アフター・エール 烈なる戦い 中前編
「状況は?」
「……何も変わっていないでありますよ、アネモネ」
コモスのほぼ最東端、かつての『爪』に属していたベオ家の領土の北東部に広がるイデア平原。
そこにそびえる西城塞の中心塔へ昇った私を出迎えたのは、確かに1週間前に出て行ったときと何も変わっていない戦況図と、その前に座りトラック・チェスの指南書を読みふけっていたノエミアの声だった。
「ヨンク様は?」
「北側住居区の拡張とそれに伴う見張り塔の増築の最終確認で、現地へ降りているでありますな。
つい今し方だったのですが、すれ違いませんでしたか?」
「いや……」
バラリ、とページをめくる音が大きく響く。
ノエミア=イゴン=ヨンク。
十代からのつき合いでありかつて『大獣』十番の副戦支長を務めていた私の親友は、その頃から変わらない、針金でも入っていそうに真っ直ぐだった首をわずかに傾ける。
同じく元は十番の戦支長であり今はこの『西側』の総大将であるヨンク=イゴン=レイモンド将軍から受け継いだ黄色の瞳は生真面目そのままに、しかし今は欠伸を噛み殺そうと閉じられていた。
「……失礼、物資の方は滞りなく?」
「ああ……といっても例によって食糧と飼い葉だけだし、麦や白芋については再来月から買う必要すらなくなったからな。
父上の方も、どう反応すればいいのか困っていたよ」
「そうでありましょうな」
コモスの西端、すなわち中心部たる港湾都市部に留まってこの城塞への兵站を管理している父上の、色々な感情が混じり合った複雑そうな苦笑。
それを思い出して肩をすくめる私に、ノエミアも小さく溜息をつく。
総大将が本陣を離れている。
その本陣の留守を預かる大将は、再び視線を紙上の盤面に戻している。
もう1人の大将たる私に至っては、買い物のために1週間も城塞を空けていた……。
それでも私たちは今、戦争の……いや、もっと正確に言えば停戦していないのだから戦闘の真っ只中だ。
イゴン家同士で、デー家同士で争い闘うという、家長としても戦者としても獣人としてもただただ恥ずべき、愚かな戦の真っ最中なのだ。
ひとえに、その原因は長としての私の力不足だろう。
もう5年近く前、『浄火』との決戦に臨むソーマに呼び出されたあの日の後。
ソーマに諭されてサリガシアに戻り、エレニアやルルたち残った戦支長たちとの挨拶もそこそこに『牙』の領土へ入った私とヨンク親子を待っていたのは、崩壊した本宮ザイテンと戦場と化していたベストラだった。
ナガラ陛下を失ったイー家を滅ぼし、新たな『牙の王』となるため早々に掲げられていた血みどろの旗。
同じく家長を、そして『大獣』という指標を失ったワイ家とサラン家が引き起こした混乱は、私たちが介入するどころかそれを目にする遙か前の時点でとうに一線を越えていた。
より快適な土地を住まいとするため。
より良い食料を確保するため。
より多くの子孫を育てるため。
より強い、種族となっていくため。
力のままに弱者を喰らい、強き者の子孫を増やす。
雪と氷の大地を走り、頂を目指し覇を競う。
その全てが戦いという、サリガシアの歴史。
獣人の、誇り。
何らそれに反していないはずのワイ家やサラン家の人間たちが誇りと共に浮かべている笑みは、しかし神話の大獣が浮かべるそれのように酷く醜悪だと、そのときの私の目には映った。
全種族の中で最高の視力を持つイゴン家の2人にも、それは同じだったらしい。
イー家を滅ぼした者たち同士、次は新たな『王』を決めるための戦いが始まったベストラに背を向けた私たちが出した結論は、それぞれの家の者をまとめて土の大精霊たるエレニアの下へ再度集うこと。
『浄火』が滅ぼさなかった、明くる日の世界。
その世界で生きる獣人を、そしてその世界に生まれてくる獣人の子孫たちを守るためには、まずサリガシア内の争いをなくさなければならない。
世界から、他の大陸と種族からいつ見限られてもおかしくないこの状況で、内輪の覇権争いをしている場合ではない。
『魔王』と分かれた後も変わらず昇り、そして沈んではやはりまた昇る太陽。
そこから漏れる光と熱に、私たちはそんな責任を感じていた。
……ただ、それはあくまでも私たち3人と『大獣』として近しかったものたちだけで、全てのイゴン家とデー家の人間がそうだったわけではない。
強き者の子孫を増やす。
頂を目指し覇を競う。
サリガシアの歴史と、獣人の誇り。
重ねてになるが、当時のワイ家やサラン家の人間たちの行動は決してこれに反していたわけではない。
何より、エレニアたちと共同歩調をとるということは『爪』だ『毒』だというわだかまり以前に、『服従の日』をもたらした『声姫』とも手を取り合っていくことを意味する。
ワイ家とサラン家に負けじと旗を掲げ、新たな『牙の王』を目指す。
あるいは、ナガラ陛下への忠を通すために両家の前に立ちはだかる。
一般的なサリガシアでの感覚からすれば、イゴン家にせよデー家にせよ取るべき行動はこのどちらかになるのが普通だ。
サリガシアの外の世界を知らない獣人としては、いずれにせよ『牙』に残って戦うというのが当然なのだ。
結果、イゴン家とデー家はそれぞれ2つに割れた。
合わせて15万ほどの人口の内、『獣王派』の考えを理解するか単に現家長のヨンク将軍と私に従うことにしてくれたのが約7万。
それを受け入れられなかったのが、ナジロ=イゴン=ハクラ将軍とエルマクス=デー=ジラ将軍を中心にまとまった8万の『新旗派』。
もちろん、何度も説明はしたしそれぞれの家の分裂が現実となってからも数十回と話し合いは行った。
おそらく、ナジロ将軍もエルマクスも私たちの目指すものを、ソリオン陛下が『獣王』として即位してからはより具体的になったサリガシアの未来像を、理解できていないわけではないだろう。
……ただ、同時に私たちも、それを認めたくないという彼らの感情が全く理解できないわけではない。
だからこそ、彼らと私たちの話し合いは最初から最後まで平行線のまま何も創り出せなかった。
それはきっと、お互いの信じるもののどちらが間違っているというわけでもなく、両立できないだけでどちらも正しいことだったからだ。
共闘していたはずのワイ家とサラン家が争い始めた頃、戦火の拡大するベストラやコトロードから離れた私たちイゴン家とデー家は、ついにイデア平原で完全に東西に分かれることとなった。
が、両方が正しいとしても、そのまま逆方向に歩んで行けるかどうかはまた別問題だ。
『新旗派』の東軍としては、これから『牙』の中で戦うに際して7万もの戦力を手放せない。
私たち西軍としても、憎いわけでもない8万の同胞がむざむざ散っていくのを見過ごせない。
どうせ往くならば、力尽くでも同じ道を……。
そうして始まったこの同族間戦争も、そろそろ2ヶ月になるだろうか。
陣を構築し防御設備を整える背後では、それぞれに所属する非戦闘員が生活のための拠点をどんどんと「創って」いく。
上位精霊を使えずとも『大獣』結成の影響で高位魔導士自体の数は増え、にも関わらずお互いに殺意がないため致命的な衝突を起こさなかった両陣営がひたすらリソースを築城に注ぎ込んだ結果、いつの間にかイデア平原には3キロの間を空けて東西2つの城塞が築かれ、ついにはそれぞれの壁の内側で農場や商店街までを整備するに至っていた。
くり返すが、これがこの戦闘の経過の全てであって……、……本当に、笑える話だ。
「……ふ」
実際、ソーマならこれを見て冷ややかに嘲笑してくれることだろう。
最後に会ったのは8ヶ月ほど前になるが、そのときの私もこうなることを聞かされていれば同じ表情になって、その後舌を噛み切りながら海に身を投げたくなったと思う。
どこにも進めず、ただ停滞しているだけの15万人。
家長としても、あの日『魔王』から「『浄火』と戦った後の世界」のサリガシアを託された身としても、ひたすらに情けない限りだ。
『賢陣』。
この凡小に似合わない二つ名を送ってくださった『二重』ことエンジュ=エル=リシュオン殿下も、草葉の陰で溜息をついているに違いない。
……シャラン。
「「!?」」
まさか、その意を汲んできたわけではないだろうが。
「空、邪魔をする」
私とノエミアの前に現れたのは古の聖職者の、死を弔う者の装いをしているという魔人。
今は『獣王派』の協力者として主に敵地や戦地への使者を務めている、テンジンの姿だった。
「……何かあったでありますか?」
首から足先までの白い肌を細い黒い布で巻き尽くし、その上には白いコロモ、さらにその上には黒の袖のないローブのような衣装。
アシダのような白い履き物と共に中心塔の床を突くのは、2メートルほどの黒い錫杖。
右腕の動きと共に、シャランと響く杖頭の13の輪。
そのすぐ下、こちらを向くのは体格と短く刈った黒髪がなければ女性と見紛わんばかりの美しい顔立ち。
「望外であるな、閑かな日々とは」
「いえ、これは、その……」
そこに灯る2つの赤い目は、問いかけたノエミアの手にある遊戯の指南書を見つけて小さく笑う。
見聞するに値しない。
かつてそう吐き捨てていたテンジンがこの世界を隔てるものは、今はない。
表情こそ変わらないものの、黒い布で封じられていた魔の人の瞳は、実は存外にミレイユよりもよほど雄弁だったりする。
魔の王が、残したもの。
彼もまた、それを受け継がんとする人間の1人だ。
「逆、其れも此れまで。
無論、我が遣わされたのは『何かが変わるから』である」
シャラン、とノエミアの言い訳を遮り、私たち2人から視線を東へと向けるテンジン。
その唇が、若干楽しそうに続ける。
同時に、その隣の空間が少しだけ揺らいだ。
目でも耳でも鼻でも捉えられないが、テンジンとそれほど変わらない強大な魔力の輪郭がそこに何かが存在していることを私とノエミアに示している。
これは、風の上位精霊か。
「知らされているな、『彼の王』の来訪は?」
「ああ、もちろんだ」
それを意に介さず、テンジンの言葉は続く。
彼の王、すなわち『魔王』ソーマのサリガシア上陸。
それ自体の段取りを組んだのは他ならない私自身だし、実際6日前にソーマがヴァルニラに入ったことも契約精霊のアイオンを通してエレニアから伝えられてはいる。
そのままコトロードに移動した後は、ずっとプランセルに滞在していたはずだが……。
「話は終わった、『彼の王』と『獣王』たちの間での。
『彼の王』は『獣王』を認めた、端的に言うなれば」
「……そうか」
やはり、安堵したというのが正直なところだった。
もちろん、私もヨンク親子もソリオン=エル=エリオット陛下とは内謁しているし、そのお考えも伺ってはいる。
このサリガシアを、私たち獣人の未来を託す『獣王』としてふさわしいお方だと、素直に思った。
ただ、それを実現できるかの強さを持たれているかどうかは……、……評価が難しい部分もあると感じたのも、素直な事実だ。
ただし、それは『獣王』に従わない獣人を降すための強さのことではない。
そんなものは極論、エレニアが手段を選ばず後の一切のことを無視できるならば半月もかからず終わらせられる。
私たちの王に、『獣王』に求められるのは、世界にサリガシアを、獣人を認めさせる強さ。
つまりは、『魔王』や『声姫』に認められる強さだ。
単純な武力や財力や権力ではない。
人としての正しさ、王としての強さだ。
特にソーマは、この点で目をこぼすことはしないだろう。
あの日以降、デー家が完全に割れるまでは大使として何度も言葉を交わしている私は心からそれを理解できる。
当然だ。
彼の『魔王』は、『魔の王』が滅ぼそうとしたこの世界の全てを託されたのだから。
だから、ソリオン陛下が『王』に足りないと思ったならばソーマは容赦なくそれを指摘し、必要となればどんな犠牲を払ってでも排除しただろう。
どれほど正しくどれほど優しく、どれほどあたたかくどれほど善であるからといって、その事象が必ず現実になるわけではない。
まずはその現実を無事に勝ち取ったことに、ソリオン陛下が勝ち獲られたことに……ゆっくりと息を吐く。
「故、『王』たちは次なる一歩を踏み出すと決めた。
此の世界を変えるために、此の世界を守るために。
……聞け、全ての長たちよ」
凜とした迷いのない言葉が、比喩ではなく空から城塞全体へと響く。
すなわち、【台天鐘】。
土属性のテンジンでは発動できないはずの風属性高位魔導にして、『声姫』フリーダの代名詞の1つ。
「此れより89日の後、五大精霊の名において全ての家長を称する者に参集を命ずる」
なるほど、風の上位精霊は単なる拡声器代わりではなく、これが間違いなく五大精霊の、その信任を受けた『霊央』ソーマの言葉であることを証明するための存在か。
もはや神託のごときテンジンの声は、小さく息を吸い背筋を伸ばした私とノエミアの、そして西城塞で生活する全ての人間の鼓膜を確実に叩く。
「此れは五大精霊の名に誓って、宣言の場であって殺生の場に非ず。
全ての家長を称する者の言を等しく並べて、世界の未来を占うもの也。
よって、此れに逆らい欠ける者は以後の言を認めず、大義に従うと見做すもの也」
その内容は、やはり私たちを圧倒するものだった。
つまりは全家長を、「称する者」ということはナジロ将軍やエルマクスのように割れた者たちの長も集めて大会談を開くつもりなのか……!
……いや、しかしそれで全てを解決できるのか?
「此の大命は、『魔の王』の名に誓って我テンジンと精霊たちが大陸全ての場所を廻り、等しく全ての長を称する者に下すもの也。
重ねて告げるが、此れに逆らい欠ける者は以後の言を認めず、大義に従うと見做すもの也」
……が、少なくとも不透明な動きをする家長たちの意志に白黒をつけることはできる、ということか。
それに、陛下のお考えや、ソーマの言葉を直接聞けば変わる心もあるかもしれない。
問題は『獣王派』以外の家長たちが素直に参加するかだが、その退路を塞ぐための五大精霊の名であり【台天鐘】なわけか。
ここまで堂々と明言されているものにきちんとした対応をしなければ、家長としての器を問われ家の中からの支持も失い兼ねない。
全員の耳に聞こえている以上、伝言を握り潰すことも内容を歪曲させることも不可能だ。
となれば、後は謀殺のリスクだが……。
「参集の場はバルナバ、バルナバ也」
「「……!」」
敵地、『真王派』の中心地と目されている場所、か。
なるほど、これで反『獣王派』は一切の反論を封じられることになる。
自分たちの本拠地での謀殺が怖いなど、戦者としては口が裂けても言えないだろう。
逆に私たち『獣王派』の家長たちは相当の緊張を強いられることになるが、ソーマとエレニア、テンジンが同じ側にいるという事実はそれを大きく和らげてくれる。
「以上、也。
デー家の長を称する者よ、返答や如何に?」
「デー家の家長、アネモネ=デーシックス。
……承知した」
「成、善し。
……空、イゴンの長は……まだ下か」
とはいえ、本当にこんな重要な会議をバルナバで開催できるのか?
慌てて中心塔に走ってくるヨンク将軍を待つテンジンがこちらを向いてつけ足したのは、私のそんな表情を見て取ったからだろう。
「問題ない、バルナバには此れより丁重な礼をすると言っていた」
ただ、その赤い瞳は……すぐに閉じられ、眉間に深いしわが寄る。
「……逆、向かったのは我の知る限り最も無礼な2人であるが」




