結婚式
おそらくは過去最長の長さだと思いますが、それにふさわしい場面でもありますので……。
『クール・エール』もここで1つの区切りとなりますが、ここまで読んでいただいてありがとうございました。
そして私信ですが……、おめでとう!
「アリスとの結婚を、認めていただけませんか?」
「……認めているが?」
「「……え?」」
アリスがフォーリアルと契約し、そのままヒエンによってカミノザとカミラギを区切る都市壁の門まで送られた後。
カンナルコ家に戻ってお互いの無事を確かめ合った後、夕食の席でそう切り出した俺にマックスから返されたのは、その一言だった。
「……と言うか、まだ区議会に届けてなかったの?
2人とも、明日にでも行ってきなさい」
「「……」」
結婚の許しを得る前に既に結婚が認められていた、というよくわからない状況に俺とアリスがポカンとする中、卓上の鍋からスープをよそいながらアリアが続ける。
どうやら、今日は【発火】の発動が成功したらしいな。
……いや、そうじゃなく。
「死ぬまでアリスを守る、というのはそういうことなのだろう?
……チェスの強い息子ができて、私も…………嬉しいよ」
「……あ、ありがとうございます」
「そう言えばアリスちゃん、家名はどうするの?
ソーマ君の家名がわからないなら、しばらくはウチのを使うの?」
「ま、まだ相談してない……」
今更、何を言ってるんだこの2人は?
……俺からすれば、そしてアリスとしても一世一代のイベント中であるはずのこの場に対して、義理の両親になるマックスとアリアの反応はその一言に集約されていた。
むしろ2人の関心はもう、呆けたままの娘夫婦からテーブルの上の夕食に移りつつある。
まぁ冷静に思い返せば、確かに俺がマックスに切った啖呵はそう解釈されてもおかしくはない。
あの日の夕食でやけに敵意のようなものを感じたのは、つまりそういうことだったのか。
「それからアリスちゃん、お掃除とかお洗濯とか……ちゃんと家事はできてるの?
そういうのを教える前に家出しちゃったんだから、今回はちゃんとチェックするからね?」
「……え?」
アリアもアリアで、完全に娘の嫁入りを規定路線として受け入れている。
結婚の届出、家名、……そう言えば式とかはどういう風習になっているんだろうか?
確かに考えたり、やらなければならないことは山積しているな。
それからお義母さん、料理も家事の1つだと俺は思います。
……しかし、いずれにせよ。
これだけ自然に受け入れられていることを俺は喜ぶべきなのだろう。
予想だにしない試練が新たに発生したアリスの瞳は、若干虚ろになっていたが。
「ふぉふぉ……、それは流石に儂も手伝えんからな、アリスよ?」
「「!!」」
「……」
「……はい」
そこにかかる軽やかで茶目っ気のある声。
一気に緊張感を走らせるマックスの緑色の瞳とアリアの青い瞳の視線が捉えるのはアリスの背後、リビングの壁に立てかけられた杖。
ちょうどアリスが握りこめるほどの径の、1メートルほどの太い枝のようなそれだ。
「それから契約者同士である以上、敬語を使う必要はないのう?
儂とお前さんは、対等な立場のはずなのじゃから」
「わかりま……、わ、わかった、……フォーリア、ル」
「ふむ、それでよい」
すなわち、木の大精霊フォーリアル。
契約の証としてアリスに与えられたその杖はただの魔装備ではなく、驚くべきことにフォーリアル自身でもあった。
簡易クローンとも言える「挿し木」を魔法的に応用した原理なのか、どうやらフォーリアルの意思はこの杖を通しても発現できるらしい。
例えとして適切かどうかは微妙だが、家庭用電話の子機のようなものだろうか。
「それから、マックス=カンナルコとアリア=カンナルコよ。
お前さんたちも、儂が話す度にそういちいち固くなる必要はない。
むしろアリスのような娘を育てたお前さんたちに対して、儂は敬意を抱いておるぞ?
ネクタを預かる者として、実に誇らしいことじゃ」
「きょ、恐縮です……」
「あ、ありがとうございます」
実際のところ、マックスとアリアからすれば俺とアリスの結婚よりも、自宅の中に木の大精霊が存在するという事態の方が受け入れ難いらしい。
まぁ、創世の時代からネクタに君臨するフォーリアルは、森人からすれば尊崇と信奉の対象、つまりは神だ。
食卓にそんな存在がいるなど、確かにどうすればいいかわからなくなっても仕方がないだろう。
「「いただきます」」
「……ああ」
「そうね……、た、食べましょう」
俺とアリスの苦笑いを合図に、ややギクシャクとしつつも和やかな家族の夕食は再開される。
……ただ、お義父さん、お義母さん。
あなた方の正面でスープをすすっている俺も一応、水の大精霊なのですが?
その翌日。
俺とアリスは区議会に結婚の届出を行い、正式に夫婦となった。
その際、現世と完全に決別し……この世界で生きていく決意も込めて、俺はカンナルコ家の家名を貰うことにした。
ソーマ=カンナルコ。
それが、これからの俺の名前だ。
尚、その夜。
試験の結果、アリスはカンナルコ家において1ヶ月間の花嫁修業にあたることがアリアによって正式決定された。
2日後、義姉となったマリアや他の親族、祖父母などにアリスと共に結婚の挨拶に回った後、俺は単身でカミラギを後にした。
これは、ウォルの様子もそろそろ気になり始めていたため、というのもあるし……。
また、結婚後は再度ネクタを離れることになるアリスに、実家での両親と (文字通り)水入らずの時間を大切にしてほしかったから、というのも理由の1つだ。
そして、もう1つ。
既にこの世界に『海王』がいないことを、早急に確認する必要があったからだ。
フォーリアルによれば、【異時空間転移】で別時代の同個体を呼び出す、例えば今この場所に1年前や1年後の俺を召喚するようなことはできなかったはず、とのことなので、必然的にあの『海王』はこの時代のものだったということになる。
その不在と、それに伴いこれまで避けられてきたカイラン大陸中央部からネクタ大陸北端を結ぶ航路が使用可能になるかもしれないことは、ネクタとの貿易路の確立を狙う俺にとっても、そして、森人たちの目を外に向けさせることを目指すフォーリアルにとっても大きな意味を持っていた。
「それが事実なのでしたら、是非私どももご一緒したいですね」
『海王』の騒動で停泊期間が延びていた『青の歓声号』の船長であるザザは、ノクチでその航路をとってカイラン大陸へ帰ってくれる船を探していた俺の話に、即座に飛び付いた。
もっとも、それは冷徹に計算して弾き出された利に裏打ちされたものであり、新たな航路を確立させるという功名を欲してのことでもある。
言わば、純粋なビジネスだ。
いずれにせよ、再び互いの利害が一致し「『海王』を含むどんな魔物が出ても俺が必ず対処する」という条件の下、これまで避けられていたその海域を最短航路で渡った結果。
『青の歓声号』は『海王』に遭遇することなく行きの4分の1、わずか4日間でカイラン大陸西岸に到着することができていた。
戦闘を俺が請け負った、という部分も確かに作用はしているだろうが、これは間違いなく今後の大陸間貿易の常識が変わる偉業である。
そしてこの航路の西側、すなわちカイラン大陸側で最も近い街がウォルである、という事実も俺にとっては都合のいいものだった。
港湾設備さえ整えれば、ウォルが海路でも要衝になり得ることがはっきりしたからだ。
「ソーマ様、もし本当にこちらに港を開設される際は、是非イラ商会に一番のご連絡を……。
今後とも、よいお付き合いをさせていただければ幸いです」
「……そうだな」
ウォル西岸の沖合200メートルほどにさしかかった海上で、行きのときと同じく大量の魔物の氷漬けを引き換えにした金貨4千枚の証書を渡しながら、ザザは恭しく俺にそう言った。
証書の文面にザッと目を通した後に若き船長と握手を交わし、俺は甲板のへりに立つ。
「じゃあ、またな」
「どうぞ、ご贔屓のほどを」
そのまま海に飛び降り、俺は海面に波紋を残しながら岸へと歩き出す。
約1ヶ月ぶりに帰るウォルへ俺が持ち帰るものは、金貨4千枚よりもはるかに価値がありそうだった。
「発破……!」
…………ッドーーーーン……!!!!
その2日後から、俺は早速ウォル西岸の開発にとりかかった。
気分を出すためだけの俺の小さなその掛け声と共に、カイラン大荒野の黄色く乾いた地面は一直線に爆砕され、実に400メートルに渡って崩壊する。
ちなみに爆発とは、物質の急激な熱膨張、つまり体積の増大を指す言葉だ。
爆弾に火薬が使われるのは火薬の燃焼速度が極めて速く、音速すら超えるからであり……。
要約すれば、急激な膨張を引き起こせれば別に火薬でなくとも爆破現象は起きることになる。
これに従い、俺が氷のドリルで掘った直径1メートル、長さ10メートルの穴。
一直線に30本以上、10メートル間隔で開けられたその穴に生成した氷柱を、地表に出た一部だけを残して【発華】同様に一気に気化させた結果。
【氷鎧凍装】をまとう俺の眼前には、まるで巨大な剣が空から振り下ろされたかのような破壊の光景が広がっていた。
視線を後ろに戻すと火竜サラスナと、土属性魔導士として目覚めたウォル家禽班班長のネルと販水班班長のヨーキ。
そして、その指導役の獣人であるイングラムとキスカがそれぞれ、耳を押さえたまま伏せている姿が氷越しに映り込む。
その前に展開している氷壁が無事なことも確認してから、俺は2列目から10列目までの穴の中にも氷柱をセッティングし、気化した。
1千倍をゆうに超える体積の増大、水蒸気爆発の連続による土砂と岩盤の爆砕により、眼前の地面はさらに広範囲に渡って吹き飛ばされていく。
「……よし。
イングラム、キスカ、ネル、ヨーキは手分けして護岸作業に入れ。
別に時間はかかってもいいから、丁寧にやって行けよ?
……サラスナは一旦村に戻って、森林班に頼んでおいた木材の搬入を頼む」
「「わかりました!」」
ウォルの中心地である小エルベ湖から、西におよそ5キロメートル。
さらに5キロ強を進めば海にぶつかるという場所で、停泊地部分の発破と氷による土砂の除去作業を終了させた俺は、4人の土属性魔導士と、ヒエンのそれと比べれば一回り小さい竜の姿となったサラスナに指示を飛ばす。
おおよそで400メートル×300メートル、深さ10メートル弱。
東京ドーム2個半ほどに相当する面積のこの巨大な穴は海から引き込む運河の最終地点、ウォルポートにおける船の停泊地だ。
通常、港は波の影響を避けるために入り江や湾の中に設置され、さらに防波堤を設けることで波の直撃を防いでいる。
また、ある程度の大型船が接岸するためにはそれなりの深さが必要であり、埋め立てなどで切り立った岸壁を建設する必要もあった。
が、これはいずれも干拓や埋め立てを用する大工事であり、何よりそれには高度な建築技術が求められる。
加えて、ウォルの中心である居住区から港まで10キロ以上も離れているというのは、利便性という点でも微妙なものだった。
よって、俺はこれまで放ったらかしになっていたウォルの西側に運河を引き込み、海の方を村へ近付けることにした。
逆転の発想と言うか、……天地がひっくり返っても現世ではできないやり方だが、俺の場合、海の中に構築物を造るよりはその形に大地を削ってしまった方が早いのも、また事実だ。
浴場の床のように掘削した地面の断面を石化させてしまえば、周囲の土壌への塩害の心配もない。
また、海と停泊地の間の大地は、それ自体が防波堤となってくれる。
ウォル東岸から5キロメートルに渡って緩やかに蛇行する運河を掘り、大きく南にL字に曲がった先に広大な停泊地を造る。
これが、ウォルポート造成計画の全容である。
「ねぇイン姉……、キスカちゃん……、……過労死するんじゃないかな?」
「これは、『土製品』には入らないと思うんですけど……、……でも、ボーナスも出してもらえるらしいですし」
顔を徐々に青ざめさせている獣人2人には悪いが、まだここから幅100メートルほどの運河を延々5キロ以上、海まで繋げる作業が待っている。
まぁ、来週になればギルドで緊急募集を掛けた土属性魔導士が50人は集まるはずだから、そこまで無茶なことにはならないだろうとは思っているが。
……多分な。
「ソーマ様、リーカンから荷物……何か干物みたいなものがたくさん届いていましたけど?」
穴の下の様子を眺めながら頭の中で工事計画表を修正していると、上空から木材と共にサラスナの声が降ってくる。
……そうか、アレももう届いたか。
「ミレイユに言って、氷室に入れておいてくれ」
忙しくなるな。
そう思いながら、俺は【白響剣】を発動させた。
「ただいま」
「おかえりなさい。
皆は、元気だった?」
「ちょっとだけ……トラブルもあったらしいけどな。
ミレイユが上手く対応してくれてたよ」
「そう……、……『海王』の方は?」
「行って戻ってきたわけだけど、多分……大丈夫だと思う。
……お前の方は?」
「……多分、…………大丈夫」
「いや、俺の目を見て言ってくれよ……」
ウォルに戻ってから2週間後。
『青の歓声号』がアーネルポートからカミラギノクチに出発するのに合わせて、俺はまたネクタに戻っていた。
今回も旧『海王』航路を通り所要日数はわずか5日半、アリスと顔を合わせるのは約1ヶ月ぶりとなる。
玄関からリビングに移動し、そしてアリスが冷たいサンティを用意してくれるまでの間で、俺とアリスは互いの近況を交換し合っていた。
「あらソーマ君、おかえりなさい」
「どうも、また干し肉も持ってきましたよ」
「あらー」
テーブルでアリスと隣り合ってふざけ合っていると、アリアもリビングに戻ってくる。
手が土で汚れているのは、中庭にいたからだろう。
爪に入った泥を流す背後で、テーブルに前回と同じ程度の大きさの干し肉の包みを置くと、笑顔の青い瞳が振り返る。
が、その視線はすぐに俺の背後に置かれた1メートルほどの巨大な木箱にずれ、好奇心と共に注がれた。
「ちょっと夕食のときに食べてほしいものがありまして……。
お義父さんが戻って来られてから、説明します」
「へぇ、楽しみねー!」
そう言って笑うアリアに、俺も穏やかな微笑みを返す。
ウォルの様子や船上での冒険譚、アリスの家事スキルの上達に最近のカミラギの様子。
時折フォーリアルも口を挟みながら、あるいは中庭でアリアに伸びた髪を切られながら、俺たち3人はのんびりとマックスの帰宅を待った。
「……で、これは?」
夕刻。
食卓に着いたまま困惑するマックス、そしてアリアとアリス、俺の前にはその木箱の中身が置かれていた。
直径20センチ、高さ15センチほどの木製の円柱形。
鉄の木ほどではないものの組織密度の高い木材の表面を磨き上げられたそれは、水などの液体が入ることが前提の容器を思わせたが、しかし一方でそれはひどく軽かった。
軽く上下に振るとコトコト、ファサファサという音が微かに聞こえる。
「まずは、開けてください」
そう言いながら俺がその円柱の上下をそれぞれ逆側に回しながら開けていくのを見て、3人がその動作を真似る。
少し力を入れるとペキリと何かが剥がれるような音がして、ヘリが5センチほどもある上の部分、つまりはこの容器のフタが外れた。
中を覗き込んだ2対の緑色の瞳、1対の青色の瞳に映るのは、さらなる困惑と疑問。
木製の容器の中にはスカスカに乾いた麺の白い塊と、同じく茶色い粉。
そして、それぞれ別の種類の干し肉と、その破片のようなものが入っていた。
食品が腐敗するのは、そこに含まれる水分で細菌が繁殖するためだ。
よって、その水分を取り除けば腐敗は起こらず、長期間の保管が可能となる。
その原理に基づいて作られるのが、この世界における干し肉。
そしてさらに復元性を持たせたのが、現世におけるカップ麺である。
ただし、一口に水分の除去と言っても単純に乾かすだけでは限界がある。
また、ビーフジャーキーを水に漬けても肉には戻らないように、その工程において発生する水分の勾配に伴う組織の破壊は、食品の復元をほぼ不可能にしてしまう。
食品中の水分をその組織を破壊することなく、つまり勾配を起こすことなく。
もっと簡単に言えば、どれだけ一気に、一瞬で脱水できるか。
その答えが「油で揚げる」、ないしは「フリーズドライ」と呼ばれる技術だ。
食品を油で揚げるとその組織中に含まれる水分は蒸発し、その部分の空洞には油が入る。
これがフライ麺の大雑把な原理だ。
ただし油は空気に触れると酸化してトータルの品質を劣化させてしまうため、真空状態で密封する技術がないこの世界では採用できなかった。
また、この世界では油はそこそこの高級品だという、経済的な理由もある。
一方でフリーズドライは、食品を一気に凍らせることで組織中の水分を固定、その後乾燥させることでその水分を取り除くという技術だ。
油を使うわけでもないのでその後の劣化も起きにくく、お湯で戻した後の品質の復元性も非常に高い。
おそらく現世における、最高の食品乾燥技術だろう。
唯一の難点は、それを実現するためには非常に大がかりで特殊な工場設備が必要になってしまうことくらいだ。
……が、この世界には魔法がある。
そして俺は、水をそのまま消失させることもできる。
1度完成させたラーメンの水分を、全て消したもの。
それが、唖然とするカンナルコ家の面々の前で、俺がお手本のために水属性霊術【生湯】の陣形布を使い。
食欲中枢と唾液腺を激しく刺激する湯気を立て始めた、「カップ麺」の正体だ。
「お義父さんのは『ボア豚骨』です。
ボアの骨からとったスープに味噌を少しだけ入れました。
上に乗ってるのはボアの肉を半日くらい煮込んだものですね」
体内時計でおよそ3、4分が経ち、リビングの空気だけで胃酸が分泌されるような状況になってから、俺はおもむろに説明を始めた。
「お義母さんのは『フラク坦坦』ですね。
フラクの挽肉を炒めたものにゴマ……、ア……、アミシア……でしたっけ?
それをすり潰したものを大量に入れてます。
香辛料が利いてるので、少し辛いかもしれません。
上に乗っている黄色いのは、炒卵です」
3人は、無言でフォークを手に取る。
「アリスのは『塩グリッド』だな。
グリッドと野菜を煮込んだスープに塩だけの、シンプルなやつだ。
スープが少しトロトロしてるのはグリッドの……ゼラチンが溶けているだけだから、気にするな。
ちょっと酢を振っても、旨かったぞ?」
正確には多分コラーゲンなのだが、どうせ「ゼラチン」も「コラーゲン」もこの世界には該当する名詞がないので、俺は適当に押し切った。
それにどうせ、3人とも聞いていない。
ズズズズズ……、ズズ……。
ゴクッ、……ズズ、ズズズッ!
ズッ!?……ふーっ、ふーっ、……ズ、ズズズズズ……
……無言だった。
ただでさえ蒸し暑いネクタの夕方、雲で遮られてやや暗さのあるオレンジ色の光が窓から入ってくる中で、3人の森人はただ目の前の容器と無言の対話を始めていた。
体温が上がって首筋に浮かぶ汗の玉、やや上気して桜色に染まる頬、鬱陶しそうに払われる髪。
ズッ、ズッ……。
ゴク、ゴク、ゴクン。
ズッ……チュルンッ。
人間の味覚において「美味しさ」として感じられるのは、甘味、塩味、旨味、そして脂だ。
エネルギー源として欠かせない糖、体内の浸透圧調整に必要なナトリウム、自身では合成できないアミノ酸、熱効率の高い脂肪。
人間が美味しいものの摂取を求めるのは、それらが全て人体で必要なものだからであり、それが不足すれば生きることができないからに他ならない。
味の濃いもの、脂っぽいものほど美味しく感じるのが、それが本能なのだと示す何よりの証拠だろう。
そして、ラーメンはその全ての要素を含む、最も手軽な食品の1つなのだ。
「一応、全種類の味見をお願いした……」
一応、全種類の味見をお願いしたいので違う種類のものも食べてほしいのですが、お腹の方は大丈夫ですか?
その全てを俺が言う前に、アリスたち3人ともが2つ目のカップを開けにかかっていた。
作り方を説明する必要がない2回目なので、俺が直接お湯を注ぎ入れる。
「アリス……、かき回しても早くできないから」
「……そう」
「「……」」
待ち切れずに『ボア豚骨』をフォークでかき混ぜ始めたアリスに俺が注意すると、視線の端でマックスとアリアがフォークに伸ばそうとしていた手をピタリと止めるのが見えた。
「……で、これなんですが、1ついくらで売っていたら買いますか?」
それから15分後。
3種類3つのカップ麺を完食し、冷たいサンティでその余韻を楽しんでいたマックスとアリアに、俺はそう問いかけた。
「もう少ししたら、これをウォルで大量に作ってカミラギノクチに持ち込もうと思っているんです」
「……なるほど」
「……普通の果物やお野菜じゃ、……安すぎるわよねぇ」
そして、その理由も明かす。
腕を組んでマックスが、普段は優しげなアリアが眉間にしわを寄せて険しい表情で唸りだしたのを眺めながら、俺は目立たない程度に唇をつり上げていた。
「……」
「……」
そんな俺を見て何かに気が付いたのか、ハッとした表情を浮かべたアリスと。
そして、その背後に立てかけられたフォーリアルからの静かな視線を、俺は感じていた。
アリスは予想が付いていたから別として、マックスとアリアもあれだけ集中して食べていたという段階で、ラーメンという食べものが森人の味覚に適うことは確認できた。
その上で、2人は悩んでいる。
考えている。
つまり悩む程度には、考える程度には、ラーメンは2人の心を掴んだのだ。
そして、その想定する交換レートは、おそらく即答できないほどに高いのだろう。
が、それも当然である。
種族として滅んでいない以上、必須アミノ酸や油分を多く含む植物もおそらくネクタにはあるのだろうが、味覚が俺や他の種族と大して変わらないのは肉料理が好きなアリスや、マリアの干し肉への食い付きを見ればわかる。
そんな豆と野菜、果物だけで生活していた森人にとって、おそらくこのラーメンの味は衝撃的なほどに美味しく。
そして、未知だったに違いない。
森人たちが外の世界に目を向け、成長の必要を感じなければならないようにしてほしい。
俺は盟約の相手であり、妻であるアリスの契約者でもあるフォーリアルの言葉をないがしろにするつもりはない。
だから、森人に外の世界に目を向けさせなければならない。
成長の必要を感じさせなければならない。
そして、成長の必要を感じさせるとは。
敗北させる、ということに他ならない。
森人の現状を日本人としてイメージしやすいのは、幕末時代の鎖国だろう。
江戸幕府3代目将軍の時代から続いたその外交姿勢が揺らぎ、また日本の武士自身に疑問と不安を持たせたのは、外国から来航した黒船に代表される、圧倒的な武力と技術だった。
すなわち、恐怖と感動。
それは絶対に敵わないという劣等感であり、敗北感だったのだ。
翻ってこのカップ麺であるが、おそらく森人どころかこの世界の全人間が知恵を絞っても、同じものを作ることは絶対に不可能だろう。
マックスたちの説明では省いたが、スープに使われている具材や下味に使われている調味料の全てを足せば、50種類は軽く超えている。
その全てをこの固形の状態から割り出す事など、どう考えても不可能だ。
しかも、その中には巨大トビウオであるハネトの燻製や、この世界では食品として認知されていない、海草の乾燥粉末まで含まれているのだ。
イラ商会を通じて俺が用意したそれらの品物、すなわちカツオブシ (トビウオなので正確にはアゴブシ)やコンブの代替品の用途を、ミレイユですら看破することはできなかった。
その上、これをインスタント化させるには、最低でもフリーズドライレベルの脱水を行う必要がある。
この世界にそんな技術も発想もないし、そして魔法でも存在しない。
材料も作り方も不明のものを一から作り上げるのは、仮にあと100年かかっても無理だろう。
火を使わないでも調理できる。
最低でも1ヶ月は保管できる。
お湯を注げば3分で食べられる。
そして、ネクタでは絶対に作れない味である。
このカップ麺の存在を知り、そしてその味を知った森人が抱くのは、劣等感であり敗北感だ。
自分たちが知らなかった。
自分たちでは届かなかった。
そのときこそ初めて、彼らは外の世界の大きさを知ることになる。
ただし、それはネガティブなものであってはならない。
劣等感という名の、感動。
敗北感という名の、憧れ。
それは「美味しくて便利」という圧倒的な快楽によって、ポジティブに変換されたものでなければならない。
感動。
それは本質的に、劣等感と表裏一体の感情でしかない。
憧れ。
それは実際のところ、敗北感を言い換えた言葉でしかない。
善と悪が同一のものであるように。
根源的には、恐怖と快楽もまた同質のものなのだ。
……ならば、それが恐怖である必要は、別にない。
だから俺は、こう言い換えよう。
森人たちには、初めて見るカップ麺を純粋に楽しんでもらいたい。
そして、未知の味に対する感動と共に、劣等感を。
そして、絶対にたどり着けない技術に対する憧れと共に、敗北感を。
それぞれスープと湯気と共に、体の芯まで美味しく、熱いうちに味わってもらいたい。
その味に感動し、その温度に憧れたときこそ。
ネクタ大陸の森人は、無意識に敗北を知るのだから。
そして。
そのとき抱く感動と憧れの先には、ウォルがなければならない。
『海王』や魔物のいない安全な海と、自由な港。
そして木の大精霊の契約者とその夫が治める『魔王領』を、その感動と憧れを満たす場所にして貰わなければならない。
そうして森人が海を渡るようになって初めて、俺たちはネクタ大陸と意味のある盟を結ぶことができるようになるだろう。
「まぁ、今すぐでなくても構わないので」
俺がいない間も急ピッチで整備が進んでいるはずのウォルポートに思いを馳せながら。
俺は考え込んだままのマックスとアリアに、穏やかな笑みを向けた。
……ただ、まさか俺としても義理の両親を見ながらそんなことばかり考えていたわけではない。
アリスの家族であるこの2人やマリアたちは当然、俺の家族でもあるのだから。
「それから……、2ヶ月後をメドに、ウォルにいらっしゃいませんか?」
だから、俺が発したこの言葉にも、他意は何もない。
「アリスとの結婚式に、出ていただきたいんです」
本当に、それだけだった。
「ソーマ様、護衛の任、無事に終了いたしました」
「大精霊、海の魔物も大して強くなかったじゃねーか!
後でちょっと遊んでくれよな!!」
「ご苦労だった、シムカ。
……ヒエン、わかったから明後日までは大人しくしててくれ」
「ふぉふぉふぉ……!」
「……大丈夫だった?
お父さん、お母さん、お姉ちゃん?」
「……ああ」
「シムカさんとヒエン様のお陰で、快適な旅だったわよー?」
「あたしらの護衛のために木竜様と水の上位精霊様を寄越すって、……あんたら、やっぱりおかしいんじゃない?」
それから2ヶ月半後、俺とアリスは1ヶ月前に竣工したばかりのウォルポートで、『青の歓声号』から降りてくるマックスとアリア、マリア。
そして、その護衛と世話係として派遣した、シムカとヒエンを出迎えていた。
船酔いなのか緊張なのか若干顔を青くしているマックスと、ほんわかと笑うアリア、その横で疲れたように笑うマリアは、いずれも俺が初めて目にするローブ姿だ。
跪礼するシムカを労い、絡んでくるヒエンを捌いていると、さらにその後ろから緊張した面持ちのザザとコーザックも降りてくる。
今後のネクタとの交易を主として任せていきたいという考えから、『青の歓声号』の全員も式には招待していた。
「とりあえず、宿泊用の部屋へ案内します」
停泊中の船の管理に必要な最低人数だけを残して歩き出す俺たちの前には、5キロ離れているウォルとウォルポート間の往復用として準備した小舟が4艘、新たに掘った水路に係留されている。
そのそれぞれの船頭として水の上位精霊が控えている様子を見て、俺とアリスの後ろからは、シムカ以外の全員の溜息がまた上がった。
その翌日は、昼食が終わった直後から戦争のような騒ぎになっていた。
式は夕方からなのだが、ウォルポートの増設に際して新たにアーネル国内から大人を含む奴隷を購入した結果、ウォルの人口は住人だけで700名を超えている。
さらにザザたちや、モーリスたち騎士隊、普段リーカンとの間を往復している行商人、冒険者などを合わせた人数は、900を軽く超えてしまっていた。
しかもその内50人は、中位以上の魔導士でもある。
集会所の中、そしてその周りのスペースにイスやテーブルを準備するだけでも大騒ぎとなっており、夕食以外も合わせれば1万食近くを作らなければならなかった食事班は、ミレイユとロザリアを筆頭に死にそうな勢いで頑張っていた。
冗談混じりに、氷室の全食料を使いきってもいい、とは言ったものの、……これは本当にそうなるかもしれないな。
足りないテーブルやベンチを作ったり、各班長から報告を受けながら指示を飛ばしているこの間、俺はアリスの姿を1度も見ていない。
アリアとマリア、そしてアンゼリカの手によって、アリスは化粧と衣装の最終確認に入っていた。
大陸や国によってかなり異なるらしいが、この世界での結婚式の規模は決して大きなものではない。
少なくとも結婚式場という、それ専用の建物はなかった。
都市であれば、自宅に親族や親しい友人を集めてパーティー。
人口の少ない村であれば、全村民を挙げてのお祭り。
ちなみにネクタでは、一応前者のやり方に加えて区議会に届出を行うのがスタンダードらしいのだが、俺とアリスの居住地はあくまでもウォルだ。
しかも、その創設者兼、領主兼、大精霊とその契約者同士の結婚ということで、今日の式がどのような状況になるのか、それはもはや俺自身にも予想がつかないものとなりつつあった。
結婚式当日を怒涛のようだったと例える人がよくいるが、それもこんな感じなのだろうか?
確かに怒涛のように過ぎていくその時間の中で、太陽はゆっくりと空を横断していった。
「……」
「「……」」
やがてその時間となり、西側が赤く染まり始めた空の下で。
真新しい黒の上下に身を包んだ俺と、そして集会場に集まった人間は、しかしやや微妙な表情で前を向いていた。
その理由は俺の眼前、集会所から出てすぐの外。
「どうかしたかの、水殿?」
「……いや」
宣誓の相手となる場所、本来であれば村長や領主が立つべきその場所に突き立てられた、1メートルほどの太い枝の存在だった。
今日は、本来であればここに立つべき俺自身の結婚であり、また俺よりも目上の存在となると同じ木の大精霊たるフォーリアルくらいしか該当しないのはわかる。
30分ほど前にヒエンが杖をここに突き立てるときに、確かに俺も納得はした。
「ふぉふぉふぉ……」
「……」
が、これはどうなのか。
俺とアリスが誓いを述べるシーンが、かなりシュールになりはしないだろうか。
ふと周囲を見渡せば、何故か緊張でガチガチになっているシズイとサラスナの隣で、ヒエンがニマニマと笑っている。
自身が着飾り立てたアリスの登場を今か今かと待ち望むアンゼリカの笑顔の隣では、雰囲気に慣れないのかやはりサーヴェラも緊張しきっていた。
その隣では普段通りのミレイユがやはり普段通りの笑顔を浮かべており、目が合った俺に手を振ってくる。
その前ではマリアが、着慣れないのか鮮やかな黄色のローブの裾を捌いていた。
目が合ったモーリスは俺に敬礼を返し、ザザは隣のコーザックと小声で話し、はしゃぐキスカの代わりにイングラムが隣の誰かに謝っている。
その背後、周囲にも溢れる、人、人、人……。
さらに、その姿はある1ヶ所に移ると……一気に色彩がなくなる。
小エルベ湖の水面には、シムカやセリアースたちを先頭とした水の上位精霊たちが、100以上も佇んでいた。
マモーとの契約をどうしているのかわからないが、シムカの後ろにはレブリミまでいる。
……まぁ、俺たちらしいと言えば、俺たちらしいのか。
そう思い直し、フォーリアルに声をかけようかと思ったときだった。
カーン……、カーン……、カーン……。
普段は食事の時間を知らせる鐘をロザリアが叩き、今日の主役の。
俺の妻の登場を知らせる澄んだ音色を、村中に響き渡らせた。
「……」
「……」
「……」
「……」
その姿を見た誰もが、無言になった。
深い緑色のローブと、青色のローブ。
それぞれをまとったマックスとアリアの先導で現れたアリスは、それほどに……美しかった。
普段着ているバトルドレスと同じ、ノースリーブの白い絹と水綿製のローブは、しかしそのスカート部分は長い。
現世のように引きずるほどではないものの、そのシルエットはいつも見慣れているはずのアリスの姿を、やけに神秘的なものへと変えていた。
空を優しく照らす月光の色、瑠璃色がかった銀髪は耳の前の2房を残して結い上げ、銀製のバレッタで留めている。
その下の人形のような顔には、薄っすらと淡い化粧が施されていた。
前を、俺を見つめるその瞳の色は、深い、深い森の奥の大樹の葉の。
優しい、優しい緑色。
「……」
俺は人生で初めて、心臓が握りつぶされそうなほどに美しいものを見た気分になっていた。
「……?」
両親の先導が離れて、俺の隣に並んだアリスが無表情の俺を見て首を傾げる。
……綺麗だ。
……ありがとう。
顔を前に戻しながら、隣に立つアリスにだけ聞こえる声で俺がそう言うと、同じように小さな声でアリスは微笑んだ。
「……それでは、始めようかの?」
共に並んだ俺とアリスが前を向いたのを待って、フォーリアルは厳かに告げる。
その瞬間に、眼前の杖の周囲の地面が割れ、1メートルほどだった杖は急激にその長さと太さを増し始めた。
どよめく俺たちと参加者の前でその巨大化はさらに続き、枝が伸び、天を隠さんばかりに葉が茂りだす。
それと同時に、俺の【水覚】には集会所に集う人間のその周囲に、突如大量の人影が現れたのを知覚することができていた。
周囲に生えている芝生や木、野菜や湖のほとりに自生する花……。
ムーを筆頭としてそれぞれを媒介にして現れた100近い木の上位精霊たちが、シムカたち水の上位精霊と同じように整列し、やがて跪礼姿勢をとる。
「汝らは共に歩み……」
カミノザに君臨していた自身には及ばぬものの20メートルに達する大木と化したフォーリアルは、最古の大精霊にふさわしい、慈愛と大きさを感じさせる声で言葉を紡ぎ始めた。
「共に闘い、共に守り……」
それは、予想に反して、とても簡潔だった。
「共に想い、共に愛し、そして共に生きることを……、互いに誓えるか?」
だが、それはとても重たい言葉だった。
共に歩み。
共に闘い。
共に守り。
共に想い。
共に愛し。
そして、共に生きる。
この世界の全てを見つめ続けてきた大精霊から問われたのは、ただそれだけで。
そして、それが全てだった。
「「……」」
俺とアリスは互いを見つめ合い、そして微笑み合う。
……そして。
その全てを、俺たちは。
「「誓う」」
俺は、アリスと共に生きることを。
アリスは、俺と共に生きることを。
互いに誓った。
「ふぉ……、よろしい!
なれば同胞、この2人の未来を讃えよ!
愛を讃えよ!
ここに2人は、夫婦となった!!」
歓声が爆発する。
人間が。
森人が。
獣人が。
魔人が。
奴隷が。
騎士が。
商人が。
冒険者が。
竜が。
精霊が。
等しく、俺とアリスの愛を讃えてくれていた。
その祝福の歓声の中、俺とアリスは微笑みと共に口づけを交わす。
この世界で失うだけでなく、手に入れられたものもあったのだと、俺は初めて気が付いていた。
顔を上げた俺とアリスは、振り返って皆と同じように笑う。
俺たちは確かに、幸せだった。
こうして、アリスは俺の。
俺はアリスの。
家族となった。




