守るべきもの、変わるべきもの 前編
召喚魔法の光。
が、以前のミレイユのときのようにそれを見た俺が、感情を爆発させることはなかった。
まるでこの場に繋ぎ留めようとするかのように、俺の左手を強く握るアリスの両手の感触。
その細く白い指に込められた力が俺の心に冷静さと、そして結局何も話していないという後ろめたさを湧き上がらせていたからだ。
傍らのアリスに、俺は視線を向ける。
瑠璃色がかった、まるで月の光のような銀髪。
人形のような、白い肌。
強く結んだ唇と、心中の感情を押し殺した緑色の瞳。
大樹の葉の優しさと、エメラルドの透明さを宿したアリスの視線。
「……大丈夫だ」
「……そう」
その、何でもない、といった風のやり取りが心に痛い。
不実を感じながらもそれに触れない黒い瞳と、不安を感じながらもそれを口に出さない緑の瞳。
短く、小さく交わした俺とアリスの言葉は、異様な光景の中でどこか平坦に、空々しく聞こえた。
一方で、遥か彼方とは言え北西の空一面を覆うその禍々しい色の光はまだ、俺たちをその色で照らし続けている。
紫と、白と、その中で踊る細い鎖のような黒。
「……フォーリアル、あれは何だ?」
身を寄せるアリスの隣。
手袋に包まれた右手を目の上にかざしながら俺は、やはり同じ色に染められているフォーリアルに視線を向ける。
最古の大精霊ならば知っているかもしれないという期待と、その正体に対する。
そして、……自分自身に対する深い嫌悪。
「……おそらく、【異時空間転移】……かの」
「!?」
この世界に存在しないはずの、悪しき召喚魔法。
しかし眼前のフォーリアルは何かを迷いながらも、そんな俺の逡巡を見透かしたかのように、その名前をあっさりと口にした。
【異時空間転移】。
朱美を殺し、俺の運命を狂わせ、ミレイユという魔人をこの時代に喚び出した魔法の名前を。
それは何だ?
誰が創った?
どうしてその存在が知られていない?
誰が使った?
どうやって使った?
そして。
何のために使った?
突然与えられた解答と、何かの手がかり、あるいはそのまま真実を知るかもしれないフォーリアルに対して、俺は叫び出しそうになる。
いまだ俺の左手を強く握り続けているアリスがいなければ、俺はフォーリアルに刃を突き付けていたかもしれない。
そんな興奮と憤怒、狂喜と激情で狭まりそうだった視界にゆっくりと戻る、穏やかな緑色。
徐々に、【異時空間転移】の光が弱くなっているのだ。
「儂が教えられることは、教えよう。
じゃが……後でもよいな、水殿?」
「……ああ」
その方向。
今は完全に消えてしまったその召喚の光が立ち昇っていた方向の空から、大きな物体がこちらに墜ちてくる。
所々エメラルドのような鱗が剥げ、赤い血が滲み、ボロボロになった15メートルほどの巨体。
そして、その隣から下草を媒介に立ち上がる木の上位精霊。
「ジジィ、やべーぞ……」
「父上、『海王』じゃ」
息も絶え絶えになったヒエンと深刻な声音を浮かべたムーが、俺たちの前に現れた。
『海王』。
『青の歓声号』のザザとコーザックとの話で出てきた、巨大な魔物。
シーサーペント、もしくはクラーケン。
つまりは巨大なヘビか、タコ。
「「……」」
「……アリス、ヒエンの回復を頼んでもよいかの?」
「は、はい!」
「悪ぃ……」
異時空間、ではないのか?
予想もしていなかった召喚された者の正体に俺とアリスが黙りこむ中、フォーリアルからアリスに声がかかった。
人型に戻りその場で仰向けに倒れ込んだヒエンに、それを受けたアリスが駆け寄る。
外見の状態からして左腕と左肋骨、右ももは骨に異常があるようだ。
口から流している血の色もどす黒く、内臓にもダメージがあるのだろう。
薄緑色の霊墨で手早く【完全解癒】の魔法陣を描くアリスの下で、しかし。
「クヒヒ……、参ったな……!」
当の木竜本人は、理由のわからない薄ら笑いを浮かべていた。
「……ヒエン、ご苦労じゃった」
「おう……。
でもジジィ、洒落になんねーぞ……アレは」
ややトーンの落ちたフォーリアルからの労いと見舞いの言葉に、無事らしい右腕を小さく上げてさらに木竜は嗤う。
討伐に国家戦力が必要な、世界で最強の生物。
その中でも最強の、霊竜。
「少し寝ておれ、ヒエン……」
俺の通常砲撃魔法に無傷で、直撃ではなかったとはいえ【氷艦砲】にすら耐えた戦闘狂をここまで追いこんだ怪物の正体とそれを取り巻く信じ難い状況を、木竜を労わる台詞の後に、再度ムーが告げた。
「父上、水殿。
カミラギノクチから沖合およそ2キロの地点に『海王』と思われる巨大な魔物が出現、余波で防波壁の一部が破壊された。
今はまだ動いてはおらぬが、陸に上がられればノクチもカミラギもただでは済まんぞ」
「「!?」」
防波壁が破壊された。
この部分を聞いて、俺とアリスは一気に状況の深刻さを理解する。
『青の歓声号』でカミラギノクチに入港する際に俺たちも見かけた防波壁は、湾内への魔物の侵入を防ぐための巨大な丸太でできた構築物、高さ20メートルを超える都市壁以上の頑強さと規模を誇っていた代物だ。
それが、2キロメートル離れた所から余波で破壊されただと?
「……」
「「心配ない、アリス」」
「……うん」
自分の家族が住む地が、危険かもしれない。
その事実に激しく反応したアリスに対して、俺とフォーリアルの声が重なった。
白い手が地面に霊墨を撒くスピードが、さらに上がる。
「意思の疎通は図れそうか?」
淡い光と共にアリスが【完全解癒】を発動させる。
その中で、フォーリアルはその魔物とのコミュニケーションの可否をヒエンに問いかけた。
「いや……、一応試してみたけど無理だと思うぜ。
問答無用で叩き落とされたからな」
「彼の者には気の毒じゃが、あれはもはや存在自体が災害じゃ。
言葉で解り合えぬなら、早く排除した方がよいかと。
父上、ご決断を」
しかし、むくりと起き上がりながら答えたヒエンの言葉、そしてムーの言葉はその可能性を否定するものだった。
「……やむを得んな」
全幅の信頼を置いているであろう霊竜と上位精霊筆頭の言葉に、重々しくフォーリアルが頷く。
確かに現状、カミラギノクチの防波壁以外に直接の被害は出ていないらしい。
が、防波壁をその余波だけで破壊するような存在を放置するわけにもいかない。
「俺が出よう」
俺は、木の大精霊を見上げた。
本音を言えば、【異時空間転移】のことを問い質したい。
だが、確かに詳しい話は後だろう。
今やるべきことは、そんなことではない。
「ノクチもカミラギも、必ず守る。
安心しろ、アリス」
「うん、……お願い、ソーマ」
今やるべきはアリスの家族を、そしてノクチの人間と森人たちを守るために行動することだ。
ここでこの状況を放置すれば、森人と他種族の関係の改善も自発的な成長も、夢物語に過ぎなくなる。
「……すまぬの、水殿」
「あんたらにも、手伝ってもらうぞ?」
「無論じゃ」
そして、それはフォーリアルも同じ意見のようだった。
「な、洒落になんねーだろ?」
「「……」」
カミラギノクチの防波壁、中央付近が大きく傾いたそれの先、上空200メートル。
回復したヒエンの背から俺とアリスが見たのは、ノクチの湾外に広がる黒い光景だった。
タコか、あるいはイカ。
まぁこの際、それはどちらでもいい。
問題は、その大きさだ。
半径800メートル。
その広大さを誇る俺の【水覚】を以ってして、この位置からその全体が領域内に収まっていない。
どころか、肉眼で全体像を把握することすらできていなかった。
脚の長さではなく、直径が50メートル強だと……?
しかもその脚は、1メートルほどの黒い鱗でびっしりと覆われている。
それが、おそらく12本。
「動きだしたら、終わりだな」
「違いねぇ」
「……」
あまりの光景に黙りこむアリスと、その腰に手を回す俺を乗せて、ヒエンは上空で旋回してノクチに向かう。
10から15メートルの竜。
30メートルを超える竜魚。
40メートルを超える大型帆船を一飲みにする、140メートルの船喰。
そんな常識外れの生物たちの存在を鼻で笑えるくらいに、『海王』は大きい。
足だけでも、500メートルを軽く超えているのだ。
それはもはや建築物との比較ではなく、「景色」というべきほどの大きさだった。
冗談抜きで、動くだけでノクチが水没しかねない。
「区議会への通達は終わらせたぞ、水殿。
門には、ヤズナズがついておる」
偵察を終えて浜に降り立った俺たちを迎えたのは、近くの植木鉢に植えられていた赤い花を媒介にしたムーだ。
その後ろには、50を超える木の上位精霊たちが控えている。
そして、その光景を遠巻きに眺めながらも慌てふためく、ノクチの住人たち。
防波壁が破壊されたこと、そして湾外から逃げ戻ってきた船の乗船員たちからもたらされた『海王』という単語で、既にカミラギノクチは大パニックに陥っていた。
「よし、都市壁の内側への避難誘導を開始しろ。
アリスは門の内側で、ムーは外で指揮を。
荷物は諦めさせろよ?」
「わかった」
「うむ、……皆、散れ!
ノクチの人間全員を、カミラギ内へ誘導せよ!」
「「応!!」」
散り散りに消えていく上位精霊たちを横目に、1度だけ視線を交わしたアリスと、そしてムーも門へと走っていく。
地区内への、ノクチ住民の避難と収容。
ネクタの慣習ではあり得なかったこの緊急措置を、俺とフォーリアルは即座に決定し、実行させた。
森人たちの自発的な変化と成長を望むフォーリアルではあったが、流石にこの状況下でそれに期待する余裕はない。
万が一、住民同士の衝突など起ころうものなら、外交問題以前に確実に死者が出るからだ。
木の大精霊の勅令をもってカミラギ区議会を掌握した上位精霊たちによって、ノクチの住民たちは追い立てられるように都市壁へと走っていく。
かなり距離はあるものの、北に位置するカンテンノクチと南西に位置するカンバラノクチでも同じ措置が取られているはずだ。
同時に、フォーリアルの力によって都市壁を構成する丸太からは新たな枝と葉が生え始める。
その付近からはさらに巨木が何本も天に伸び出し、都市壁を補強する形で防波林が形成されていった。
「シムカ!」
「……御前に」
木の大精霊がその能力の片鱗を示す中、俺は自身の水の大精霊としての権能を行使する。
いまだ騒然とするノクチの浜にいつもの跪礼姿勢で現れるのは、水の上位精霊筆頭だ。
「これからこの沖合で、俺は戦闘に入る。
手の空いている上位精霊全員をここに呼んであの防波壁に沿って布陣、全員で波の解消と制御に当たれ。
ノクチはもちろん、湾内の船や桟橋にも被害を出すな」
「は、かしこまりました」
「俺とヒエンはここから離れる。
具体的な指揮はお前に任せるからな」
「御意に……、ソーマ様、御武運を」
ヒエンの背に乗った俺の背後で、シムカがその姿を消す。
「あの上位精霊もなかなかやるな、大精霊!」
「……まぁな」
俺たちが防波壁の上を飛び越え、その高度を一気に上げていくときには。
既に海上では100近い上位精霊が一列に布陣し、その中央ではシムカが全員に発破をかけていた。
「……」
「どうする、大精霊?」
カミラギノクチから沖合2キロ。
『海王』の直上、上空750メートル。
ここまで上昇して、ようやく俺は敵、『海王』の全体像を把握することができていた。
全体の形としてはやはりタコだが、脚は12本ある。
丸い頭、頭足類においては内臓がある胴体部分からその脚の先まで、黒い金属装甲のような鱗に覆われていた。
色や質感は、ガブラのそれを想わせるものだ。
が、問題なのはやはりその大きさである。
【水覚】による一部の計測と、俺の現在地から見る縮尺に照らし合わせたその全長は、実におよそ900メートル。
頭の直径が200メートル、脚の長さが最大で650メートル。
脚を広げた場合の最大幅は、おそらく1500メートルを超えるだろう。
つまり、この『海王』の大きさは東京ドーム40個分以上、東京都中央区の5分の1をカバーするに至る俺の支配領域と、ほぼ同じそれなのだ。
深度500メートルの海の中で揺蕩う、黒い影。
その迫力は、カイラン大荒野で対峙した4万人弱の軍勢、あるいはそれを葬った【死波】をあっさりと超えている。
大きい。
とにかく、大き過ぎる。
海の王の名にふさわしきその姿は、フォーリアルを前にしたときとはまた別の種類の畏怖を、俺に与えていた。
「……!」
短く吐き出した息と共にそれを振り払って眼前の中空に展開する、分厚い円形の氷の壁。
前方のさらに上空、高度750メートルに生成する氷の砲弾。
「耳を塞ぐぞ」
「……?」
「お前が食らったやつの、完全版を撃つ」
「おお!!」
能天気に目を輝かせる木竜の耳に水をまとわせ、俺自身も【氷鎧凍装】を展開。
【氷艦砲】を、一気に撃ち降ろす!
上下合わせて1.5キロメートルの助走距離を得た1.5トンの砲弾の射出速度は時速2300キロメートル、およそでマッハ2に到達。
音や衝撃を置き去りにした戦艦主砲の一撃は、数百メートルに及ぶ水柱と共に海、そして『海王』に着弾した。
直撃した頭足類における頭、すなわち内臓が包まれた胴体はその表面の鱗ごと激しく爆散……。
「!?」
しなかった。
【氷艦砲】は『海王』の表面を覆うその黒い鱗で受け止められ、衝撃に耐えきれず四散。
肝心の『海王』の方は、鱗が軽く歪んだ程度だ。
割れてすらいない。
確かに、現世でも金属装甲をまとった海洋生物は存在する。
スケーリーフットという深海棲の巻貝は、硫化鉄製の鉄の鱗を持っていたはずだ。
とは言え、竜が存在するこの世界で進化論を語る気はないし、タコがそれを持っていても別にこの際構わない。
ただ、海面に衝突した分で威力は減少しているとはいえ、マッハ2の艦砲射撃に耐えるとはいったいどういう頑強さなのか?
「……大精霊?」
「降りよう、……直接叩く」
「……そうこなくっちゃなあ!!」
「……」
全身を砕かれて尚再戦に燃える木竜の背で、俺はさらに大きく映っていく『海王』の黒い影を睨みつけた。
ザ、ブォッッッッ!!!!
海面まで20メートルほどに迫った瞬間、俺とヒエンの頭上に斜めにビルが建つ。
「……は?」
そう表現するしかない光景に、俺の思考はコンマ数秒だけフリーズした。
曇天で暗くなっていた景色にさらに影を落とし、空を黒く染める巨大な鱗の列。
金属質の光沢から雨のように降り注ぐ、数トンに及ぶ海水の雫。
落ちてくる、ビル……!!!!
「かわせ、ヒエン!!」
「うぉあぁっ!!!?」
上から振り下ろされようとしているものが『海王』の脚だと理解できた瞬間、俺は自分とヒエンの頭上に20メートル四方、厚さ5メートル、あの竜魚の突進を防ぎきった氷壁を高速で展開し、上に向かって叩きつける。
同時に、ヒエンが体を無理矢理にひねって自身の軌道を右へと捻じ曲げる。
2千トンに及ぶ氷の壁は、何の抵抗もなく粉砕され海面に四散。
海を割るようにしてその後へ続く脚へ、追撃を放つ余裕も手段も俺にはない。
対、人間。
対、大型肉食獣。
対、犯罪者。
対、人外。
対、建築物。
対、軍勢。
この世界で色々なものを経験した俺ではあるが、「対、景色」ともいうべき現状に即応することは流石にでき……右下の海面が盛り上がる!
「上!!」
「おう!!」
40メートル四方、厚さ20メートル。
吐き気を催すほどの頭痛に耐えながら3万トン弱、それこそ建築物のような氷壁を瞬時に生成して叩きつけ、何とかヒエンが体勢を立て直して上昇する数秒間を稼ぐ。
……もういい、諦めた。
「……ヒエン。
お前、ここから離れてろ」
「……あ!?」
急上昇に伴う重力を感じる中、俺が零した言葉はやけに平静だった。
その緑色の背中から立ち上がろうとする俺に、ヒエンが焦ったような声を出す。
「離れてろよ、……死ぬぞ?」
「お、おう……」
そのまま、ヒエンの背を蹴る。
氷越し、上下逆さになりながら交わした俺の顔を見て、ヒエンは一瞬怯んだような表情を見せていた。
仕方がない。
周囲に被害を出さずに戦うのは、もう諦めた。
唇をつり上げた俺が暗い海に着水した瞬間、左右からは黒い脚が迫ってきていた。
右から下へ、急加速から上へ、左に行くと見せかけて右上へ……。
まるで台風の中の荒れた海のように凄まじいまでの水流を伴って叩きつけられる、倒壊するビル群のような『海王』の脚の群れを、俺は易々と掻い潜っていた。
水温、水圧、水流。
水の大精霊である俺は、それらから影響を受けることはない。
叩き落とそう、あるいは絡め取ろうと迫る数本の脚が上下左右から襲いかかってくる中、俺は着実に『海王』本体との距離を詰めていく。
水色に輝く、巨大な丸。
直径10メートル近い『海王』の目が見えた瞬間、俺は最大の速力で接近した。
右手には、白い輪郭を持った透明な剣。
ギィイィイィイイイイッ!!
海水と【氷鎧凍装】を通して、俺の耳には確かにそんな『海王』の鳴き声が伝わっていた。
巨大な水晶体を破壊し、乳白色の硝子体が銅系のヘモシアニンを含む青い血液と共に周囲の海水の色を変える中、さらに【白響剣】を伸長させようとした俺の全身に衝撃が走る!
軋み音と共に俺の全身を包みこむ、黒い鱗に包まれた脚。
視界が覆われようともさらにその上から3本のビルのような脚が俺を包みこみ、そのまま圧壊させようと隻眼の『海王』が全身の筋力を動員している様子が、俺の周囲の海水にははっきりと映し出されていた。
【水覚】を通して、『海王』の無事な方の目から伝わるのは憤怒、動揺、そして恐怖。
人間対、900メートルのタコ。
500分の1以下、人間が3センチの相手に浮かべる感情としてはあまりに不適当すぎて、俺は氷の中で嗤ってしまう。
憤怒、動揺、そして恐怖。
『海王』が浮かべるべき感情としては、それではあまりに足りないからだ。
俺から半径800メートル、海面から海底まで530メートル。
俺と『海王』、そしてその領域内の全ての海水を包みこむように円柱形の氷の殻が完成したことを、俺だけが理解していた。
缶コーヒーを買うと、ほぼ100パーセントの確率で裏面には「絶対に直火にかけるな」と記載されている。
その理由もだいたいが書いてあるが、たまに、特に冬のストーブが出ている場所などではそれを実行してしまい、そしてその理由。
「破裂するから」を身を以って体験してしまう人間は、少なからず存在する。
何を隠そう、俺も1度かつての勤務先でやってしまい、大目玉を食らったことがあるのは完全な余談だ。
話を戻すが……、物体の体積は基本的にその温度が高くなるほど上昇する。
水の場合で言えば摂氏4度を最低として、以降はその温度が上がれば上がるほど体積は増大し続ける。
そして、例えば摂氏100度で気化する瞬間。
実にその体積は、4度の水と比較して1,700倍以上に達するのだ。
185ミリリットルの缶コーヒー。
仮にその成分を全て水に置き換えて考えれば、185×1,700=314,500立方センチメートル。
同じ体積を常温の水で用意すれば実に300キログラム以上、ユニットバス1杯半に匹敵する計算となる。
当然ながら、片手で握りこめるスチール缶に納まる量ではない。
気化に伴う体積の爆発的な増大と、その圧力に耐えられなかった金属容器の破損。
これが、冬の悲劇の正体なのだ。
ただ、俺が言いたいことは決して、室内が沸騰したコーヒーに汚染される悲しさでも、その後の掃除の手間についてでもない。
体積の増大に伴う、圧力。
真球でないとはいえ、仮にも金属容器を内側から破断させるその力。
これが密封された空間で発生したとき、その内側では何が起こるのか。
と、いうことなのだ。
俺の支配領域内に存在する全ての海水を包みこむ氷殻が完成した時点で、俺は【氷鎧凍装】の足元から細い氷を伸ばしていく。
約200メートル下、海底を覆う氷殻にそれが連結された段階でその太さを拡張。
いまだ『海王』の黒い脚に締め付けられている俺の姿は、まるで海底からそびえる氷の塔に閉じ込められたような体となる。
俺と直接触れている水は、外的要因でその状態を変化されない。
お湯なら冷めることはなくなるし、氷なら融けない。
そして、割れない。
……たとえ。
その中の海水が一気に気化し、その体積を1,700倍まで膨張させたとしても。
通常ならば容器を破壊し、外に向かうはずの圧倒的な圧力。
水蒸気と化したことで摂氏100度、さらに超気圧によってその温度をあっさりと突破したその熱量。
俺と共に不可侵となったその氷殻がその全てを封じ込めた結果、必然。
それらは全て、『海王』に襲いかかることとなった。
バキョキョキョキョ……!!!!
耳をつんざく擦過音を響かせながら、俺の視界を覆っていた『海王』の脚が、小さく圧縮されていく。
黒い金属の鱗に押し潰されたことによってはみ出した白い体組織と、絞り出された青い血液が俺の眼前で落下していった。
金属すら変形させる圧力で抽出されたそれらの水分は、熱によって瞬時に気化。
そのまま俺の支配下となり、残りの肉体の圧縮と蒸発にかかる。
ベキャキャキャキャ……!!!!
それはドームのような頭、『海王』の胴体部分でも同じことだ。
1つだけ残る眼球や脚との繋ぎ目、あるいは【氷艦砲】によってできた凹みや、小さな傷。
まるで内部から掃除機で吸われてでもいるかのように、圧力のかかりやすいところから『海王』は小さくたたまれていく。
体の外に押し出された半透明の臓器や大量の黒い墨もやはり瞬時に圧壊し、水分を分離、そして蒸発させていった。
グキョ……グキャ……ガキッ……!!!!
この間、わずかに数秒。
超圧力をもってしても圧縮しきれなかった黒い鱗のスクラップと、水分を完全に奪われた上で破壊され、もはや粉体となった各組織の残骸。
そのわずか数秒で、1キロメートル近い威容を誇っていた海の王は、ただの産業廃棄物の山と化していた。
この段階で、俺の制御も限界を迎える。
3メートル四方のものを、片手で握りこめるサイズに無理矢理抑え込む。
俺がやっていたのは、つまりはそういうことだ。
当然ながら、長くはもたない。
そして、この地獄の空間もコーヒーと同じ結末を迎える。
カミラギノクチとは逆方向。
はるか広がる海と空にその姿を晒していた氷殻の天井部分の一部が、崩壊し、吹き飛ぶ!!
破裂、そして爆発!
解放された圧力は爆風と衝撃波となり、ノクチ沖合から無人の空と海に向かってその破壊力を発散した。
空気を引き裂く轟音と共に激突したあたたかい潮風、とは言っても氷殻内部のそれからすれば低すぎる温度のその空気に触れたことで、1,700倍に膨張していた水蒸気は瞬時に冷却され、結露。
白い湯気となって、まるで巨大な鳥が孵化でもしたかのようにその白い翼を曇天の空に広げる。
同時に吐き出された『海王』の破片もさらに爆砕されながら噴き上がり、固形の雨となって海に無数の波紋を残した。
白い殻の中。
卵黄の養分を糧に育つがごとく、圧力と熱で内部の全てを食い尽す。
蒼い海の上。
殻を破り雛鳥が孵るがごとく、その残骸を天へと還す。
【発華】。
それは、変化という名の破壊である。
氷殻内に水を生成、ほぼ空となったその空間を満たした後に、俺は全ての氷殻と足元の氷を解除して海面へと浮上した。
局所的に大量の水蒸気が発生、それが冷やされたために発生するにわか雨が降り注ぐ中、波の収まりつつある蒼の上へと浮かび、立つ。
ノクチの方向に見える、緑色の影。
天を貫く爆風によって空を覆っていた雲の一部が切れたのだろう。
俺の背後からは、少しだけ白い日の光が差し始めていた。
迎えに来たヒエンと共に帰った俺の目には、本当に船も桟橋も、それどころか防波壁さえも無傷のままのカミラギノクチの姿が映っていた。
当然ながら、建物も全てが無事だ。
「ご苦労だった、皆」
「は、ソーマ様も御戦勝、誠におめでとうございます」
「ああ、……お前たちのお陰だ」
浜に降り立った俺を囲むように跪礼するシムカたちに、俺は心から労いの言葉をかける。
【氷艦砲】にしろ、接近戦に伴う『海王』との応酬にしろ、【発華】にしろ。
甚大な波浪被害を無効化できるシムカたちのバックアップがあってこそ、初めて可能だったことだ。
……駆け寄ってくる、足音。
「では、私どもはこれで……」
「……ああ」
先頭で頭を下げたままだったシムカがちらりとそちらを向き、再度の礼と共に全員が姿を消す。
「ただいま」
「おかえりなさい。
……怪我はない?」
俺のもとへ走ってきたアリスは、ちょうどその位置で立ち止まった。
「ない。
そっちは、被害は出なかったか?」
「何人か転んだりして軽傷者が出たけど、それだけ。
森人の方も、とりあえずは静観してる」
「そうか」
ノクチへの直接被害や、地区内への避難に伴う二次災害は防ぐことができた。
まずはお互いの役割を果たしきったことに。
そして、お互いが無事だったことに、俺とアリスは力の抜けた笑みを交換する。
「感謝する、水殿」
「本当にな!
あんなの見たことねぇよ!!」
海際の枯れた芝生、茶色いそれを身にまとって現れたムーと傍らで控えていたヒエンが、俺へと謝辞を送った。
「ソーマ、本当に……ありがとう」
「ああ」
涙が流れる前に目じりをこすったアリスの頭にポフりと手を置きながら、俺は穏やかな笑みを浮かべていた。
「さて、水殿」
やがて手を下した俺に、かしこまった調子のムーが言葉を発した。
「あらためて、父上の所へご案内する。
件の魔法、【異時空間転移】のことについて聞きたいことがあるのじゃろう?」
弛緩していた空気が、一気に硬くなる。
「……」
が、俺の目つきが鋭くなったのは召喚魔法の話を持ち出されたからではない。
「……」
その単語を聞いた瞬間、微かにアリスの表情が変わったからだ。
得体が知れないものへの不安。
俺がそれを話さないことへの不満。
その理由と、俺に対する疑念。
……真実を知ることへの、恐怖。
傍目には無表情のまま変わらないように映るかもしれないその緑色の瞳は、反射的に浮かんだ無数の感情を押し殺そうと必死になっているようだった。
……もう、いい機会なのかもしれない。
「すまん、ムー。
その話だが、明日にしてもらえないか?」
「……!」
「別に、父上はそれでもよいと思うが……?」
微かに体を震わせたアリスから無理矢理視線を外して、俺はムーとヒエンに軽く頭を下げた。
視界の隅で、避難を終え自分たちの住居や商店に帰る住人たち、その中に森猫亭に入っていくロベルトの姿もみとめ、俺は心中で苦笑いする。
「じゃあ、明日の朝、ここまで迎えに来てほしい。
頼んでもいいか、ヒエン?」
「ん、……まぁ、ジジィが許すならオレ様は構わねぇけど……。
……ああ、なるほど!
確かに戦いの後は、体が火照るもんな?」
「……そういうことじゃない」
「「?」」
本能一直線な勘繰りをするヒエンに冷たく返すと、ムーとヒエンは揃って不思議そうな表情を浮かべた。
残念ながら、そういうことではない。
むしろ、俺の心は冷え切った不安と。
そして、凍てついた覚悟でいっぱいだった。
俺は視線を、目を伏せたままの恋人に移す。
「少し、アリスと2人だけで話しておきたいことがあるんだ」
「……うん」
俺のどこか平坦な声に、アリスは小さく。
とても小さく、頷いた。




