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クール・エール  作者: 砂押 司
第5部 世界を変えるもの

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146/179

ショート・エール ソーマ=カンナルコ 前編

年内はこれで最後となります。


また、本話については3部『癒されるもの』を再読の上で読んでいただけると、より楽しんでいただける内容となっております。

「「……」」


2年半ぶりにジューイン家の人たちを見て最初に浮かんだのは、全員こんなに小さかっただろうか、という意外な感想だった。

アーネル王国で2番目に大きい都市、エリオの中でも最大級の規模を誇る染物工房。

それを取り仕切っていた大旦那様も、旦那様も、奥様も、……そして3兄弟も。

全員が、人はこんなにコンパクトになれるのだ、と再発見できるくらいに肩を細くしてソファーに座っている。

……そういえばこのソファーセット、手入れが大変だったな…………。


「忙しい中での応対、感謝する」


ここで小間使い……というか、ほぼ労働奴隷として働いていた間は知らなかったそのやわらかさをお尻で感じる私の横から、そのジューイン家をここまで顔面蒼白にさせる冷ややかな声が響く。

睥睨へいげい

部屋の誰よりもソファーに深く腰かけ、まさにそう表現するしかない視線を投げかけているのは、ソーマ様だ。


『魔王』。


半年前に終結した……いや、ソーマ様が1人で終結させた(・・・)カイラン南北戦争が終わって以来、『黒衣の虐殺者』と共に一気に広まったこの二つ名。

私たちと一緒になってヤギと格闘したり、泥だらけになりながらグリッドを追い回しているときにはあまり意識しなくなってきたその称号の恐ろしさを、かつてのご主人様たちは私にまた示してくれる。


「で、わざわざ来たのは、このアンゼリカ=イルフォースの件なんだよ。

……一応聞くけど、覚えてるよな?」


「も、もちろんでございます……」


まさしく、王と一市民。

あれだけ恐ろしかった大旦那様が自分の4分の1ほどの年齢のソーマ様に敬語を使う様子は、いい気味だと思う以上に憐れさを感じさせた。


……同時に、ようやく沸々(ふつふつ)と怒りが湧き上がってくる。


「まぁ、察しの通りで、今のアンゼリカの身柄はウォル……俺の自治領にあるんだよ。

で、新しいオーナーとしてアンゼリカの経歴を確認してたわけなんだが……、……アンゼリカが犯罪奴隷になった理由の魔具まぐの損壊と窃盗は、お前らが告訴したんだよな?」


その日、いつものようにお屋敷を掃除しているときに、いきなり私は取り押さえられた。

聞くと、使用人小屋の私のベッドの下から、ジューイン家の家宝である魔具が粉々になった状態で出てきたらしい。

もちろん私は身に覚えがなかったし、おそらくは悪戯盛りだった3兄弟の誰かの仕業。

だけど、養父母を失い何の後ろ盾もない当時の私の潔白を信じ、弁解を聞き入れてくれる人は誰もいなかった。

結果、最後は泣いて謝り続けていた私は、それまでの給金を全て帳消しにされた挙句、犯罪奴隷に落とされ……、……そして、アブカルの玩具として2年、家畜以下の生活をすることに…………。


「……えぇ、その通りで……」


「私は、やっテナイ!!!!」


声が裏返るどころか、喉で鉄の味がした。


「どうせ、お前たちの中の誰かがやったんだろう!?

いつも、いつも、私に嫌がらせばかりして……!!

あの後、私がどんな目にあったかわかる!?

犯されたり、蹴っ飛ばされたり、身売りをさせられたりする気持ちがわかる!?

舌を噛み切る痛さや、土下座で犯される惨めさや、ゴミにかけられた男の精の味がわかる!?

毎日死にたくて、毎日殺したくて、毎日世界が終わればいいって願う気持ちがわかる!?

人生を諦めて、幸せな未来が想像できなくなる気持ちが、わかる!!!?」


「「……」」


真っ赤になった視界の中で、だけど3人とも私を見ない。


「何とか言イナざイよっっっっ!!!!」


「アンゼリカ」


「っ!!」


掴みかかろうとした私の、首根っこを冷たい右手が掴んでいた。


「言いたいことはわかったしやりたいこともわかるけど、後にしてくれないか?

話が進まないから」


静かな、だけど有無を言わせない声が、私の体から一気に体温を奪う。


「……申し訳ありません」


「まぁ……俺も、気持ちはわかるんだけどな」


しっかりと、だけど意外と優しい力でソファーに引き戻された私の頭を、黒い手袋がポンポンと叩いてくれた。


「……さて、用件の主旨は理解できたな?」


「……」


頭を離れたその黒い手はフワリと上を向き、何かを求めるように大旦那様へと向けられる。

見上げると、ソーマ様の唇は緩い弧。


だけど、これは笑顔じゃない。


「犯罪奴隷となったはずの原因を、アンゼリカ本人が否定している。

……俺は、これをどう解釈すればいい?」


「……」


威嚇だ。


黒い、夜に深い湖の底を覗き込んだような色。

髄まで凍てつき、決して融けることのない氷。

揺れず惑わずただ結果だけを受け入れる、冷たい魔法。


当事者の私が怖くなるくらいに、その瞳には温度がない。


「アンゼリカが嘘をついているのか。

それとも、お前たちが嘘をついているのか。

あるいは、両方が嘘をついているのか……。

……なぁ?」


いや、これはもう死刑宣告か。


4万人を、殺した魔導士。

その微笑みは、「死」そのものだった。


「……証明は、できますまい」


「……ほう?」


が、その冷笑に、大旦那様は抗う。


「手前どもは、嘘をついておりません。

これを証明する方法は、ありませんな」


「なるほど」


そうしなければ、ここで全員死ぬからだ。


「それに、アンゼリカ……アンゼリカじょうが私の寝室に入るのを見た者がおります。

……そうだったな?」


「は、はい……」


「嘘をつくな!!!!」


だけど、それを許すつもりは私にはない。

大旦那様の問いかけに小さく頷いた3兄弟の末っ子、バキムに私はまた咆吼する。


そうか、お前か。

お前が、私をあの地獄に……!!


「……お前、自陣片カード白字ホワイトか?」


「な、当然でございましょう!

王家に忠誠を誓うこのジューイン家、赤字レッドなど出すわけがありますまい!」


右手をまた、立ち上がろうとした私の頭の上に戻しながら、ソーマ様だけが表情を変えないままだ。

ただ、そのままの調子で問いかけたかなりきわどい、一般的に絶対に質問してはいけないその内容に、今度は大旦那様が気色ばむ。


「ふーん……、……まぁ、さすがに当時9歳の子供が保身についた嘘じゃあな。

その後のアンゼリカの生活も、直接の原因は……あの何とかっていう前の主人の人間性の問題だし」


「侮辱するおつもりか!?」


だけど、その程度の怒りに『魔王』が揺らぐはずもない。


お前、討伐対象になるような犯罪者じゃないのか?

そんな意の暴言を放ち、しかも後からそれを自分で否定するソーマ様は、真っ赤になった大旦那様の顔を見てすらいなかった。


「実は嘘をついていたけど、赤字レッドになるようなレベルじゃなかった。

……違うと、証明できないだろう?」


ようやく動いたその瞳が浮かべるのは、あの戦場でアブカル、ソーマ様が名前すら覚えていなかった私の前の主人に向けていた、死体や瓦礫を無関心そうに眺める平坦な闇だ。


「こういうのを、『悪魔の証明』と言うんだがな……」


そこに、じわじわとそれが染み出す。


「が、俺は『魔王』だ。

よろしい、証明してやろう」


「……は?」


想像を絶する、冷たさが。


「……レブリミ」


「はっあーーーーい!」


「「!?」」


ソーマ様の言葉に応じて顕現したのは、ウォルのエルカやヤコとそう変わらない体格の、少年のような上位精霊。

エリオで大店を構える大旦那様はもちろん、裏路地を引きずり回されていた私でも知っている、おそらくはソーマ様の次に有名な水の精霊。


すなわち、アーネル王国宮廷魔導士、『みず』のマモーの契約者。


「……って、ばれたから来ましたけどーー、いったい何なんですー?

こういうのは、あの『くそばばーさん』のお仕事なのではーー?」


「『さん』をつけても、敬っていることにはならないからな?

……実際にどう受け止められるのか、シムカ本人に聞いてみるか?」


「やめてくださいごめんなさい消されてしまいますすみませんでした」


土下座……というより土下「」をしたそのレブリミに小さく……、……この部屋に入ってからはじめて笑顔を浮かべながら、ソーマ様は背筋を伸ばしていた。


「単に、見届けてもらいたいだけだ」


「「……!!」」


同時に、テーブルの上にあらわれたのは透明なポット。

全てが氷で作られたその華奢な取っ手を、手袋をしていない左手が優雅に掴む。

途端、底から噴き上がるのは……泡?


「中身は、沸騰してる熱湯だ」


出されたものの手をつけていなかったカティのはいを手に取ったソーマ様は、躊躇なく中身を捨ててポットを傾ける。

もうもうと舞う湯気に、一気に漂うお湯の匂い。

恐ろしいことに、カップに注がれてなおその熱湯はボコボコと沸騰し続けている。


「この魔法の名前は……【迷心探答クカタチ】」


それをバキムの前に差し出した後、ソーマ様は同じように私のカップにもお湯を満たす。


「嘘を、見破る魔法だ」


「……」


ポットと足元のカティの染みを消し去るソーマ様を、バキムはガタガタと震えながら見上げていた。


「予想の通り、それを飲むだけだ。

真実を口にしていれば魔法が発動して正直者を祝福するが、嘘をついていれば……何も起きない」


その唇は、完全につり上がっている。


「ただ、唇から胃まで全部が焼けただれるだけだ」


「「……」」


「……はー、なるほどーー」


ソーマ様以外の全員が体の中心に激しい幻痛を覚える中、レブリミだけがニヤニヤと笑っていた。


「アンゼリカ、お前はジューイン家の家宝である魔具を、壊しも盗みもしていないな?」


「も、もちろんです!」


「じゃあ、飲め」


「……!」


自分でも驚くほど、躊躇はなかった。

まだ沸騰を続けているカップを両手で包み、手に温度を感じる間も空けず一気に流し込む。


私は無実だ。

私は、やってない。


そんな自信と同時に、ソーマ様の魔法に……いや、ソーマ様に間違いなんてあるわけがないという確信が、私から痛みへの忌避、死への恐怖すら消し去った。

口から喉、胸からお腹へと、何かが通り抜けていく。


……。


…………熱く、ない。


「ふむ……どうやら、アンゼリカは嘘をついていないようだな」


「あ、ぁ……」


逆に、ソーマ様の視線から逃れられないバキムの方が、まるで沸騰しているかのように大汗をかいていた。


「さて……、……お前はあの日、アンゼリカが祖父の寝室に入るのを見たんだな?」


「……」


「まぁ、とりあえず飲め。

言葉を失うのは、それからでいい」


10秒。

20秒。

30秒。

40秒……。


「……どうした、この当代の水の大精霊の魔法が信じられないのか?」


バキムは、動かない。


動けない。


「……そうか」


さらに30秒待って、ソーマ様は指を鳴らした。

バキムのカップのお湯は沸騰するまま蒸発し、やがて白い湯気だけになる。


「レブリミ、水天宮すいてんきゅうに戻ってフランシスとユーチカに今見たものをそのまま伝えろ。

それから、すぐに俺もアンゼリカを連れて向かうから、法務の責任者にも準備させておけ。

犯罪歴取消しの手続きをやってもらう」


流れるような指示を聞きながら、私はようやくソーマ様の意図を悟った。

アーネル王と宰相に最速で話を通すために……、……私のために、わざわざ…………。


「お、お待ちください!!!!」


「……何を?」


当然、ジューイン家にとっては認められない流れだ。

大旦那様の悲鳴のような制止を、だけど私はぼんやりした頭で聞き流す。


「そのようなことをされて、手前どもは、当家はどうなります!?」


「……いや、俺に聞かれても。

それこそ、水天宮に聞けよ。

孫が他人に罪をなすりつけて犯罪奴隷に仕立て上げたんですが、どうすればいいですか……って」


「我が家の信用は、地に落ちます!!」


「仕方ないんじゃないか?

実際、それに値することをやったわけだから」


「まだ分別もつかない子供がやったことです!」


「なら、親なり家なりが責任取るしかないだろう……。

……いや、だからどうして俺に聞くんだ?」


立て板に水を流す。

まさしくその通りにゼロ回答し続けていたソーマ様の声が、そこではじめて止まった。


「決めるのは、アンゼリカだろう」


「……」


その言葉が耳に届いてようやく、私の皮膚はジューイン家の視線が集中する圧力に気がつく。

切願、嘆願、哀願、懇願、情願……絶望。


それぞれの瞳、今は全く恐ろしさを感じないその瞳の必死な色に、私の心の中でどす黒い光が強くなった。


「どうする、りたいか?

どうしてもって言うなら、何か適当な方法をユーチカ辺りに相談してやるぞ?」


「「……」」


が、それよりも遙かに黒い言葉が、ジューイン家の希望も私の嗜虐心も等しく消し飛ばす。


殺したいなら、殺してもいいぞ?


「喉渇いているなら、カティでも飲むか?」程度の軽さでそう問いかけられる、この容赦のなさ。

平然とアブカルを見殺しにしたときと同じ、躊躇も自己嫌悪もない人間失格な提案。


……だけど、そんな氷のような冷たさでしか。

闇の底の黒さでしか救われないものがあると理解しているからこその、無慈悲な優しさ。


「……とりあえず保留して、頭が冷えてから考える、っていうのも手だが」


相反しながらも両立し併存する透明な言葉は、明らかに答えに詰まった私を見た後、肩をすくめた。

そして、茫然としたままのバキムへと視線を戻す。


「ただ……その場合は、お前結婚とかしない方がいいな。

復讐されるタイミングで奥さんとか子供とかいたら、最悪だろう?

恋人も友達も、仕事も娯楽も……全部、ほどほどにしておかないとな。

……いずれ、失うんだから」


何でもないことのように、むしろ善意からのアドバイスであるように告げるその言葉には、やっぱり一切の温度がない。


「仕方ないだろう?

人生を諦めて、幸せな未来が想像できなくなる気持ちに、他人を追いこんだんだ。

毎日死にたくて、毎日殺したくて、毎日世界が終わればいいって願う気持ちに……自分もならなきゃ不公平だろう?」


簡単な引き算の答えを提示するような、論理的な確認。

人の命から人生の全てを引きながらも、倫理は『魔王』を止められない。


「……あぁ、自分で死ぬのもダメだぞ?

それをやる権利は、アンゼリカにしかないんだから。

仲のいいお兄ちゃんたちを、身代わりにしたくはないだろう?」


「「……」」


それは、この残酷な世界であまりに無力で、そして無意味だった。

そして、『魔王』の強さはそんな世界を消し飛ばして創り変えてしまう、冷たく……あたたかい強さだった。


「……じゃあ、まぁ、とりあえずはそういうことで。

アンゼリカがどうするか決めたら、また来るよ。

……ほら、行くぞアンゼリカ。

レブリミ、先行よろしく」


「うっふっふー、かっしこまりましたーー!」


黒いマントに続いてソファーから立っても、大旦那様たちは氷像のように静止したままだった。

背後からはゲボッと、全ての逃げ道を奪われたバキムが絶望のあまり吐く音が聞こえる。

汚すぎるその水音を一顧だにすることもなく、ソーマ様はジューイン家を後にした。





私の、アンゼリカ=イルフォースの復讐は、こうして一時凍結された。

















「そういえば……お前、あのエリオの染物屋はどうするんだ?」


ウォルポートの領主館、その2階にある応接室で私がそんなことを思い出したのは、やはり何気なさそうなソーマ様の声が鼓膜を叩いたからだった。


ライズとエンキドゥを連れて戻られたソーマ様がまた姿を消された、その翌々日。

また同じ転移魔法で戻られたソーマ様は、私たち『十姉弟じゅっきょうだい』にいくつかの指示を出された後、昼前からずっとこの部屋で書類の山脈と格闘されている。

もちろん、現状ではウォルポートの町長は私、ウォルの村長はサーヴェラなので大半の事柄は私たちで決められているが、ウォル全体の領主はあくまでもソーマ様だ。

最終的な決済や外交関係の書面となると、どうしてもソーマ様に見ていただかなければならない。

……代行を務めていた先生は、ずっと不在のままだったし。


ソーマ様がご不在だったのは2ヶ月程度だが、未だに規模が拡大し続けているウォルとウォルポートにとっては決して短い時間ではない。

必然的にそれなりの束になるそれらに加えて、さらにソーマ様は過去の分の書類を全て用意するように指示された。

執務室ではなく応接室で作業することになったのは、単にそれだけの資料を並べられる広いテーブルがそこにしかなかったからだ。

顔を引きつらせながらも資料が入った箱を運んできた数十人の弟妹きょうだいたちの列に、命じたソーマ様自身も同じ表情を浮かべられていた。


補佐のために残った私の向かいで、黙々とそれらに目を通され、あるいはサインされていくことしばらくの間。

書類の数字や議事録の内容について何度かの質問された後に、ふとソーマ様は顔を上げられた。

手に持たれている書類を確認すると、交易に関する報告書であることがわかる。

そこからエリオのことを、そしてエリオのジューイン家のことを……名前はともかくとして、思い出されたのだろう。


「どうする……ですか」


ただ、ウォル領内のことなら即答できる私も、これに関してだけはとっさに答えが出てこない。

あれから3年以上が経つものの、私はバキムに、あるいはジューイン家に対して具体的に何かをしようとしたことはなかった。


結局あの日、私は実際に水天宮へ連れて行かれ、本当に公的な犯罪歴はなくなった。

そのまま市民に戻ることもできたのに奴隷の身分であり続けたのは、ウォルと……いや、ソーマ様との公的な繋がりがなくなることが怖くなったからだ。

訝しむ宰相の前で何度も説得するソーマ様に必死で抵抗した当時の私の幼さは……あまり、思い出したくない。


ジューイン家については、あっさりその信用を失った。

無実の子供を犯罪奴隷に落としただけでなく、それを隠蔽しようとして失敗した。

何より、あの『魔王』の不興を買った。

エリオで2番目の規模を誇っていた大店は職人ギルドでの地位も失い、今では全盛期の3分の1くらいまで規模を小さくしている。

バキムについては、実際に蟄居ちっきょしている状態だ。

皮肉なことに彼を庇おうとした大旦那様の指示の下、半ば精神を病みつつあるバキムは屋敷の一画に今もずっと幽閉されているらしい。


……とはいえ、その噂話を出入りの商人から聞いたのも1年半前が最後だ。

大旦那様にしても、その半年前には病死している。


正直に言って、それ以降はジューイン家のことを思い出したこともなかった。


「どうにか、した方がいいでしょうか?」


「いや、別に?」


実際、それがそのまま声に出てしまったのだろう。

戸惑いが多分に混じった私に、ソーマ様は小さく笑う。


「ただ、どうする気なのかと思ってな」


「正直、ウォルポートができた辺りからは考えたこともありませんでした」


「……悪い、そんなに忙しかったか?」


ソーマ様も、「そろそろれば?」という意味でおっしゃったのではないらしい。

申し訳なさそうな表情には、あのときの冷たさは一切なかった。


「それも……いえ、そういうことでもないんですれど……。

……本当に、考えることがなかっただけですね」


ウォルポートができた辺りから仕事が激増した事実から無意識に頷きかけたのを、横の動きに変換する。

率直に言えば、「今更、バキムのことなんてどうでもいい」というのが偽らざる私の本心だった。


「復讐……した方がいいんでしょうか?」


そんな自分のぬるさに、少しだけ……不安になる。


その程度の覚悟だったのかと。

その程度の弱さだったのかと。


……だけど。


「別に、放っといてもいいんじゃないか?」


ソーマ様の静かな声は、やっぱりそんな迷いさえ消し飛ばしてくれた。


「復讐することでしか前に進めないことも……確かに、あるとは思うが。

……でも、全員が絶対やらなきゃいけないわけでもないさ」


公平で厳格で、そして現実的。


「何が正しいのかなんて、当事者にしか決められないだろ。

善だの悪だの、他人がゴチャゴチャ言うことじゃねぇよ」


だけどきっと、とても優しい。


「お前がそう思うんなら、それでいい。

ゆるすのも赦さないのも、決めるのはお前だよ」





冷たくもあたたかい、私の王様。





「じゃあ、そうします。

今はバキムのことよりもウォルポートのことの方が、ウォルの弟妹たちのことの方が大事ですから」


諦めていた人生を取り戻し、幸せな未来が想像できるようになって。

毎日楽しくて、毎日面白くて、こんなに世界があたたかく変わって。


……私は、アンゼリカ=イルフォースでよかったと思う。

そして、ウォルで暮らす全ての子供たちもそう思えるようになるように、ウォルの『長姉ちょうし』として生きていこうと思う。


「……そうか」


この方の、未来のためにも。

この方の、守りたいもののためにも。


「アンゼリカ……でかくなったな」


ソーマ様の穏やかな瞳の中には、19歳になった私が映っている。


「……いや、違うからな。

別に、そういう変な意味じゃないからな」


「『そういう変な意味』とは?」


「いや、だから……」


捉え方によってはアリス様が「少し不愉快」になりかねない失言に慌てふためく黒の中では、悪戯っぽく胸を押さえるアンゼリカが笑っていた。


「いや、本当に成長したよ。

……そんな風に成長してほしくなかった部分もな」


「やっぱり、小さい方がお好きだったんですね」


「そういう部分だよ!

…………おい、『やっぱり』って何だ!?」


言い直したようで、さらに墓穴を掘った……と、私に解釈されたソーマ様がついに叫ぶ。


……あぁ、もう本当に…………。


舌打ちして書類の中に退避したソーマ様に、私は心からの笑みを浮かべる。





「ソーマ様。私は今、幸せです」

『クール・エール』ですが、いよいよ来年1月中には完結の見通しです。

書籍化や長期休載を挟みながら続いてきたソーマたちの旅路ですが、どうぞ一緒にそのゴールを見送っていただければ、と。

引き続き、『クール・エール』をよろしくお願いいたします。


それでは皆様、どうぞよいお年を。

そして、来年がさらによいお年となりますように。



砂押

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