ショート・フール 春の夜の夢
「汝らは共に歩み……」
カミノザに君臨していた自身には及ばぬものの20メートルに達する大木と化したフォーリアルは、『最古の大精霊』にふさわしい、慈愛と大きさを感じさせる声で言葉を紡ぎ始めた。
「共に闘い、共に守り……」
それは、予想に反して、とても簡潔だった。
「共に想い、共に愛し、そして共に生きることを……、互いに誓えるか?」
だが、それはとても重たい言葉だった。
共に歩み。
共に闘い。
共に守り。
共に想い。
共に愛し。
そして、共に生きる。
この世界の全てを見つめ続けてきた大精霊から問われたのは、ただそれだけで。
そして、それが全てだった。
「「……」」
俺とアリスは互いを見つめ合い、そして微笑み合う。
その全てを、俺たちは。
誓う。
……声を揃えて、そう言おうとしたときだった。
「ちょっと待って!!」
「「!!!?」」
誰もが予想していなかった、その誓いに異を唱える少女の出現に、全員が硬直する。
俺、アリス。
フォーリアル。
ミレイユ、アンゼリカ、サーヴェラ。
マックス、アリア、マリア。
サラスナ、シズイ、ヒエン。
シムカ、ムー。
イングラム、キスカ。
モーリス、ザザ、コーザック。
人間が。
森人が。
獣人が。
魔人が。
奴隷が。
騎士が。
商人が。
冒険者が。
竜が。
精霊が。
その、絶対にあり得ない闖入者の姿を見つめていた。
【あぁ、そういうことか……】
が、その姿をみとめた俺は一人、静かに嘆息する。
俺とアリスの誓いによく通る声で割り込みをかけたのは、10年前に死んだはずの、俺の妹。
朱美だった。
俺と同じ黒い髪に、黒い瞳。
肩口でバッサリと切った髪の下には、兄の結婚式をぶち壊すというその所業に似合わぬ、元気で健康的な笑顔が浮かんでいる。
若干、唇のつり上がりが目立つのは……気のせいだと思いたい。
というか、兄としてはやめてほしい。
背丈は、17歳としては平均くらいだろうか。
小柄なアリスと並べば、どちらが年上かを確実に間違われることだろう。
服装は紺のブレザーにスカート、白いブラウス。
この世界では異様に映るその姿は、かつて俺が通っていた高校の女子用制服だ。
……とても、よく似合っていた。
「久しぶりだね、お兄ちゃん?」
「……そうだな」
どこか疲れたような俺の声に、朱美はさらに笑みを深くする。
本当に、久しぶりに見る笑顔だ。
静止する、時間。
停止する、世界。
アリスも、フォーリアルも、ミレイユも。
全員が、動かない。
「それとも、はじめまして……かな?」
【……】
少しだけその笑顔を寂しげなものに変えた朱美と同じような表情を浮かべる俺だけが、この無色透明の世界では存在を許されていた。
「……いい人だね、アリスさん。
すっっっっごく、綺麗だし!」
「……サンキュー」
「うっわ、照れながらお礼とか言っちゃうんだ!?
結婚するからって、もう完全に自分のものとか思っちゃってるんだ?」
周囲の異常を意に介さず、朱美は笑みを先程の元気なものに戻した。
苦笑いしながらアリスへの称賛を素直に受け取った俺に対して、そこにはからかいの意味が強いそれも混ざる。
【お前、そういう感じになるんだな】
それが、俺の率直な感想だった。
ついでに、率直に朱美の言葉も肯定しておく。
「……まぁ、アリスの人生を貰うわけだからな。
その代わり、俺の人生もアリスに渡したつもりではいるぞ?」
「……言うねぇ、お兄ちゃん」
黒い瞳を丸くした朱美に告げた言葉は、偽らざる俺の本心だった。
共に歩み、闘い、守り、想い、愛し、生きる。
結婚するとは、そういうことだ。
家族になるとは、そういうことだ。
俺とアリスは、もう他人ではない。
俺のこれからの人生は、アリスの人生でもあり。
アリスのこれからの人生は、俺の人生でもあるのだ。
「でも……、さすがは私のお兄ちゃんだね。
ふふ、カッコいいよ?」
【……うるせぇよ】
満面の笑みを浮かべた朱美に、俺は何も答えることができなかった。
「そっか……」
やがて、朱美はその表情をほんの少しだけ、変えた。
「でも、それなら……お兄ちゃんは自分の人生も大切にしないと、いけないよね?」
【……】
それは穏やかではあったが、どこか悲しげで……。
「だって、アリスさんの人生でもあるんだもんね?」
そして、優しかった。
「だから、お兄ちゃん……」
その後の言葉を当然のごとく予想できた俺に、朱美はそのまま言葉を続ける。
「もう私にこだわらなくても……いいんだよ?」
それは穏やかで、悲しくて。
そして、優しい言葉だった。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
朱美の言葉に悲しみが混じっている理由を、俺はおそらく正確に理解できていた。
「私はアリスさんにも幸せになってほしいけど……」
それはきっと、あの夜に。
いや、もしかしたら俺が知らないところで何度もアリスを泣かせてしまったのと、おそらくは同じ理由で。
「……それと同じかそれ以上に、お兄ちゃんにも幸せになってほしいよ?」
そして、それがわかる程度には、俺は成長できていた。
「そんな冷たい感情だけで、生きないで」
それに俺が気づき。
そしてそんな俺の様子に気がついたのか、辺りにゆっくりと色彩と時間が戻っていく。
「もう終わっちゃった私の人生じゃなくて、お兄ちゃん自身の人生を……生きて」
静止と停止が融けて、動きだそうとする世界。
……が。
反対に、朱美の姿は徐々に透き通り始めていた。
【待て、待ってくれ!】
もう声は出ない。
手も動かせない。
足が前に出ない。
「それで、私の分までちゃんと幸せになって」
【わかった!!
わかったから、朱美!!!!】
だが、涙は流せる。
「お兄ちゃん、おめでとう」
その言葉と、今度こそ満面の笑顔を最後に。
朱美は、消えた。
瞼を開けた俺の目の前には、安らかに呼吸するアリスの寝顔があった。
「……」
混乱する……いや、本当は混乱などしていない自分の頭にどこか冷たい感想を抱きながら、俺はゆっくりとシーツから抜け出してベッドの端に腰かける。
「無事に」結婚式が終わった夜、ウォルの俺とアリスの家。
夜半過ぎまでの喧騒が嘘のように静かな闇の中で、俺は無言で目の周りの涙を拭った。
明晰夢。
人が眠っている間に見ることがある、「夢だと自覚している夢」。
また、これは通常の夢のそれとは異なり、ある程度ならばその内容をコントロールすることもできるらしい。
すなわち、夢なのだとわかった上で見てしまう、自分に都合のいい物語。
俺が先程まで見ていて、あり得ないはずの姿の朱美と会話をしていたのは。
……その虚ろな世界の出来事だったのだろう。
「……」
背を曲げて両膝にそれぞれ肘をつくと、俺の口からは深い溜息が出た。
夢とは、自分の脳が無意識に作りだす幻に過ぎない。
ましてや……明晰夢ともなれば、その方向性を操作することも可能だ。
現に、俺は絶対に会うことのできない「俺の想像通り」の姿の「今の朱美」と会話を交わしていた。
「……」
悪態を吐く気力も、自己嫌悪する気力も湧かなかった。
自分の想像力と創造力に、苦笑いする気すら起きない。
あの朱美の姿は。
あの朱美の言葉は。
あの朱美の笑顔は。
おそらくは、俺の想いが創り出したものなのだ。
……本当に。
愚かすぎるにも、ほどがある。
馬鹿をやるにも、限度がある。
「……」
それでも……俺は嬉しかった。
朱美に夢で会えて。
朱美と言葉を交わせて。
朱美の笑顔を見られて。
朱美に、アリスとの結婚を祝福してもらえて。
俺は。
涙が溢れるほどに……嬉しかった。
「……ソーマ?」
背後で、アリスが体を起こす気配がした。
「あぁ……何でもない。
ちょっと目が覚めただけだから……もう寝るよ」
気づかれないように涙を拭い、目の周りだけに冷たい水をまとわせ、消す。
振り返ってシーツの中に戻った俺の胸にアリスはその顔を埋め、すり寄せた。
恋人の……いや、妻のそのあたたかさと甘い香りが、俺の心を徐々に落ち着かせていく。
「……幸せ」
小さな声でそう言ったアリスの体を、俺は強すぎない程度に抱き締めた。
「俺もだ」
嘘ではなかった。
夢でもなかった。
……そうだな、朱美。
「でも、もっと、もっと幸せにする」
俺はこれから、アリスと共に生きるのだ。
アリスの人生を、生きるのだ。
そして、アリスが生きるのは。
これからの、俺の人生でもあるのだ。
「……うん」
だから、俺はアリスを幸せにする。
そして、俺はアリスと幸せになる。
……でも、朱美。
俺は、お前のことを忘れたりはしない。
愚かでも、馬鹿でも構わない。
また絶対に、夢に出てこい。
そうしたら、俺とアリスがどれだけ幸せか。
お兄ちゃんが、さんざん自慢してやるから。
「……だから、もっと幸せになろうな」
「うん……!」
俺の首に腕を回したアリスと、今日でもう何度目かわからないキスをする。
本当に幸せそうなアリスの笑顔とあたたかさと。そんな俺の決意と共に。
春のようにあたたかい、ウォルの夜。
俺たちはまた、まどろみの中に沈んでいった。




