ショート・エール 癒されるもの 後編
「何をしてるんだ?」
ただ、この行動の意味を問うだけの声。
感情のないその平坦で、そして冷淡な声で私は我に返った。
反射的に振り向いた先からは、黒いマントに身を包んだ男が歩いてくる。
大きく抉れた地面と、粉々に吹き飛んだ冒険者たちの肉片。
砕かれ、ここまで飛ばされてきたらしい砦の石材と、その下敷きになって1枚の布に戻ったテント。
血と肉、鉄と骨、石と土。
来るときに見上げた高く、堅牢だった石の城塞壁の一部。
その大きな塊の下敷きになった、アブカルの苦悶の表情。
赤茶色の鎖で繋がれた両手、骨と青い血管の浮いた手首、握りしめた両掌、血が通わずに白く変わった爪。
……その中で震える、少し刀身の歪んだナイフ。
目の前の地面がいきなり爆発して吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた痛み。
背骨と筋肉の間に何かが詰まっているようなその衝撃の余韻と、何か硬いものにぶつけたらしい脇腹の鈍痛と熱。
そしてナイフの柄、気が付いたときに目の前で砂埃をかぶっていた、それを握り締め続けていた10本の指の痺れ。
断片的にしか残らない記憶と、痛み。
死にそうなアブカルと、殺そうとしている私。
「何をしてるんだ?」
だけど、そんなことにはまるで興味がないように。
目の前の人殺しの光景が本当にどうでもいいことでもあるかのように、私の隣で立ち止まった男は淡々と問いを重ねた。
若い。
成人はしているけれど、20には届いていないだろう。
黒い髪に、黒い瞳。
安物らしい黒のマントの中は、これも普段着のような黒い上下に黒革のブーツ。
ベルトも、何故か右手にだけはめている手袋も黒。
左右の腰に2つ下げているポーチだけが、白だった。
体つきを見る限りでは、そう鍛えてはいない。
そして信じ難いことに、この男は戦場に立ち入りながら武器らしい武器を何1つとして持っていなかった。
見る限りでは杖や指輪、首飾りなどの魔導士がよくするような装備も、それどころか一切の防具すらも身に着けていない。
「……!!!!」
だけど、隣に立たれた瞬間に私は理解した。
……この男は。
アブカルはもちろん一流の騎士や冒険者、二つ名を付けられるような高位魔導士が足元にも及ばないくらいの、化け物だ。
冥いまでに深く、そして凍てつくように冷たい魔力。
全身に走る悪寒と、胃を握り潰されそうな圧迫感が。
詠唱もしていないこの魔導士から、おそらく無意識に流れ出しているそれによるものだと気が付いた私は、ただ絶望することしかできなかった。
「た……す、けて、くれ……」
息を飲むことすらできない私の足元で、アブカルが弱々しく呻く。
殺人未遂。
奴隷の反逆。
斬首。
王国側の傭兵。
男。
超高位魔導士
無数に思い浮かんだそれらの単語が、私の視界を滲ませた。
……もう、アブカルを殺す事はできない。
元々殺したところでどうなるものでもなかったのだけれど、いずれにせよもうそんなことを考える必要もない。
私は、終わった。
私は、……死ぬ。
全身を襲う痛みと、熱をもってドクドクと響きだした脇腹。
そして、その全てを凍らせるほどに冷えきった魔力の中で、私は自分の現状を理解した。
……でも。
だからこそ。
私は、最後に残った力を振り絞り。
男の、黒い瞳を見つめる。
「どういう状況なんだ?」
私は、死ぬ。
だけど、せめて奴隷ではなく人間として死にたい。
「そいつ、は俺たちの、ど……れい。
俺を、殺そうと、してる……。
つかまえ、てくれ」
「そうなのか?」
私を、穢しに穢したアブカルを殺して。
最期は、人間として死にたい。
そう決意して覚悟を決めた私は、ナイフを握ったままの全身に力を入れた。
何故かこれまでの人生で目にしてきた光景が一気に蘇り、涙に変わる。
私は充分に、……頑張った。
……だから、お願いします。
「止めないで……ください」
文字通りの、決死の言葉。
「止めるつもりはないが?」
「「!?」」
だけど、その一言を。
黒衣の魔導士は、心の底からどうでもよさそうに肯定した。
「俺はアーネル軍の盟軍だ。
この砦の破壊を実行した者でもある」
好奇、欲望、嫌悪、憐憫……。
多くの人間が性奴を、私を見たときに宿す感情。
だけど、そのときになって。
たった1人でクロタンテを破壊した、とその魔導士がどこか退屈そうに告げたそのときになってようやく、私はそのどれもがその黒い瞳には映っていないことに気が付いていた。
「ここには非戦闘員の生存者の救出のために来た。
……殺したいなら、さっさと殺せ。
その後、お前を救護隊の所へ連れていくから」
その黒い、夜に深い湖の底を覗き込んだような。
そんな色の瞳に映る感情は、単純な苛立ちだ。
この魔導士は、私のしようとしていることを本当に何とも思っていない。
私の過去にも現在にも、興味がない。
殺人犯だろうが奴隷だろうが、どうでもいい。
本心から、そうとしか見ていない。
「……ま、まって」
「俺に、あんたを救助する意思も義務もない。
この後、アーネル軍の索敵隊がこっちにも来るだろう。
そのときまで生きていれば、助かるかもな?」
アブカルに至っては、もはや完全に意識の外だ。
周囲に無数に転がっている死体や砦の破片、あるいは景色。
自分は無関係だし、むしろさっさと死ね。
そんな、人間失格な感情すら言外に伝わってくる。
そこに一切の、本当に一切の躊躇も自己嫌悪もないことが、ひどく恐ろしい。
髄まで凍てつき、決して融けることのない氷。
揺れず惑わず、ただ結果だけを受け入れる魔法。
冷たい、魔法。
目の前に立つ男の異質さは、魔導士の……。
……いや、もはや人間の枠を完全に踏み越えていた。
「殺さないなら、お前をこのまま連れていく。
どうするんだ?」
だけど、自分でも意外なことに。
私の心にはそれに対する忌避や嫌悪、恐怖よりも強く、別の感情が湧き上がっていた。
「……」
騎士を、冒険者を、砦を、軍を。
おそらく本当に1人きりで蹴散らし、容赦なく滅ぼせるのであろうその力。
そして、それを表情1つ変えずに振るう覚悟。
世界を壊し。
変えられる、強さ。
「……私は、どうなるんですか?」
それは、狂おしいまでの憧れだった。
汗と涙、血と胃液と精液にまみれながら、私がずっと渇望していた力だった。
数分前にようやくたどり着き、死を意識して初めて両手に握ることができた覚悟だった。
私が欲しくて、欲しくて。
欲しくてたまらなかった強さだった。
生きたい。
助かりたい。
幸せになりたい。
そして。
こんな世界を変えてほしい。
それはひたすらに渇いた、だけど純粋な願いだった。
「……俺とパートナーに払い下げられることになると思う。
パートナーは森人の女だし、俺もお前を側に置くつもりはないから、とりあえずその部分は安心してくれていい。
その後のお前の処遇はまだ決めていないが、その男を刺したからといってそれを罪に問うつもりもない。
チョーカ側から降伏の合図がなされていない以上、今はまだ戦闘中でもあるんだしな」
幸いに、何か思い当たる節があったらしい。
おそらくは何らかの妥協と共に告げられたその言葉に、私はただ歓喜した。
嘘ではない。
感情を量りきれない凍てついた瞳の色は、それでも真摯な光沢を宿している。
そして、同時に。
私は助かる。
それがわかった瞬間に、あれほど燃え上がっていたアブカルへの殺意は幻のように霧散してしまっていた。
やや呆然としながらも、保身に走った自分の弱さを心のどこかで把握する。
その程度の覚悟だったのか、と。
そして、「その程度」だったことに安堵している自分の弱さが、……悔しい。
「そういうわけだから、殺すのか殺さないのか早く決めてくれ。
俺は、別にどっちでもいいから」
そんな中でも、魔導士様の声は最初から変わらないままの平坦さだった。
全身から力が抜けてしまった私は、もうその場に立っていられなくなる。
マントに包まれ、もう重さすら感じていなかった枷を外され。
……抱きかかえられて、そこでようやく。
それでも終わったのだ、という実感に。
私の感情は、決壊した。
「アンゼリカ、ちょっといいか?」
「……はい!」
ダイヤからの告白を断った後。
少し時間をおいてから居住区に戻ると、私を待っていたらしいソーマ様から声をかけられた。
すぐに返事をして駆け寄っていくと、背を向けたソーマ様はご自宅の方へ歩いていかれる。
割と重要なお話、ということなのだろう。
黒いマントの横を歩きながら、頭の中で前回の定例会で出た課題、現時点での村の中の状況、各班から上がってきている報告を手早く整理していく。
水の大精霊。
あの後、アリス様の救護を受けながら明かされたソーマ様の正体を、私はすぐに信じることができた。
傍らに強大な水の上位精霊が控えていたことと、奴隷に過ぎない私を関係者として、まるで貴重品でもあるかのように丁重に接する騎士隊の態度。
何より、あらためて見たクロタンテ「跡地」の全景が、私から一切の疑いを排除していた。
そして。
ソーマ様は、私の想像をはるかに超えて世界の在り様を変革された。
魔人である、先生。
水竜のシズイと、火竜のサラスナ。
サーヴェラたち、帝国の採掘集落民。
ウォル。
必要なものを得るためにソーマ様は手段を選ばず、一切の手心も加えられなかった。
不落の要塞を消し飛ばした一撃。
大荒野を押し流した極大の波濤。
合わせて4万もの命をたった1人で殲滅し、『魔王』としてこの大陸の現在を嗤いながら消し飛ばされた。
冷酷にして、冷徹。
容赦なく、無慈悲。
畏怖と恐怖の視線に晒されながらも、ソーマ様はご自身が発する言葉と行動の意味を理解し。
その結果を覚悟できる、絶対の強さをお持ちになっていた。
……ただ。
同時にソーマ様は……それこそ、私が思っていた以上に。
優しい人、でもあったことを。
時間をかけて、私は知ることになった。
居住区のはずれにある、ソーマ様とアリス様の家。
そのリビングに通されて私に着席を促した後、ソーマ様はそのまま炊事場の方へ向かわれた。
木と、水と、……アリス様の、匂いがする。
「ストレートでよかったよな?」
「大丈夫ですけど、どうぞ……お構いなく」
そうおっしゃりながら、数十秒で戻ってこられたその右手にはあたたかいカティを満たしたポットと、左手に木製のカップを2つ。
熱過ぎずぬる過ぎない絶秒な温度のカティは、扉に背を向けて座った私とそれに対したソーマ様の間に、甘く落ち着いた香りの湯気を揺らめかせていた。
そのテーブルの上に載せられる、紙の束。
「実は、お前を雇いたいという話が来ていてな」
「……どこからですか?」
「水天宮」
その一番上、一口だけカップを傾けてから私の前に差し出された封書。
基本的に無駄な話をしないソーマ様が示されたその青い封印の紋章が、アーネル王家のものであることに気付いてから、そういえばそれがこの国の王城の名前だったと、私は無感動に思い出していた。
「宮廷魔導士として、近衛に入ってほしいんだとよ」
ユーチカらしい……と小さく唇を動かしたソーマ様は、そのまま残りの束を私の方へ押し出される。
「これは冒険者ギルドからで、正式に職員として働かないかと。
修業したラルクスでも王都でもリーカンでも、勤務地は希望できるらしいぞ。
で、こっちは商人ギルドだな。
王都の事務所で、見習いの会計士兼治療士としてどうか……。
イラ商会からも来てるぞ。
ウォルポートの当会出張所なら、生活面においても大きな負担にならないと思いますがいかがでしょうか……か。
……それから参考までに、チョーカからも来てるから」
手袋に包まれた右手、その黒い人差指で次々と封書の文面をなぞるソーマ様は口元に性格の……あまり良くない、俗に『魔王の微笑み』と呼ばれている表情を浮かべられている。
赤や黒の蝋印が解かれた封書は、結局全部で7通もあった。
そこに書かれた丁寧で、慇懃で、若干恩着せがましい……。
だけどどこか緊張しているような文字列が、無機質に私の瞳の表面を滑っていく。
「……」
命属性魔導士。
ソーマ様の血によって与えられた私のこの肩書が極めて珍しく、世界各国の各組織が喉から手が出るほど欲しい力であることは、ソーマ様ご自身やアリス様、先生、それに修業先のラルクスでも何度も教わっている。
ついでに言っておけば、上位精霊との契約こそしていないものの、私は魔力だけなら命属性魔導士としては世界で11位らしい。
ウォルに戻る際はエバ支部長から強く慰留されたし、何人もの冒険者や市民から数え切れないほどの感謝の言葉を捧げられていた。
水天宮、冒険者ギルド、商人ギルド、イラ商会……。
仮にこの封書のどれに応えても、私は今後一生を何不自由なく暮らしていくことができるはずだ。
第一、王城やギルドからの登用とは、実質的には徴集を意味する。
普通に考えれば、断れない。
国家やギルドの命令に逆らって生きていくというのは、それなりに難しいことだろう。
……だけど。
「どうする?」
「断っても、いいんですか?」
「ああ」
その国家やギルドを何とも思っていないソーマ様は、私の意思を一言で肯定された後にあっさりとそれらを片づけ始めた。
テーブルに落としたその視線には、困ったような感情は欠片も浮かんでいない。
国家、ギルド、……世界。
そういったものがソーマ様の目にどう映っているのかは、用済みになった封書の上に肘を立てて頬杖を突かれたその姿勢が、よく表していた。
「……申し訳ありません」
「別にいいさ」
もちろん、私がこの稀有な力を授かったのは。
どころか、今私が生きていられるのは全てソーマ様のご温情だということを、私は理解している。
だからソーマ様がお命じになるなら、私の職場が水天宮でもギルドでも文句はない。
性奴だった頃は何の関心も示されなかった王城やギルドのために働くことに、どうしても前向きになれない。
そんな私の内心など、ソーマ様のご意向と比べる必要もない。
「まぁ、貴重な才能であることは事実だが、どう使っていくかはお前の自由だからな。
一応こういう道もある、というだけの話だ」
だけど、ソーマ様はそんなことをなさらないだろう、ということも。
また疑う必要のない、事実だった。
ウォルで暮らし始めてしばらくして私は、ソーマ様がただ冷酷なだけの方ではなかったということを知った。
例えばクロタンテでのあの戦いは虐殺が目的だったのではなく、その戦力の誇示が本当の目的だったのだと思う。
個人で城塞を粉砕する能力があり、そしてそれを平然と実行する覚悟がある。
敵である帝国と味方である王国への強烈な意思表示は、結果として、その後の全軍の激突における王国側の犠牲者をゼロにすることに繋がった。
そのカイラン大荒野でのあの大波も、同様に見せしめだったのだろう。
一瞬で、そして圧倒的な決着をつけることで、200年も続いていた南北戦争はすんなりと終結した。
もちろん今後ウォルを挟んで両国が開戦することも、あり得ない。
敵味方を問わず自分に反逆することの愚を、ソーマ様が『黒衣の虐殺者』としてあえてお示しになったことで。
……この大陸でママーロのように戦禍を被る人間は、もう1人もいなくなったのだ。
合わせて300人以上の盗賊を討伐されたことも、同じことが言える。
Bクラス以上の魔導士、それこそ今の私やサーヴェラならそれほど難しくないように見えるこの功績も、これが7つの盗賊団でしかもそれぞれのアジトを順番に壊滅させていったとなると話のレベルは違ってくる。
互いの仁義にだけは厚いとされる赤字の口を簡単に割らせる残酷さと、罠や抜け道が満載であろうアジトから1人の逃亡者も出さずに完全制圧する手腕。
現場の確認に行った騎士の内数名が翌日に病気除隊を申し出るほどの光景だったらしいその地獄は、しかしアーネル王国内の特に南部、ましてやウォルで犯罪行為に走った末の運命を明確に予言していた。
よってカーラの事件を除けば、私が把握する限りでは置引や傷害事件すらウォルでは起きていない。
人口が増えて酔客も増えたウォルポートの夜でさえ、薄着の女が1人で浴場まで行くのに不安がない。
アブカルに連れられて都市の暗部を嫌というほど見てきた私からすれば夢物語かというような治安状態が、『魔王領』ではいまだ保たれていた。
良い面と、悪い面。
勝ちと、負け。
銀貨の表と、裏。
相反するはずのそれらの出来事が、ソーマ様のお姿を通すとまるで透かしたように重なって見えてくる。
それは、ウォルポートにしても。
そして、ソーマ様ご自身にしてもだ。
「他の人間にできないことが、お前にはできる。
それだけの力と強さが、今のお前にはある。
色々な生き方を、考えてみるんだ」
「……はい」
道は用意してやる。
だが、これはあくまでも取引だし、一方的に助けてやるつもりもない。
これからどう生きるかを自分で考えて、自分で決めろ。
サーヴェラたちも言われたというこのソーマ様のお言葉に、嘘はなかった。
ウォルポート。
私がラルクスで修業している間に着工が始まり、今では宿泊客の大半もこちらで泊まるようになったこの港町は、アーネルとチョーカ、そして海の向こうのネクタ大陸との交易の拠点として凄まじい勢いで拡大を続けている。
船が着いた後での港での船体操作と、荷運びとその管理。
船を修繕する職人に、それに使う部品を造る職人に、それらの職人が使う工具を造る職人。
討伐した魔物や、近海で獲った魚を解体して加工する職人。
船員や冒険者が疲れを癒す宿屋や食堂、酒場。
その経営者に、提供される料理を作る料理人に、塩漬けやチーズ、お酒を造る職人。
服や装備品を扱う商店に、布や金属からそれらを造る職人。
それらに必要なものを各都市から運び、売り買いする商人。
それに関する職人と、その工房。
そうした人間たちを束ねる商店に商会、ギルドの事務所。
そして、それを護衛する騎士や冒険者。
人口の増加と共に多種多様に開業した商店や工房、事務所の全ては、私たちウォルの住民が社会復帰するまでの、その修業の場としての役割も与えられていた。
実際、既に成人していた住民たちのほとんどが今はウォルポートで働いている。
ミルスカが営む『金色の雲』などでそれぞれの仕事を修めるべく頑張っている大人たちは、3年間の猶予期間の後、正式にソーマ様に自身の代金の返済を始めなければならない。
もちろん今の私たちの身分は既に奴隷ではなくなっているけれど、それはあくまでもソーマ様がそれぞれの代金を個人的に貸してくださっているからだ。
成人するまではウォルで学び、班員として働きながら暮らす。
そして、成人後は3年をかけて一人立ちの準備をする。
4年目からはその借金を少しずつ返しながら、正式に市民として生きる。
ウォルポートは、そうやって私たちが市民として暮らす術を身に着けるための修業の場であり、市民として生きる練習の場所でもある。
「まぁ……とは言え、まだしばらくはウォル本体で子供の面倒を見る人間も必要だがな。
特にお前とロザリアはミレイユの両腕みたいなものだし、他の班長たちにももう少し我慢はしてもらうことになるだろうが……」
「……私も、そうさせていただきたいです。
もっと色々なことを勉強したいですし」
本心から私がそう答えると、カップの中身を飲み干してから、そうか、とソーマ様は穏やかに微笑まれた。
公平で厳格で、そして現実的な道。
だけどきっと、とても優しい取引。
世界の下で幸せになれなかった私は、私たちは。
皮肉にも、その世界を破壊したソーマ様のお陰で幸せへの道を歩み始めていた。
冷たい『魔王』か。
あたたかい『水の大精霊』か。
……いや、きっとソーマ様はそのどちらでもあるのだと思う。
……あるいは。
クロタンテで私が見た、あの狂気は。
本来の優しさを凍てつかせていらっしゃったから、なのかもしれない。
だとすれば、ソーマ様にこの笑顔を取り戻させたのは……。
「おかえり」
落ち着いた声と共に、ソーマ様は私の背後、分厚い鉄の木の扉へと瞳を向けられた。
ソーマ様がこの言葉を送り……。
「……ただいま」
それにこの言葉を返す事ができるのは、ウォルでもただ1人。
「……?」
アリス様、だけだ。
「進路相談だ」
「……お、お邪魔しています!」
「そう、……ゆっくりしていって」
ここに私がいる理由をソーマ様に問いかけた緑色の視線は、慌てて頭を下げる私にやわらかく頷く。
見ているだけで心が静まっていくようなその澄んだ瞳もまた、とてもあたたかい光を宿していた。
「休憩か?」
「種のストックがなくなったから、取りに来ただけ。
すぐに畑に戻る」
空になっている、ソーマ様のカップ。
テーブルの隣に立ったままごく自然にそれを手に取ったアリス様と短い会話を交わしながら、ソーマ様もごく自然にポットを傾けられる。
カティの甘い香りの湯気を眺めながら、私が今使っているカップはアリス様のものだったのだと、私は理解していた。
「……」
ソーマ様のカップに唇を合わせてゆっくりと喉を動かすアリス様を、ソーマ様は静かに見上げている。
「……」
……穏やかな、優しい瞳。
数々の二つ名と共に恐怖され、畏怖される。
それこそ、クロタンテで私が目にしたような冷たいそれとは明らかに違う、ソーマ様の視線。
そのあたたかく優しい表情は、お2人のご結婚を境に明らかに目にする機会が増えていた。
「アンゼリカ、もし必要なら私やミレイユもいつでも相談相手になるから」
「……あ、ありがとうございます」
ソーマ様にカップを返したアリス様は、奥の棚から出してきた小さな皮袋を片手に、私に優しく微笑まれる。
失礼な話、ある意味では私以上に荒んでいたのかもしれないソーマ様を愛し、そして癒したのであろうアリス様のことを。
クロタンテで生存者を助けるよう、ソーマ様に進言されたのがアリス様だったという部分を別にしても、私は素直に尊敬していた。
美しく。
優しく。
気高く。
愛おしい。
……やっぱり敵わないよなぁ、とも思う。
「……じゃあ、また後で」
「ん、いってらっしゃい」
そのまま振り返ってソーマ様と言葉を交わし、太陽が高い外へと出て行くアリス様。
白い日差しの中に消えていく青い後ろ姿を、私とソーマ様は座ったままで見送った。
わざわざ振り返って、確認するまでもない。
ソーマ様の黒い瞳にも同じような優しい笑みが浮かんでいることを、私は背中で把握していた。
「……私も、そろそろ戻ってよろしいでしょうか?」
一拍を置いて、ソーマ様の方へ向き直る。
実際、そろそろ子供たちの面倒を見に戻らないといけないし、ウォルポートの販水班にお弁当も持っていかないといけない。
今日は会食場を使う予定はなかったはずだから、そのままホズミおじいさんと軽いミーティングをしてきてもいいかもしれない。
「ああ、そうだな。
時間を取らせて、悪かった」
「いえ、……ごちそうさまでした」
あえて、頭の中をこの後やるべきことでいっぱいにしながら、私はイスから立ち上がった。
封書への返事を書かれるらしく、ソーマ様はペンとインク、紙をテーブルの上に広げ始める。
当然のことながら、私は「いってきます」とは言わないし、「いってらっしゃい」ともおっしゃってもらえない。
ウォルで暮らし始め、あれだけ穢されていた……自分が。
どうやらソーマ様に恋をしている、そのことに気が付いたとき。
同時に私は、失恋していた。
アリス様。
私とソーマ様が出会う以前からパートナーだったあの方に、私は決して勝つことができない。
仮に、奴隷や身分のことを横に置けたとしても、ソーマ様があの方よりも私を愛されることは絶対に……ない。
なぜなら、ソーマ様がアリス様へ向けられる瞳には、私がソーマ様を見つめるのと同じ。
強い憧れが、宿っていたからだ。
そして、それはアリス様がソーマ様を見つめる、あの優しくて静かな眼差しにも表れていた。
私自身も感じたからこそ、その想いがどれほど強いのかがわかる。
……そんなお2人の間に割って入ろうと思えるほど、私は恩知らずでも身の程知らずでもない。
何より、ソーマ様が求められる幸せを……。
きっと、私ではお与えすることができないだろう。
だから、これからの道。
私を鎖から解き放ち、ほぼ無限に広がったそれを示してくださった、冷たくも優しいソーマ様。
私に恋をされることはなくとも、愛してはくださっている私の王様。
せめてこの後の私の人生は、この方の未来のために捧げたいと思う。
この方が守るものを共に守り、そして癒せる存在になりたいと思う。
アンゼリカ=イルフォースの世界は。
もう、こんなにもあたたかく変えていただいたのだから。
「ではソーマ様、……失礼しました」
「ああ」
最後にその黒い瞳、冷たくはないその色を自分の瞳に焼き付けた後。
振り返った私は、眩いウォルの光の中へと踏み出した。
以上、アンゼリカのお話でした。
サーヴェラと同様に、彼女もまた見た目からは想像もつかない内面を秘めていますし、これは他の子供たちも同様です。
彼ら彼女らを救い、愛し、導くのが、ウォルの大人たちが挑んでいるもう1つの闘いですね。




