ネクスト・ステージ
ウォルの中心たる、小エルベ湖。
不毛と呼ばれてきたカイラン大荒野の地下から湧き出すその豊かな水は、中央湖を中心に村中の水路を駆け巡った後、村の東端で1つの川にその流れが束ねられる。
平均すれば幅10メートル、深さ3メートルほどの川はそのまま東の海岸までほぼ直線に10キロメートルに渡って伸びており、そして海へと繋がっていた。
ウォルの造成初日に火竜サラスナのブレスによって実質1時間程度で掘られたこの川は現在、小エルベ川と呼ばれている。
エレニアたち4人が帰って、次の週のある朝のこと。
それぞれ馬に乗った俺とアリスは、その河口にたたずんでいた。
眼前に広がるのは、ただ水平線の先まで続く、広大な青。
ゆっくりとした鼓動のように規則的に、そして静かに響く波の音と、大荒野の黄色い大地にバチャバチャとそれがぶつかる音。
どこか懐かしく、そして生臭いような潮の香り。
何か感じるものがあるのか、ミドリ、俺が乗っている栗毛の牝馬が鼻を鳴らしているのを片手でなだめながら、俺はその圧倒的な水の世界を見つめていた。
隣でカシロ、葦毛の牝馬に乗ったアリスも俺と同じように広がる海の先を、しかしどこかぼんやりと遠い目で眺めている。
たとえ【視力強化】で望遠したとしても見ることはできないが、この遥か先、南東。
船で2週間ほど進んだ先にあるのがアリスの故郷にして、木の大精霊フォーリアルが君臨する大地。
ネクタ大陸だ。
戦争をなくすために、世界を征服する。
その後に、時の大精霊を見つけ出して支配下に置く。
こんな大それた夢を叶えようとしている俺とアリスにとってネクタ、そしてそこに住む森人は直接の攻略対象ではない。
種族としてのその排他的な性格から交易以外の形で他の勢力と一切関わろうとしない彼らは、武力的な意味での戦争の原因にはならないはずだからだ。
大陸に4つだけの港町を設け、それ以外のあらゆる接触を拒否するその外交姿勢は、江戸時代の日本がとっていた鎖国にも似ている。
また、どの勢力の味方もしないという意味では、スイスのような永世中立国家と言えるかもしれない。
ただ、鎖国にしろ永世中立にしろそれが未来まで続く保証などどこにもない。
どちらもそれなりに有意義な思想だとは思うが、所詮は強力な外圧や理不尽な暴力のもとには屈してしまう程度の政策でしかないことは、歴史が証明してくれている。
無慈悲な現実の前に、優しい理想は無力なのだ。
仮に、この世界に俺以上の魔力を持つ人間がいないのであれば、この理想は叶ったかもしれない。
が、この世界にはフリーダがいる。
実際にエレニアたちの故郷であるサリガシア大陸を単騎で服従させた『声姫』がいる。
俺を超えて、約660万という世界1位の魔力を誇るフリーダはその後に不侵を宣言しているが、その沈黙がずっと続く保証もどこにもない。
『声姫』フリーダ、風の大精霊レム、風竜ハイア。
俺たちが世界を統べる直前に対峙するのは、確実にこの風の陣営だろう。
最終的に俺たちと彼女らが意気投合できるのか、あるいは世界を二分する武力衝突を引き起こすのかはわからない。
しかしどちらにせよ、その前にネクタと。
永世中立を謳い他勢力との交流を拒み続ける森人と、その肯定者たる木の大精霊と、同盟を結んでおく必要があるだろう。
その矛盾を越えなければ、この世界を変えることなどできない。
それこそ、無慈悲な現実の前に優しい理想は無力、だが。
理想を抱かない限りは現実を変えられない、のと同じように。
それに、無力だと嘆くならば力を持てばいいのだ。
武力でも、財力でも、権力でもいい。
自分の理想を貫き通すための力こそが、「強さ」だ。
そして力とは、すなわち「数」である。
相手が2大陸を支配するのならば、こちらも2大陸を味方に。
相手が風の1柱を司るならば、こちらは水と木の2柱を。
武力を、財力を、権力を。
常に相手よりも多く、大きい力を保有する。
フリーダに勝つためにやるべきことは、ただそれだけだ。
そしてやはり、そのためにはネクタとフォーリアルの力は欠かせない。
俺たちの夢のための次なる目標はネクタと、そして木の大精霊フォーリアルとの同盟を、……南北戦争の際のアーネルのそれとは違い。
真に対等で、友好的な盟約を結ぶことである。
それに……。
「お前の、故郷……か」
「……」
馬上で俺がそうつぶやくと、隣のアリスの顔がわずかにこちらに向いた。
アリス=カンナルコ。
俺と出会ってもう8ヶ月以上を共に過ごしている、俺のパートナー。
現実を理解し、しかしその中で理想を追求する優しい森人。
そのアリスがどういった場所で生まれ、育ち、暮らしてきたのかは、純粋に興味がある。
「ウォルの方が落ち着いたら……、そうだな、あと1ヶ月か2ヶ月くらいしたら、ネクタに行こう。
アリスが育ったカミラギ……だったか?
その町にも行ってみたいし、フォーリアルとも話してみたい」
「……」
そして、何より。
「実家にも顔を出すだろう?
俺も挨拶したいんだけど、いいよな?」
「……え?」
これは俺としては非常に軽い提案、というよりもただの確認だった。
話を聞く限り、アリスはもう2年近くカイラン大陸にいた計算になる。
家族仲が悪いという話も聞いていないし、元気な姿を見せる必要があるだろう。
ましてや、アリスの二つ名は『魔王の恋人』だ。
2年近くも帰ってきていない娘がそんな風に呼ばれており、実際に魔力も10倍に跳ね上がっている……。
そして、そんなセンセーショナルな事実が自陣片を通して世界中に喧伝されているのだ。
今まで極力考えないようにしてきていたが、アリスの両親、特に父親の心中はいかほどのものか。
同じ男として、察するに余りある。
パートナーとして挨拶に行き、『魔王』こと水の大精霊としてこの件の説明をし。
……そして恋人として殴られるのは、おそらく当然のことだろう。
尚、俺もこのときだけは【氷鎧凍装】も何も使わずに、甘んじて受け入れる覚悟だ。
加えて言っておくならば、流石の俺も恋人の両親に敬語で話すくらいの礼儀は心得ている。
その点で、余計な軋轢を生むつもりもない。
一応これでも、元は社会人だったのだし。
しかし。
俺の様々な覚悟を内包したその提案を聞いた、当のアリスは。
嬉しそうな、怯えたような、不安そうな、困ったような。
そう、一言で表現するなれば。
「……」
微妙そうな、表情を浮かべている。
「……」
「……?」
真意を読み取れない表情で、俺の顔を中心に視線をさまよわせているアリスが返事をしようとしないため、俺も戸惑うしかない。
波が砕ける音と流れる潮風といった開放的な海岸で、しかし俺たちの間に満ちていく空気は急激に重力を帯びはじめていた。
一般的に、恋人を連れて実家に帰ることを肯定的に捉えられない理由とは、何か?
もしも、俺の素行が問題だから、と言われたら……。
これは結構、笑えない。
「実家には……あまり帰りたくない」
「……何故?」
やっとそう言って目を伏せるアリスに、俺は恐る恐る理由を尋ねる。
二つ名が『魔王』だからだろうか。
南北戦争で4万人を虐殺したからだろうか。
国家を恫喝する俺が信用できないからだろうか。
最近割とベッドで調子に乗りすぎていたからだろうか。
混乱しつつ喉の渇きを覚えた俺は、口の中に冷水を発生させて無理矢理に飲み込む。
ああ、そういえば俺は半分ほど人間じゃなくなってもいたな。
ミドリの手綱を持つ指の先が、いつの間にか冷たくなっていることに気が付く。
もちろん生身のままの、左手だけだ。
常に【精霊化】させたままの右手、その黒い皮の手袋をはめた方の手を強く握ると、手綱とすれて小さな音がした。
「……」
「……」
俺もアリスも何もしゃべろうとせず、波の音と馬の息づかいだけが響く。
鼓動は潮騒よりもはるかに速くなっており、ひどく息苦しかった。
「……」
「……」
やがてアリスは顔を上げ、緊張した面持ちの俺の瞳に視線を合わせる。
緑色の瞳が、迷いを振り切るようにふるりと揺れた後……。
「い、家出してきたまま……だから」
それはきまり悪そうに横に向けられ、アリスは小さい声でぼそりとつぶやいた。
「……」
「……」
「……はあ!?」
問題なのは、アリスの素行だった。




