしろ、努力という部分では明らかに娼人たちの方が正道で、その心の律し方に限れば見習うべきだとさえ思った。
娼館の視察という、日本なら大問題になるであろう俺のその日1日は、こうしてクリーンに幕を閉じるはずだった。
「……」
「……」
……閉じる、はずだった。
「……」
「……」
ただ、俺はわかっていなかった。
いや、より正確に言えばあまりに無知だった。
超一流の人間を相手にする超一流の娼人を抱くのが上位者のステータスならば、逆に超一流の娼人たちにとってもそういった客を堕とす事はステータスだということを。
自分の力を磨き、自分の仕事に誇りを持ち、頂点を目指し続けるハングリーさを持つ娼婦たちにとって、『魔王』とは魅力という自身の強さを試すための格好の標的だったということを。
……俺は、全く予想できていなかった。
結果、手を握られること7回。
寄りかかられること2回、顔を触られること1回。
マントを掴まれること1回、カティをズボンにこぼされること2回。
抱き着かれること正面から3回、背後から2回。
そして、キスされそうになること11回……。
娼婦や男娼の振舞いとはこういうものなのかと全てを適当にいなしていたのだが、間抜けなことに俺がその真実に気がついたのは……。
「一応は、私も含めて全員がAクラスだったのですれど……。
……『至座の月光』様は随分と恐い御方なのですね?」
娼人ギルドの支部長室に戻ってから、ストーンにそう苦笑されたときだった。
同時に、自分の体が香水やら化粧品やらの甘ったるい臭いにまみれていることにそこで初めて思い至って、俺は全身の血の気が引いた。
そこからの記憶は、やけに鮮明だ。
ストーンからの夕食の誘いを辞去して逃げるように娼館街から出た後、すぐに公衆浴場に飛び込み。
別売りの石鹸を買って念入りに体を洗い、さらに従業員にチップをはずんで念入りに体を洗ってもらい。
脱衣場で、生地が傷むのを無視して99度の熱湯の中で服とマントを2回洗濯し。
それでも臭いが消えていない気がして、リーカンに転移してからシズイが来るまでに物影で2回「シャワー」をくぐり……。
「……」
「……」
「……」
「……」
……そして、今に至るのだ。
「……ソーマ、お風呂に入ろう?」
「……はい」
腕の中から俺の瞳を見上げるアリスの平坦な声に俺が掠れる声で返事をしたのは、今から20分ほど前のことだ。
今日の朝も2人で楽しく入った浴槽にお湯を満たした後、俺はアリスから洗い場のイスに座るように促された。
「……」
「……」
それからずっと、アリスは俺の体を洗い続けている。
まるで何かの職人であるかのような真剣な表情を浮かべて、泡立てた石鹸を含ませた布で1ミリの隙間もなく皮膚を摩擦する……。
それはもはや「背中を流す」などという親愛に満ちた行為ではなく、工業的な「洗浄」と呼ぶべきものだった。
一方の俺も、アリスの真剣さが伝染して何も言葉を発せずにいる。
……アリスが背中のみならず全身を流してくれている。
普段ならそこから何通りにも派生する甘い想像が、今の俺には一切できない。
無用の騒動を避けたいと完全に隠滅したはずの臭いを簡単に看破したアリスの嗅覚、おそらくは「女の勘」と称されるべきそれへの戦慄をどこか遠いところから見つめながら……。
背中からイスを伝い布からアリスの肘を伝って木張りの床を排水溝へと流れていく白い泡を眺めながら、俺はただただ背筋を伸ばし続ける。
ずっと……無表情で無言のままのアリスの心中を、全身全霊で想像する。
「……」
「……」
自身の信条としては不本意ではあるものの、夫が娼館を視察することに私は同意した。
が、帰ってきた彼は体から他の女の臭いを漂わせ、しかもそれには隠滅しようとした形跡があった。
それを指摘すると、彼は完全に固まった。
おそらく彼はこれから身の潔白を主張するのだろうが、……それは本当だろうか?
……こんな、ところだろうか。
「…………マ」
「……」
論理的に考えれば、証明の手段自体は決して難しくはない。
アリスを王都へ連れて行って、ストーンから俺の潔白を証言してもらえればいいだけだ。
実際俺は何もやっていないし、本気の殺意をぶつける『黒衣の虐殺者』を前に嘘をつくだけの胆力は『傾軍姫』にも流石にないだろう。
……ただ、この場においてそれはあまり大きな問題ではない。
「……ーマ」
「……」
大切なのは、アリスの心情だ。
今日1日の俺の行動を振り返ってみれば、いかに無知だったとはいえ俺の行動はあまりに軽率だった。
そして、それを隠し通したままでいようとしたことは、あまりに不誠実だった。
責められるべきは、ここなのだ。
事実がどうだったかではなく、俺がアリスに対してとった姿勢の問題なのだ。
もちろん、俺にはアリスを裏切ったり傷付けたりする意思はない。
それでも、結果として裏切られ傷付けられたとアリスが感じたならば、そこに悪意の有無は関係がないのだ。
……謝ろう。
俺の軽率と不誠実を、謝ろう。
心から誠意をもって、謝ろう。
許してもらえるまで、謝ろう。
裏切り傷付けたことを、謝ろう。
謝ろう、謝ろう、謝ろう、謝ろう……。
「ソーマ!」
「!」
そこで初めて、俺はアリスに瞳を覗き込まれていることに気がついた。
完全に前後不覚になっていた自分の身勝手さに落胆しながら、俺の視線は眼前の緑色に吸い込まれる。
……怒ってる、よな?
「……」
普段なら寸分違わず理解できるアリスの感情が把握できなくなっていることに、俺の心臓が絶望の音を刻む。
初めて出会ったあの夜の……手が届かないと思った、その美しさが遠ざかっていく錯覚に、俺の思考と声帯は凍りつく。
「……終わったから、湯船に入って」
「……ああ」
終わった、という寂しい単語だけが、頭の中で反響していた。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
摂氏38度に保ったあたたかいお湯の中で俺が感じていたのは、しかし、生贄としてエルベ湖に放り込まれたあの冷たさと暗さだった。
「「……」」
その原因は、アリスの座っている位置だろう。
かなり大きめに作っているこの浴槽で、俺とアリスはいつも重ねたスプーンのように同じ方向を向いて……ピタリとくっついてお湯に浸かっている。
自宅で風呂に入るときに俺が感じるあたたかさは、お湯のそれではなくアリスの背中の体温だ。
俺に安らぎを与えるのは、お湯の中で血管が広がる解放感ではなくアリスの後ろ姿と髪の香りだ。
「「……」」
それが今は、感じられない。
先に湯船のいつもの位置にもたれかかっていた俺に対して、アリスは対辺に背中を預けて膝を畳んでいる。
正面から見つめ合っているはずなのに、普段とは違いすぎるその距離に俺は戸惑う。
表情のないアリスの瞳を見つめつつ、必死で声を出そうと力と勇気を振り絞る。
アリス、ごめん。
娼人たちからちょっかいを掛けられるのを俺は止めようとしなかったし、それをお前に隠そうとした。
本当に軽率で、不誠実だった。
もう絶対にやらないから、赦してほしい。
たいして長い文章ではない。
余計な言い訳をする気は一切ないし、客観的に見て正直な内容だと思う。
「「……」」
それでも、俺の喉は氷のように動かない。
これを言ってしまうと、俺とアリスの間の亀裂が……。
今はまだ亀裂で収まっているそれが、決定的に広がってしまう気がするからだ。
……が、だからこそ俺は言うべきなのだ。
このまま黙っていても、亀裂は決して埋まらないのだから。
「……アリ、ス」
「……」
自分の喉では、自分の口ではないようだった。
自分の名前以上に声にしているはずの愛しい3文字が、今はうまく発音できない。
頸椎が軋み、冷たい痺れが首と頬まで広がっていた。
緑色を見つめる視界が、暗く染まる。
……怖い。
こんなに怖いのは、本当に久しぶりだ。
「……その、…………ごめん」
また失うかもしれないというその怖さが、ミシミシと俺の心を圧し潰す。
まるで胃が鉛に、肺が石に変わったようだった。
正直嘔吐してしまいそうなのだが、それすらも内臓が受け付けてくれない。
だが、この場での俺の体調などそれこそどうでもいい問題だ。
大切なのは、言葉だ。
たとえ現状を悪化させてしまうとしても、アリスに示すべき心だ。
「俺は……」
どうにか唇と舌に指示通りの動きをさせようと、必死な俺を見て……。
「……ソーマ、違うから」
しかし、お湯の向こうでアリスはその表情を崩し……。
困ったように、苦笑していた。
「あくまでも娼婦から抱き着かれただけで、やましいことは何もしていない。
でもそれをそのままにさせたのは自分が悪いし、それよりもそれを隠そうとしていたことが……悪かった。
……あなたが言おうとしてるのは、そんなところ?」
「……あ、ああ」
お湯の中を移動してきたアリスは、いつものように俺に背を預けながらそう小さく笑った。
髪が伸びたために湯船の中では布でまとめている頭を俺の胸にもたれさせながら、背後を見上げる右目には……呆れたような、苛立ったような、面白がっているような……。
そんな、色々な感情が混ざり合っている。
俺は混乱を覚えながらも、何よりもそれを読み取れることに安堵していた。
「でも、私が怒ってるのはそういうことにじゃない」
「……」
が、スッと細くなったアリスの瞳が、そんな弛緩した俺の心に釘を刺す。
その中で苛立ちの光が明らかに増したのを視認しながら、俺はアリスの瞳の中に映る自分の必死な顔を見つめていた。
アリスは、娼館でのことを怒っているわけではない。
それを隠そうとしたことも、大目に見てくれるらしい。
何故なのか……俺自身が理解できないが、とにかく俺の軽率と不誠実はアリスにとって怒りの対象ではないらしい。
ただし、それとは別のことには怒っている。
「……わからない?」
「……????」
……わからなかった。
無言のまま目を泳がせ続ける俺の態度に業を煮やしたらしく、アリスの眉間には不機嫌そうな皺が寄る。
それでも変わらず美しい顔は俺を正面から見据え、そして小さく溜息をついた。
数十センチを空けて俺と正対したアリスは、自分の白い肩に右手でお湯をかけながら頬を膨らませる。
「ソーマ……、あなたは私よりずっと頭がいいけれど、すごく根本的なことをわかっていないときがある」
「……」
水面で揺れる自分の右手に視線を落としたアリスは、真顔に戻って俺の瞳を射すくめた。
深い深い森の奥の、大樹の葉の色。
研磨に研磨を重ねた、エメラルドの澄み切った緑色。
俺の心を簡単に拘縛するアリスの瞳が、凛とした光を放つ。
「私が怒っているのは、あなたが『私が怒る』と思っていたこと」
「……?」
初めて出会ったときと変わらないその美しさは、白い湯気の中で少しだけやわらかくなった。
禅問答のような解答にポカンとする俺の顔を見て、アリスはまた小さく笑う。
「あなたが娼館街に行くことは私も賛成したし、そこで……ちょっとしたトラブルがあったとしてもそれはあなたが意図したものじゃない。
……だいたい、あなたは私との約束を破るようなことはしないでしょう?」
「……まぁ、…………確かに」
「だったら、私はそんなことにいちいち目くじらを立てたりはしないし、小言を言うつもりもない。
さっき私が怒ったのは、あなたがそれをわかっていなかったから。
……確かに私は森人だけど、そこまで狭量なつもりはない。
大した意味のない質問に、そんなにあからさまに怯えた顔をしないで」
「……」
そう諭すアリスを前に、しかし俺は完全に混乱していた。
アリスが怒ったのは、俺が「アリスが怒る」と思っていたことに対してであって、……それ以外のことは一切気にしていない。
俺が娼婦に抱き着かれたことにも、いちいち口を挟むつもりはない。
……つまり、アリスは俺のことを全面的に信頼しているということになる。
娼館から帰ってきて自分以外の女の臭いを隠そうとしていた俺に、微塵も疑いを抱いていないと宣言していることになる。
だが、そんな信頼が夫婦間で、男女間で本当に成立するのか?
「……なら逆に、私が誰か他の男の人と腕を組んで歩いているところを想像できる?
あなた以外の男の人の腕の中で私が笑っているところを、想像できる?」
「ないだろ」
「そうでしょ?」
お湯の中で混乱を深めていた俺は、しかしアリスの出した反証には即答することができた。
感情的なものではない。
ただ単純に、アリスがそんなことをするはずがないと脊髄反射で結論付けただけだ。
ただの事実であり、真実だ。
それに同意したアリスは、また俺に背をもたせかけていた。
確かな重みとやわらかさ、そしてお湯のそれとは違うあたたかさ。
深い森の中にいるように清々しい、仄かに甘い香り。
やはり反射的に、離さないようにとアリスのお腹に回した俺の腕を、アリスはしっかりと握ってくれる。
「あなたが私のことを心から信頼してくれているように、私もあなたのことを心から信頼している……。
ただ、それだけのこと。
……どうしてあなたは私のことならすぐ納得できるのに、あなたへの私の想いを信じられないの?」
溜息混じりのアリスは呆れたように、だがどこか嬉しそうに俺の混乱を笑う。
向き直り、再度俺の瞳を見つめる緑色の瞳は、優しく気高い光を灯していた。
「ソーマ……、私はもう決めてるの。
あなたがどれだけ多くの人を殺して、どれだけ町を潰して、どれだけ嘘をついて、どれだけ傷だらけになったとしても……。
私は、あなたの隣にいると決めてるの。
あなたが私の夢を共に叶えようとしてくれているように、私はあなたの幸せのために生きていきたいの。
何があっても、私だけはあなたの味方でいるの。
フォーリアルの前であなたと共に生きると誓う前から……、あなたと初めて出会った夜に、私はもう……そう誓ったの」
「……!」
俺は圧倒されていた。
俺の腕の中で少し照れたように、だけど嬉しそうに。
そして誇らしそうに、当然のことのようにそう言いきったアリスの笑顔に、心臓が蒸発しそうだった。
それは心を満たして尚、溢れそうになる歓喜だった。
共に歩み、闘い、守り、想い、愛し、そして共に生きる。
そう誓ったあの日よりもずっと前から俺に捧げられていた、アリスの全身全霊の愛だった。
「……ごめん」
軽率なのか、不誠実なのか、アリスの信頼を疑ったことなのか、その愛に気づかなかったことなのか。
これがそのどれに対しての謝罪なのか、俺もよくわからない。
それでも、その言葉しか思いつかなかった。
その言葉しか、思いつけなかった。
「だから、別に怒ってない。
あなたから他の女の人の匂いがするのは、……少し不愉快だったけど」
目を伏せた俺の顔を、アリスのあたたかい掌が包み込む。
顔を上げた俺の首、自らが念入りに洗ったそこに腕を回しながら、アリスは苦笑いしていた。
「……次からは、気をつける」
「……うん、……ん」
キスをしてくれたアリスを強く抱き締めながら、俺は仄かに甘い森の香りに包まれる。
愛されているという確信が、最愛の人を抱き締める強さを少しだけやわらかくしていた。
……ただアリスの言う「少し不愉快」は、俺の言う「もの凄く不愉快」だったらしい。
ベッドに戻った後、いつになく攻撃的だったアリスに俺は散々好き放題にされて初の完全敗北を喫し……。
「おはよう、ソーマ」
「…………おう」
翌朝、満面の笑みのアリスに起こされる羽目となった。




