ショート・エール ソーマ=カンナルコ 中後編
「失礼いたします」
「……入れ」
シムカが透明な腕でノックした扉の向こうからは、何というか、ひどく疲れたような低い声が返ってきた。
ウォル領ウォルポート、その領主館2階の応接室。
分厚くやや無骨な、しかし丁寧に磨き上げられた木製の両扉を引いて私たちを迎えたのは、しかしその声の主ではなくアンゼリカの方だ。
「……あぁ、皆さんでしたか」
「久しいな、アンゼリカ」
もう落ちそうな日の光が、部屋の中から私たちをオレンジ色に染める。
新興港湾都市の町長としての怪訝な視線から『兄弟姉妹』たちの筆頭として親しい身内に向ける瞳へとやわらかく変化していくその紫色に、私は苦くなりそうな表情を全力で我慢した。
「さっき帰ってきたんですぅ」
「ただいま」
「あの、えっと、その……」
「イン姉、別に無理に何かしゃべろうとしなくてもいんじゃないかな?」
ブランカ、ネイリング、イングラム、キスカ。
私の後ろに続く4人……すなわち『オレンジシャドー』の面々も、おそらくは同じ努力を表情筋に強いているはずだ。
「じゃあ、どうぞ中へ……、……えーっと…………」
それが実っていたのか、何の警戒感もなく体を引いたアンゼリカは、私たちを通すための道を振り返りながら停止する。
その背中越しに目に入るのは、巨大な水天石のテーブルの4分の1ほどを埋め尽くす書類、書類、書類……。
遠慮のいらない間柄とはいえ、来客をこんな散らかった場所に迎えていいのか。
過去身内だった相手とはいえ、今のウォルの内部情報をその目に触れさせていいのか。
同質のようで相反している2つの懸念に硬直したアンゼリカは、未だ手元の書類から視線を外していないこの部屋の主へと無言の裁可を仰ぐ。
「ここでいい。
……それから、悪いがお前は外してくれ」
「……かしこまりました。
では皆さん、失礼しますね」
「……ああ」
一瞬だけアンゼリカに向けられた黒い瞳は、また手元の皮紙の表面へと戻った。
立ちこめるインクとカティの匂いの中で、若き町長は数秒だけ黙った後腰を折る。
いつの間にかシムカは部屋の奥へと移動し、影の一部のように佇んでいた。
同様にセリアースとシャフス、私たちが名前を知らない女性型の水の上位精霊が1人、残る3つの隅へと顕れる。
「本当に久しぶりだな、アネモネ。
……いや、一番の副戦支長殿」
サリガシアで討たれるはずだった『魔王』が、そう私に声をかけてくる意味。
4人の先頭で手に汗をかいている私を、ここではじめてソーマ=カンナルコの視線が捉えた。
「悪いが、見ての通り時間がない状況でな。
話は、このまま進めさせてもらうぞ」
4年を経て対峙する黒い瞳は、言葉の通りまた同じ色の文字列を追いかけ始める。
「「……」」
同時に、私たちの肌は言いようのない違和感を感じ始めていた。
一番より、アネモネ=デー=シックス。
二番より、キスカ=スゥ=ミリオン。
四番より、ブランカ=ラブ=フーリー。
六番より、ネイリング=ネイ=ネイサン。
十一番より、イングラム=シィ=ヤムティア。
以上、5隊の副戦支長で構成された『大獣』特任合番、パーティー名『オレンジシャドー』がサリガシアを出立したのは、ソーマがルルと共にウォルポートを発つより少し前のことだった。
エルダロンには長期に渡る工作を進め、その足元に広大な罠を設置しておく。
その後、召喚したテンジンの名前を使ってミレイユを動揺させ、これを捜索するソーマをサリガシアへと誘い込む。
サリガシアでは獣人と魔人の関係を悟られないようある程度の人命も費やした芝居を行い、ソーマの注意を魔人だけに集中させる。
その状態でソーマをエルダロンへ送り込み、これと同時にサリガシアによるエルダロンへの攻撃を開始する。
状況が不透明なまま互いに注意を払わざるを得ないフリーダを獣人に代わって魔人が、ソーマを魔人に代わって獣人が討つ……。
この作戦の中で、私たち『オレンジシャドー』に任せられたのはウォルにおける完全な伏せ札の役割だった。
ウォル本体で生活していたこともある『ホワイトクロー』、あるいは臨時講師の冒険者コンビとしての過去を活かしてウォル近辺に滞在しながら、エルダロンでの状況に応じて『大獣』本隊からの指示に応じた行動をとる。
サリガシアのとある商会がカイランに進出するに際しての、各地域の政情調査……。
アリスやアンゼリカに告げた任務内容など、もちろんただの口実だ。
ウォルを制圧などできずとも、エルダロンで真実を知ったソーマの心の枷くらいにはなれる。
たとえ、その後ソーマを失ったアリスたちに殺されようとも。
かつて、大切な者たちを奪われたサリガシアの、誇りを吹き飛ばされた獣人の雪辱を果たすために……。
……その、はずだった。
が、今日の朝、滞在していたビスタの宿に顕われたのは敵対していなければいけないはずのシムカと、その隣に並び立つアレキサンドラの姿だった。
「全作戦は一時凍結、ウォルポートで『魔王』より説明を受けろ」。
殺気を込めて睨んでくるシムカと型にはめ込みすぎて変形しきったアレキサンドラの言葉を何とか解釈しながら、5頭の馬とほとんどの魔力を犠牲にしてウォルポートに辿り着いたのがつい先程だ。
宿で姿を消したシムカの冷たい視線に再び迎えられた私たちはそのまま領主館へと案内……あるいは連行され、その応接室で待つソーマの、殺そうとしていた『魔王』の前に今は並ばされていた。
「その顔を見る限り、何も聞いてないんだな……。
……クソ、あのバカネコが」
聞いていないし、ハッキリ言う。
意味がわからない。
少なくとも、ソーマは3日前にはエルダロンにいたはずだ。
それがどうして……いや、それ以前にまずどうやってここにいるのか?
竜でも最速の『風竜』を借りたとして、それでもエルダロンからカイランまで3日で帰っては来られまい。
そして、やはり理由もわからない。
シルコという土の上位精霊を通して最後に受けた連絡は、その3日前にエルダロンでの戦闘を開始したという内容だけだ。
すなわち、ソーマは『大獣』本隊のエレニアやナガラ陛下、ネハン様やナンシー、ノエミアたちと殺し合っていたはずで、必然的に私たちが敵性勢力だともう知っているはず……なのだが。
「中途半端な仕事ばっかりしやがって……。
そんなのだから、俺もフリーダも殺し切れないんだよ」
……それが、どうして悪態をつきながら書類にサインをしているのか。
「端的に言う。
状況が『それどころじゃなくなった』からだ」
表情を緊張から困惑へと変えつつある私たちに、ソーマは紙の束を放って寄越した。
慌てて受け取ったその冒頭には、見覚えのある癖字でエレニアの署名がなされている。
さらにはシジマ、ルル、ヨンクの3戦支長とポプラにノエミアの名前、その下の行にはフリーダの名前までがそれぞれ自筆で記されていた。
混乱しつつも、クリップで綴じられたページを急いでめくる。
作戦通り、テンジンの名を使ってミレイユをウォルから引き離し、それを利用してソーマをエルダロンへおびき寄せ、エルダロンに奇襲を仕掛け、フリーダとソーマを削りにかかり、ナガラ陛下とネハン様とテンジンとチーチャがフリーダを討ち、ヤルググとアレキサンドラを従えたエレニアがソーマと相対し……、……しかし魔人たちが獣人を裏切り、【異時空間転移】を発動させた……。
「……!!!?」
作戦とは異なる展開になっていても何とか紙上の疾走速度を保っていた私の目は、ついにそこで急停止した。
『魔人たちの王、『浄火』ライズと火の大精霊エンキドゥが復活した』。
「……」
その下の行までようやく到達した私の両目は、怪訝そうに声をかけてくる4人を無視してひたすら書類を捌いている『魔王』へと移動する。
『再び世界を滅ぼそうとする彼らとはソーマ=カンナルコが全権をもって交渉に当たることとし、サリガシアとエルダロンは暫時停戦する。
以降は、ソーマ=カンナルコの指示に従うこと』。
「そこから後のページには、わかる範囲でサリガシアとエルダロンの被害状況が書いてある。
『大獣』の戦支長クラスについては生存6、死亡12だな。
ネハンとナガラはテンジンとチーチャが、残りの10人に関しては俺が殺した」
淡々としたその声に、持っていた紙の束が横からひったくられた。
が、やはりそのページに辿り着く前に、4人とも硬直してしまう。
「一昨日の段階で文書にできたのは、そこまでだけだ。
それ以上の部分については、サリガシアで聞け」
王や肉親、慕っていた長や親しい友を失った衝撃。
全ての目的だった、フリーダを殺せなかった無念。
それを事務的に告げる、目の前のソーマへの憤懣……。
が、正直に告白すれば、私の中ではそれ以上に恐怖の感情が上回っていた。
この部屋に入ったときから……いや、よくよく考えればウォルポートに近づいたときから感じていたこの感覚が、巧妙に押さえ込まれてなお巨大すぎる魔力によるものだと、ようやく気づいたからだ。
仮にも眼前のソーマの、世界2位を誇る冷たい魔力が感じられなくなるほどの、この異常なまでの魔力。
方向としては……西。
わかっても顔を向けることすら躊躇われるその存在感が、否応なく理解させる。
この文書の内容は、真実だ。
「……それで、私たちはどうすればいい?」
ならば、私たちがとるべき行動は、確かにソーマに従うことなのだろう。
私たちは戦支長に、エレニアに従うと決め、彼女が私たちにそう望んでいるのだから。
……たとえ、それがどんな内容であろうとも。
斬首か、肉盾か。
戦争だったとはいえ許されない裏切りへの代償を、あの『黒衣の虐殺者』はどんな形で求めるのか。
「すぐに、サリガシアに帰還しろ。
後の指示は、とりあえずルルにでも聞け」
それでも4人は守りたいと張っていた私の肩は、しかし大きく透かされた。
「……いいのか?」
「何がだ?」
たとえ裏切り者でも、戦者の端くれ。
覚悟などとうに済ませているし、終わった戦争の中での出来事を延々と引きずったりはしない。
背筋を伸ばしているそんな4人の前で思わず聞き返してしまった私を再び捉えたソーマの瞳は、ようやく本格的に私たちに焦点を合わせる。
覚悟など、とうに済ませた目。
「そこに書いてある通り、ライズと対峙するのは俺だけだ。
お前らに守ってもらいたいものは、むしろ『その後』にある」
それを静かに宿した黒は、同時に冷たく呆れていた。
「あのな、何か勘違いしてないか?
もしも明日『浄火』が世界を滅ぼさなかった場合、明後日は普通に来るんだぞ?
来月、来年、10年後、100年後……。
これだけのことをやらかしたサリガシアは、どうなっていると想う?」
「「……」」
怒りというよりは憐れみ、嘲笑というよりは失望というべき声には、それこそ千や万といった時間を見つめてきたような疲れた熱が滲み出す。
それは『浄火』という灼熱の恐ろしさとはまた異なる、ジリジリと火傷が続くような嫌悪に近い怖さだった。
「エルダロンは現時点で国民の1割以上、下手をすれば2割近くを失っている。
組織からそれだけの人間がいなくなればどうなるかは、軍属のお前らの方が詳しいだろうよ。
しかも、最強を誇りながら国民を守れなかった皇自身が、今回の件のそもそもの発端だ。
求心力は、ガタ落ちだろうな」
壊滅と表現される状態の隊の長が、隊員たちから白い目で見られている。
その隊長の立場、隊の未来を想像した私は、あのフリーダのことであるというのにも関わらず1ミリも笑みが浮かばない。
むしろ、背骨を全部雪にされたかのような寒気すら感じた。
「だけどな、それ以上に深刻なのはお前らサリガシアの方だ」
面白くもなさそうに右手の羽ペンへと視線を落としたソーマは、それから黒い指を離して頬杖を突く。
「今回の件で、獣人という種族自体の信用が完全になくなったのは、自分たちでも理解できているだろう?」
左手の人間のままの指は、正確に私の心臓を指していた。
「いい迷惑なのは、エルダロンに住んでいた獣人たちだ。
人間からは目の敵にされて、既にかなりの人数が町を離れつつあるらしい。
何年もかけてようやく築いた信頼と癒えた傷を蹴っ飛ばされた彼らは、何を恨んでどこに向かうんだろうな?」
かつて家族を撃ち砕き故郷すら焼き払った敵族が、今度は自分たちの立場すら崩し切った。
強さと勝利をもって成されていた大義が、道すら踏み外しておいて意味を失った……。
今度は、本当に体が震えた。
かつてサリガシアを追われた獣人たちの怨念が向かう先など、今のサリガシア以外に思いつかなかったからだ。
が、『氷』たるソーマの瞳はどこまでも透明に、冷徹に世界を眺める。
「サリガシア本土にしてもそうだぞ?
『大獣』がどこまで浸透していたのかは知らんが、それがフリーダと手打ちすることに全員が納得できるのか?
……そもそも、強さの象徴だった王が2人も討たれて今までの体制は保てるのか?
フリーダが手を引く以上、サリガシアに共通の敵はいなくなるんだぞ」
無理だ。
率直に、そう思った。
仮に『浄火』を退けられたとしても、10年後にサリガシアは戦火に呑まれ、100年後には獣人の大半が滅んでいるかもしれない。
誇張なしにあり得る現実に、肉親を失ったネイリングやブランカさえ顔を凍てつかせている。
「『サリガシア、エルダロン共に、これ以上優秀な人材を失うわけにはいかない』。
……そこにサインしてる人族プラス俺、全員の総意だよ」
だから、だろうか。
「わかったら、すぐに戻れ。
お前らが戦う相手はもう俺でもフリーダでも、ライズでもないんだよ」
最後につけ足されたソーマの言葉を、私は少しあたたかいと感じた。
「……セリアースとシャフスは、ウォルに戻れ。
ビオンはアネモネたちの監視だ。
サリガシアへの船に乗るまでは、常に見張っておけ。
手が足りなければ、ウォルポートに散らしている上位精霊を適当に使って構わない」
「「御意」」
顔色を悪くしたアネモネたちが出て行った後、私を除く3人はソーマ様の声を受けて姿を消した。
皿に置いた羽ペンを拾い上げたソーマ様は、残り少なくなった書類の山へと腕を伸ばす。
昨日から続いた果てしない作業も、ようやく終わりが見えてきたようだ。
「……私ではお手伝いできません。
アンゼリカを呼びましょうか?」
「いや」
最古に近い上位精霊といえど、さすがに事務作業で役に立てることはない。
隣の執務室へ向かおうとした足は、しかし短い声で留められた。
「……」
「……」
そのまま1枚目の皮紙の内容のチェックが終わり、右下に黒い文字で署名がされる。
ソーマ様が口を開いたのは、2枚目の紙に目を通し終わった後だった。
「……ライズが世界を滅ぼさなかったとして、エルダロンやサリガシアは実際どこまで荒れると思う?」
「……」
「いや、実際に俺の言った通りの状況になるとして……、……俺がいなくなった後のウォルで対処しきれると思うか?」
即答は、できかねる問いかけだった。
ただ、この言葉でようやく私はソーマ様の意図を完全に理解する。
ウィンダムでフリーダやエレニアに、この場でアネモネたちにエルダロンの停滞とサリガシアが混乱する可能性を強調したのは、やはりウォルを守るためでもあったのだ。
自分が、死んだ後のウォルを。
「……あぁ、空気は読まなくていいぞ?
俺はミカじゃないし、嘘の希望にも興味はない。
お前の、率直な予想を聞きたいだけだ」
「アリス様と……、……次の水の大精霊様のお考え次第かと」
だからこそ、私は一切の修飾も無駄も削ぎ落として、率直な意見を述べた。
私に求められているのは……この方に残された時間を、少しでも引き延ばすことでもあるからだ。
「次の大精霊に、サーヴェラを指名するとしたら?」
「不敬を承知で申し上げれば、遙かに経験不足かと。
アリス様の意見に、強く影響されるでしょうし」
「……だよなぁ」
弱まっていくオレンジ色の光の中で、ソーマ様は書類の山をどんどんと削っていく。
自分の命の話をしておきながら、その表情はあまりに自然体だった。
「私ども兄弟姉妹が、お支えします。
先代様のお言葉をよく守られますように、と……」
「……」
それが驚いたようにこちらを向いたのは、……自分でも意外な言葉を私が発したからだと思う。
全ての精霊は、大精霊の意に従うもの。
何かを望むことはなく、その御意の下に存在するもの。
「『よく守られますように』……か?」
「……」
その理に沿って生きてきた私が、この水の上位精霊筆頭シムカが、大精霊の行動に何かの影響を与えるような内容を、それも自発的に口にしていた事実に、ソーマ様のみならず私自身が誰よりも驚いていた。
「……お前、変わったな」
「……申し訳ございません。
不敬極まりない発言……いえ、在り方でした。
ご処罰は、如何様にでも」
そして、その事実に悪感情を抱かない……いや、抱けない自分にさらに混乱する。
私は……どうした?
「……いや、別にいいさ」
が、そんな迷いもすぐにどこかへ消されてしまう。
跪いて床を見つめる私の頭に、あたたかい手が触れていた。
導かれるまま顔を上げると、当代の水の大精霊が穏やかに微笑んでいる。
「むしろ、これで最後の心配もなくなったよ。
俺が死んだ後のウォルを、アリスやサーヴェラたちを……頼んだぞ、シムカ」
その優しい表情は、セイ様のように、ヤタ殿のように、ミカのように、クロムウェル様のように……そして、アイザン様のようにお美しい。
ソーマ=カンナルコ。
この方は、こんな風に笑う方だったのか。
こんな風に、笑える方だったのか。
「……よし、アンゼリカを呼んできてくれ。
さすがに、今日くらいは早く帰りたい」
「……は」
わざとらしく肩をすくめたソーマ様は、薄暗くなっていく部屋の中でまた書類へと向き直る。
セイ様のように、ヤタ殿のように、ミカのように、クロムウェル様のように……そして、アイザン様のように。
いずれは必ず死ぬ、命ある者だからこそ宿す。
愛を讃ずる者だからこそ宿す。
自分の死を受け入れたが故の、あたたかい光を宿したその瞳は。
無言で、ウォルの未来を見つめていた。




