守るべきもの、変わるべきもの 後編
「俺は……、この世界の人間じゃない」
日が落ち、昼間の『海王』襲来に伴う騒ぎがようやく落ち着いた夜。
森猫亭の一室、ベッドの中で俺とアリスは隣り合い、天井を眺めていた。
重苦しい雰囲気の中で飲み込むように食事を終え、それぞれが無言のままシャワーを浴び、どちらからともなく早々に床に就く。
唇や体、言葉さえも交わすことなく数分が経過した後、俺はそう切り出した。
「……」
風が通るように少しだけ隙間を開けた窓からは、障子紙を通して青い月の光がぼんやりと俺たちにかかっている。
それぞれ下着姿のまま上を向いている俺とアリスの上半身だけが、その形に切り取られていた。
俺の右隣で体を横たえるアリスから、俺の言葉に対する反応はない。
それでも、アリスの心中が平静でないことくらいは俺も理解できている。
……やはり、いつまでも黙っていることではなかった。
俺は、暗い天井を見つめたまま、その全てをゆっくりとアリスに話し始めた。
「俺がいた世界には精霊もいなかったし、魔物もいなかった。
動物や魚、人間はいたけど……、森人、獣人、魔人。
そういった種族はいなかったし、それに……魔法なんてものもなかった」
「……」
「代わりに、俺のいた世界では科学技術が発達していた。
魔法がなくても空を飛ぶ乗り物はあったし、人間より遥かに頭のいい機……道具も、時間をとれば【治癒】くらいの回復ならできる薬や技術もあった。
人を何万人も救うことも、殺す事も、俺のいた世界では魔法なしでできていた」
魔法があるのが当然であり、科学や化学の概念がない世界の人間であるアリスに、現世のことを伝える。
体にかかるシーツの生ぬるさを感じながら、俺は初めてその難しさに気が付いていた。
これまで自分が、本当に一切のことを話していなかったということに、今更小さな驚きと。
そして、激しい自己嫌悪を覚える。
できるだけわかりやすく、正確に、……そして正直に。
俺は暗闇の中で、必要な言葉を探し続けていた。
「俺はその世界で、母親と暮らしていた。
物心がついたときには父親はいなかったけど、離婚……一緒に暮らしていなかっただけで、死んだわけじゃなかったらしい。
でも、俺は父親に1度も会ったことがないし、顔も名前も知らない。
……別に、会いたいと思ったこともなかったな」
俺に父親がいなかった理由を、実は俺もよくは知らない。
母親は当時7歳だった俺にその理由を話す前に狂い……そして自ら命を絶ったし、数度だけ顔を合わせたことのある祖父母もその男についての話だけは頑なに口を開こうとしなかった。
自分の父親に対して俺が持っている情報は、本当にそれだけだ。
そして、それは父親に対する感情についても同じだった。
別に嫌いなわけでも、憎んでいるわけでもない。
嫌えるほど、憎めるほどの情報を持っていなかったのだから仕方ないだろう。
俺にとって父親とは、「知識としてはあるが、自分には存在しないもの」でしかなかった。
それから、もう1人の家族のことも話す。
「……あと、朱美…………。
1つ下の……妹がいた」
「……」
朱美。
その名前を口にしたとき、俺の口調は努めて平静だったと思う。
が、沸騰するような、しかし凍てついたような想い。
怒りなのか、悲しみなのか。
悔恨なのか、諦念なのか。
自分でも正体のわからないその感情が俺の唇からは漏れ出ていたのか、隣で無言を貫いていたアリスは一瞬だけ体を動かした。
「当時6歳で、ポテトフライが好きでピーマンが嫌いだった。
お花屋さんかアイドルになるのが夢で、算数が苦手だった。
ペットを飼えなくて、泣いてたこともあった。
動物が好きで、シカを見に行くのを楽しみにしていた。
……生意気だったし、俺と何度も喧嘩もした。
けど、……かわいい妹だった」
俺が物心ついたときから、朱美は俺の妹としてそこにいた。
それから朱美が消え、母さんが壊れるまでの朱美の姿を、俺は必死に思い出す。
「ランドセルを背負って走り回ってた。
ハーモニカを壊した。
母さんに甘えるのが上手かった。
イチゴが好きだった……」
笑顔、泣き顔、怒った顔、笑顔……、笑顔。
天井が、揺らぐ。
「母さんのことも俺のことも大好きだったし……。
母さんと俺も、朱美のことが大好きだった。
俺の大切な、家族だった」
「……うん」
アリスが、こちらに顔を向けているようだった。
その声から、俺が今どんな顔をしているのかも何となくわかる。
生身に戻している俺の右手に、あたたかいアリス左手が触れ。
そして、俺の手をしっかりと握った。
「今から10年前、いや……もうすぐ11年か…………。
朱美は6歳のとき……」
その温度を、俺は必死に確かめる。
話しながら、俺は自分の体が。
皮膚が溶け、肉が崩れ、神経が剥がれ、骨がバラバラになり。
そして、心が砕けてしまうような。
そんな錯覚に陥りつつあった。
「この世界に召喚されて、殺された」
「……!」
氷のような俺の声に、アリスの手が強く震えた。
「エルベーナは10年に1度、水の大精霊に……生贄を捧げていたらしい。
朱美は…………、それで死んだ。
母さんは朱美がいなくなった後に発狂して、……7年後に、自ら命を絶った」
俺は言葉を紡ぎながら、嘔吐しそうになっていた。
胃、あるいは心臓のあたりから込み上げてくる何かを必死に押さえ込みながら、俺は右手の、アリスの左手の感触だけを確かめる。
暗順応と月明かりでそろそろよく見えるはずの天井が、しかし俺の瞳には映らない。
ただ、冷たく黒い闇だけが広がっていた。
「それから3年、……お前と出会う、半月前に。
俺もこの世界に、エルベーナに、朱美と同じく大精霊への生贄として召喚された」
冷たい言葉。
「そのまま湖に放り込まれて……、そこで俺は……アイザン、その大精霊と会った。
そして……、朱美が…………この世界で死んだことを、知らされた」
凍てついた言葉。
「先代の大精霊を死なせ、エルベーナを滅ぼしたのは……、……俺だ」
氷のような、俺の言葉。
「……」
アリスは、長く静かな溜息をついた。
「アイザンは、朱美を喰ったことの贖いとして、俺に力を譲って死んだ。
エルベーナの連中は、俺がその力で皆殺しにした」
「……」
「その後ラルクスに向かって……、それからお前と森の中で出逢った。
それで、全部だ」
「……」
何一つとして楽しくも面白くもない俺の話は、もうすぐ終わる。
それを聞くアリスは、ほぼ無言だった。
「俺が時の大精霊を支配下に置きたいのは、朱美を殺した召喚魔法……【異時空間転移】を。
俺の家族を殺したあのふざけた魔法を、二度と使わせないようにしたいからだ。
そのためなら、俺はどんな手段でもとる。
人間も、精霊も、魔法も、世界も、その邪魔をするなら……叩き潰す」
「……」
自分でも驚くほど、俺の声には躊躇いがなかった。
そこに込められた思いこそ、まるで俺が作りだす純水のように容赦がないほどに透明だったが……、あたたかいアリスのそれと比べれば、その内容は氷のように酷く冷たいものだった。
「俺がこの世界で生きている目的は、……それだけだったんだ」
他には、本当に何もなかった。
そして、そんな存在を俺はまともだとも、恰好いいとも思わない。
そんな存在は、破綻している。
狂っている。
……だが。
「でも、俺がお前の夢を。
……そして、何よりお前自身を大切に想い、守りたいというのは本当だ。
その気持ちに、嘘はない」
朱美を奪われ、母を壊され、自身も殺されかけて尚、それでも俺が短絡的に、感情的に、無慈悲に。
この世界を壊しにかからなかったのは。
この世界を殺さなかったのは。
命をもって命を償うという、アイザンの贖罪と。
命を捧げて命を救うという、アリスの心。
ただ単純に、この2人の心の在り方に俺が救われたからだ。
暗く冷たい闇の中で、それだけがあたたかく俺を導く光明だったからだ。
おそらくはそれだけが、この世界の贄とされ魔に堕ちた俺を、冷たい水の底の、真の虚無から救い出してくれたからだ。
だから、俺はアイザンに報いる。
だから、俺はアリスを愛する。
「俺はお前に……救われたんだ。
だから、俺の全力と全存在を懸けて、お前を守る」
天井を向いたまま、俺はアリスにあらためて誓う。
「それだけは、約束する」
生贄の蒼馬ではなく。
当代の水の大精霊、ソーマとして。
「……あなたは、この世界が嫌い?」
数分の沈黙を置いて、アリスからは静かな問いかけが発せられた。
非難、軽蔑、義憤、……恐怖。
そこには、俺がぶつけられることを覚悟していた数多の感情のいずれもが、内包されていない。
悲哀と、慈愛。
痛ましさを必死で抑えようとする小さな声には、それだけが滲んでいた。
「嫌いだな」
「……」
目を合わせられないまま、しかし即答した俺に、隣で小さくアリスが溜息をつく。
実際、アリスがいなくなれば、俺がこの世界で生き永らえなければならない理由はない。
時の大精霊を見つけられるまで世界を押し流して、あの魔法を叩き潰して……それで終わりだ。
その後にもその先にも、きっと俺には何もない。
『浄火』。
かつて世界の半分を焼き払い大陸を2つを滅ぼした存在の気持ちが、俺は少しだけわかるような気がしていた。
おそらくは、『浄火』も俺と同じで世界を変えたかったのではないだろうか。
そして、きっとこの世界が嫌いだったのではないだろうか。
そして、きっと独りだったのではないだろうか。
「……ソーマ」
……俺の顔があたたかい両掌で包まれ、右に傾けられる。
緑色の瞳。
「どうすれば、あなたは笑ってくれる?」
深い、深い森の奥の……優しい、大樹の葉のような色。
涙に濡れた、アリスの瞳。
「どうすれば、あなたは幸せになれる?」
そして。
そこだけが、俺が『浄火』と大きく違う部分だった。
「あなたが、異世界の人でも構わない。
精霊を、人間を殺していても構わない。
『魔王』でも、この世界が嫌いでも……構わない」
アリスは、泣いていた。
「私は、……まだ、あなたを救えてなんていない!
私にできるのは、あなたを愛して、あなたと一緒にいてあげることでしかない!」
俺の瞳を見つめながら、俺の為に泣いてくれていた。
「何もないなんて、言わないで!
どうすれば、あなたは笑ってくれるの?
どうすれば、あなたは幸せになれるの!?」
俺の首元にすがりつく形となったアリスは、ただ嗚咽する。
伝う涙が、あたたかい。
それは、まるで俺の代わりにアリスが泣いてくれているようだった。
「……」
反射的に腕を回し、しかし俺はその問いにすぐに答えられない。
泣きじゃくるアリスの頭を掌で包みつつ、俺はただ自分自身の心を見つめ続ける。
今まで見ないようにしていた心の奥の、さらに奥を見つめようとする。
思い出す。
考える。
探す。
暗く、黒く、冷たいその場所で、求める。
渇かず、飢えず、凍えず、そして強くとも。
俺が、手に入れられていないもの。
俺が、奪われたもの。
失ったもの。
欲しいもの……。
……ああ、そうか。
そうだったのか。
その正体に気がついた瞬間、俺の両目からもあたたかいものが溢れる。
体を震わせるアリスを強く、優しく抱きしめる。
鼻の奥が、痛い。
でも、あたたかい。
俺が心から笑うために、欲しかったものは。
俺が幸せになるために、求めていたものは。
「家族が、欲しい」
俺が、この世界に奪われたものだった。
「……ソーマ?」
家族が欲しい。
一緒に笑って、一緒に怒って、一緒に泣いて、一緒に暮らす家族が欲しい。
同じものを食べて、同じ所に住んで、同じ道を歩いて、同じ夢を目指す家族が欲しい。
ただいま、おかえり、いただきます、ごちそうさま、おはよう、おやすみ。
そんな風に毎日言い合える、家族が欲しい。
一緒に幸せになれる、家族が欲しい。
俺はもう1度、家族が欲しい。
……俺はアリスと、家族になりたい。
俺は、アリスの……家族になりたい。
アリスを抱擁したまま俺が零した一言で、アリスは涙でグシャグシャになった顔を上げた。
しゃっくり上げながら、氷が融けたように涙を流し続ける俺の黒い瞳を見つめる、緑色の瞳。
優しい、優しい緑色。
俺を救い、愛し。
笑って、幸せになってと泣いてくれる、森人の少女。
アリス。
「生涯……、渇かず、飢えず、凍えさせないことを約束する。
俺を裏切っても、嫌いになっても、強くなくても、構わない。
この全力と全存在を懸けて、守り続けると誓う。
だから……!?」
「……ううん」
その瞳を見た瞬間、反射的に告げようとした俺の……。
後から冷静に考えればあまりに実務的な、しかし正直に約束しようとした唇を、アリスが自身の唇で塞ぐ。
塩味のキスの後で、アリスは泣き笑いながら首を小さく横に振った。
そしてそのまま、約束を重ねる。
「あなたの隣でなら、渇いても、飢えても、凍えてもいい。
生涯あなたを裏切らないし、嫌いにならないし、……それに、私も強くなる。
あなたに守られるだけじゃなくて、あなたの隣で……一緒に闘えるように」
そして、幸せでたまらないといった風に笑う。
それは多分、……俺も同じ表情をしていたからだろう。
「「愛してる、結婚しよう」」
俺とアリスのシンプルな、しかしとても大切な誓いの言葉は。
互いの唇と共に、綺麗に重なった。
「水殿、そしてアリス。
よくぞこのネクタの大地と、住人を守ってくれた。
まずはこのフォーリアル、この地を治める木の大精霊として深く感謝する」
「……い、いえ」
「俺だけでできたことじゃないし、森人の説得はあんたの権威があってこそだ。
盟約の分の仕事を果たした、と思ってくれればいいさ」
戦闘を含め踏破に1週間かかった聖域も、氷で風防を張った木竜の背の上にいれば1時間強で着いてしまう。
翌朝、制度的にも物理的にも、いまだ昨日の混乱から立ち直れていないカミラギと区議会を完全にすっ飛ばした俺とアリスは、カミノザの深奥に君臨する大樹、フォーリアルの前に並んで立っていた。
開口一番、謝意を示すフォーリアルと、共に頭を下げるムー。
俺たちを降ろした後に人の姿となり、その隣に並んで同じ姿勢をとるヒエン。
恐縮しきりのアリスの隣で、俺は事実に基づいた分だけの謝意を受け取る。
俺とアリスが結婚する話は……、まぁ、この場でする必要はないだろう。
順序的には先に、……マックスとアリアから、許可を貰わなければならないしな。
そして、何より。
「あんたには、……聞きたいこともあるんだしな」
「ふむ……、そうじゃったの」
召喚魔法、【異時空間転移】。
それに関する話を聞きたい。
「……」
先程までの笑みを消して黒い瞳を眼前の巨木に注いだ俺の横顔を、アリスが見つめた。
が、今の俺の心の中には激情だけではなく、凪いだ水面のような落ち着きも広がっている。
その理由は、語るまでもない。
緑色の視線に一瞬だけ視線を返すと、アリスの瞳には安堵と覚悟の色が広がっていた。
「先に断っておくが、儂もあの魔法の……全てを知るわけではない。
ただあの魔法……【異時空間転移】は儂が知る限り2千年以上前、『創世』の時代から存在していたはずじゃ」
ムーとヒエンに何かを言いつけて一旦下がらせたフォーリアルは、重々しく口を開いた。
その見識と記憶の全てをさらい、何かを探すかのように、その口調はゆっくりとしたものだ。
「そして、あれは魔導ではない」
最古の大精霊の言葉は、自身の後方から何かを持って戻ってきたムーとヒエンを気にしながら、短く続く。
土に汚れた結晶のようなものを両手で包みこんだムーと、まるで戦闘中でもあるかのような緊張感に満ちたヒエンが、俺の前で立ち止まった。
「その立体陣形晶という特殊な魔具でしか発動しない、時属性の召喚霊術じゃ」
「「!!」」
俺を、ミレイユを、『海王』を。
そして、朱美をこの世界に引きずり込んだ、忌まわしき魔法。
【異時空間転移】。
その正体を、俺が初めて目にした瞬間だった。
「その魔法は魔力と、そしてそれを使う者の強い『願い』によって発動する。
……水殿、昨日の礼として進呈しよう。
ただ、扱いには気をつけるのじゃぞ?」
「……ああ」
冷静であるとはいえ、油断すれば爆発しそうになる自身の魔力をフォーリアルの言葉と共に必死に抑えつけながら、俺はムーからそれを受け取った。
紫色のガラス、あるいはアクリルのような硬く透明な物質でできた正六面体。
左手の掌に乗るほどのサイズのそれは、大きめのダイス、もしくは小さなルービックキューブのようだった。
フォーリアルの後方に広がる森の中、そのどこかに埋めていたのだろうか。
手袋に包まれた指で表面の濡れた土を拭うと、その中心には黒い染料で描かれた球状の模様。
……いや、これは魔法陣か?
旅先のお土産ものとして売られているような、レーザーでクリスタルの内部にだけ模様を彫り込んだ工芸品。
あれと同じ要領で、立体陣形晶の中心には黒い、精密で緻密な魔法陣が描かれていた。
形としては【時空間転移】のそれとよく似ているが……、しかし、その複雑さは比較する気にもにならない。
何より、精緻かつ正確な真球をかたどったその魔法陣には、覗き込む者にその直視を躊躇わせるほどの禍々しさと……。
そして、それだけではない深い執念、……あるいは怨念と言ってもいいほどの強い意思のようなものが感じられた。
「ソーマ?」
「……大丈夫だ」
若干気分が悪くなった俺は、手の上の立体陣形晶から視線を外し、周囲の緑色の景色で瞳を休ませる。
後頭部の辺りに生じた熱っぽい不快感と、胃から何かがせり上がってくるような錯覚。
おそらく、顔色も悪くなっていたのだろう。
心配そうにこちらを見るアリスに片手で返事をし、俺は口の中に生成した冷水を無理矢理飲み込んだ。
……落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと深呼吸をする。
激情で逆流しそうな血液に酸素を供給し、俺は必死に今やるべきことを再確認した。
「……どうやって手に入れた?」
が、数度の深呼吸の後に発した俺の声は、それでも少し掠れたものだった。
「100年ほど前にカミノザに密入国しようとした、人間が持っていたものじゃ。
ヒエンが葬った後に、荷物の中から出てきた……んじゃったかのう?」
「……ああ。
ただ、どこの奴らだったかまでは覚えてねーぜ?
大して強くもなかったしな……」
しかしその点には触れず、フォーリアルとヒエンも俺の問いに淡々と答える。
約束通り、教えられることは教えてくれるつもりらしかった。
「なら、使い方は誰に聞いた?」
「過去……創世期に、儂が出会った魔導士からじゃの。
そして、それを作った男でもある」
「……誰だ?」
フォーリアルの言葉を聞きながら、俺は呼吸が止まりそうだった。
思い当たる人物が、1人しかいなかったからだ。
「ふぉ……、決まっておろう。
『創世の大賢者』……、ヤタじゃ」
「「……」」
世界第2位の魔力を誇る俺も、そして同じく3位のアリスも。
その名前の前には、沈黙せざるを得なかった。
ヤタ。
歴史書では今から2千年以上前に活躍したとされる、時属性魔導士。
この世界の身分証明書である、自陣片の開発者。
そして、魔法陣を用いた霊術の基本概念を確立した存在。
その魔力1千万以上だったとされる、『創世の大賢者』。
もちろん、俺もヤタの存在を知らなかったわけではない。
だが、流石に歴史書の登場人物を容疑者には加えていなかった。
今現時点をもって、この世界にとってヤタの存在はもはや歴史の一部であり、文字通り伝説でしかなかったからだ。
しかし、【異時空間転移】。
そして、立体陣形晶。
その伝説の存在ならば、確かにこの2つを創り出せたとしても不思議ではない。
さらに、その創世の時代から生きる最古の大精霊は、その歴史を、その伝説の断片を語りだす。
「そもそも、その魔法はお前さんたちが創世期と呼んでおる時代や……、それより前の時代では、それほど珍しいものではなかった。
この魔法は、単純に【時空間転移】や【召転】の上位魔法として、考案されたものだったからじゃ。
とは言っても、ヤタしか扱えず、その立体陣形晶もヤタにしか作れなかったがのう……」
オリハルコンの鐘を基点に、国家内の主要都市へ自由に転移する【時空間転移】。
同様に、霊字を刻んだ非生物を自身の下へ転移させる【召転】。
その上位互換。
すなわち、国境も大陸も越えて、自由な場所へ。
すなわち、非生物に限らず魔物も、人間もその禁はなく。
「大陸も、時間も、世界の隔たりすらも越えて、何の代償もなく使った者の願いを実現する。
込めた魔力の分だけ、強く、大きなものをこの世界に呼び出せる……。
当時、それはまさしく夢のような魔法であり、……そして、悪夢のような兵器じゃった」
願いに応じて慈しみ深き救いも、無慈悲なる破壊ももたらす超魔法だったのだと、フォーリアルは畏れ、嘆き。
「……【異時空間転移】は数多の奇跡と、それを遥かに上回る悲劇をこの世界に呼び込んだ。
現に、今の暦が始まる時代の前にこの世界は1度滅びかけておる。
その大半が、【異時空間転移】が発端になって起こったことじゃ」
その歴史と伝説の結末を、まるで昨日のことであったかのように語った。
その声が震えも、嘲りも、憤っても、悼んでもいないように聞こえるのは、ただ単に、おそらくは2千年という膨大な時間がその全てを封じ込めたからだ。
「故に創世の折、ヤタ自身がこの魔法の存在を秘匿し、隠滅した。
今日に至るまで【異時空間転移】の存在が公になっておらぬのはそういう理由じゃ」
しかし、それでも風化はしなかったその言葉は、結びの一言に至るまで形容しがたいほどの感情と、そして疲労に満ちていた。
俺とアリス、そしてヒエンにしても、初めて知ったこの世界の知られざる歴史に、ただただ圧倒されている。
俺の左手に乗る、冷たく硬い立方体。
そこに込められた歴史と真実。
そして、それが俺の運命を狂わせたのだという事実が、少なくない衝撃を俺に与えていた。
が、その一方で。
俺の頭のどこかでは、冷静な喜びも湧き上がっていた。
突如鳴り響く、甲高い金属音。
「「「「!!!?」」」」
左手が高く投げ上げ、そのまま落下し始めた立体陣形晶を下から迎える形で振り上げられた【白響剣】は、その勢いのままに忌まわしき魔法を両断した。
絶句するアリスとフォーリアル、ムーとヒエンが見つめる中、滑らかな正方形の断面を見せて地面に落ちた紫色の結晶は、草の上で粉々に砕け散る。
精緻な魔法陣を描いていた黒い霊墨が、緑色の大地の上を影のように汚していた。
「……霊術ということは、こうやって世界中の立体陣形晶を全て破壊すれば……【異時空間転移】は封じられるんだな?」
仇とも言える超魔法を斬り捨てた【白響剣】を解除し、眼前の大精霊にそう確かめた俺の唇は、ゆるくつり上がっていた。
この世界の歴史や伝説には悪いが、俺が聞きたかったのはこの部分だけだ。
黒い瞳には、攻略の糸口を掴んだ静かな興奮が宿る。
この世界に存在する全ての立体陣形晶を破壊すれば、【異時空間転移】は根絶できる。
創世期の遺物を扱っているような学者、骨董屋、……そして国家中枢の宝物庫。
すぐに思い当たるとすれば、そんなところだろうか。
そしてそれらを効率的に、かつ1つも残すことなく調べ上げ、全ての立体陣形晶を破壊し尽くすには。
やはり、この世界の掌握が必要だ。
「……話の筋としては、その理解で正しかろう」
俺の凶行をどう受け取ったのか、数瞬の間をおいてからフォーリアルはそれに頷いた。
が、口元の弧を深くする俺に対して、木の大精霊は重々しく言葉を付け加える。
そこには隠しきれない憂慮と不安、そして疑念に満ち溢れていた。
「が、儂もまたこの世界の全てを知っているわけではない。
この世界にどれだけの立体陣形晶があるのか、またどれだけの人間がその存在を知っているのかは見当もつかぬ。
現に、昨日も『存在しないはずの魔法』が使われたのだしのう……。
その【異時空間転移】は、まさしく世界の理を曲げる魔法じゃが……、やはり、この世界で使うべき魔法ではない。
あれがどれだけ危険で、この世界の者の手に負えないものかは、お前さんたちもよく思い知ったじゃろう?」
「ああ、……身に沁みてな」
「……」
それを受けた俺の肯定に、アリスは一瞬だけ瞳を閉じた。
そして、俺と共にフォーリアルを見上げる。
黒い瞳にも緑色の瞳にも、もう迷いや恐れはない。
「だからこそ、俺はこの世界を変える。
壊すべきものは壊すし、倒すべきものは倒す。
守るべきものは守るし、変えるべきものは変えてやる」
まずは俺が唇をつり上げ、不敵に笑った。
確かに、壊すべきものがどれほどあり、倒すべきものがどれほど強いのかはわからない。
だが、俺は必ず勝つ。
自分の大切なものを今度は守りぬき、必ずこの世界を変えてやる。
「……私も、この世界に【異時空間転移】が必要だとは思いません。
不幸や悲劇を生まないためにもそんな魔法はなくすべきですし……。
それに、そんなものに頼らなくてもいい世界になれば、いいんでしょう?」
俺に続いて、アリスも小さく笑った。
なぜなら、俺はもう独りではない。
「私もソーマと一緒に、闘います」
俺の隣には、アリスがいるのだから。
「ふぉふぉ……、戦争の根絶に、【異時空間転移】の根絶。
どちらも、本当に世界を統べ、変える覚悟が必要じゃのう?」
俺たちの視線と言葉を受けたフォーリアルは、穏やかな笑みをこぼした。
重々しかったその口調には、軽やかさが戻り……。
「そう言えば、契約がまだじゃったの……。
……ふむ、よろしい、アリスよ。
その力と心、夢と器にふさわしき強さを与えよう」
そして、最古の大精霊としての悠然とした威厳が溢れる。
同時に、名前を呼ばれて緊張の面持ちとなるアリスの名を呼ぶその声は、しかし優しさと慈愛に満ちていた。
「強く、賢く、優しく、そして愛しき我らが同胞よ」
圧倒的な、大きさ。
力だけではない、強さ。
甘さではない、優しさ。
全身を包み込むような魔力の奔流はどこまでも力強く、そしてあたたかい。
「これより、このフォーリアルもお前たちと共に歩もう」
天を隠す大樹の梢から乾いた音と共に降り落ち、地面に突き立つ1本の杖。
1メートルほどの太い枝をそのまま無造作に手折ったかのようなそれからは、しかし莫大な魔力と生命力が発せられている。
「共に、世界を守り……。
そして、世界を変えようぞ!」
最古の大精霊、フォーリアルが真の意味で俺たちの盟軍となり。
そしてアリスが、木の大精霊の契約者として認められた瞬間だった。




