アフター・エール 暁の縁
「校長先生、チーちゃん、こんにちは!」
「はい、アイリちゃん、こんにちは。
今日もお元気そうで、何よりですわー」
小さな足音の後、髪が動くほどの風。
私がノックしようとチーチャの手を離す前に、ウォルのカンナルコ家のドアは勢いよく開かれた。
当代の火の大精霊としては控えめに抑えている、それでも400万近い私の魔力を感知して、家の中から全速力で走ってきてくれたらしい。
休日ということとは関係のない、喜びという感情が放射されているのを幻視できるような『魔王の愛娘』の歓迎の笑顔に、私も心からの笑顔を返す。
「アイリ、ドアの開け閉めはもっとゆっくり。
怪我をするし、ドアも壊れる」
「チーチャの言う通り、気をつけて。
……2人とも、ごめんね」
「ごめんなさい!」
「ふふふ、そうですね、次からは気をつけましょうね」
続けて突進してきたアイリを抱き止めつつ、無表情で注意するチーチャ。
玄関へ出てきたアリスがその様子を見て頭を下げ、それを見たアイリが天真爛漫に反省する。
『魔王の愛娘』、アイリ=カンナルコ。
どうかこのまま素直に育ち、父親にはあまり……いや可能な限り似ていない大人になってほしいと願うのは、先生としても両親の友としても余計なお世話だろうか。
「さて、それではお茶会を始めましょうか。
わたくしも、とても楽しみにしていたのですわー」
「これ、姉様が作ったスコーン。
ジャムは、アリス様が作ったやつの方が美味しいからって」
「ありがとう。
アイリ、ミレイユとチーチャを案内してくれる?」
「うん、こっち!」
手を引っ張って先導してくれる少女の、父親譲りの黒い髪。
その父親の、今はサリガシアに遠征中で不在の私の主が苦い顔になっているのを幻視して。
何より、私自身がその『魔王』のことをよく理解できているという事実を、横目に入った自分の髪の色で思い出して。
私は、少しだけ苦笑した。
実際、私とソーマ=カンナルコという人間の内面はかなり似ている部分が多いと思う。
おそらく、それはアリス=カンナルコよりも。
「あ、そういえば、校長先生はいつパパと結婚するんですか?」
「ふグへっっ!??!」
「……はい?」
お茶会を始めて、1時間ほど。
そう再認識するきっかけになったのは、もうすぐ5歳、本人いわく「いよいよ5歳」になるというその2人の愛娘がくるりと首を回して唐突にしてきたこの質問だ。
「ぇ゛フッっ、ふっッぐッ……、お゛ッ……」
正直、何も口に入れていないタイミングでよかったと思う。
そうでなければ、よりにもよってスコーンを噛み砕いた直後だったアリスのようになっていたかもしれない。
「ママ、きた…………大丈夫?」
「小さい子供や年をとった人間ならともかく、若い大人がこの程度で死ぬことは基本的にない」
下を向いてスコーンの粉末と喀闘している母親をようやく心配し始めたアイリと、その疑問に高位の回復魔導士兼元呪導士として完全には安心できない見解を語るチーチャ。
その間に飛び散ったスコーンやらパリダエのジャムやらを拭こうと立ち上がりながら、私は小さな黒い頭を見下ろす。
相手のことは置いておくとして、「結婚しないのか」。
私は特に何も思わないが、人によっては余計なお世話だと、失礼だと感じる質問だ。
ただ、まだ社会通礼どころか性差の認識も曖昧な子供を相手に、その点を叱るのはいかがなものか。
そもそも、無邪気な子供が純粋な疑問を口にしただけのことを咎めるのは、私個人としても趣味ではない。
それに、これも社会通例として、今の質問は仲が良ければしてもいい質問ではある。
そうなると、私とアイリとがこの質問を交わしてもいいくらいに仲が良いのかどうかという話になってくるが、それはもちろん良い。
ようやく肩で息ができるようになった親友の娘であるし、こうしてわざわざ休みの日にサンティを囲んでおいて「それほど親しくないので」というのは意味がわからない。
というか、質問してきた子供本人にそんなことを確認させられるはずがない。
「大丈夫ですか、アリスさん?
まだおかしいようなら、チーチャに診させますが」
「……ありがとう、……大丈夫」
いずれにせよ、その辺りを説明するにしても、それは口元を拭い終わったアリスの役割であるべきだと思う。
何より、まず私がやるべきことはこの母娘の家庭を壊さないことだ。
「さて、それではアイリちゃん。
わたくしですが、旦那様と結婚はしませんし、したいと思ったこともありませんわー。
旦那様も、わたくしと結婚するつもりはないと思いますけれど」
なので、きっぱりと否定しておく。
外部どころかウォルポートの住民ですら誤解している人間が結構いるが、私と彼の間に恋愛感情や肉体関係は一切ない。
お互いに、お互いをそういう対象だと思っていない。
「……そうなんだ」
……まぁ、黒を多用した衣装や普段の思考、そして言動が似ているので、そういう誤解が生まれてしまうのも理解はできるのだが。
実際、アイリも口では納得しているけれど首は傾げている。
「……パパが、そう言ってたの?」
その首を自分の方に向けさせるアリスの声は、いつも通りの静かさ。
言葉の内容こそ疑問ではあるが、実際には夫のことも私のことも一切疑っていないため、内容的にはただの質問に過ぎない。
実はこの辺りのことは、結婚前も結婚後もアリスから何度か話し合いを持ちかけられたことがあるからだ。
詳しい内容までは聞いていないが、アリスとソーマでも腹を割って話したことはあるらしい。
その結果として、彼と私の間で恋愛感情が生まれることはおそらくないことを、彼女も理解し終えている。
なので、アリスがこちらに向けた瞳にも疑いの感情はなく、浮かべているのはただ娘の不躾を謝るそれだけだ。
「ううん」
幸いに、彼が心変わりしたわけでもないらしいことを彼の娘はきちんと証言してくれる。
それを聞いた彼の妻が浮かべる表情は、安堵ではなく困惑のそれ。
「じゃあ、どうしてパパとミレイユが結婚するって思ったの?」
『最愛』からの、単なる質問が続く。
「んーーーー……、……パパと校長先生がお話してるの、パパとママがお話してるときに似てる、から?
校長先生もそう。
他の人とお話してるときより楽しそう……、……簡単そう?」
それに対する言葉を探すときのアイリの遠い視線は、チェスの対局中に彼がよく見せるそれとほとんど同じだ。
人を離れて、全てを俯瞰する目。
母親とそっくりな顔の中でそれがひどく目立つのは、これが母親のほとんどしない目つきだからだろうか。
同じ緑色のはずの瞳の中には、私もよく知る澄んだ冷たさが確かに宿っている。
……さて、それはともかくとして、つまりは楽そうとか気安そうとか、そういうことだろうか。
それは、そうだろう。
「それは、ほとんど家族のような友達同士ですからね。
旦那様とアリスさんとわたくしはこのウォル作ったときからもう9年のお付き合いで、お互いに一番近い存在でしたから。
アイリちゃんにとっての、4班の人たちのような感じですわー」
「あー……」
「もちろんアンゼリカさんたちやホズミさんのような他の人たちもいましたけれど、どうしても、この3人はそのときいた全員の先生のような立場でしたから。
アンゼリカさんたちもそれがずっと残っていますから、わたくしたちがウォルで同じ立場の友達として気楽にお話できる相手は、どうしてもその3人の中だけになってしまうのですわー」
「……そうなの?」
「うん、それはどうしてもね。
というか、ミレイユのことを名前で呼んでるのはパパとママだけでしょう?
他は、アネモネたちくらいかな」
「…………本当だ!」
私の答えを確認するアイリに、アリスも頷く。
家族のような、一番近い存在。
そうであることは間違いがないし、彼との会話が楽で楽しいのも否定はしない。
「わたくしはアリスさんと親友ですし、旦那様ともそうです。
世界で一番信頼している人ですし、尊敬している人でもあります」
これも、事実だ。
「でも、結婚したいと思ったことはありませんし……。
……ふふふ、これからもそれはないと思いますわー」
だけど、これもまた事実なのだ。
何の偶然なのか、彼と私はあまりにその内面が似すぎている。
だから、仕事を一緒にするととても楽だし、遊ぶのも楽しい。
だけど、あまりにその内面が似すぎているから、お互いに恋心を抱くことは絶対にない。
隣ではなく、背中合わせに立つくらいが丁度よいのだ。
彼も、私も。
自分のような人間のことを、好きにはなれないのだから。
「……というかアイリ、もし姉様が『魔王』様と結婚したいと答えたらどうするつもりだったの?
アリス様が、ものすごく困ると思うんだけど」
「え、でもマーくんのお家みたいにお母さんが2人いるのも楽しそうだし、ママも校長先生とは仲良しだし。
それに、わたしチーちゃんのお姉さんになれるんだよ!」
「いらない、私の姉様は姉様だけ。
それにそんなこととは関係なく、どう考えてもアイリの方が幼い」
「なれるもん!」
「ならないでほしい、と言っている」
「ぶぅー!!」
「そんな風に鳴く姉なんていらない」
子供らしい、存外に利己的な理由が一刀両断される光景に、アリスと穏やかな笑みを交換する。
……そうか、あれからもう9年も経ったのか。
これまでの人生に比べればわずかな時間だったはずなのに、私の記憶の大部分はもうこの9年間に満たされている気がする。
ここからさらに同じと、そして少しだけの時間が経てばアイリも成人する。
この娘もまた、いずれ両親のような一世一代の恋をするのだろうか……。
「……ところでアイリちゃん、恋と愛の違いはわかりますか?」
ふとそう考えてから、私は口を尖らせている『愛娘』の瞳に笑いかけた。
「え、好きと…………好き?
あれ、同じ?」
「……」
アリスも聞く姿勢になっているのを確認してから、先生として言葉を続ける。
愛理、すなわち愛が理る者。
ただ、それなら恋という感情が何なのかもわかっておいてほしいというのが、私としての意見でもある。
まぁ、余計なお世話なのかもしれないが。
「その人が、自分以外の人の隣で幸せになっているところを、想像してみてください。
それに何も思わないなら愛で、それが嫌だと思ったなら恋です」
「「……なるほど」」
感心する、2対の緑色。
なぜか何度も頷いているのをじっと見られているのに気づいたアリスが、慌ててカップの方へと視線を逸らす。
いや、あなたは母親で、しかも二つ名が『最愛』なわけですから……。
「ママも、パパに恋してるの?」
「うん……、……うぅん?
私は、パパが幸せになれるなら最悪そこに私がいなくても……」
「アリスさん、話がややこしくなるので……」
そうでしたね、二つ名が『最愛』でしたね!
「どうしよう、校長先生!?
ママが、パパに恋してない!!
わたしのお家、ピンチ!?
えっと、えっと……どうしよう、シムカ!!」
案の定、恋し合う前に愛し合っていた冷たくもあたたかいけれどこの場合は模範的ではない両親の恋愛事情に、恋と愛のことがよくわからなくなった娘がパニックを起こす。
そんな『魔王の愛娘』が頼るのは、家族愛過多の『魔王』が任じている自身のお目付役。
水の上位精霊筆頭、シムカ。
ただ、性格的にこの場で彼女は出てこないと……。
「……失礼します」
おや、意外。
アイリとアリスの間で、巨大化する水球。
立ち上がるのは、険しい表情の水の大精霊の眷属。
最初に比べれば、随分とやわらかくなったものだ。
「ちょ、シムカ、違うから!
ちゃんと恋もしてるから!!
ソーマには、何も言わなくていいから!!」
もちろん、アリスは慌てる。
わざわざこんなことを伝えられた『魔王』が帰宅後にどういう悪魔的な行動に出るかは、容易に想像できるからだ。
これは、友としてわたくしからもきちんと証言をいたしませんと……。
そう笑おうと緩めた唇を、しかしシムカの声が凍てつかせる。
「いえ、そういうお巫山戯ではありません。
ソーマ様から、『霊央』としての緊急の連絡です」
どうやら、楽しい時間は一旦終わりにしないといけないようだった。




