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クール・エール  作者: 砂押 司
後日談 循環せり想い

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157/179

アフター・エール 黒と赤

1つの巨大な鳥型陣を構成する赤い駒と、それを左右から囲もうとする黒い駒の3つの陣。

わたしから見れば敵軍となるその3つの陣の内、右側の中盤を支える「槍兵」とその後ろに控える「弓兵」、そして反対側、左の陣地の中心である「将」。


「……ウォルにダメージを与えるとして、お前なら最初にどこを狙う?」


私の本陣右翼側への牽制を目的として動かされた2つの駒、そして……意図のよくわからない移動を終えた3つ目の「将」の駒からは、同色の手袋の指先が離れていく。

それを辿った先、同じ色の瞳には、しかし酷く冷たい問いかけをしながらも悪意は一切浮かんでいなかった。

ならばと黒の視線の先を追ってみれば、そこにはお茶請けにと用意した『銀色の雨』謹製のビスキュイが並んだ皿。

『金色の雲』から独立したばかりの新店の意欲作は比較的味にうるさい彼のお眼鏡にも適ったようで、既に半分程まで減っている。

さらに、こちらは肌色のままの左手の指先でもう1つを摘まもうとして……。


「……」


「……ふふふ、カティのお代わりは?」


「ん、頼む」


「かしこまりましたわー」


少しの静止の後、それを頬杖の位置に戻した彼の動作と意図に含み笑いしながら、私は立ち上がった。

食事を必要としない身でありながら、結局はほぼ毎日使っている自宅の台所。

少し冷めてしまったカティのポットを手に取り、彼が差し出してきたカップにそのまま注ぐ。

温め直さないのは、彼に限ってはその必要がないからだ。

事実、盤の傍らに戻っていく彼のカップからは穏やかな湯気が上がり始めている。


半径5キロに存在する全ての水を支配する、当代の水の大精霊。

今は私の対戦者である『魔王まおう』にして『霊央れいおう』ソーマ=カンナルコにとって、手元の飲み物の温度を自分好みにすることくらいは呼吸よりも易しい動作だ。


「では……、……こちらで」


「そうくるか……」


「ふふふ」


なので、彼の眉間に浮かんでいるしわはそのコントロールに疲れたからではない。

席に戻った私の動かした駒が、彼の想像とは違っていたからだろう。


トラック・チェス。

俗に『三将チェス』とも呼ばれるこれは、通常のチェスの4倍の広さとマスを持つ盤上で同じく約4倍の数の駒を戦わせる2人用のボードゲームだ。

もちろん規模や駒の種類以外にも大きなルールの違いがあり、例えばトラック・チェスではチェスのキングに相当する「将」の駒がそれぞれ3つずつ与えられる。

勝利条件は、この内2つを討ち取ることだ。

また、手番1回につき3つの駒を動かさなければならないのも、トラック・チェス独特のルールだと言える。


慣れるまでは困惑することの多いこのゲームだが、サリガシアン・チェスのように4人対戦であったり不条理カードの要素も少ないことから、本場のサリガシアでは純粋な陣形戦を学ぶための優れたゲームともされている。

1つまでは討たれても構わない「将」を中心に、どのように起陣していくか。

3つの駒が動くそれぞれの手の間に起こり得る変化を、どこまで予想できるか。

ほぼ無限にが交錯するこの盤上で求められるのは、現時点から未来に至るまでの戦場を俯瞰し続けられる冷徹な目だ。


「じゃあ、これで……とりあえず、チェック」


「……相変わらず、性根の歪んだ手ですね」


そして、それはソーマ=カンナルコという人間が振るう強さの源泉でもある。

自分と同じ種族である人間を、どころか実際に言葉を交わした相手やそれ以前に自分自身ですらも客観的に「見下ろせる」が故の、非情なまでの冷徹さ。

それが合理的であれば迷いも躊躇いもしない、残酷なまでに澄み切った心。

水の大精霊として、あるいは異世界から召喚された人間として、人間でありながら人間を俯瞰するその異質……。


……いや、その人間たちに言わせれば、私が人間の「異質」を語る方が悪い冗談になるのだろうか。

800年以上、人間に憧れ献じ続けた『賢者』。

800年以上、人間を妬み求め続けた『愚者』。

にしてひとなる魔人ダークスの終着の1人にして、『浄火』ライズからその座を託された当代の火の大精霊。

肉の体を持つ人間ではないのだから、それを持つ人間を俯瞰して当然のこの異質。


「お前にだけは、言われたくないけどな」


「わたくしも、旦那様にだけは言われたくありませんわー。

……はい、チェック・メイトです」


「…………ほらな」


まぁ、あるいはどっちもどっちなのかもしれないが。


心からの笑顔で黒の「将」を盤外に移動させる私と、その指先を遠い目で追いかける彼。

数十手の攻防を経て盤上の赤の陣はかなり乱されているものの、「将」の1つと駒全体の3割を失っている黒の側よりは明らかに優勢。

ウォル領主と領主代行兼学校長によるトラック・チェスは、1時間の激戦を経てようやく終局を迎えようとしていた。


「……で、お前ならどうする?」


「狙うなら、独り立ちした子たちでしょうね。

強いとは言っても高位魔導士が複数いれば攻略できる程度の強さで、聞き出せるかどうかは別として正確なウォルの情報を持っているわけですから。

……わたくしたちにも、動揺を与えられるでしょうし」


あるいは、似た者同士の方が表現としては近いのだろうか。


勝敗が見えてはいても彼は最後まで対局を続けるつもりらしく、左翼側では黒の「斥候」と「軽騎兵」がそれぞれ赤の「盾兵」と「槍兵」を退場させる。

続けて動いた「高位魔導士」は、赤の「将」2つを射程に収めた場所に停止。

排除はできても相応の犠牲が必要となる黒の攻勢に眉をしかめつつ、私は合理であるが故に残酷な答えを返す。


「助けるなら犠牲を、見捨てるなら不和を覚悟しないといけないだろうな」


「旦那様とアリスさん、そしてわたくし。

大精霊クラスの怒りを誘発させ、あるいはその間にきしみを生み出せるかもしれないことを考えれば……充分検討に値する手ですわー」


実際に、そこから赤の陣地は大いに崩され始めた。

それ以上のペースで黒の駒も減らしてはいるものの、残る2つの「将」はしっかり後方に控えているためまだまだこの不毛な戦いを終わらせることはできない。

戦いの本質とは、相手の選択肢を制限していくこと。

それを逆手に取ったかのような黒の手筋は、勝利が確定しているはずの赤の陣営に泥沼の消耗戦をい続ける。


自分以外のものを切り捨てられない正しさと優しさを持つが故に、為政者には致命的に向いていないアリス。

そんな彼女と交わすことは難しい、『王』としての苛烈な選択の話。

大を生かすために小を殺さざるを得ない、時間に囚われた現実の話。


それに向き合う『魔王』に、『魔の王(ライズ)』を受け継いだ者として私もまた向き合う。


「……『真王派』ですか?」


「いや……、……今は、まだ何も」


「……今は、ですか」


「ああ」


「……」


「……チェック」


「……滅ぼす、というのは?」


「サリガシア以外に散った時点で、もう無理だ。

……復讐者は、強いぞ?」


「ですね……チェック」


結論が破滅だとわかってはいても、私と彼は残酷な想像を止めようとしない。

彼の妻ではなく友として、領主夫人ではなく領主代行として求められている役割を、私はただけんじていく。

私も彼も、そこに迷いはないし躊躇いはない。


お互いに傷つけることを、恐れないから。

お互いに傷つかないと、知っているから。

お互いの強さを、理解し合えているから。


お互いを、信じているから。


「はい、チェック・メイトですわー」


「ん、参った」


仮想の戦場での救いのないやり取りは、私が2つ目の黒の「将」を追い詰めたところでようやく終わりを迎えられた。

彼は淡々とその事実を受け入れるものの、実際にはあれだけあった赤の駒も半分以上が討ち取られている。

黒に至っては、もはや片手で数えられるだけしか残っていない。

驚異的な悪あがきを実演した彼自身も、盤外に溢れる死者の数に疲れた笑みを浮かべている。


彼も、私も、確かに強い。

それでも、まだ手は届かない。


世界は、まだまだ残酷だ。





……ただ、それでも。





「校長先生、こんにちは!

チーちゃんと! 遊びに! きました!!」


入口のドアが勢いよく開けられ飛び込んでくるのは、それよりも勢いのある少女の挨拶と若干困ったような私と同色の瞳。


「はいアイリちゃん、こんにちは。

もちろん、歓迎いたしますわー。

チーチャも、おかえりなさい」


「……ただいま帰りました、姉様」


かつては最凶の『強者』、今はやや苦労人気味の4歳児のチーチャの手を引いて駆け込んできたのは、ソーマとアリスの娘であるアイリ=カンナルコ。

その元気と希望に満ち溢れた笑顔は、穏やかではありながら確かに殺伐としていたリビングの空気を一瞬で入れ換えてしまう。

あの両親のどこの部分を受け継いだのか不思議に思えるほどの、天真爛漫さ。

その眩しさとあたたかさは、千年を狂気と虚無の中で過ごしたチーチャの感情にさえ変化を与える。


学校も準備学校も午前中で終わる、週に1回の半休日はんきゅうじつ

それに当たる今日、どうやらアイリはチーチャを口説き落として、一旦アリスと家に帰った後にこちらに遊びに来たらしい。

お目当てはチーチャと共に1人30役以上をこなさなければならない壮大な人形遊びの続きと、それへのねぎらいも兼ねて私が手作りする少し豪華なおやつだろう。

何だかんだで、アイリも女の子。

抜けているようで、実は抜け目がない。


「あ、やっぱりパパもいたー!

パパも、校長先生と遊びにきたの?」


「いや、一応仕事の範囲に入るんだけどな……。

それより、ちゃんとママに行き先と帰る時間は言ってきたか?」


「うん!」


彼の魔力を感じ取っていたらしく、母親譲りのその緑色の瞳は苦笑する父親を見つけても驚きはないようだ。

両手を上げて抱っこをねだり、要求通り膝に座らせてもらってご満悦の姿を見ていると、私も自然と微笑んでしまう。


「あ、お菓子! 食べていーい?

チーちゃんもほら、校長先生のおひざ!」


「え……」


「……構いませんよ、チーチャ?」


「ね、姉様!? ……ふぁ…………」


それは、私がチーチャに教えたいと思っていた色々なものを、この子がごく自然に与えてくれるからだろう。

遠慮し、緊張し、今は私の膝の上で溶けかけているチーチャを抱きしめながら、私は自分の笑みが深くなっていくのを感じる。


「やっふぁり、ふぁそんでた!」


「こら、口に物を入れたまま喋るな」


そのアイリはビスキュイを、彼が娘の来訪を悟った時点で食べるのを止めたそれの半分をチーチャに押しやった後、残る半分を口に放り込んでからトラック・チェスの駒を並べ始めていた。

もちろん、4歳のこの子はまだ普通のチェスのルールも理解できていない。

必然、それより複雑な駒の初期配置を再現できるはずもなく、場所はでたらめで向きも種類もバラバラなままに盤は中央から埋められていく。


「……うん、この方が『よーえん』!」


それは当然、色も同じ。


「「……」」


戦場だった盤の上に作られたのは、黒と赤が完璧に入り交じった大きな円。





世界は、まだまだ残酷だ。

ただ、それでも私は絶望していない。


いつか世界は変えられると、今の私は信じているから。





彼と私。

黒と赤の視線は無言のまま交錯し、再び盤の上へと戻る。

『魔王』と『魔の王』の唇は小さく開き、すぐにそれは微笑みへと戻った。

……というわけで、そんなソーマ君とミレイユ先生の邂逅も詳しく書かれているヒーロー文庫版2巻は、本日8/29より発売です。


アーネル王室との冷たい、そしてミレイユとの熱いバトル。

そして、ソーマを巡るアリスとミレイユの本心……。

「なろう」版連載当時は手の届かなかった部分をしっかり書き直したこちらの『クール・エール』も、どうぞお楽しみください。


文庫版限定の、妖艶すぎるミレイユの表紙が目印ですわー。

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