王の航路 前編
「ふぁ……」
「……余裕?」
青、青、青。
青い空と、青い海。
高く昇った太陽から降り注ぐ光をその表面で白く乱反射させる海面の先、緩く弧を描いた空と海との境界線を眺めながら、俺は大きく欠伸をしていた。
分厚い木材の外側には、薄いミスリル板が装甲として貼り付けられているが、全長36メートルの船体を覆うそれはあまり純度が高くないらしく、少し黒ずんで見える。
船体前部の左側、胸の高さほどのそのへりに右腕で頬杖を突き、何をするでもなくぼんやりと水平線を眺めていた俺に、同じように少し眠たそうな表情をして歩いてきたアリスからは単純な質問のような、あるいは軽い注意のような穏やかな声が投げかけられた。
「いや、単なる睡眠不足だな……。
……まぁでも、オムレツの半熟加減と奥深さは身にしみて理解できただろ?」
「……!!」
「ぐ!?」
しかし、俺が視線を船の外に向けたままこう返事をすると、そのやわらかかった表情は瞬時に赤く、そして残像となった。
黒地の薄い風布に、白い幾何学的な模様。
アーネルポートで新調した俺の服越し、肋骨の下の側腹部、左外腹斜筋にアリスの右中段突が突き刺さる。
全力とはいかないまでも遊びの範疇ではないその威力に、俺は体を少しだけくの字に曲げる羽目になった。
軽くしかめた顔のままアリスに抗議の視線を送ると、白い顔を真っ赤にしたアリスの涙目の視線が返ってくる。
片道だけでも20日近くかかる船旅と、どういう扱いを受けるかわからないネクタでの滞在。
ゆっくりと肌を合わせることがしばらくできなくなるかもしれないということで、昨日の夕方から今朝アーネルポートに転移するギリギリまで、俺たちは猫足亭でその英気を養っていた。
せっかくなので趣向を凝らし、いつぞや頼まれていたオムレツの真髄を教えるべく立ち回ってみたのだが、しかしその結果アリスが到達してしまった新境地は、本人の理性と記憶が耐えられるものではなかったらしい。
徹底的に「半熟状態」をキープしただけなのだが、俺もあんなことになるとは思ってもいなかった。
思い出させないで、といつになく強い光を宿すアリスの瞳に直視されて、俺は両手を上げて謝罪の意を表す。
その恋人の肩越し。
コーザック、この『青の歓声号』の操船技師長が苦笑いの表情を浮かべているのをみとめて、俺はそのままの表情で黒い手袋に包んだ右手をヒラヒラと振り返した。
3本ある内の中央のマストの中ほど、甲板から5メートルほど上に張られたロープの上。
そんな場所からインファイトなじゃれ合いの現場を見られていたことに気づいたアリスは、さらに真っ赤になった耳を隠すためにフードをかぶり直し、先程まで俺が眺めていたのと同じ船の外へと無理矢理視線を向ける。
『魔王』と『魔王の恋人』のふざけ合い。
これは面白いものを見た、とコーザックが無言で体を震わせるのを一瞥してから俺は体の向きを戻し、唇をとがらせたアリスがにらみつけているのと同じ方向、海の先へと視線を戻した。
青、青、青。
青い空と、青い海と、……青いフード。
アーネル王国南部の港湾都市アーネルポートから、アリスの故郷であるネクタ大陸カミラギへと向かう旅。
今日はまだ、その長い船旅の1日目だ。
電気や熱燃料による動力技術が発明されていないこの世界において、船というのは最速の移動手段であり最大の運搬手段だ。
木を組み合わせて造られ、さらに船底部分を中心に各部を金属で補強された小さいもので10メートル前後の1本マストの帆船。
操船技師、すなわち風属性魔導士が操る低位魔導【起風】によって水の流れを無視して軽やかに走る帆船は、特に国土に大小の河川が無数に存在するアーネル王国においても最大限に活用されていた。
また、アーネルであれば北のラルポートと南のアーネルポート、チョーカであれば同様にビスタとカカのように各国は必ず沿岸の要所に、それこそ心臓部とも言える港湾都市を整備している。
定期的に往復する2本マスト、あるいは3本マストの各商会の旗印を付けた全長20メートル以上の中型船舶が運ぶ様々な品物は、その都市の、そしてその国の経済活動を支える血液として作用していた。
それが都市間ではなく大陸間になったとき、その血液が持つ価値はさらに跳ね上がる。
カイラン大陸北部のラルポートから、サリガシア大陸南西部に位置する港湾都市ヴァルニラまで約2週間。
あるいは中央部のアーネルポートから、ネクタ大陸北西部に位置するカミラギに隣接する港、カミラギノクチまで約2週間半。
3本マストで全長30メートル以上、入念な金属補強と装甲が施された大型帆船による貿易の成功は、それを成した商会に莫大な利益と名声をもたらした。
その代表格がイラ商会。
俺がウォルの運営に際して何度も顔を合わせている『天秤のイラ』率いる、アーネル王国最大の商会だ。
この『青の歓声号』は、そのイラ商会が持つ多くの船の内の1隻。
商品の売買や船員の休息、船体の修繕も含め、アーネルポートとカミラギノクチの間を2ヶ月かけて往復する大型定期船である。
俺とアリスは現在、この船に護衛という名目で乗り込んでいた。
……まぁ、商人ギルドアーネル支部の長でもあるイラに直近のネクタ行き便を相談したところ、是非に、と懇願されそのまま押し切られたわけだが。
個室込み2人で金貨50枚という乗船料はもちろん無料で、さらに金貨で500枚という報酬も提示されている。
実際問題、俺が乗船する以上その航海の安全は確保されたようなものである以上、イラからしても充分なメリットはあるだろう。
俺とアリスにしても報酬までもらえるなら、文字通りの渡りに船だった。
……ただ、報酬額についてはもっと吊り上げてもよかったかもしれない。
ドボッ!!
俺とアリスが並んで佇む甲板、その5メートルほど下の海面で。
大きな水音がした。
ドボッ、バシャッ!ドボッ、バシャッ!
ドボッ、バシャッ!……ドボドボッ、バシャバシャッ!!
規則的に、あるいは連続して俺たちの耳に届くのは、ある程度大きくて重い物体が水面から飛び出て、そして着水する音である。
「ハネト……」
俺の左でそれを見下ろしていたアリスが、それの名称を小さくつぶやいた。
無論、俺は【水覚】で、……ウォルでの生活の間にさらに領域が広がったその感知能力で。
この魚の群れが俺から半径800メートル以内に侵入した段階で、その存在もそれ以外の存在も知覚はできていた。
ハネト。
要するに、トビウオだ。
この世界の海のほぼ全域に生息しているらしい、割とポピュラーなヒカリモノである。
アーネル東部沿岸の漁では30センチほどのこれの幼魚が水揚げされており、海魚の中ではまぁ安い方だろうか。
ドボドボッ、バシャバシャッ!!ドボドボッ、バシャバシャッ!!
ドボドボッ、バシャバシャッ!!ドボドボドボッ、バシャバシャバシャッ!!!
ただし帆船で半日走ったここは、既に遠洋。
今、俺たちの眼下で跳ねて、いや飛んでいる50匹程度の群れは全て成魚である。
その大きさは30センチ程度の幼魚とは比べものにならないし、当然に重たい。
俺が知っている中で、最も近い外見の魚と言えば……。
「風を全開、面舵急げ!!」
マグロだろうか。
体長1メートル、重量100キロ前後の魚が時速60キロを超える速度で海面を滑空し、自分たちが乗る船を追い抜いていく姿は、大自然への感動ではなく単純な恐怖を、『青の歓声号』にもたらしていた。
青黒く光る砲弾のような大型魚の群れが海面から顔を出し、刃のような銀色の羽を広げて空を飛び、そこそこのしぶきを上げてまた海に潜る。
大きさが大きさだけに、俺としても正直言って気持ちが悪かった。
「舵戻せ、風はそのまま!
全力で逃げろ!!」
海の男らしく真っ黒に日に焼けた、50前とは思えぬ金属のような肉体を駆使して中央の帆を操りつつ、風属性中位魔導【大鳴】で拡声された大声で全体に指示を飛ばすコーザック。
しかしその黒い髭を蓄えた理知的な顔は、自身が巻いている白いバンダナのように蒼白だ。
コーザックの指示に合わせて舵輪を回し、【起風】を唱え、ロープを引き、無駄とは知りつつ銛を持って船の後部に集まる人々。
数十人の操船技師と船奴、そして他の冒険者たちも、やはりその顔からは一様に血の気が失せていた。
まぁ、当たり前の反応だろう。
トビウオが、エラ呼吸で水中でしか呼吸できない魚類が空中を飛ぶのは。
外敵から逃げるために他ならない。
それは、ハネトも同じである。
だが、1メートル近い魚が逃げる相手とは、いったい何なのか。
「りゅ、『竜魚』だーーーー!!!!」
ハネトの、この船の後方に浮かんだ、青黒く巨大な影が。
船の後部で叫んだ、年老いた船奴の男が。
「……!」
小さく息をのんで俺の左腕を強く掴んだ、アリスの右手が。
そして当然、【水覚】で感知していたその威容が。
その正体を、俺に伝えてくれていた。
何を今更、と思わなくもないが、ここは地球ではなく異世界だ。
体長10メートルを軽く超える竜が空を舞い、人は魔法を放つ。
犬に角が生え、目のない甲殻肉食獣は鎧を噛みちぎる。
二足歩行のウサギは棍棒を振り回し、教師は灰になって笑う。
この世界の生態系とそれに練磨された進化の系譜においてはこれが普通で、それがこの世界の常識である。
必然、それは水の中でも適用され、……むしろ、さらにその凶悪性を増す。
ラルクスで討伐したロッキーがいい例だろう。
軽自動車並みの体躯を誇る、巨大な肉食の岩ガエル。
都市が近くにある淡水の中にさえそんな危険な生物が跋扈しているのが、この世界の水中の生態系だ。
ましてや、それが人の手の入らない遠洋。
豊富な栄養源と過酷な生存競争に溢れる、この広く深い海の中ならどうなることか。
マグロ並みのトビウオが脱兎のごとく逃げ出し、風属性高位魔導士であるコーザックが死にそうな表情になっている理由が、その姿を青い影として海の中でくねらせる。
竜魚。
正式名、サウローン。
比較的水温の高い遠洋に生息する大型肉食魚で、形としては手足のないワニ。
その体長は平均で20メートル以上とされており、ギルドで討伐依頼を受けた場合は堂々のAクラス。
……もっとも、この10年での討伐例は1件だけだが。
ハネトの後方、つまり俺たちが乗る『青の歓声号』の後方に現れたのは、全身を青い鱗で覆ったその竜魚だった。
ただし、この個体はかなり大きい部類らしく、俺がアリスからの中パンチを受けながら【水覚】で知覚していたその全長は、実に31メートル弱。
比較対象としてはこのカラベル船と、あるいは地球で最大の生き物とされているシロナガスクジラとほぼ同じ大きさ。
平たく言えば、電車1両半分の大きさを持つワニのような、いや、もはや恐竜のような巨大魚だ。
バタフライのように体を上下にくねらせながら泳ぐその竜魚は水面に向かって顔を上げ、そのままハネトのようにジャンプ!
体の4分の1、すなわち8メートルもの巨大な口が、そのままハネトの群れを挟みこむ。
長いもので50センチを軽く超える牙の葬列と、その咬合力が100トンを軽く超えるであろう巨大な顎が閉じた瞬間。
赤い水しぶきと共にハネトの破片は飛び散り船の後部、船体のミスリル板にぶつかって、それはボトボトと海に落ちていった。
その際に竜魚の目、皿のように巨大で暗黒を宿したそれが『青の歓声号』を確実に捉えていたことに気づいてしまった数人が、溜息のような悲鳴を上げる。
水面で方向転換する青い影を見るまでもなく、俺の【水覚】には無表情で加速を始めた竜魚の姿が映り込んでいた。
「急げ、急げ、急げー!!」
衝突まで20秒前。
地声、あるいは【大鳴】によってやり取りされる、操船技師たちの声がうるさい。
頬杖を突き直した俺の視線の先には空と海、何も変わらない青の世界が広がっていた。
……あ、 (多分)カモメだ。
「取舵いっぱーーーい!!」
15秒前。
しかし、その網膜に像を結ぶ景色とは別に、俺の頭の中では自分を中心とした半径800メートルの球上の世界が動き続けている。
必死で舵輪を回している彼には悪いが今更回避は不可能だし、どうやら以前にも同じようなことがあったらしく、海底には2隻の船の残骸が沈んでいた。
「大いなる大炎の子、永久なる熱の紡ぎ手たちよ……」
10秒前。
乗り合わせた高位魔導士の誰かが契約詠唱を開始している。
あの文言は、火属性だったかな。
そう言えば、村のことはミレイユとサーヴェラに任せてきたわけだが、大丈夫だろうか?
……まぁ、カミラギノクチに着いたら、1度セリアースを呼び出してみるか。
「ふぁ……」
「……」
5秒前。
そこまで考えて我慢しきれずまた出てしまった俺の欠伸に、アリスが呆れたような視線を向けてくる。
頬杖をついたままの俺は小さく笑みを返し、船の後ろに視線を送った。
……ゴギャンッ!!!!!!!!
衝突。
口を全開にして『青の歓声号』に飛びかかってきた竜魚は、しかし。
俺が展開した20メートル四方、厚さ5メートルの氷壁に正面から激突し、落水。
……そのまま失神して、ゆっくりと海に沈んでいった。
100トンオーバーの竜魚が2千トン近い氷壁に正面激突した事故現場からどんどん離れるにつれ、絶句していた船の乗員たちは事態を把握できだしたらしい。
数本の銛と幾つかの魔導で傷ついた氷壁がそのまま海に落水したのを見届けてから、コーザックをはじめとする数十人分の視線は俺とアリスに向けられた。
元いた場所から一歩も動かず、いまだへりに頬杖をついたまま。
そんな姿勢のままで俺が左手をヒラヒラ振り、アリスが無言のまま視線を水平線の方へ戻すと、一拍遅れて溜息と歓声が湧き上がる。
畏怖と、嫉妬と、恐怖と、歓喜と。
そんな無数の感情が込められた、もう浴び慣れた視線を無視して。
俺は振っていた左手を停止させ、人差し指だけを伸ばして船の後方を指し示す。
アリスを含む全員の眼前で、海から巨大な氷塊が浮上していた。
40メートル×15メートル×15メートル。
実に8千トン近い重量の直方体の氷塊の中には、ピクリとも動かない先程の竜魚が封じ込められていた。
悲鳴とどよめきの中その特大氷棺は海上を滑り、船の前部左側、すなわち俺の眼前で停止する。
よく見ると口の先端の鱗は砕け、そこから流れる赤い血が氷の中でにじんでいた。
俺は体を起こして、右手に【白響剣】を発動。
俺の右手に握られた幅5センチ、厚さ0.1ミリの氷の刀身は、瞬時に20メートルの長さに達する。
そこで俺は、コーザックに向けて大声を張り上げた。
「これって、食えるのか?」
「え……、……あ、さぁ……」
「はぁ……、……料理係を呼んでくる」
Aクラスの魔物で仮にも「竜」と名のつく暴力の化身を、この男は珍しい食糧としてしか見なしていない。
乗員全員がそんな唖然とした表情を見せる中、ロープの上のコーザックも間の抜けた言葉しか返すことができなかったようだ。
溜息を残して船内に降りていったアリスを見送りながら、俺は刃を構え直す。
まぁ、肉がダメでも頭と皮は売り飛ばせるだろう。
せっかくのAクラスが、もったいない。
シュイーーーーン……という甲高い水音が、俺の頭上から響きだしていた。
俺が握る【白響剣】の輪郭に沿って、髪の細さほどの水と小麦粉ほどの大きさの氷の粒子が、超音速での循環流動を開始した音だ。
いつの間にか目を覚ましていたのか氷中の竜魚の瞳がギョロリと動く。
そこに混じるのは、恐怖と絶望。
その皿のような黒い瞳の表面には、時速3500キロで回転する白い刃をゆっくりと振り下ろす俺の姿が、確かに映り込んでいた。




