ショート・エール ソーマ=カンナルコ 中前編
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
「……紐だな」
「……紐」
「……紐だねー」
ウォル、森林工房。
高さ10メートルに達する巨大な板壁に囲われた広大な空間、だけど今はひどくガランとした空間の中に、オレとルーイーとロザリアの声が消えていった。
カップ麺やら、石鹸やら、カップ麺やら、香油やら、カップ麺やら、スープの素やら、カップ麺やら、味噌やら、カップ麺やら、缶詰の試作品やら、カップ麺やら、カップ麺やら、カップ麺やら……。
そういう普段の作業とはまた違った疲労感と満腹感が、オレたち3人を無言にさせる。
「でも、さっきよりは近づいたよな?」
「目的地が100メートル先だとして、さっきのが5センチ、今のが10センチでいいならねー」
若干虚ろになりつつある目でロザリアを見るけど、すっかり声変わりして低くなったオレの声を『緋色』の舌は正確に罵倒する。
元々は癖っ毛の黒髪を日々の手入れで真っ直ぐ気味にして、服装以外はいよいよ先生そっくりになってきているその一番弟子は、初代食事班班長の誇りにかけて自分の味覚に嘘はつかせなかった。
……まー、今のが失敗作だったことはさすがにオレでもわかるから、文句は言わない。
ウォルで暮らしてもう4年以上、食えれば味なんてどうでも良かったオレの舌も、今は人並みくらいにはなっている。
「……サーヴェラのやり方が下手くそだったから」
「『5センチ』の方はお前だったじゃん」
「そんな事実はない」
「「いや、あったよ」」
小麦の匂いがするゲップを我慢するオレに八つ当たりしてくるのは、元々のロザリアと同じような波打った髪をこちらはそのままにしている青い瞳。
同い年だったけど先に16になったルーイーは、プロンにいた頃と変わらない不遜な態度でオレとロザリアからの非難の視線を無視する。
もちろん、本人も本気でそんな事実を捏造しているわけじゃない。
単純に、ルーイー=ウォルという女がこういう面倒くさい性格なだけだ。
「でも、確かに進んでないよねー」
「「「……」」」
そこに無邪気な一言を放り込んできたのは、逆さにしてある大鍋の上からオレたちを覗き込んでいたエルカ、オレが契約する水の上位精霊だ。
「ほ、本当のことだもん……」
「だとしても、そこはノーコメントとすべきでしたね、エルカ」
同時に無神経なその一言を睨み返されて萎縮するエルカに、隣の鍋からはヤコ、ルーイーが契約する水の上位精霊が呆れた視線を向けていた。
「ヤコ、『ノーコメント』は確かに否定でも肯定でもないけれど、状況の変化に寄与しないという意味ではやっぱり意味がない言葉。
向けられる方としては、同じく不愉快」
「イ、イエスマム、ルーイー!」
そのヤコの言葉にルーイーがさらに冷たい視線を送るけど……、……残念ながら、なら「ノーコメント」はこの場合正しい言葉選びだとは思う。
「……何か言いたいことがあるなら聞くよ、フォーン?」
さらに、ロザリアがその隣の鍋の上へと顔を向ける。
「なら、ノーコメント」
悪意はないけど善意もない事務的な一言でロザリアに渋面を作らせたのは、フォーン。
ヤコと同じ、小さな女の子の姿をした火の上位精霊だ。
先生の知り合いだっていう魔人のライズと、火の大精霊エンキドゥ。
一昨日ににーちゃんがその2人を置いていって以来、ウォルとウォルポートには今までほとんど見なかった火の上位精霊が大量に顕れていた。
……ただ、どうもエンキドゥに挨拶に来ただけで、オレたちウォルの人間やウォルポートの冒険者たちと契約する気があるのかどうかはわからない。
ロザリアにつきまとうようになったフォーンも、その内の1体だ。
この2日間、契約するつもりがあるのか聞いても曖昧な返事をされるか、話を流されるか、単純に無視されるかをくり返した結果、ついにロザリアも話を持ち出さなくなっている。
オレとルーイーが抜けた分、今は1人でウォルの弟妹たちの面倒を見ているタニヤにしても、同じように上位精霊のアンヌが引っついてる感じだ。
……まー、それを聞いたにーちゃんが「そうか」と言ったきり特に何もしなかったんだから、多分害はないんだろうけど。
「……ねー、フォーン?
この会話の流れの上での『ノーコメント』は、そういう意味でしか捉えられないんだけど?」
「ノーコメント」
「……」
瞼をひくつかせる、ロザリアの精神以外には。
……ただ、今のオレたちにヤコやフォーンに反論できるだけの成果が、そして元気がないのも事実だ。
「「……」」
オレたちの後ろの作業台の上に並ぶのは、麺、麺、麺、麺……。
実に32回目の再現実験を……いや、その失敗を終えて「生固い紐」としか表現できない麺を絡めたフォークを置いたオレたち3人は、生っぽい小麦の匂いがする溜息をついた。
当然だけど、オレたち『十姉弟』をこんな目に合わせられるのは領主であるにーちゃんか、その奥さんであるねーちゃんだけだ。
そして、オレたちに甘すぎるねーちゃんがこんなことを命じるはずがない以上、消去法でその原因は1人に絞られる。
「あぁ、それからサーヴェラ、ルーイー……ロザリアも。
お前ら、今日と明日の仕事は他の誰かに引き継いでこい。
別にやってもらいたいことがある」
ライズとエンキドゥを置いていって以来2日ぶりに帰ってきたにーちゃんが、オレたち10人に管轄する資料全部の提出を指示した後、それぞれの職場に散ろうとしたオレたち3人に続けて命じたのはそんな言葉だった。
にーちゃんの言葉は簡潔だけど、絶対だ。
そして、基本的に意味がないことはない。
「ここに戻って来ればいいの?」
「いや、森林工房へ行け。
3人だけでいいし、むしろ他の人間は立ち入り禁止だ。
服も、そのままでいい」
ウォルで最古参になるオレたちはそれを理解しきっているから、別に「どうして?」と行動の理由は聞かない。
聞くべきなのはオレたちがとるべき行動の内容で、いつ、どこで、誰が、何を、どうするかだ。
「あと、乾麺を……大袋で1つと、昼飯を持ち込んでおけ。
他の準備はいらない」
ただ、この考え方は、実はあまりよくないんじゃないかと思うこともある。
「乾麺から、カップ麺用の麺を再現してみろ」
具体的には、あの後森林工房に顔を出したにーちゃんにそれだけ言われて再現試験をくり返し、昼飯の時間になってそもそも空腹じゃないと実感した辺りでそう思った。
もちろん、オレたち3人はカップ麺の作り方を知っている。
乾麺を茹でて、そこから水気を完全に飛ばす。
ただ、それだけだ。
オレとルーイーが選ばれたのは水属性魔導士だからで、ロザリアをつけられたのは出来を評価するため……。
そもそも昼になる前に終わるだろう、と高をくくっていたオレたちの顔から余裕が消えたのは、5回目が失敗したときだった。
当然だけど、茹でるのは問題ない。
魔法なんか使わなくても、鍋に湯を沸かせば済む話だ。
水属性と火属性が揃ってるんだからこれはすぐに用意できるし、にーちゃんが管理してる茹で時間もオレたちなら感覚でわかっている。
問題は、ここからだった。
水気を完全に飛ばす。
何度やっても、これが上手くいかない。
カップ麺を作り始めた当初ににーちゃんは「水を消すんだ」と言っていたから、そのまま水属性高位の【消水】を使ってみたんだけど……どうしても、カップ麺の麺にならない。
最初は、表面だけが乾いているただの茹で麺になった。
時間が短かったかと次は長めに発動させたけど、今度はどうしてか紐みたいな食感になった。
強すぎたかと弱くすれば、また半生の麺になる。
間をとってもできるのは、紐、半生、紐、紐、半生、紐、紐、紐……。
ヤコとフォーンに言われるまでもなく、コメントに値しない進捗状況だ。
その後もやっぱり紐、紐、半生、紐、粉砕、紐、紐、紐……。
目的も方法も多分間違っていないと3人とも思っているからひたすら【消水】の加減に時間をかけるけど、失敗とその味見が10回単位になってくるとさすがに心が折れそうになる。
……というか、正直もう麺のことが嫌いになりつつある。
「こんなに嫌な感じのお腹いっぱいは、生まれてはじめて……」
「私、帰っちゃダメかな……」
ルーイーとロザリアも、そろそろ限界に近づきつつあった。
「よう、でき……てない、みたいだな」
「「「……」」」
屋根と壁の隙間から見える空が、夕方の色になり始めるころ。
オレたちは、ようやく来てくれたにーちゃんに返事をする余力すらなくなっていた。
単純な作用の割にそこそこの魔力が必要な【消水】を調節しながら連発した疲れと、あらゆる旨くないバリエーションの麺の失敗作が込み上げてくる満腹感と、50回から先は数えるのも止めた試行錯誤の疲労感。
慌てて地面に飛び下りて跪礼するエルカとヤコ、鍋の上からじっと見つめるフォーンにそれぞれ視線を返したにーちゃんは、クリーム色の山が積み上がった作業台へと進んでくる。
「うん……、……できてないな」
手近にあった麺の塊を掴んだにーちゃんはそれを口に入れもせず、何度か揉んだ後にそのまま台の上に戻した。
麺じゃなくて書類の山と格闘していたにーちゃんも多少は疲れてるのか、若干目が赤い。
ただ、その中には別に怒りは浮かんでいなかった。
「【消水】を使う、で一応正解だぞ?
消す範囲と、時間が違うけど」
「……どういうこと?」
そして、いきなり模範解答を提示する。
作業台にもたれかかったにーちゃんの顔の前では、20センチくらいの透明な立方体が回転していた。
もちろん、水だ。
「そもそも、『水気がある』とは、どういうことか……」
金色、青色、赤色。
オレたちの瞳を順番に覗き込んだ黒の前では、指先くらいの大きさの白い球がたくさん生まれていた。
空気を含ませた氷。
それは立方体の中にバラけて入った後、それより濃い密度で表の6面を覆い隠す。
「透明なのが麺、白いのが水だ。
……で、水を消す」
オレたちの目の前で、白い粒が一気に消された。
後に残ったのは、まるでチーズみたいに穴だらけになった透明な……、……あっ!?
「そうか、中身……」
「それで、表面だけが固かったんですね……」
ルーイーとロザリアも気づいたらしい。
【消水】を使う、のは確かに正解だった。
だけど、オレもルーイーもイメージしていた範囲は、麺の表面だけだった……。
「ちなみに、中身の水分だけが残るとそれが……乾いたところへ移動しようとするのに引っ張られて、組織が壊れる。
……こんな風に」
再び白い粒を戻され今度は外側の粒だけを消された立方体は、にーちゃんの言葉と共にゆっくりと変形していく。
中の方に固まった白い粒が立方体の中で均一に広がるのに合わせて、それはまるで破裂したみたいに崩れてしまった。
「普通の干し肉や干し野菜を水に漬けても生の状態に戻らないのは、これと同じことが起きてるからだな。
外と中の水分差があると、少なからずこうなるんだよ」
「だから短い時間で、できれば一瞬で中身まで乾かさないといけない……」
「ロザリア、正解。
これが、カップ麺の復元性の正体だ。
ちなみに、油で揚げてもこれに近いことはできるから。
……お前なら気づくかな、とも思ってたんだけど」
「……え!?」
サラッとロザリアにも衝撃を与えながら、にーちゃんは麺の模型を水と氷に分ける。
「お前の師匠にも言ったことはあるんだがな……世界に囚われるな」
黒い手袋をした右手の上で白い粒の群れ、生身の左手の上で透明な液体を遊ばせながら、にーちゃんの声は続いた。
「世界っていうのはな……お前たちが知っているものに過ぎない。
お前たちの目に見えるもの、耳に聞こえるもの、手で触れられるもの、嗅ぎとれるもの、味わえるもの……」
それは呆れるのでも、苛立つのでも、慰めるのでも、憐れむのでもない。
「だけどな、これは裏を返せばお前たちが知らない、感じとれないものは、お前たちに世界と認識されないってことだ。
例えば、水とかな」
ただ淡々と、オレたちに事実を伝える声だ。
「かなり昔に蒸留の実験で説明したような気もするが、水っていうのは必ずしも液体じゃない。
この空気の中にも麺の中にも俺たちの体の中にも、目に見えないくらい小さな粒で無数に存在している」
だけど、そこにはオレたちが知らない。
「が、人間はその粒を見たり触れたりすることができないから、その存在を意識しない。
世界にないものだから、注意も払わない。
結果、麺を100玉近く無駄にすることになる。
……まぁ、ボアやフラクは喜ぶだろうが」
いや……、……何て言うか。
この世界の誰も知ってるはずがないような話が……混じっている、気がした。
「だけどな、これが水じゃなくて……例えば無味無臭の猛毒だったらどうする?
お前たちが知覚できない、キロ単位の距離からの魔法攻撃なら?
あるいは、お前たちが知らない全く未知の技術なら?
人間の、嘘や悪意なら?」
だけど、にーちゃんは揺るがない。
立ち止まらないし、迷わない。
「お前たちは、長だ。
そして、長というのはそれぞれが守るべきものを守る者だ。
家長なら家を、班長なら班を、村長なら村を、将なら軍を、領主なら領を、王なら国を」
守るべき者を守る、長。
当代の水の大精霊にして、『魔王』だからだ。
「だから、長が世界を正確に捉えられなければ、誤認すればそれらには致命的な害が及ぶ。
……例えば、サーヴェラ?
合金した後のオリハルコンは破壊できない、……そうだな?」
そのどこまでも強い黒の瞳に、首を縦に振る。
にーちゃんの左手は、自分のポーチから自陣片を取り出していて……!?!?
「ところが、実際にはこうだ」
その左上の角から、白い湯気が上がっていた。
そして、そのまま、その角が……消え、る?
「半分はお前たちが知らない魔法、半分はお前たちが知らない技術だが……とにかく、オリハルコンは破壊できる」
そして、カップ麺もできない。
そう小さくつけ足して笑うにーちゃんの前でオレは、ルーイーとロザリアはもちろん、エルカたち上位精霊までが呆然とした表情を浮かべていた。
半分はオレたちが知らない魔法。
半分はオレたちが知らない技術。
結局その力が何なのか全く理解できないけど、とにかくにーちゃんはこの世界で絶対のオリハルコンを……壊した。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。
仕掛けがわかれば、カップ麺と同じだ」
だけど、にーちゃん自身はそんなことを気にも留めていなかった。
オレたちが失敗作の麺を見たのよりもどうでもよさそうな表情で左隅が丸くなった自分の自陣片を一瞥したにーちゃんは、それをポーチに投げ落とす。
あらためて瞳を覗き込んでくる黒い光を受け止めて、オレたちの背筋は無意識に伸びた。
「長に必要なのは守る力で、そのために必要なのは想像する力だ」
『十姉弟』。
にーちゃんの言葉に、これまでにないほどこの二つ名の重みを感じる。
それは、千を軽く超える弟妹たちの人生の重さ。
守られる側から、守る側へと変わった責任の重さだ。
「だから、世界に囚われるな。
お前たちの知っているものだけが世界の全てじゃないし、その世界すら実は絶対のものじゃない。
正しく世界の理を理解していなければ、正しい想像もできない」
同時に、かつて『魔王』からもらった言葉を、オレは思い出していた。
「自分の目を、耳を、感覚を疑え。
見えないからそこにないわけじゃないし、聞こえないから存在しないわけじゃない。
納得せずに、理解しようとしろ。
守りたいものを守るためにはどうすればいいのか、そして、その結果に何が起こるのかを考えろ。
その上で、力を行使するんだ」
強くなれ。
手に入れたいものを手に入れて、守りたいものを守れるように。
倒したいものを倒して、救いたいものを救えるように……。
「それが何かを守り、何かを変える覚悟だよ」
……世界は、変えられる。
強さと、それを使う覚悟があれば。
「……とりあえず、これ包んで戻るか。
そろそろ夕飯なわけだが……麺じゃないといいな?」
畏怖と高揚で止まりそうだった心臓が、にーちゃんの悪戯っぽい笑顔で息を吹き返した。
ルーイーとロザリアも苦笑いしてるけど、多分心の中はオレと同じなんだろう。
追いつけそうなのは年と背丈だけで、やっぱりこの人は強すぎる。
一生追いつけそうにないその後ろ姿に……だけど、オレはふと思った。
なら、にーちゃんが手に入れたいものは、何なんだろう?
守りたいものは、倒したいものは、救いたいものは何なんだろう?
にーちゃんは、何を変える気なんだろう?
「他の兄弟姉妹たちにも、伝えておけ。
……俺がいない間のウォルを、頼んだぞ」
振り返ったにーちゃんは、静かな微笑みを浮かべている。
だけど、その黒い瞳は。
やっぱり、オレがまだ知らない何かを見つめていた。




