アフター・エール ソーマの家族
乗るのもかれこれ10度目にはなろうかという、『青の歓声号』の広い甲板の上。
他の乗客たちや荷下ろしの準備のため走り回っている船員たちの全員は、やはりその光景を前にして小さく息を呑んでいた。
ネクタから見てカイラン大陸への玄関口となる、ウォルポート。
そこへ至るウォル小運河は、何度見ても人工物だとは思えない。
凝視すれば確かに滑らかなその壁面も、大型船が余裕ですれ違える幅で5キロに渡って続くとなると逆に人の意志を感じさせなかった。
文字通りに大地を引き裂いて存在するその威容は、今渡ってきたばかりの大海や、カミノザに広がる深い森を思わせる。
人の大きさを、遙かに超えるもの。
人間の強さを、遙かに越えたもの。
商会長から船奴まで身分様々な人間たちも、冒険者パーティーなのであろう獣人たちも、私たちと同じ数名の森人たちも。
「「……」」
それが自分たちの前に君臨する予感に緊張を感じながら、運河の終着点へと無意識の視線を送っている。
「うふふー、もうすぐねー」
「……あぁ」
その端にあって、おそらく最も気を抜くことができているのが妻と私だった。
「非常に快適かつ安全だった」とはいえ5日間の船旅を終えられる安堵感と、およそ1年ぶりに家族に会えるという高揚感。
同僚や友人から『岩石』と揶揄される自分の口元が柔らかくなっていることにも、自覚はある。
「はーやーくー、あーいたーいなーー」
もっとも、普段以上に朗らかな妻が隣にいるので、周囲は全くわからないだろうが。
「……では、私はこれにて失礼いたします」
「はい、ありがとうございました。
とっても助かりました」
「どうも、お世話になりました」
船が最後の回頭を終えウォルポートの停泊地に入ると同時に、後ろに控えていたシャフスが腰を折った。
カミラギノクチから護衛と水回りの世話を勤めてくれた上位精霊に妻と並んで頭を下げると、透明な女性の姿は水滴1つ残さず消失する。
高位魔導士でもある妻の視線を追っていくと、その姿は岸壁に立つよく似た女性型の、しかし私でもわかるほどに強大な魔力を感じさせる上位精霊の後ろへと移動していた。
水の上位精霊筆頭、シムカ。
すなわちムー様と同格であるそんな存在が……、……自分の娘の後ろに控えているというこちらの光景には、いつまでたっても慣れることがない。
「……ーーん! おじーちゃーーーん! おばーちゃーーーん!」
ただ、今はその違和感との話し合いも後回しだ。
「おじーちゃーーーん! おばーちゃーーーん!」
「アーイちゃーーーん!」
シムカとシャフスを従えた白いコロモ姿のアリスに手を引かれた、青いローブに身を包んだ少女。
もう片方の小さな手を大きく振り続けているアイリの笑顔に、アリアも満面の笑みと大声を返す。
「じゃあお父さん、お先にー」
「あぁ」
さらに朗らかさを増した声。
船が完全に係留され渡板がかけられると同時に、荷物の全てを私に押しつけたアリアはそれを駆け下りていった。
不惑をとうに越えているとは思えない軽やかな身のこなしは、さすが元サキモリと言ったところか。
苦笑しつつ荷物を持ち直す私の眼下では、すでにアイリが抱き上げられている。
「アイちゃん、おっきくなったわねー」
「うん、もうちょっとで5歳だもん!」
「お父さん、お疲れ様。
船は大丈夫だった?」
「あぁ、お前たちも元気そうだな」
ようやく揺れない地面を踏みしめたところで、その分の荷物を受け取ってくれるのはアリス。
1年前と変わらない娘の穏やかな表情に、私も同じものを浮かべる。
「おじーちゃんも! だっこ!」
「ん、あぁ」
それは、その娘の方も変わらない。
アリアから渡されたアイリの笑顔は、やはり1年前と変わらなかった。
確かに大きくなってはいるが、アリスと同じ色の瞳には幸せだけが輝いている。
コロコロと元気によく動く表情は……正直、あまり両親に似ていない気もするが。
「おじーちゃん、『かたるるま』! 『かたるるま』して!」
「……肩車、か」
「アイリ、着いたばかりでおじいちゃんも疲れてるから……」
「あらー、まだそこまで年寄りじゃないわよねー?」
「あぁ」
「……たかーーーーい!」
アリアの助けを借りて私の首の上に収まったアイリは、クルクルと周りを見渡している。
が、すぐにそれは一方向へ固定された。
「パパ!」
その指さす方向には、私たちばかりか周囲の全ての人間と精霊の視線が集中している。
「すみません、遅くなりまして。
……シャフスとシムカはご苦労だった、もう下がってくれていい」
その焦点が私の前で敬語を発したことで、それには多分に驚愕と好奇が混ざり込んでいた。
『魔王』であり『霊央』である、当代の水の大精霊。
そんなこの地の主が率先して頭を下げるということが世界にとってどれほど異常事態なのかを、私は圧力のような視線と共に1年ぶりに思い知る。
「ねー、パパより高い! いいでしょ!」
ただ、それがすぐに霧散するのも、また1年前と同じ光景だ。
「ソーマ君もアリスちゃんも、1年ぶりのジジババと孫の触れ合いを邪魔しないでねー」
「私が体の心配をしたら『まだそんな年じゃない』って怒るくせに……」
「……まぁ、君らもいずれはわかることだ。
この……身勝手な感覚は」
「……わかりました。
でもアイリ、足パタパタするのはダメだからな」
アリスの夫でありアイリの父親であり、そして私たちの息子として。
ぼやくアリスから荷物を引き受けつつアイリに苦笑するソーマ=カンナルコの姿はどこまでも自然体で、漂ってくる魔力さえ無視すれば生身の人間にしか見えない。
……いや、もちろん実際にそうではあるのだが。
「よぉ、大精霊! ちゃんと来てやったぜ!!」
「ああ、道中ご苦労」
「船の護衛も何も、やっぱり魔物自体ろくにいねぇじゃねぇか!」
「そりゃあ、カミラギに行く度に徹底的に退治してるからな」
「つまんねぇことすんなよ!!」
こうして、『木竜』ヒエンを全く恐れも畏れもしていない様子を見ると、やはりまたその印象は曖昧になっていく。
シャフスと共に船団の護衛についてくれていたヒエンは、私の記憶力が確かなら2匹の『竜魚』を絞め殺し1体の『白王』を殴り殺していたはずだが……。
それを些事と忘れているような存在が憤っていても、それよりもさらに強い水の大精霊は顔色1つ変えない。
「だから、こっちで面白いことを用意してやったと言っただろ。
アーネルやチョーカの騎士団に超戦士、決戦級を含むAクラス冒険者の群れ……。
そういった人類最強クラスの軍事力相手に、連日演習できるんだぞ?」
「本気も出せない戦いの何が楽しいんだよ!?
だいたい、それはここのガキ共の見取り稽古のついでだろうが!!
しかも、半年近くもそんな素人共の相手をしろって、お前の中でオレ様の価値安くないか!!?」
「友情に値段はつけられないだろ」
「お前と友達になった覚えはない!」
というか、若干面倒くさそうな表情になっている。
単騎で国を滅ぼし得る霊竜が機嫌を損ね始めているという事実に停泊地一帯の人族の表情は凍りつき始めているが、その中で自然体なのはこの青年と私の娘、そして私の肩の上にいる孫だけだ。
多少は面識のある私とアリアにしても、やはり本能が体を硬直させている。
「この友情に半年つき合ってくれた暁には、当代の水の大精霊と火の大精霊が飽きるまで相手をしてやるんだが」
「さすがだ親友!!!!」
まぁ、それも予定調和だとわかってはいるのだが。
「ヒエンもごはん一緒に行くのー?」
「食べ歩きは1人でしたいから行かねぇ!
またな、チビっ子!!」
「え、『緋緋色金』を予約してるんだけど、本当にいいの?
領主枠以外の予約は2年先まで埋まってるらしいから、飛び込みなんて絶対に無理だけど」
「……」
「まぁ、無理にとは言わないさ。
じゃあヒエン、これウォルにいる間の滞在費だから。
足りなくなったら俺かアンゼリカを捕まえてくれ。
……じゃあ、行きましょうか」
「や、やっぱりオレ様も行く!」
アイリ、アリス、ソーマ君。
結局のところ、この一家にとってはこの光景も自然の、普通のことなのだろう。
荷物の内半分をヒエンに渡して歩き始める黒い普段着の背中は偉大な大精霊のそれでもあり、そして1人の父親のそれでもあった。
「……さすがの君でも、やはり落ち着かないか」
「……」
そう小さく笑ってしまったのは、盤上の黒の形があまりに支離滅裂だったからだ。
アリスの出産予定日を明後日に控えた、ウォルの娘夫婦の家。
アリア、シムカと共に共同浴場へ行った娘の、その夫である青年は私の指摘に無言で苦く笑った。
ソーマ=カンナルコ。
『魔王』であり『霊央』であり当代の水の大精霊である彼もまた、第一子の誕生を目前にしてはただの21歳の人間か。
待っている間にとリビングで始めたチェスではあるが、普段の凍てつくような攻め筋はどこへ消えたのか、私の前の白のキングはまだ一歩も動いていない。
というよりも、動くまでもなく黒の陣地がほとんど壊滅している。
攻防どっち寄らずの中途半端な駒運びから自滅していったその様子は、むしろ……初産に備えている中で悪いが、娘の拙さを連想させた。
……いや、というよりは甘さか。
「父親になるともなれば、心持ちも変わるものかね?」
それを喜ぶべきなのか、憂うべきなのか。
4手先での黒の詰みを確定させた私は椅子に背を預け、盤の傍らのカップに手を伸ばした。
冷め切ってしまったカティは、少し苦みが強くなる。
一方で、黒のキングを倒した彼は背筋を伸ばしていた。
「父親……は、……何をすればいいものでしょうか?」
「ん?」
カップを置いた私の両目を、黒い瞳は直視している。
「妻と子供を守り、路頭に迷わせないこと……そんなことは、もちろんわかっています。
ただ、その上で子供をどう育ててやればいいものでしょうか?」
正直に言えば、意外だった。
かつて娘と歩むためにあれだけの啖呵を切った『魔王』とは同一人物とは思えないほどに、目の前の青年は不安気な表情を浮かべている。
あるいは、困惑と言い換えてもいいかもしれない。
どこに何があるのかわからない、未知への恐怖と未来への萎縮。
こういう場合、まずは自分の親が思い浮かぶものだが……。
「君の……あぁ、すまない」
「いえ」
そう、彼は家族を亡くし、自分の父親の顔に至っては一度も見たことがないのだったか。
かなり以前に軽く話されたきりだったその事実を思い出し慌てて謝罪するが、彼自身は本当にどうでもよさそうに私を見つめ続ける。
たまに感じることがある、この青年のあまりに強固な精神構造。
もっとも、これが本当に強さなのかあるいは危うさと呼ぶべきなのかは、私には判断がつかないが。
「……まずは、その『育ててやる』というのが少し違う気はするな」
「……」
だから、というわけでもないだろうが、私の第一声は否定から始まっていた。
「子供というのは、こちらに育てる気がなかったとしても勝手に成長していくものだ。
それをどうこうできるという風に考えるのは、やめておいた方がいい。
どう育つのが『正解』、というものでもないしね」
ただ、それは決して彼への不安が募ったからではない。
娘2人を成人させた身として、真実、私はそう結論づけているからだ。
「例えば、アリスは冒険者としてネクタを飛び出しこうして君と結婚したわけだが、だからといってネクタの中にいるマリアの生き方が間違っているということでもないだろう」
「……はい」
例が例だからか、ソーマ君も素直に頷いた。
偉大で気高く、しかし森人にはあり得ない夢を持つに至ったアリスと、それに比べれば至って平凡でも、森人として何ら恥じることのない幸せな人生を選んだマリア。
そこには正誤どころか、優劣すらも存在しないと私は親として思う。
「これは決して今のアリスや君を否定するわけではないが……、……アリスをサキモリにせずノクチに出さなければどうなっていたのだろう、と想像したことはある。
マリアと同じようにネクタに留まり、誰も助けない代わりに傷つくこともない平穏な人生を送っていれば、また違った形であの娘は幸せになれたのではないか、と。
傷つかず、涙せず、自分の弱さゆえに絶望しない……。
そういう人生と幸せもまた、あったのではないだろうかと」
そして、こう思うのもまた親としての真実だ。
ソーマ君と出会うまでにアリスがどれだけ傷つき、涙し、自分の弱さゆえに絶望したのかを、私とアリアは正確には知らない。
おそらくだが、ソーマ君も全てを把握しているわけではないだろう。
そのソーマ君にしても、ついこの間死にかけたばかりだ。
「君は自分の子供を冒険者にしたいかね?」
「……」
それを全否定はしないが、だからといって全肯定もできない。
「すまない、悪意はないんだ」
勝手と言われても仕方のない親心ではあるが、親となった身ならば理解できてしまう。
既にこちら側にいる目の前の青年も、今は小さく苦笑いしていた。
「まぁ、つまりはそういうことなのだよ。
どう育つのが正しいというものでもない以上、どう育てるかにも正しさなどない。
……明らかな誤りを正すということは、必要だけれどね」
ならば、子育てとは結局そういうものなのだろう。
たとえば邪悪を放置するといったような明らかな不正解こそあっても、育児を終えた親ですら答えられない以上は絶対の正解など存在しないのだ。
むしろ、それを言い切れると思っているならば、親こそ立ち止まった方がいいのだろう。
それは親として、おそらくは誤っているのだから。
「私は、今のアリスが幸せな人生を歩んでいると思っている。
そして、君はそのアリスが自分の子供の父親であってほしいと選んだ人間だ。
だから、心配はいらない。
君とアリスなら、生まれてくる子供を必ず幸せにできる。
アリスの父親である、私が保証しよう」
親にできるのは、子供が育つ場を守ること。
「君もまた、私の息子なのだから」
そして、子供を信じることくらいだ。
「……はい、ありがとうございました」
王どころか魔導士ですらない私に、当代の水の大精霊は深く頭を下げる。
その澄み切った敬意と謝意に、向けられる私の方が圧倒されかけていた。
そこに、あの冷たい危うさはない。
さほど心配しなくても、この青年なら父親の務めも立派に果たせるだろう。
「あとは……そうだね、父になったからといって夫でなくなるわけではないことを、肝に銘じておきたまえ。
まぁ、これは母となるアリスの方にも言えることではあるが」
だから、これは家族間のそれにしては神妙になりすぎた空気を入れ換えるための、軽いサービスだ。
「君らは、夫と妻から父と母になるのではない。
夫と妻のまま、父と母にもなるのだ。
ここを間違えると……、……なかなか大変なことになるからね」
かつての自分と同じ失敗を、明らかな誤りを見逃さないための、私の親心だ。
「……何かあったんですか?」
「……聞いてくれるな」
……あまり詳しくは、説明したくないが。
「わかりました……、……!」
最後に苦笑を交換したところで、ソーマ君の動きが止まる。
「シムカから、アリスが産気づいたようです」
立ち上がる彼の表情には、既に父親としての決意が満ちていた。
「おかわりされます?」
「……あぁ、頼む」
正面からの声に、長考に沈みかけていた私は視線を上げた。
竈も使わずに温め直されたポットから注がれる、カティの穏やかな香り。
同じくカップを傾けるソーマ君の横顔を一瞥した後、私はまたテーブル上のチェス盤へと意識を戻す。
おおよそ5年前のひどい対局と同じ相手のものとは思えないほどの、重厚で安定した黒の陣形。
片端から敵陣を飲み込んでいく攻撃的な駒運びが多い彼にしては珍しい、「受け」を意識した展開ではあるものの、これは「守る」ためではなく「カウンターを与える」ためのそれだ。
どこで戦端を開いてもそこから猛攻を受けることがわかっているため、白の駒はもう10分近くも動かされないままになっている。
『緋緋色金』での食事を終え、ゆっくりと風呂をいただいた後。
公衆浴場へ行った女性陣を待つ間の手慰みだったつもりの一局は、思わぬ難局へと変貌していた。
「……さて、どうしたものかな」
「引き分けでいいのでは?」
どう攻め込んでも、白が悪くなる。
諦めて息を吐いた私に、ソーマ君は静かに微笑む。
『魔王』であり『霊央』である、当代の水の大精霊。
アリスの夫でありアイリの父親である、1人の人間。
「相手に勝てないとしても、負けなければそれでいい……。
そういう戦局の作り方も、あるかと思いまして」
「ふむ……」
冷静ではあるが冷たくはない彼の言葉に、私も対戦を終わらせることにした。
チェスというゲームの存在意義に反する行動ではあるものの、身内同士の遊戯でそこまでうるさいことを言うつもりもない。
何より、最後まで指し切ったたところで時間を無駄にするだけだ。
「ただいまー!」
「おかえり、夜だからもっと可憐にな」
「(た、ただいまー)」
「そうそう」
ドアを勢いよく開け駆け込んでくるのはピンクのコロモ姿のアイリ。
続いてアリスとアリアも入ってきたことで、一気にリビングの温度と湿度が上がる。
「やっぱり、おっきいお風呂は楽しいわねー」
「でも、お母さんはちょっとはしゃぎすぎ。
あれじゃ、アイリと変わらない……」
「アイちゃん、ママが『おばーちゃんとアイちゃんそっくりね』って!」
「イェーイ、そっくりーーーー!」
「そっくりー!」
「……もう、疲れた」
「ママ、ご苦労さん」
一緒に万歳しているアリアとアイリの横で、溜息を吐くアリス。
それを労うソーマ君の苦笑には、やわらかな幸せが満ちている。
息子のそんな表情に、私の口元は自然と同じものを浮かべていた。




