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クール・エール  作者: 砂押 司
第3部 アリスの家族

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ショート・エール 笑う月光

目を覚ますと、やっぱり私はソーマの腕の中にいた。

家の中の明るさからしてもうすぐ夜明けだろうかと考えながら、私は視線を上にあげる。

起きているときの鋭さや戦闘中の冷徹さとは程遠い、子供のようにあどけない彼の寝顔。

いつものように、私の体を包み込むようにシーツの上から回された彼の腕の重み。


「……」


彼と眠って、私が先に起きた場合。

ほぼ確実にこの姿勢で目が覚めることに気が付いたのは、ウォルで共に暮らし始めてすぐだった。

多分意識していなかっただけで、猫足亭で初めて一夜を共にしたときからそうだったのだろう。


まるで、包み込むように。

手から離れてしまわないように。

失わないように。


守ろうとするように。


「……」


正直に言えば、私は彼が自分の過去を話してくれないことに不満を抱いていた。

ささくれのような不信と、小さくて冷たい不安を抱いたことも1度や2度ではない。

私が誰よりも助けてあげたいと思っている彼が、私を頼ってくれないことに苛立ちもした。


……だけど。

カミラギノクチで彼が自身の過去を話してくれた後、私は自分がどれだけ彼のことを理解できていなかったのか、心の底から痛感した。

この腕1つをとってみても、彼がこれまでどれだけの痛みと苦しみをその心に封じ込めていたのかがわかる。

きっとこの腕の重みは、彼が失ったものの重みなのだ。


笑わせてあげたい。

幸せにしてあげたい。


あなたを、助けたい。


「……ん…………?」


私の視線の先で、最愛の夫となったその人の瞳がゆっくりと開く。

凍てついたような黒は、私の瞳を見つけて少しだけあたたかい色に変わった。

どれだけ頑張っても手が届かなかった彼の首に腕を回し、驚いたような、でもすぐに幸せそうな微笑みを浮かべた彼に私も同じ表情を返す。


それが、少しは叶っただろうか。


「おはよう、ソーマ」


今日は結婚式の日から、ちょうど1ヶ月目の朝だった。





「……うぅ」


とは言え、何も悩みがないわけでもない。

湯船で膝を抱え込みながら、私はむしろ結婚したが故の悩みというものに苛まれていた。

例えばそれこそ、このお風呂だ。


ソーマは私と結婚することをウォルの住民に正式に発表してから、居住地から少しだけ離れた場所にこれまで住んでいた長屋タイプの家とは異なる、完全な一軒家を建てた。

彼いわく「3エルディーケー」とかいう間取りだそうで、彼のいた世界では家族が住む家として代表的なものだったらしい。

公衆浴場や共同トイレとは別に、木を削り出して作った家風呂と離れに作った専用のトイレまであった。


ちなみにフォーリアル様……、いや、フォーリアルは小エルベ湖の東岸、ちょうどウォルの森林が始まるところに杖の状態で突き立っている。

本人が屋外を希望してその場所に落ち着いたわけだけど、おそらくは新婚の私たちを気遣ってくれたのであろうことは、当然私もソーマも理解していた。


成人した男女は、互いの同意のもと結婚してもよい。

結婚した夫婦には、これと同じ形の家を与える。

結婚式は年に1回、その年の分をまとめて行う。


ソーマが制定したこの領内法に従って、私たちの家の隣にはサラスナとシズイの家もある。

見た目は完全に子供なのだけれども200年以上夫婦関係にあるということから、ソーマもその資格を認めざるを得なかった。

後は森林班のニアと農業班ランティアを筆頭に、おそらく来年か再来年には結婚しそうなカップルも何組かいる。

来年の結婚式もにぎやかなものになりそうだし、早ければあと数年でウォル産まれの赤ちゃんも誕生するだろう。

もちろん、私と彼の間でも……。


……話がそれた。


要するに、私が今浸かっているこのお風呂なのだけれど、普通に考えれば水汲みから始まるその準備は想像を絶する重労働だ。

この世界には、「スイドウ」なんて便利なものはない。

もちろん、水やお湯を生み出す魔法ならあるけれど、この湯船いっぱいの量を準備するとなれば相当の霊墨イリスが必要になる。

ただ、それもサーヴェラとルーイーのように高位の水属性魔導士 (しかも2人とも上位精霊と契約している)であればそれほど大した手間でもないし……。


「……何、うなってるんだ?」


「……別に」


一緒にお湯に浸かりながら、背後から私の髪に顔を埋めていたこの大精霊からすれば、片手を上げる程度の手間でしかない。


「……まだ、朝」


「……はいはい」


それよりも手間がかかるであろう、私の胸を包みこもうとしていた彼の手の甲をお湯の中でつねると、私の耳の後ろで残念混じりの溜息が聞こえる。

お湯の中で彼の手も残念そうに下がり、そのまま私のお腹に巻き付いた。


……ただ言っておくけれど、残念なのは昨日の夜もあれだけしたい放題しておいて、夜明けからその続きをしようとするあなたの方だ。

夜まで待って、と言っているだけなのだから、そんな悲しそうな顔をしないでほしい。


一緒にお風呂に入る。

彼から提案されたときは全力で難色を示したその行為も、最近はもはや習慣となりつつある。

でも、それ以上の行為が習慣とはならないように、私は必死の抵抗を続けていた。





……ああ、また話がそれた。

まぁ、もう私の悩みを本題から言ってしまえば、あれだけお母さんからしごかれた私の家事スキルを、全く使う機会がないということだった。


料理、洗濯、掃除……。

この中で、私がソーマに勝てるものは1つもない。


料理については、私の貞操と倫理観という高い代償を引き換えに彼から教えを乞う立場だし、ミレイユやロザリアの作るものの味を身をもって知っている以上、私もあえて張り合う気にはなれない。

それに、ウォルを訪れる騎士隊や商隊、住民たちが普段食べているものを正確に把握しておくという意味でも、私たちは食事班が作る食事を食べるようにしていた。

また、ウォルポートが完成してからは色々な都市の商人がウォルを訪れることも頻繁になってきたため、領主であるソーマが会食に臨む回数も少しずつ増えている。


洗濯についても同様だ。

水温を1度単位で調節でき、熱湯に手を突っ込んでも火傷すらせず、「ブンシ」レベルで繊維に着いた汚れを洗い流せる彼に。

……私が語れることは、何もない。

水分を消されて干す必要すらない洗濯物に私ができることは、たたむくらいのことだ。


掃除も以下同文……。

そもそも彼がその気になれば、服を着たまま寝転んでいる自分ごとベッドやシーツを丸洗いすらできるのだ。

基本的に家事というのは、水がつきもの。

その水の支配者であり、かつ遥かに進んだ異世界の技術を知識として知っている彼は、この世界で最強の家事の達人でもあった。


「……うぅ」


「?」


別に私は、家庭において妻が家事の全てをしなければならないと思っているわけではない。

事実、お母さんも休みの日はお父さんに手伝いをしてもらっている。

夫婦間において何が適正かは、その夫婦間で決めるべきことだろう。


ただ、彼自身も家事を楽しんでいる節があるため、私が何かを言える部分はさらに少なくなっていく。

お互いに得意なことは分担し、創出した時間は娯楽に使うべき。

世界のことわりに干渉できる上に極めて合理的な彼の言葉に、私も頷く他なかった。


「……お湯が熱いか?」


「ちょうどいい……」


でも、この現状はあまりにアンバランスだ。

彼はウォルポートの整備と来客対応、私は急激に人口が増えたウォルの農地開拓で1日中働き通しとは言え、それだけを比較してもやっぱりソーマの方が働いている。

新婚として、妻として、彼と暮らす者として。

これは、どうなのか?


「……何?」


体を反回転させて、キョトンとした彼の顔を見つめる。

その肩に手を置いて膝で立ち上がると、私を見上げる彼の視線には困惑の色が浮かんでいた。


もうこうなれば、直接聞いてしまおう。

この世で起きる悲劇の大半は、事前に言葉を交わしておくことで回避ができる……。

彼の矜持の1つだったはずだ。


「ソーマ、何か私にしてほしいことはない?」


「いきなり、どうした?」


「何か、ない?」


「……?」


漆黒の瞳に浮かぶ感情が困惑から混乱、そして困惑に戻りつつ、彼は私を見上げたまま黙っている。

私は真剣さと真摯さを込めて、その瞳を覗き込み続けた。


「何か私に、できることはない?」


「……元気で、長生きしてくれれば」


「……」


……何だろう、この気持ちは?

微笑を浮かべたソーマのすごいところは、これを本気で、本心から言っているところだ。


嬉しい。

すごく、嬉しい。


でも、そうじゃない。


「……あの、……あ、ありがとう。

でも、もっと短い期間でできることがあれば……」


「じゃあ、子供が欲しい」


頑張るから!

というか無理に頑張らなくても、あなたは毎日私を抱いているじゃない!?


「えっと……、もっと短い時間で……。

そう、今日中でできることで」


「子供を作る」


「よ、夜まで待って!」


そのまま私を湯船に引きずり込もうとしたソーマを、私は慌てて制止した。

不服そうな彼には悪いけれど、明るい内からそういうことをするのだけは勘弁してほしい。

夫婦と言えど、最低限のモラルは必要だ。


「太陽の出ている内で、服を着たままでもできること!」


「子供を作る」


「ソーマ!!」


「はいはい……、そうだな……」


今のは流石に冗談だったのだろう。

彼もニヤリと笑った後、目を閉じて真剣に考え始める。

向かい合ったまま、私が再度腰を下ろして肩までお湯に浸かり直すと同時に、彼のまぶたは開いた。

そして、どこか照れくさそうに彼が所望したそれは。


「あー、じゃあ……、み、耳掃除」


……私の得意分野だ!


「うん、わかった!

じゃあ、お昼ごはんの後にね?」


「お、おう……」


耳掃除!

よし、よし!

それなら、自信がある!


お湯の中で薄ら笑いを浮かべる私を、ソーマは怪訝そうに見つめていた。

















「……え?」


「……どうしたの?」


そもそも森人エルフは耳が長くて大きい分、その汚れも目立つ。

ネクタで『耳が汚い』と言われれば、不精者とけなされたのと同じことだ。

だから、私が結婚前にお母さんからたたき込まれた家事の中には当然、耳掃除も含まれている。

そして私ができることの中で、これだけはお母さんからも褒めてもらえた腕前なのだ。


昼食が終わり寝室に入ってきたソーマは、だけど私の方を見てギョッとしたような表情になった。

首を傾げる私を見た後に、その視線はベッドの脇に移動させたサイドテーブルの上に注がれる。


耳の産毛うぶげを剃るための、剃刀かみそり

耳の中の毛を剃るための、細い穴刀あなとう

耳垢みみあかをかき取るスプーン型の耳かきが大、中、小の3本。

螺旋らせん状に深い溝が彫られたぼう耳かきが大と小で2本。


接着剤として使う、木脂きやに

普段は歯を磨くときに使う、マイツ草を4本。

剃刀を使う前に耳に塗る、香油のボトル。

厚めの布を3枚と、お湯を張るための小さな木桶。

最後に、私の額にベルトで固定されている、手元を照らすための月光石げっこうせき……。


何か、おかしいだろうか?

どれも耳掃除には欠かせない道具だし、足りないものはないはずなのだけれど。


「……すごい、な」


「そう?」


まぁ確かに棒耳かきと木脂、それと月光石はネクタから持ってきたものだから、多少珍しいかもしれない。

全部合わせても、カップ麺2つで交換できたのだけれども。


「じゃあソーマ、早くそこに寝て」


「……」


「?」


私が床に置いたクッションの上に座って目の前のベッドを指差すと、さらに彼は微妙な表情になった。

仰向けに寝た相手の耳を横から掃除するのが、耳掃除のベストのはずだ。

それとも何か、違うのだろうか?


え、そう……事になるのか?

本格的すぎるだろ……。

それとも、……の世界ではこれが…………なのか……?

……まぁ、俺もちゃんとは言ってなかったし……。


その場で立ちすくんだまま、彼は何かブツブツとつぶやいている。

やがて、その耳が少し赤くなり……。


「あの……、できたら……、膝、枕でやってほしいんだけど」


目をそらしながら、彼はそんなことを言ってきた。

何だか、ちょっと…………可愛い。


それにしても、膝枕。

やりにくいような気もするんだけど、……まぁ彼がそうしてほしいなら、そうしてあげよう。


「わかった。

……じゃあ、はい」


「……よろしく」


ベッドに崩した正座で座って彼に手招きすると、わりと俊敏に彼は私の太ももの上にその頭を横たえた。


「あ、ごめんなさい、ソーマ。

お湯、少し熱めのを……」


「ん」


体を右に傾けたまま腕組みして支え、私に左耳を晒した彼に、私は最初だけ手伝いをお願いする。

私の言葉が終わらない内に、彼は背後の木桶を見もせずにその中にお風呂より少し熱いくらいのお湯を満たした。


「じゃあ、始めるから」


布にお湯を少し含ませた後にそれを絞りながら、私は彼の耳掃除に入った。





「最初に、耳を拭くから」


「んー」


宣言をしてから、私はあたたかい布でソーマの左耳を包みこんだ。

森人エルフのそれとは違う丸くて、どちらかと言えば小さめの耳。

体の外に出ている外耳がいじ、耳たぶ以外のやや固い部分、正確には耳介じかいというその部分やそこにある溝を中心に、私は彼の耳を拭きながらグッ、グッと軽く揉む。

これには大まかな汚れを清めてしまうのと同時に、リラックスさせて耳の穴を広げさせる効果もあった。

そのまま耳の付け根と後ろ側もしっかりと拭いて、布をたたむ。


「耳の毛を剃るための、香油を塗る」


「うん」


続いて私は香油のボトルを開け、指先に少しだけ付ける。

どこかスッとしつつも少しだけ甘い香りのするそれを、耳たぶや耳の縁、そして耳の付け根と後ろに軽く塗った。


「剃刀を使うから、動かないで」


「わかってる」


シャリッ、シャリッ、シャリリッ。


香油を塗った箇所を追いかけるように、私は彼の耳に刃を滑らせる。

とはいえ、彼はもともと毛深い方じゃない。

それでも、目を凝らさないとわからないくらいの白い産毛を丁寧に剃られた彼の左耳は、それだけで充分に綺麗になっていた。


「耳の穴の中の毛を剃る。

わかってると思うけど、絶対に動かないで」


「お、おう」


続く私の言葉で、彼の肩には目でわかるくらいの緊張が走った。

若干強張った彼の顔を一瞥してから、私は額の月光石の位置を調節して、左手で少しだけ引っ張った彼の耳の中を照らす。


「……ちっ」


「舌打ち……?」


彼の耳の中は、かなり綺麗だった。

正直、耳掃除のし甲斐はほとんどない。

思わず漏れてしまった舌打ちに、彼は一瞬だけ視線をこちらに飛ばしてきた。


「動かないで」


「……」


それを一言で大人しくさせてから、私は慎重に穴刀、ペンくらいの細さの剃刀を彼の耳に差し入れる。


ソリ、ソリ、ソリ……。


彼の『シャワー』の入り方を考えるに、ひょっとしたらソーマは耳の中まで洗っているのかもしれない。

それに、耳垢が付くとかゆみの原因になる耳の中の毛も、彼は本当に薄かった。

そんなことを頭の片隅で考えながら私は、入口付近の目立つ部分と危なくなりすぎない深さの部分に、細心の注意を払いながら穴刀の細い刃を当てる。

間違っても耳の中を傷つけないように用心しながらのその作業が終わると、彼も浅い溜息をついていた。


「接着剤で、耳の中の毛や耳垢を掃除する」


「……ん」


続けて、私は太い方の棒耳かきに木脂を塗り付け、それをお湯に浸してから軽く振った。

指にペトッ、ペトッとくっつく触感になってから、それを彼の耳に差し入れる。

軽く回したり上下させたりしながら、さっき剃った毛や主だった汚れをできる限りそれにくっつけた。

汚れは木脂ごと布で拭い取り、また新しい木脂を塗って耳に入れる。

それを3度繰り返すと、棒耳かきの表面にはもう何も付いてこなくなった。


「じゃあ、今から耳かきで耳掃除をする。

痛かったら、言って」


「うん……」


ここからが、本番だ。

月光石の青白い光の下で、私はまず一番大きいスプーン型耳かきを手に持ち、それを耳の穴ではなくその外、耳介やその溝に丁寧に当てていく。


カリカリ……、カリカリ……。


表面をごく軽く削るように撫で、溝の隙間や影、どんなに細い部分も見逃さない。


カリカリ……、クッ、クッ……。


耳かきの大きさを徐々に細いものに変えながら、ときおり耳介や耳たぶのツボを耳かきで押しながら。

さらには、耳の付け根や後ろも刺激しながら。

たっぷり5分以上をかけてから、私はようやく耳の穴へのアタックを開始した。


「痛くない?」


「ん……、気持ちいい……」


「よかった」


サリサリ……、サリサリ……。


「かき出す」というよりは、「なぞる」感じで。

ヴェルディ、彼の言う「タケ」でできた耳かきの先端を、穴のごく浅い部分から少しずつ、少しずつ深い部分に進めていく。

少ないとはいえ出てきた耳垢は布で拭い、またサリサリ……。


「ぅー……」


一方のソーマと言えば、極々小さな声をたまに発しながらずっと目を閉じている。

ときおり目の周りがピクピク動くのは、心地いいからだろう。


「気持ちいい?」


「ぉー……、すごく……」


「うん」


考えてみれば、耳掃除というのはかなり危険な行為でもある。

人間にとって最も大事な器官である頭を相手に差し出し、あまつさえ耳にもの、どころか刃まで差し込まれる。

実際、もし私の手元が狂えばソーマは大怪我をする。

悪意があれば、いくら大精霊と言えど殺す事もできてしまうだろう。


でも裏を返せば、耳掃除を任されるというのはそれだけ信頼されているということでもある。

失敗するわけがない、傷付けられるわけがない。

そう自分を慕ってくれる相手が、自分の指先の動きに合わせて気持ち良くなってくれる……。


そう考えると、まるで相手に全てをさらけ出され、差し出され、委ねられ、信じられ。

そして、それを自由にできるという多幸感のようなもので、私の心は包まれる。

……ひょっとしたら、夜に私を組み敷いているときのソーマも、こんな感覚なのだろうか。


そんなことを考えていた、そのときだった。


サリサリ……、サリ……、カサリ。


「!」


私の指先が、ほとんど平穏だったソーマの耳の中で、異物を発見する。


サリ……、カリ……、カリッ。


……ここだ。


「ソーマ、ここ……、痛くない?」


「……ん、……別に……」


なら、安心して闘える。

この深さだとどうせ目では見えないから、指先の感覚が頼りだ。

最も細い耳かきに得物を交換し、私は静かに呼吸を整える。


サ、カリッ……、カリ、カリ、カカリッ。


どうやら穴の奥まったところがポケット状に凹んでいて、そこになかなかの大物がいるようだ。

彼らしいと言えば、彼らしい形だろうか。

とても、取りにくい。


でも、今の私なら……。


カリ、カ……、クニ、クッ……、……バリッ。

…………ガサリ。


取れた。

それを布で拭いながら、私は静かに笑みを深くする。

前言を撤回しよう。

ソーマの耳は綺麗だけれど、……なかなか掃除のし甲斐があった。


「マイツ草で、細かい汚れを取る」


「……、……、……、……」


……どうやら、寝てしまっているようだ。


シュルフォッ、シュルフォッ、シュルフォッ。


マイツ草はそのままでは硬いので、熱湯に漬けたあと乾かしておいたものを使う。

まるで綿毛のような、ホワホワとしたその部分を耳の穴に入れて、軽く回しながらゆっくりと引き抜いた。


これにて……。


「ソーマ、終わり。

反対側をやるから、こっちを向いて」


「……、……、……、……」


「ソーマ?」


「……、……、……、……」


……仕方ない。

私は耳掃除が完璧に終わった彼の左耳を左手で引っ張り、体を折って口を近づけると……。


「ふぅぅーーーー」


「ぅおひゅっっ!!!?」


「……こっちは、終わった、から……、反対、側」


「……はい」


耳に息を吹き込まれて奇声を発しながら飛び起き、私の膝の上でいそいそと体を反回転させる彼を見ながら、私は笑いをこらえるのに必死だった。





「……、……、……、……」


「ソーマ、終わったけど?」


「……、……、……、……ぅん?」


「終わった」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


それから30分をかけて右耳の掃除も終わり、額の月光石を外した私は膝の上で眠るソーマを揺り動かした。

まだ半分眠った状態でもきちんとお礼を言ってくるのは流石だけど、何だか本当に……ポワポワしている。


「……もう少し、寝る?」


「……ああ」


確か夕方からウォルポートで商会の人と打ち合わせ、その後に会食があったはずだけど、それに間に合うように起こしてあげればいいだろう。

私がそう提案すると、彼はそのまま私の膝の上で仰向けになった。

そのまま目を閉じて、すぐに寝息を立て始める。


「……、……、……、……」


結構、疲れていたんだろうか。

そのまま耳の周りや目の周りを軽く指で揉んだりしてあげながら、私は彼の寝顔を黙って見つめ続ける。


「……可愛い」


関係各所からやっぱり「その形容詞はない!」という叫びが聞こえてきそうだけれど、彼の寝顔を見られるのは私だけの特権なのだから当たり前だ。

よっぽど耳掃除が気持ちよかったのか、普段よりもさらにあどけない顔で……。

実際、彼は私よりも半年ほど年下だったりするのだけど、本当に子供のような顔で彼は規則的な寝息を立てている。

細い頬をつつき、黒い髪を指ですき……。


……ただ、流石に1時間以上もこうしていると、ちょっと……足が……痺れて、きた。


「ソーマ、ごめん。

ちゃんと起こしてあげるから、ベッドで寝て」


「……、……、……、……」


反応は、ない。


「ソーマ!」


「……、……ぅ、……、ん……?」


肩を揺らしたり頬を叩いても、掠れた声を少し漏らすだけで起きてくれない。

ペチペチと頬を強めに叩いて、ようやく不機嫌そうな瞳が半分だけ開いた。


「足が痺れた。

時間になったら起こしてあげるから、ベッドで寝よう?」


「……」


何だかあやすような口調になってしまったが、彼はムクリと体を起こしてくれ……。


「ちょ、ちょっと!?」


た後にそのまま私のお腹あたりに右手を回して、私をベッドの上に引き倒した。

そのまま、横に倒れた私と向かい合う形で自分も体を横たえると、私のお腹に腕を置いたまま……また目を閉じてしまう。


「ソーマぁ……」


「……、……、……、…………」


溜息混じりに私も抗議するけど、彼はもう答えてくれない。

……何だか本当に、子供みたいだ。


私を抱き枕代わりにした彼は、結局そのまま眠り続けた。





「!」


「!?」


そのソーマの瞳が開いたのは、多分30分後くらいのことだ。

抱きつかれたまま、何とはなしに彼の頭を撫でていた私の手を払うように急に首が動いたので、声も出ないほど驚いてしまった。


「……まだ、時間は大丈夫なはず……」


「いや……」


もう完全にいつものソーマに戻っていることに若干混乱しながら私がそう言うと、クキクキと首を回しながら彼は気だるげにそれを否定する。


「旦那様、よろしいですか?」


「……」


「ああ」


分厚い扉を叩くノックの後に聞こえてきたのは、ミレイユの声だった。

ソーマの変わり様についていけない私を余所に、ベッドから立ち上がってマントを掴んだ彼は寝室のドアを開ける。


「申し訳ありませんわー、……こちらで声をかけても、反応がありませんでしたので」


「いや、悪かったな」


「……気を付ける」


「いえ、わたくしこそ失礼いたしましたわー」


彼と、後をついて行った私の視界には、入口の扉を開けて含み笑いをする魔人ダークスが佇んでいた。

その血のような赤い色の瞳を楽しげに細めてちらりと私を一瞥したミレイユは、少し真面目な顔になって彼へと顔を向ける。


「イラ商会のザイラ様と、商人ギルドのボタ様がウォルポートに到着されましたわー。

随分と早い到着ですけれども、向こうで少しお待ちいただきますか?」


「いや、すぐに行く。

……向こうでの会食の時間が早まっても、大丈夫か?」


「ええ」


「じゃあ、それで頼む。

乗船員の宿泊の手続きや食事、補給にも間違いがないようにな」


「ふふふ、もちろんですわー」


「それから……」


鋭い目つき、大きく変わらない表情、必要最低限の言葉……。

いつもの黒いマントを羽織りつつ、ミレイユに事務的な内容の確認と指示を重ねていくソーマは、やっぱり完全に普段のソーマだ。

さっきまでの子供っぽさやあどけなさは、もうどこにもない。

あまりにも早く、そして極端な変わり身に、私はただポカンとするしかなかった。


「じゃあアリス、行ってくるから」


「……う、うん、いってらっしゃい」


最後に私とその言葉を交わし、彼は足早に出発する。


「……どうかされたのですか?」


「あ、……うん、えっと……」


共にソーマを見送ったミレイユが、呆けていた私の顔を覗き込んでくる。

私にとってはきちんとした料理の先生で、謎の部分は多いけど人生経験豊富な女性で、ウォルでは唯一と言っていい対等な関係の女友達。


そんなミレイユに、私は少し戸惑いながらもさっきまでのことを説明した。





「ふっ、くっっ、…………ぶふぁっっっっ!?

ふっ…………くふっ、ぶっ、っっぶふふっ!!」


結果、ミレイユは爆笑した。


「だ、旦那様がっ、かっっ、可愛い……、可愛いっっっ!?

ア、アリスっ、さん、っ……それは、は…………、ぶふぅっ!!」


スラリと細い長身の体を2つに折り、目尻からは涙の粒が溢れている。


「ふっ、ふふっっ、ふふふふふ……ぶふぐっっっ!

…………くっ、…………、けほっ、く、ぐ…………ぉえっ!!」


「……あの」


呼吸困難になり、えずくほどに笑っていた。

美人の範疇に入るその唇からしてはいけない感じの音、もはや声ではないそれが漏れたあたりで、流石に私も声をかける。


「ふ……ふ、ふふふ…………、失礼し、ましたわー、…………ふふふ」


結局、ミレイユはたっぷり10分は笑い倒し、ようやく落ち着きを取り戻した。

そして、崩壊した口元を必死に元に戻しつつ、その赤い瞳を優しく細める。


「はぁ…………、ふふふ、にしても、旦那様にとってアリスさんはやはり特別なのですね?」


「え?」


その周りの涙を白い指で拭いながら、朗らかにミレイユはそう言った。


「旦那様にとって、本当の意味で家族なのはアリスさんだけだということです。

わたくしにしろ、アンゼリカちゃんやサーヴェラ君にしろ、シズイちゃんやサラスナ君にしろ……。

旦那様は、そんな……む、無防備な姿を絶対に見せてくださいませんわー」


「……あ」


無防備、のところでまた吹き出しそうになっていたのを何とかこらえ、乱れた髪やドレスを整えながら、「先生」の言葉は続く。


「旦那様がワガママをぶつけ、疲れたときに甘えられるのはアリスさんだけ、ということです。

あの色々と難しい旦那様にそうさせるのですから、誇っていいことだと思いますわー」


「……うん」


その称賛に私は、……ニヤけてしまう。

そうだ、あんなソーマの姿は、私しか見られないんだ。

私だから、ソーマは見せてくれたんだ。


「あら、けますね?」


「……ひ、ひへいゆ、ひはい!」


そんな私の頬を、ミレイユは左右からつまんで軽く引っ張った。

とはいえ、ミスリルの鎧を引きちぎるミレイユの膂力に、私の皮膚はすぐに限界を迎える。


「ふふふ、失礼しました」


「……うぅ」


涙目で赤くなった頬を包む私に、ミレイユは短く謝罪する。

激しくタップした私を離した彼女は、本当に楽しそうに微笑んでいた。


「アリスさん、夫にとっての安らぎとなるのも、また妻の役目ですわー。

この世界中でアリスさんにしかできないことなのですから、どうぞしっかりとお務めください。

……とはいえ、寝不足になるのは……どうかとも思いますが」


最後の部分を小さく耳元でささやき、私の頬を腫れではない赤色に染まらせて。

笑顔を残して去っていくミレイユを、私も笑顔で見送った。

















「……ただいま」


「おかえりなさい」


ウォルポートでの会食を終えて帰ってきたソーマを、私は寝室で出迎えた。

既に3番湖の浴場に寄ったかあるいはシャワーを済ませたらしく、清潔なお湯の香りを漂わせている彼の視線は、薄い紫色のコロモ姿でベッドの上に座っている私に注がれている。


「……どう?」


「いい、な」


私が意味ありげな視線を送ると、彼はその場にマントを投げ落として、黒の上下を脱いで。

やっぱりそれも黒の肌着1枚になって、言葉少なにベッドに上がってきた。

そのまま軽いキスを交わした後、私の正面に腰を落とした彼は、私が腰に巻いていた赤色の細い帯の結び目に指を入れる。


シュッ、シュルッ、シュシュルルッ……。


手慣れた様子でその帯を解かれ、奪われてしまうと……。

コロモの合わせ目から、上下共に何も着けていない私の裸体が覗いてしまっていた。

一方で彼は私の両手首を体の前で交差させて重ねさせ、それを奪った帯でいましめていく。


……今日は、そういう感じでいくらしい。

……まぁ、別に嫌でもないけど。


合間に何かの確認のように短いキスを2度交わす内に、彼は私の手首を完全に拘束してしまう。


「倒すぞ」


「うん」


そのまま肩を押された私が仰向けに身を投げ出すと、彼は私のお腹あたりを跨いで、体重をかけないように膝で立ち……。

そのまま左手で、赤色で彩られた私の両手をシーツ、私の頭の上のそこに押さえつけた。


「……」


「……」


完全に動けなくなった私の顔のすぐ上で、彼の黒い瞳が静かに瞬く。

そこに映る緑色の輝きが自分の瞳の色であることが、私は嬉しかった。


「……」


「……あ」


彼の右手が私のコロモの襟口をつかみ、そのままはだけさせる。

暖かい室温と彼の視線に晒された私の肌は、少し汗ばんでいた。


傷付けられるわけがないという、全幅の信頼を自分に寄せる相手から。

全てをさらけ出され、差し出され、委ねられ、信じられ。

そして、それを自由にできる多幸感。

きっと今、彼はそんな感情に包まれているのだと思う。


だけど、お昼に彼の耳掃除をしていたからこそ、私にはわかる。


傷付けられるわけがないと、信頼できて。

全てをさらけ出し、差し出し、委ね、信じられる。

そんな相手がいることは、それと同じくらい幸せなことなのだ。


彼になら、何でもしてあげたい。

彼になら、何をされても大丈夫。


私はそれほどに彼を信じ、彼を求めていた。

……そして、きっとソーマも。


「ミレイユ」


「……え!?」


しかし、残念ながら。

どうやら彼は、私とは別の。

それも、できればあまり私が信じたくないことを考えているようだった。





「会食が終わった後さ……、ミレイユと……会ったんだ」


「……」


ソーマは、無表情だった。

淡々と語りだした唇に意地の悪い笑みが浮かんでるわけでもなく、その瞳にも強い感情は感じられない。

……というか、生気がない。


ただ、ものすごく悪い予感がする。

すごく、すごく悪い予感がする。

私の全身には、さっきまでのそれとは種類の違う、ひやりと冷たい汗が伝い始めていた。


「いきなり、爆笑された」


「!」


「結構可愛いところもあるんですね、って爆笑された」


「!!」


「えずくまで、爆笑された」


「!!!」


「爆笑された」


「……あの」


彼が怖いのは、多分恥ずかしかったはずのその出来事を、まるで他人事のように淡々と語っているところだ。

そして彼は、実際それが他人事のように感じられるようになるまで、その怒りを凍てつかせる。


ただし。

それは決して、怒りが収まる、という意味ではない。


「ソーマ、ちょっと相談が……」


全てをさらけ出し、差し出し、委ねる。

私は、両手も体の動きも封じられた今の自分の状態に、激しい後悔を感じ始めていた。


でも、ミレイユもまさか本人に喋るなんて……!


「黙っています、と言った覚えはありませんので。

……らしいぞ?」


「……うぅ」


ぅうわあぁぁぁぁああああ!!!!


ソーマが最後にミレイユからの言葉を私に伝え。

そして、それがそのまま有罪判決となった。


「……う、あ……、ソ、ソーマ……?」


彼が左手に持っているものを見て、私は自身の未来を正確に予測する。


すなわち、私が耳掃除でも使った。

そのままでは硬いマイツ草を、熱湯に漬けたあと乾かし。

まるで綿毛のような、ホワホワとしたその部分を。


……数十本分、太い束にしたもの。


「人間って、不思議なものでな。

ああいう状況に置かれると、笑うしかなくなるんだな。

俺も初めて経験したタイプの、……笑顔でしたよ」


「やめっ、ソーマ、待って!!

謝るから、あや、謝るから!!」


ソーマが敬語になった。


もう何もかもが手遅れだと理解しながらも、私は必死で体をよじる。

ピクリとも動かない自分の手首を見ると、彼の腕は既に【精霊化】していた。

わかっている。

これを外すには、彼以上の魔力が必要だ。


「久しぶりに、あんなに笑いましたよ。

そう言えば、アリスさんは俺を笑わせてあげたいって、言ってくれましたもんね?」


「ちがっ、ソーマ、聞いて!!

悪いのはミレイユなの、ねぇ!」


そして彼は、笑顔になった。

だけど私は、こんなおぞましい笑顔にしたかったわけじゃない!


……そしてもう、私に逃れる術はない。

マイツ草を持った彼の【悪魔の腕】が振動を始めたのか、白くやわらかな束が目で追えないスピードで震えだす。


「く、ふ、……ふ」


まだ、体に当てられてもいないのに、見ているだけで既にくすぐったい!!

勝手に喉から漏れる自分の笑い声を聞きながら、私の目尻には涙が浮かび始める。


こんなはずじゃ、こんなはずじゃなかったのに!!


「だからアリスさんも、たっぷり笑ってくださいね?」


いってらっしゃい。


ソーマが家族になったら大切にしたいと言っていた、その言葉を最後に。

その日の私の記憶は、闇の彼方に消えた。





翌朝、例によって悶絶と共に目覚めた私は「一応、俺にも対外的なイメージがあるから、あまり家でのことは喋らないで」というソーマの言葉を、素直に聞き入れた。

なぜなら、それは「私にだけはどんな姿でも見せてくれる」という彼の意思表示でもあったからだ。


多分、これから私は彼の可愛いところも、あどけないところも、子供っぽいところも、自分勝手なところも、意地悪なところも、カッコ悪いところも……。

今まで知らなかった、彼の色々な面を見られるのだと思う。

反対に彼も、私のこれまで知らなかった部分を見つけることになるのかもしれない。

……でも、それでいいのだと思う。


全てをさらけ出し、差し出し、委ね。

そして信じて、受け入れる。


共に生きる家族とは、きっとそういうものだからだ。


私とソーマは、共に生きる。

私とソーマは、家族だからだ。

















尚、その日から2日間。

裏切者ミレイユには、たるの中で過ごしてもらった。

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