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クール・エール  作者: 砂押 司
第2部 カイラン南北戦争

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アナザー・エール 守りたかったもの 前編

「じゃあバリオス……、しっかり務めてこい。

父はお前のことを、誇りに思う。

大精霊様のかてとなって、この村と国のことを……どうか見守り続けてくれ」


「……はい、父上」


10年に1度だけ使われる、儀式用のローブ。

やわらかい上質の白い水綿すいめんで仕立てられ、青い染料で感謝と加護の祈りの言葉が織りこまれた清めの装束は肌にふれると、まだ冷たい。

朝霧の立つエルベ湖の中心に浮かぶ舟の上で、同じ装束を着た父が弟のバリオスを抱きしめるのを、私は夢でも見ているかのようにぼんやりを眺めていた。

バリオスの顔に、怯えや悲しみ、怒りや絶望といった暗い感情はない。

まだ10歳だというのに、弟はまるで上位精霊様のように静かな表情で、微笑みをたたえていた。


「バラン……、お前からはもう言うことはないのか?」


「……」


息子との最後の抱擁を終えて立ち上がった父は、私の方を振り返って重々しく口を開いた。

4歳上の兄として、最後に弟にかけるべき言葉。

村の代表として最期を迎える、誇り高き存在にかける言葉を必死で探したが、喉と舌が動かない。


「……兄上」


目を伏せることしかできない、不甲斐ない私の冷たい手を、バリオスのあたたかい手が包みこんだ。

その表情には、やはり私に対する非難や嫉妬はない。


私と同じ薄い青色の瞳にはただ、家族に対する親愛と。

これまでを共に過ごしてきた、私への感謝だけがあった。


「これまで、ありがとうございました。

父上と、エルベーナと、……そしてニーナのことを。

よろしくお願いいたします」


「……」


「……バラン?」


「バリオス……、……任せろ」


バリオスが生まれてからの10年を想い起こして胸が詰まる私は、父に促されてようやくそれだけを言うことができた。

当の弟が覚悟できているのに、兄の私が取り乱すわけにはいかない。

目の奥や胸の中から湧き上がってくるものを必死で抑え、無理矢理に笑みを浮かべる。

バリオスを、心配させるわけにはいかない。


「任せろ」


バリオス、兄に任せろ。

父のことも、エルベーナのことも、ニーナのことも。

この兄に、任せろ。


「はい、兄上」


父の手で縄を打たれ石をくくりつけられ、そして自ら湖に身を投げる間も、バリオスは。


静かで気高い笑顔を。

絶やすことは、なかった。





普段は多くの人間でにぎわうエルベーナも、この20日間だけは異様に静かになる。

10年に1度訪れる神聖な儀式を、私たちモルシュ家の手で執り行うためだ。

アーネル王国の力の源たる、エルベ湖。

そこに住まう水の大精霊様に、生贄を捧げるという儀式のために。


エルベーナは、今から300年以上前にできた小さな村だ。

水属性魔導士にとって聖地であるエルベ湖のほとりに立った1軒の宿屋を中心に徐々に大きくなり、今に至っている。

そしてその宿屋の主人こそが、私たちモルシュ家の先祖だ。

この地に、上位精霊との契約を願ってひっきりなしに旅人が訪れるきっかけを作ったモルシュ家は、以後代々に渡ってエルベーナを治め続けていた。


同時にモルシュ家は、10年に1度大精霊様に捧げられる生贄を供えるという務めも負っていた。

村ができてすぐに、巨大な魚の姿をした当時の大精霊様とそのような契約が成されたという言葉だけが伝えられていたが、今となっては定かではない。

大精霊様とお話しできる機会など普通はなく、父も祖父もその姿を見たことはないそうだ。

が、これまで村に大きな災いが起きなかったということと、その務めを背負うモルシュ家には村の中で様々な特権と日々の労働からの解放が許されていたということ。

そして、モルシュ家の人間がこれまで30人近くもその身を捧げ続けてきたということは、まぎれもない事実だった。


父にしても、私にしても。

いずれはバリオスと同様に、あの湖に身を捧げる運命だ。

モルシュ家に生まれた者の、それが務めであり。

存在意義であり、誇りだった。


「バラン……」


村に戻ってから儀式装束のまま桟橋に座り込んでいた私に、真っ赤な目をしたニーナが近付いてきた。

バリオスと同じ年の私の許婚いいなずけは、小さな両手を私の肩に置いて、また泣きはじめる。


見事な最期だった、兄として私も誇らしい。


そんな言葉が胸には浮かんだが、結局……浮かんだだけだった。

背中を伝うニーナの涙の温度が、冷え切っていた私の体を少しだけ温めてくれる。

バリオスと、ニーナと。

幼かったときに村中を駆け回り、このエルベ湖の浅瀬で遊んでいたことを。


私も、泣きながら思い出していた。





「相変わらずなのね……」


知らない、人間だった。

涙が出なくなるまで泣いて、体が震えなくなるまで悲しんだ私とニーナの隣で、心配そうな声を出したのは。


目をやった私たちの隣に立っていたのは、黒い線が刺繍された白いマントに身を包み、目深にフードをかぶった女の魔導士。

顔は湖の中心に向けられており、先の言葉は独り言だったようだ。

その隙間からは茶色の髪が少しだけこぼれており、おそらくは整っているのであろう相貌そうぼうの鼻から下だけがのぞいていた。

やはり……、村の人間ではない。


「……10日後まで、この村に部外者が入ることはできませんが?」


「申し訳ありませんが、すぐに出て行っていただけますか?」


その白いマントを染める色から、もう夕方近くになっていたことに驚きながら、私はそれでもモルシュ家の人間として、バリオスの兄としてまず言うべきことを言った。

生贄を捧げる日の前の10日間はその人間が村と家族に別れを告げるための、後の10日間は村と家族がその人間の死をたたえて受け入れるための時間だ。

この20日間は王国の騎士や冒険者を問わず部外者を村から帰し、村人以外の出入りは許されていない。


ましてや、今日はその当日だ。

14歳の私と10歳のニーナの、怒りの込められた固い声が女にぶつけられた。


「そうなの?

ごめんなさい、知らなかったの。

すぐに、出て行くわ」


それを受けた女はそう言ったものの、動こうとする気配はない。

夕日の色を反射した湖を、じっと眺め続けていた。

声や話す調子からすれば、おそらくかなり若い。


が、なぜかはわからないが、どうしてもそう思えない。


普段村を訪れる魔導士たちとは、何か……根本的な部分が違う。

異質なものを感じ取った私とニーナは、黙って女をにらみ続けていた。


「あなたたちは、どうして泣いていたの?」


やがて女の顔がこちらに向けられ、優しい声が頭上からかけられる。


「……」


「……早く、帰ってよ」


その表情はわからないが、私たちをいたわっている様子だけは伝わってきた。


「……そう、強いのね……。

でも、だからこそ……」


沈黙で返す私と、年相応の口調になって拒絶を示すニーナを見て、女は寂しげに微笑み、何かを小さくつぶやこうとして……やめる。

無言でマントの中の腕をごそごそと動かし、しばらくして白い手袋に包まれた左手がマントの中から伸ばされて、私とニーナの前で止まった。


「わかったわ、もう帰る。

邪魔をしてしまって、本当にごめんなさい……。

お詫びに、これをあげるわ」


差し出された掌には紫色の立方体が2つ、載せられている。

父から霊術を教わっていた私は、その中に黒い球状の魔法陣が封じられていること、この結晶が非常に高位の魔具まぐであることに気が付き、思わず目を見開いた。


「これはね、立体陣形晶キューブっていうの。

他の世界や時間から1度だけ、願い通りのものを連れてくることができるわ」


気にせずに説明を続ける女の言葉に、私とニーナはピクリと反応した。

それが本当なら【時空間転移テレポート】や【召転サンポート】とは価値が違う、夢のような魔法だ。


そして、それならバリオスも……。


「でも、それがあなたたちの救いになるかどうか。

そして、連れてこようとしているものがもし命ある者なら、それがどういう意味なのかも、よく考えてね」


しかし、私たちの考えを見透かしたかのように、女の言葉は続いた。


あくまでも優しく、だがどこか無関心に淡々と。

期待のこもっているような、だがどこか疲れきったように。

まるで老婆のような、だが確かに年若い少女の声で。


「私は、あなたたちの決断に干渉はできないわ。

この魔法を使うことも、使わないことも含めてね……。

だけど、誰かを守る、ということは。

……他の誰かを守らない、というのと同じことよ。

あなたたちの大切なものが何なのかをよく考えて、使ってね」


私とニーナの手に渡された立体陣形晶キューブはバリオスが身を投げた静謐せいひつな湖面と同じように、夕日を反射して白く輝いていた。

掌が感じる重みに視線を落とす私とニーナに、女の声は優しい母のように、そして悪魔の誘惑のように響く。


「これを使っていいのは、あなたたちだけよ。

他の人に渡してはダメ。

この世界に生きるあなたたちが使って、そしてその結果も……。

この世界に生きるあなたたちで、背負いなさい」


紫と白と黒。

淡い光が女の全身を包んでいるのに気付いて、私とニーナは顔を上げた。


「そしてその末の、あなたたちの決断を。

たとえどんなものであれ、私は……尊重し。

そして、肯定するわ」


3色の閃光とその言葉を残して、女は消える。

両手が包み込む立体陣形晶キューブの硬さと冷たさが、今の出来事が夢ではなかったのだと私たちに教えてくれていた。

私とニーナは、どちらからということもなく顔を見合わせる。

だが、お互いに言葉を発することはなかった。


辺りはもう、暗くなりはじめていた。

















6年後、ニーナの成人をもって私たちは結婚した。

私が20歳、彼女が16歳のときのことだ。

少女だったニーナは私にはもったいないほどの美しい女性となっており、また私にはもったいないほどの妻だった。


モルシュ家に嫁ぐ。

これがどういうことを意味するかをきちんと理解したうえで、彼女は私の妻になってくれた。


10年に1度生贄が必要になる以上、私も、ニーナも、私たちの子供も。

いずれは、あの湖に身を捧げる運命だ。

ニーナはその全てを受け入れて、それまであなたの隣にいてあげる、と笑ってくれた。

私は黙って彼女を抱きしめ、感謝の言葉を述べることしかできなかった。


月並みな言葉ではあるが。

私たちは、深く愛し合っていた。


老いて伏せることは多くなったがそれでも村のおさとして、モルシュ家の当主として威厳を保っていた父と。

変わらずに旅の魔導士や商人でにぎわい、村人も笑顔で暮らしていたエルベーナと。

モルシュの妻として精一杯努め、それでも常に笑顔で私と共に歩いてくれたニーナと。


私は、幸せに暮らしていた。





4年後。

父が生贄となり、私が村長と当主の座を継いだ。


「バラン……、村のことを任せたぞ。

父はお前のことも、ニーナのことも誇りに思う……」


「……はい、父上。

私も、あなたの子供であったことを。

……モルシュに生まれたことを、誇りに思います。

これまで本当に、ありがとうございました。

……どうか大精霊様に、よろしくお伝えください」


すっかり軽くなった父は、エルベ湖の底に沈んでいくまでの間。

かつてのバリオスと同じ、静かで気高い笑顔を浮かべていた。


その日はまた、ニーナと共に泣いた。





それから9年との4ヶ月後、私とニーナとの間にようやく娘が生まれた。

だが、その6ヶ月後にはもう。


次の生贄を、捧げなければならなくなっていた。


「バラン……、私を捧げて」


「ニーナ……」


その日が近付くにつれ、私とニーナは毎日話し合いをしていた。

そもそもモルシュ家が早くから嫡子ちゃくしの許婚を決めておき、両方が成人した瞬間に結婚させるのは、このような事態を防ぐためのものだ。

新たな夫婦が10年の内に、私とバリオスのように2人以上の兄弟をもうけなければ、モルシュ家の血筋が途絶えてしまう。

そして私とニーナは心から愛し合っていたが、……残念ながらどちらかが子供ができにくい体質だったらしかった。


結果、今モルシュ家の人間なのは。

私と、ニーナと。


生まれたばかりのクロッカスしかいなかった。


「私を捧げて……、その後にあなたは再婚すればいい。

クロッカスには、未来を見せてあげたいの」


「……」


さらに10年後のことを考えるのであればニーナの言う通りにすべきだということは、私にもわかっていた。

私は今34歳で、ニーナは30歳。

仮に生まれたばかりのクロッカスを捧げても、次の10年までに子供ができる保証などない。

何より1歳にもなっていない自分の娘を湖に沈めることなど、私にはできなかった。


そして、私はニーナを愛していた。

このような悲しみを味わうとわかっていながら私と一緒になり、これまで支えてくれたくれた彼女を苦しめることなどできない。

できることならば今すぐ私と離縁して、クロッカスと一緒に村を出て行ってほしかった。

たとえもう会えずとも、彼女が生きていてくれるなら……それでも構わない。


ただし、私がこの村を逃げるわけにはいかない。

そのつもりもない。

生贄を捧げること自体も、やめるつもりはなかった。

なぜなら、それを否定することは。


バリオスの、父の、これまでの先祖の覚悟と決意を。

全て、無駄にしてしまうからだ。


10歳で死を受け入れた弟のバリオスの。

それを決め、10年前に自分も身を捧げた父の。

300年以上も、そうやってこの村と家族のために命を繋いできた先祖たちの。


あの静かで気高い笑顔が、ただ無意味なことだったと嘲笑あざわらう行為だからだ。


断じて、無駄でも無意味でもない。

この村で私とニーナが幸せに暮らしてこられたのは、モルシュ家の覚悟と笑顔がそれを守ってきたからだ。

村人が平穏に暮らしこの国が豊かで在り続けられたのは、私たちの決意と誇りがそれを繋いできたからだ。


それを否定することなど、誰にもさせない。

そのためなら、私は。


悪にでも、外道にでもなる。


「あの魔法で……、代わりの生贄を呼び出そう」


「バラン……」


自宅の棚の奥に厳重に保管していた、あの2つの立体陣形晶キューブを使うことを決意した私を。

人の道を外れた魔法を使うとつぶやいた、私を。


ニーナは、表情のない顔で見つめていた。


20年前にあの女魔導士から渡された立体陣形晶キューブを、私とニーナは結局使わなかった。

最初の数日はバリオスをかえしたい衝動に駆られたが……、父をはじめとする村中の人間がバリオスを誇り、その覚悟と決意に感謝している様子を見て、私たちはそれを諦めた。

私たちのやろうとしていることは父への、何よりバリオスの覚悟への侮辱になると思ったからだ。

以後、この貴重な魔具は私の家の寝室にずっと隠されていた。


女魔導士に言われた通り、これを他の人間に見せることはしなかった。

父でさえ、その存在を知らなかったはずだ。

魔法を学べば学ぶほど、霊術を修めれば修めるほど、この結晶に封じられたものの凄まじさが、私には理解できるようになっていった。


が、その奇跡を引き起こす魔法を何の対価もなく、当時子供だった私たちにくれた女魔導士の正体だけはいまだわからなかった。

ラルクスや隣のエダ、また数度だけ訪れた王都でも調べたのだが、そんな高位の時属性魔導士は噂すらも存在していない。

いや、そもそも時属性魔導士自体が今の世にはいないようだった。

ならば……。


……いや、今はどうでもいいことだ。

あの女魔導士が、彼女が授けてくれた魔法が夢や幻ではないことは、私の手に握られた結晶の冷たい輝きが証明してくれている。

寝室の隠し戸の中にそれを仕舞う私の姿を、クロッカスを抱いたニーナが黙って見つめていた。


呼び出した人間をモルシュ家の人間として扱い、そして捧げればいい。

そうすれば、クロッカスは10歳まで生きられる。

10年後もそうすれば、クロッカスはもう20歳だ。


その次の生贄には、私がなればいい。


この2人を、守るためならば。

私は、どんな結果でも受け入れる。

どんな罪でも犯すし、どんな罰でも甘んじて受ける。


迷いは、ない。





生贄を捧げる日は、もう明日に迫っていた。

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モルシュ家の人間でなくても他の人間でいいならそもそもその村の誰かでいいんじゃ??
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