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クール・エール  作者: 砂押 司
第1部 水の大精霊

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罪と罰

俺は躊躇いなくエルベ湖に足を踏み入れ、やがて水面は膝、腰、胸、首、鼻、目、頭の上へとどんどん上がっていく。

本来であれば、人間として恐怖を感じなければならないシーンなのだが、俺の全身には落ち着きと、どこか懐かしさに似た感覚が広がっていた。

そもそも、俺は水の大精霊らしい。


つまり、人間ではない、ということなのだろうか?


澄み切った水の中を、俺はどんどん先へ、深く、小走り程度のスピードで進んでいく。

泳いでいるわけではない。

まるで無重力の空間を、自由に移動するように。

強いて表現するのであれば、俺は水の中を飛んでいた。

はじめてエルベ湖に放り込まれた日の内に、俺は水中における自分の能力をほぼ把握している。

この体は、水中でも呼吸が可能なばかりか、水温にも水圧にも一切のダメージを受けない。


水の支配。

対生物の戦闘においても絶大な優位性を発揮し、大質量の生成と操作、状態変化による単純な超破壊力と、生活面での応用力の高さ。

世界の半分を支配することも、滅ぼすこともできる力。

守りたいものを守り、壊したいものを壊せる力。

アイザンが俺にくれたのは、そういう力なのだ。


異常なまでに透明な水の中を、俺はただただ進み続ける。


今更だが、エルベ湖はこの世界で最大の巨大な湖だ。

その面積はカイラン大陸北部、つまりアーネル王国全国土の2割に達する。

当然ながら、俺の【水覚アイズ】で感知できる広さもはるかに超えている。

その中心部、最大深度は【水覚アイズ】による知覚では約50メートル。

これは千葉にある某ネズミのテーマパークのシンボル、シンデレラ城の高さとほぼ同じだ。


エルベ湖からは、西に2本、東に1本、南に1本の大型河川が続いており、アーネル全域の水資源をただ1つの湖で賄いきっている。

そして、この湖には水の大精霊が住む。

いや、住んでいた。


サリガシア大陸の霊山アトロスに眠るという、土の大精霊ガエン。

エルダロン皇女フリーダと契約する、風の大精霊レム。

ネクタ大陸大森林の深奥に君臨するという、木の大精霊フォーリアル。

『死大陸』バンのどこかに眠り、かつて「浄火」と共に世界の半分を滅ぼした、火の大精霊エンキドゥ。

所在も名前も不明ながら、この世界の創世を行ったという、時の大精霊と命の大精霊。


それらと並び立った水の大精霊アイザン。

とはいえ、70年前からだと言っていたし、アイザンは大精霊としてはかなり若いのだろう。

そもそも、俺に代替わりしてしまっているし。


……今思えば、俺はアイザンのことを、水の大精霊のことを何も知らない。

水の大精霊がどういうものなのかも。

アイザンが、なぜ水の大精霊だったのかも。

アイザンが、なぜエルベーナ殲滅せんめつの罪を被ったのかも。

アイザンが、俺に何をのこしたのかも。


「シムカ」


全ての答えを得るべく、俺は薄暗い湖底の中でその名を呼んだ。





「当代様」


すぐに目の前の水が青く輝き、シムカの形をとってひざまずいた。

アイザンと同じく半透明な姿の女性。

違うのは、完全な成人女性の体格と体型であることだ。

腰辺りまで長く垂れた髪と、落ち着ききった声音は、俺よりもはるかに永い年月を生きてきたのであろうことを想起させる。


「ご足苦労をおかけし、申し訳ございませんでした」


敬語の方がいいんだろうか、と、ギルドでエバと話すときにも悩まなかった部分で一瞬迷ったのだが、シムカがこう続けたのでこちらが目上なのだろう、といつもの調子で話す。

よく考えれば、俺は大精霊なのだしな。


「いや、いい。

……それよりも、湖を汚してしまってすまなかったな。

片づけた方がいいだろうか?」


「は?」


エルベ湖は美しい湖だが、ここに来るまでの途中でその湖底には石や木、エルベーナの建築物の残骸が散らばっていた。

また、その前には122人分の人間と家畜の死骸を、肉片にして放り込んでいる。

俺が目上とはいえ、怒りに駆られてやった短絡的な行動とその結果については、素直に謝罪し自ら対処するべきだろう。

ただ、シムカの反応を見る限りその必要はなかったようだ。


「……いえ、それには及びません。

あの程度の残骸であれば、いずれこのエルベ湖の一部となっていくだけですので。

それに、魚たちは喜んでおりましたから」


漁礁か。

それに、小さいとはいえ村1つ分の残骸をあの程度と言い切る精神。

やはり大きさも、時間の流れもスケールが違いすぎるな。


「なにより、エルベーナを滅ぼしたのは、先代様ということになっております。

当代様が気にやまれることではございません」


本当の理由はこっちか……。


「それなんだがな。

なぜ……、そういうことになっているんだ?」


「それが、先代様の御遺言ごゆいごんでもあるからです。

先代様が当代様へその力をご移譲される際、先代様より我ら兄弟姉妹に対して、等しく御言葉おことばたまわっております。

もし今後数年の内にエルベーナに害が及んだ場合は、それを私のせきとするように、と」


「……」


「御遺言の全てをお伝えいたします」





名前も知らない、あなたへ。


私が全てを奪ってしまったあなたへ、私の全てを与えます。

そして、あなたが犯すであろう罪を、全て私が背負います。


あなたは私が、この世界が大嫌いだろうけれど。

私が、あなたに償えるものは、これくらいしかありません。

どうか、それで許して下さい。


私の名を自由に使って構いません。

代わりに、どうか。

この湖と、他の精霊たちを傷つけることだけはやめて下さい。


あなたの妹を奪った罪は、私だけのもの。

私だけが、罰を受けます。


本当に、ごめんなさい。





「「……」」


シムカは、全ての言葉を伝えて尚、跪いたままだった。

アイザンのどこかつたないながらも、ただ真摯しんしなその言葉を、俺は心の中でくり返し、溜息をつく。

口から、泡が出ることはなかった。


「……わかった」


「は」


「顔を上げてくれ。

先代からの遺言、確かにうけたまわった。

お前たちも、この湖も、俺が害することはない……」


「感謝申し上げます」


それ以上の言葉が出ない俺を、シムカは静かに見つめていた。


贖罪。


言葉にすれば簡単な、この言葉。

だがそれを行為にすれば、それはここまでおこながたい。

人間に、アイザンと同じ行動がとれるだろうか。


湖底に、光が満ちる。

50メートルの深さがあるにもかかわらず、あまりに透明な湖の水が、正午が近くなって高く昇った太陽の光を通しているのだ。


アイザン、俺はお前をゆるす。

お前の贖罪を、受け入れる。


そして、同時に気づく。

俺が背負った、罪と罰を。


アイザンを赦せなかったこと。

もう二度とアイザンを赦す機会がなくなったこと。


白く輝く湖底の上で、俺は無性に、アイザンのあの明るい声が聞きたくなっていた。

人は、水の中でも泣ける。

久しぶりに、俺はそれを思い出していた。





「……で、シムカ」


「……は、はい」


「……あ、いや。

……待たせて、悪かった」


「いえ……」


30分ほど経過してから、俺は若干かすれた声でシムカに呼びかけた。

シムカも30分待たされ、その間主君が黙りこんでいたらさすがに居心地が悪かっただろう。

それとも、精霊と人間の精神性はやはりかなり違うのだろうか。

表情や声からは、いまいちその辺りが読み取りにくい。

……まぁ、いいか。


「で、俺は、水の大精霊なんだよな?」


「その通りです」


「それはつまり、俺は人間ではない、ということか?」


「……」


黙りこむシムカを見て、俺の心は意外と平穏なままだった。

この世界に来た時点で、……まぁ、あんまり人間であることに強いこだわりはなくなっているしな。

正直、どっちでもいい。


「どうなんだ?」


「どちらでもある、という答えが正しいかと。

先代様も、元は人間でしたので」


「……元は?」


「はい、先代様が大精霊になられたのは今から70年程前のことだったと記憶しております。

この近くに住んでいた人間だと、ご自身がおっしゃられていましたので」


「じゃあ、あの姿は?」


「あれは、精霊としてのお姿です。

水の大精霊は、その姿を拝命した生き物本来の姿と精霊の姿、両方を持つことができます。

先代様も、人間の姿をとれば老婆だそうでしたので。

ご自身は、それを嫌がってずっと精霊の姿でお過ごしでしたが」


「……俺も、なれるのか?」


「おそらくは」


「……なれるな」


シムカやアイザンと同じように半透明になった右手を元に戻して、俺は気になった点を確認しておく。

というか、アイザン、老婆だったのかよ。


「お前も、人間だったのか?」


「いえ、大精霊様以外の精霊は、全て精霊として生まれた存在ですので。

私も、生まれて1600年以上は経っているかと思います。

細かい年数は忘れてしまいましたが」


ブルーシムカ、お前もか。


「……大精霊の寿命は?」


「元の生き物の肉体限界に準拠するそうです。

そういう意味では、先代様も長くお務めになられたといえるかも知れません。

ちなみに先々代様はカニ、その前の大精霊様は魚でしたので、それぞれ3年程で代を重ねられております。

他の属性の大精霊様は、また違うようですが」


「そうか」


とりあえず、アリスを悲しませるようなことはないようだ。

そして、カニとアイザンの間で何があったんだろう?

アリスで思いだし、魔法面のことに話を移していく。


「そう言えば、俺には精霊が見えないらしいんだが」


「はい、不敬にあたりますので」


「不敬?」


「主君の御用がないときに、我らが御目おんめに障ってはなりませんので。

逆に、御用があるときにお呼びいただければ、このシムカはじめ、全ての兄弟姉妹がその意に従います」


「上位精霊との契約もか」


「大精霊様が、遥かに力の劣る我ら兄弟姉妹と契約なさる意味がありません。

我らにできることは、全て当代様におできになります」


「なるほど」


「当然のことです」


まぁ、そういうことだろうな。

なら、逆に。


「大精霊としての、義務はあるか」


「ございません」


即答だ。

ないのかよ。


「この世の全ての水が、我ら兄弟姉妹をはじめとする全ての精霊が、大精霊様の意に従います。

強いて申し上げれば……、不敬極まりないお話になりますが?」


「かまわない」


「では、失礼いたします。

強いて申し上げれば、当代様がお隠れになる際、次代様への力のご移譲を行われることくらいです」


「なるほどな。

じゃあ、お前たち、精霊自身の希望としては?

大精霊として、俺にどう在ってほしい?」


そのくらいは、努めよう。

先代、アイザンの名のためにも。


「……」


「……ないのか?」


「我ら兄弟姉妹が、父であり母でもある大精霊様に何かを望むことはありません。

我らは、その御意ぎょいの下におりますので」


「ふん……」


御身おんみが健やかであり、故郷たるこの湖が静かであれば、それで構いません」


「わかった」


望みとは言えない、望みだな。


「そう言えば、他の魔導士との契約は、誰が決めてるんだ?

精霊各々(おのおの)か?」


「その通りです。

この湖に来たり、見かけた人間を気に入った兄弟姉妹が、自由に決めております。

我らからすれば、人間の寿命などほんの一瞬……!

失礼を申し上げました!!」


「……?

……ああ、かまわん、許す」


人間で「も」ある俺の寿命の短さへの愚弄を口走ってしまったことに気がつき、シムカは深く平伏するが、俺はそれをすぐにやめさせる。

アイザンの在り方を通して考えれば、精霊が人間を尊敬できないのは当然だからだ。

人間がチンパンジーに抱く感情に、おそらくそれは似ている。

意識をもって見下しているわけではなく、明らかな優劣があると無意識に理解しているだけだ。

精霊で「も」ある俺にも、その感覚はなんとなく理解できる。


「……申し訳ございませんでした。

契約に関して何かご不都合があれば、全員をすぐに帰らせますが?」


「いや、必要ない。

……他人の契約の解除もできるのか?」


「もちろんです。

大精霊様は、我ら兄弟姉妹のみなもとにして意思そのものなのですから。

当然ですが、他の人間の水の魔法が当代様を傷つけることもありません。

自らの主君にして父であり母を傷つけることなど、我ら兄弟姉妹にはできるわけがありませんので」


反則だな。

俺の前で、どれだけ高位だろうと水属性の魔導士はただの人間に過ぎないわけだ。

戦いにすら、ならないだろう。


「当代様がお望みになるのであれば、我ら兄弟姉妹は当代様の剣にも盾にもなります。

何かございましたら、お申し付けください」


「いや、今は特にない。

よく、わかった」


俺が、どれだけ大きな力を譲られたのかを。

贖罪という言葉の、本当の重さを。


「俺の名はソーマだ。

先代に恥じないように務めると、約束しよう。

何か用があるときは、また呼ぶ。

下がれ」


「御意、ソーマ様」


その言葉を最後に、シムカはとけて湖水に混じった。


そう、俺は水の大精霊、ソーマだ。

湖底を蹴って、岸へと進む。

いつの間にかオレンジ色に染まり出した湖面に、俺はそうつぶやいた。





岸に戻った俺を待っていたのは、クロッカスとピーター。

……の死体だった。

クロッカスは胴体部分大半を、ピーターは上半身の全てを喪失しており、大型の肉食獣が激しく食い散らかしたことがわかる。

地面は夕焼け以外の要因でも赤く染まり、少し冷たくなった風が鉄のにおいと共に、俺の頬を撫でた。


この2人に会ったとき、俺が森の中に撃ち込んだ【氷撃砲カノン】。

その標的はアリオンではなく、こちらをうかがっていた2頭のガブラだ。

しかも、【氷撃砲カノン】は着弾直前に水に戻し、同時に周囲に生成した水と共にガブラを包み、殺さずに氷結させた。


アリスと商人たちが転移し、湖に潜る直前、その氷を俺は解いた。

その結果解き放たれたガブラが死ぬか、逃げるか、暴れるか。

そして、こちらに襲いかかってくるかは完全に未知数だった。

その答えが、この光景だ。


「運が、なかったな?」


体重の半分以上を失い、光のない瞳で空を見上げるクロッカスに、俺はささやくように声を落とす。

穂先が丸く潰れ、鉄製の柄が半ばでへし折れたショートスピアがすぐ近くに転がっているのを見る限りは、それなりに抵抗はしたのだろう。


10年前、お前の父親に生贄として召喚された、俺の妹も。

運がなかったし、喰われたし、多分抵抗もしたと思うよ。

お前はそれを知っていたのだろうか?

それを知っていたら、お前はどうしただろうか?


俺の無意味な問いかけを邪魔する、唸り声。

目を向けるまでもなく、2体のガブラが戻ってきたことは【水覚アイズ】で感知している。

人間を計1人分と馬の内臓をほとんど食べて、尚喰い足りないのだろう。

ああ、喰らわせてやるよ。


150メートル上空から降り注ぐ、4メートル近い氷柱。

先端がとがったそれは、その100キロを超える重量と自由落下の勢いだけで、その半分近くを地面にめり込ませ、地面に突き立つ。

かつてエルベーナがあった全域に次々に降り注ぐ、124本の冷たくて透明な墓標。

その内の数本に下半身を縫いとめられ、上半身を破砕されたガブラたちも、それぞれ1本ずつが貫通したクロッカスとピーターの死体も、その光景の一部となった。


視界に映る全てが動かなくなってから、俺はラルクスへの転移の準備を始める。

霊墨イリスをまき、ラルクスへの【時空間転移テレポート】の陣を描いた。

全てを終わらせた俺は、オレンジと赤に染まる墓地と化したエルベーナには目もくれず、エルベ湖の中心を向いて目を閉じ、冥福の祈りを捧げる。




生贄となった朱美あけみと。

それを喰ったアイザンへ。


目を開けて発動させた【時空間転移テレポート】は、この世界に召喚したのと同じ色の光で、俺の全身を包みこんだ。

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