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クール・エール  作者: 砂押 司
第5部 世界を変えるもの

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140/179

アナザー・エール 強者

「……」


精霊歴502年、エルダロン大陸最南部の小領の1つ、ササド。

その外れに位置する家……いや、周囲の家屋の規模と比べれば屋敷と呼ぶべき建物の一室は、紫色の光に埋め尽くされていた。

その発生源である立方体を両手に捧げ持つ青年の横顔には、真摯な祈り。


インデバルド=ハート。

馬車の事故で両親を失い若すぎる領主となったばかりのその表情を照らす色には、すぐに無機質な白が混じる。

液体のように溢れ出し気体のように充満する光は、相変わらず俺が大嫌いな紫と白。

滝のように降り注ぎ煙のように立ち昇る2色の光は、インデバルドの指から手、腕から顔……ばかりか、床についた膝はもちろんブーツの爪先、簡素ではあるが丁寧な作りの椅子、テーブルに積まれた木簡もっかん皮紙ひしから窓にかかった分厚いカーテンに至るまで、あらゆるものに黒い影を作る。


例外は、全ての光を透過させる俺とマキナの後ろだけ。


黒、黒、黒、あまりに黒すぎる黒……。

光に合わせて乱舞するそれらは、まるで細い鎖のようにも見える。

生理的に嫌悪感しか抱けないその光景の中心で、顔を3色に染めたままの召喚主は瞑目し続けていた。

魔具まぐである立体陣形晶キューブを用い、魔力と強い「願い」をもって発動させる超々高位時属性霊術、【異時空間転移パールポート】。

マキナの言葉に従うならば「技術」でしかない魔法の中心で、ついに世界がじ曲がる。


「「……」」


嘘のように消え去った光の代わりに立っていたのは、白髪白衣に白肌はっきの少女。

反射的にフリーダを連想するが、5歳程度にしか見えない体格と比較するまでもなく、やはりあまりに白すぎる。


無垢、純白。


そんな単語に支配されるインデバルドと俺の前で、赤い瞳が開かれる。


「「……!」」


息を呑んだのは、インデバルドか、俺か。

少女は、あまりに美しかった。

アリスよりも神秘的な、アイザンよりも可憐な、ミレイユよりも妖艶な、完璧としか言いようのない美しさがそこにはあった。

男であるとか女であるとか、年齢がどうとか種族がどうとか、そういう次元の問題ではなかった。


万人どころか、万物全てが理解せざるを得ない美しさが、そこにはあった。


「……名前を教えていただけますか、『人を超える者』よ」


顔を上げ、半ば呆然としつつも……しかし確かな、自身の「願い」が叶った喜びに口元を綻ばせるインデバルドが、穏やかな微笑みと共に少女に手を伸ばす。


「……ルミーナ」


この世界での始祖となる魔人ダークスは、カプっとその指先に噛みついた。





「さて、ルミーナ。

私があなたを召喚したのは、その力を貸してほしいからなのですよ」


3日後、インデバルドとそれに連れられたルミーナは、屋敷の長い階段を歩いていた。

経緯はどうあれルミーナは主が招いた大切な客人と周知されているらしく、主人の後ろを無表情で歩く少女を呼び止める者は誰もいない。


自分はこのササド領を預かる領主であり、この館の主であること。

既に両親は亡くなっており、生まれつき体の弱かった姉は病で伏せっていること。

自分は命属性魔導士ではあるが、【完全解癒リザレクション】ではその病を治せないこと。

それを治すための魔法の研究を重ねてはいるが遅々として成果は上がっておらず、「人を超える力を持つ者」を召喚したこと……。


飲食は必要ないが、人間の血液を通して得た魔力を糧にすること。

姿形は変えられるし、体を崩すこともできること。

老いないこと、死なないこと。

「まほう」や「けんきゅう」についてはよくわからないけれど、「ごはん」さえくれるなら手伝ってあげること……。


血が滲む指先をすぐに引っ込めたインデバルドとそれに不満そうな視線を浮かべたルミーナとの間での情報交換と契約は、俺とミレイユのときのそれと比較しても驚くほどスムーズに、そして安寧に終了していた。

これは、魔物や竜、魔法や精霊が実在するこの世界において、血を吸ったり形を失ったりというルミーナの特性がそこまで非常識なものではなく、何よりそうした存在を望んだインデバルドがルミーナを柔軟に受け入れたから、というのももちろんある。


「インデバルド、あれはなに?」


「……『窓』、ですか?」


「ちがう、まどのさき」


「あぁ、……『池』ですね」


「いけ……?」


ただ、客観的な事実としては、それ以上にルミーナが幼く、無知だったからというのも大きかった。


「大きな水たまり……のようなものです」


「……みず?」


「えぇ、『水』ですね。

もっと大きければ『湖』ですし、流れていれば『川』、果てのない『海』なんかもありますが」


「うみ……」


「興味があるなら、今度一緒に見に行きましょうか?

領の中央を流れる川をずっと南へ行けば、すぐに海へぶつかりますから」


「……そう」


かつ、この少女は執着心というものをほとんど持っていなかった。

目についたものに次々と興味は示すものの、まるで冬に唇から漏れた白い息のように、すぐにそれは無色へと消えてしまう。

それは自分自身のことに対しても同一で、結果としてルミーナは「毎日、さっきのと同じくらいの血」という、8万とそれなりに高めのインデバルドの魔力を考えてもあまり多くはない条件で自分の身代を売り渡していた。


「あれは?」


「メイドのイェナです」


「……」


その一方で、ルミーナは「ごはん」の対価はきちんと支払っていた。

おそらくはインデバルドの願い通りに命属性への適正を示したルミーナは、実質2日間で10種類の魔導を完璧に会得。

さらにはインデバルドから渡された人体の構造に関する皮紙の束も、とりあえずは目を通している。

だからこそ、ルミーナ自身を含むそれ以外のものへの無気力さは、非常にアンバランスなものとして映った。

が、結局のところルミーナを理解することはできない。


生存本能と「まほう」に関すること以外は、白紙。


どういう感情なのかを理解するためルミーナの記憶を閲覧した俺からしても、そう表現するしかなかった。

わずかに3日、それでも3日。

確かにこの世界に関わりながら、しかしルミーナの中には驚くほど何も残っていない。


インデバルドのことは「契約の相手」として残っているが、それ以外の感情は一切ない。

新生児が最初の感情として持つはずの、快と不快さえない。

与えられた寝室の景色も、今確かに見つめたはずの初老のメイドの顔さえも残っていない。

愛も悪意も、そこにはない。


何を書き込んでも、ただひたすら白いままの画用紙。


「さて、ここが私の研究室です」


「……けんきゅう」


そこに、ようやく文字が刻まれる。

果たすべき契約に関することとして辛うじて引っかかっていた単語を確かめる赤い瞳は、廊下の終点、一際重厚な扉の前で静止した。

指よりも太い鍵が回され、現れたのは地下への階段。

降りきった壁には、さらに分厚い鉄の扉が待っている。

それこそルミーナの腕ほどあるかんぬきをずらし、開いた先からはオレンジ色の光。


「えぇ、協力してくれている領民たちには、感謝しなくては」





その中には、数十人の人間が吊るされていた。





半数の瞳には恐怖。

もう半分は、意識がない。

2人はそもそも眼球をくり抜かれており、4人はそもそも死んでいる。


猛烈な悪臭と、腐臭。


けがれた空気が肺に侵入した衝撃に体を折りながら、俺は必死で水のマスクを作った。

涙がにじむ視界の端、床には固体となった血がこびりつき、色も長さもバラバラの髪の毛が無数の塊を作っている。

この世界には虫がいないためうじはえこそ湧いていないものの細菌は普通に存在するため、飛び散った肉の破片は完全に腐りきっていた。

そこに唯一の水分を与えるのは、生存者が垂れ流す血と涙、吐瀉物と汚物だけだ。


「姉様……カノミー=ハートの患っている病気は、あなたに教えた魔法では治せないのです。

それを編み出すための、研究なのですよ」


そんな地獄の中で、インデバルドだけが穏やかな微笑を浮かべていた。


「まずは人体の構造を知り、仕組みを知り、どこが壊れればどうなるのかを知る……」


フックに固定された鎖を追うインデバルドの両腕は、いたわるような手つきでその延長へとたどりつく。

天井から降ろされた40歳くらいだろう、その女性は中央の巨大な石の台に寝かされるまで失神したままだったが、どうしようもなく最悪なことに、両手両足を固定されてから意識を取り戻してしまった。


「その全てを知ることができれば、逆に全てを治すことができるはずなんです」


泣き喚き全力で暴れる女性の前で、インデバルドは淡々と道具を準備していく。

大小様々なナイフに同じく無数のノミやキリ、金槌にペンチ、かまどには……おそらく止血用の焼きゴテ。

さらにはボトルに入った粉薬や水薬が並び、その横には羽ペンとインク、記録をとるための木簡が積み上げられる。


「それを、魔導としてどう組み上げるか……、……ただ、それだけのはずなんですけどね」


インクのボトルを手に取ったインデバルドは、暴れる女性の体に無数の線を描いていく。

刃を入れていくための、目印。

その手際のよさと正確さから、インデバルドがここで解体した人体が莫大な数になるのであろうことを、俺は理解させられた。

まともな文献どころかそもそも紙そのものが発明されているわけでもないこの時代に、あれだけ正確に人体の構造を把握するなど10回や20回程度の経験でできることではない。


「安心してください、【増赤ソルハ】で血を追加していきますし、壊した場所も【治癒リカバー】で元に戻していきますので。

そう簡単には死にませんよ、人間は」


涙と鼻水にまみれた女性の瞳を直視するインデバルドの表情は、やはり穏やかな笑顔。

その内容を告げているのは悪意からではなく、ただ純粋な親切心から。

坊ちゃん正気に戻ってください、と咆吼する研究材料に、インデバルドは静かに頷く。


「私は、正気ですが?」


天使のように、それは優しい。

完全に、狂いきった者の笑顔。


その隣、立つのは純白。


「……びょうき?」


この、何をどう取り繕っても最悪としか言えない部屋の中で、ルミーナだけは変わらず無垢のままだった。

その表情には恐怖も嫌悪も、憐憫も苦痛もない。

いっそ歓喜や愉悦でもあればまだ共感できるものの、それすらもない。

召喚されたばかりのときと何も変わらない美しさのまま、ただ自分が関わるべき単語にだけ赤い瞳を向ける。


この期に及んでも、穢れなき純白。

だからこそ、それは間違っている。


「そう、病気なのです。

……あぁ、そう言えば、まだ姉様に挨拶をできていませんでしたね」


「ねえさま……」


噛み合っているのかいないのか、もはや理解できない……いや、人間として理解できてはいけない会話を交わしながら、腐臭をまとったインデバルドと真っ白なルミーナが階段を昇っていく。

廊下で礼を向ける使用人たちの表情には、石像よりも色味がない。

当たり前だ。

彼ら彼女らはまだ、恐怖を感じる人間なのだから。


それらに笑顔で声をかけながら、インデバルドは角を曲がる。

屋敷の東側、扉には豪奢で丁寧な彫刻。


「姉様、失礼します」


ノックの後、返事は待たずにその中へ。


「姉様、お加減はいかがですか?

今日は私の客人をお連れしましたので、挨拶だけでもと。

ルミーナというのですが……、……少々説明しづらい素性ではありますが、とても素敵で優秀な人物なのですよ」


インデバルドが、ベッドに座る。





寝かされているのは、ほぼ白骨化した死体。





「どうです姉様、ルミーナは美しいと思いませんか? …………いえいえ、もちろん姉様も美しいですよ…………いえ、ですから、それは言葉の綾というやつで…………姉様、もう子供ではないのですから、家族以外の前でそのように拗ねるのはいかがなものかと…………そうですよ、このインデバルドも、まだ18とはいえ家督を継いだ身なのですよ? 姉様におかれましても…………ですから、姉様…………」


茶色く乾ききった頭皮、そこに残った金髪を撫でながら、インデバルドは黒く空いた眼窩と会話を成立させている。

茶色や黄土色をベースにした色素でまだらに固まったシーツやルームドレスからは、水分が抜けきってなお、インデバルドが撒き散らすのと同じ臭いが漂っていた。

呼吸さえ忘れながら記録を探せば、死んだのはもう1年以上前のこと。

ルミーナは、ただぼんやりとそんな姉弟を眺めている。


「この後、インデバルドは5年半に渡ってこの館で研究にいそしんで、ルミーナはそれを手伝うことになるんだけど……、……見る?」


「……いや」


もしかしたら、それ以上に感情のない瞳で2人を眺めていた俺の視界の端で、ルミーナではない白が動いた。

既に終わりきっていた願いのために、1年前から続けられていた無意味な拷問と人体実験。

救いがないどころか、そもそも救いの有無を問うという前提が間違っている糞脚本。

それを今から2千日分も見続けるなど、さすがに正気でいられる自信はない。


「じゃあ、少しスキップするわね」


音が消え加速していく世界の中で、俺は鈍痛のする目を閉じる。


マキナは、全て見たことがあるのだろうか。

想像しようとして、俺はすぐにそれをやめた。

















「……っ」


耳に音が戻ってきた瞬間、何よりもまず感じたのは猛烈な煙の臭いだった。

ササド領、領主館。

体感では30秒ほど前、実際には5年半前とほぼ変化のないカノミーの寝室の中に充満しているのは、明らかに物が燃えている空気。


マキナが扉を開けた瞬間、目に入るのは炎の色。

思わず立ち止まるが、ダメージ自体はないことを思い出し白いマントについていく。

廊下の所々には魔導による戦闘と血の跡、統一された装備を着込んだ兵士たちの死体。

記録を手繰るとササドの領兵たちであることがわかり、さらに眉間が痛くなる。


要するに、クーデターだ。

5年半前に見かけた使用人たちの死体が1つも見当たらないあたり、インデバルドの人望のなさが窺える。

が、人口6千あまりの領内で実に400人以上を殺害、それも結果的には無意味に刻み殺したのだから、さすがに弁護のしようもないだろう。


あれは、もはや人ではない。


赤く照らされてもなお暗い階段を降り、外側から破壊された地下室の扉をくぐる。

廊下と同じく、関節が逆に曲がったり、白い泡を吹いていたり、全身が黄色く変色していたり、明らかに自分の指を目に突き込んでいたりする領兵たちの死体の先には、解剖台の上に腰かけたインデバルド。

ただ、その半身は炎よりも暗い赤色に染まり、流れ出す液体が穢れを増した石の床をジクジクと濡らしている。

「研究」の副産物として呪導士としての強さを得たインデバルドではあったが、それでも中隊規模の兵力相手では相打ちが限界だった。


「結局、私の手は……届きません、でしたか……」


「……」


傍らには、変わらず純白のままのルミーナ。

400人の内臓を覗き込み、100人の兵と戦い、ずっと隣にいた1人の男が死にかけているこの期に及んでも、やはりその表情には何もない。

が……、……それでも美しい。


しかし、だからこそルミーナもやはり人間ではないのだと、ひどく感じる。


「ありがとうございました、ルミー、ナ……っ、……あなだどの契約は、これっ……でおわり……す」


「……そう」


血塊と共に告げられる、インデバルドからの別れ。

赤い瞳が瞬きする中で、ガチャガチャと足音の群れが近づいてくる。


「姉、ざ……」


インデバルドの体ごと最期の言葉を吹き飛ばしたのは、火属性【炎条スプレッド】。

地下室内の全てをオレンジ色の舌が舐めていく中で、ルミーナだけが不変を保つ。


「どうして死なない!?」


「くそっ、悪魔め!」


「とにかく撃ち続けろ!!」


「……」


踏み込んできたのは、ササド領兵の分隊。

火属性、風属性、土属性の魔導が連射される中で、ルミーナが半分砕けた首を傾げる。


「やはり人間ではなかったか……!

強力な、未知の魔物だと思って対処しろ!」


「……」


分隊長は顔を引きつらせながらも、とにかく弾幕を張り続ける。

数十秒前の段階で粉々になっているインデバルドの破片を被りながらルミーナも徐々に……、……そして、ついに形を失った。


が、それは【散闇思遠バッティング】ではない。


「うるさいわ、貴様ら」


「「な」」


2人の兵の頭をそれぞれ片手で握り潰したのは、黒髪に黒衣の大男だった。

2メートルを超える長身が向き直ったのは、唖然としている残り2人。

赤い瞳が細められると同時に振るわれた腕は、正確にその首を弾き飛ばす。


「悪魔に魔物か……、……好きに言うてくれる。

ならば、我らは『魔人まのひと』とでも名乗ろうか」


吐き捨てるようにわらった美丈夫は、そのまま歩いて階段を昇っていった。


「……」


その影。

白髪に白いローブを着込んだ10歳ほどの少年が、静かになった地下室を一瞥した後に、こちらは【散闇思遠バッティング】で姿を消す。


残されたのは、状況について行けず立ち尽くしている俺と、ようやく口を開いたマキナだけ。


「ルミーナはね、絶望しちゃったのよ。

『この世界で自分のやるべきだったことが、終わっちゃったな』って。

だけど、ルミーナには記憶も感情もほとんどなかったでしょう?

結果として、この地下室の中の出来事だけが分割されたのよ」


白いフードに包まれた横顔が語るのは、あまりに常軌を逸したルミーナの最期と、この世界における魔人ダークスの誕生についてだった。


「黒い方はオルカンって名乗って、ササドを滅ぼした後にエルダロンを北上していくことになるわ。

ただ、彼には今の瞬間の防衛本能と、人間への敵対心だけが分割されちゃったから……。

都市を滅ぼしたり人間を支配するタイプの魔人ダークスは、彼から派生していくことになるの。

魔人ダークスが危険視される諸悪の根源と言えば……ま、そうね」


「……!」


そのマキナの後ろ、何かが動いた気がして、俺は視線をそちらへ向ける。


「白い方は、デュークっていうの。

彼の方は、逆に穏健なタイプの……ミゼットたちみたいな魔人ダークスの元祖ね。

彼には、ルミーナの持つ「無」が分割された。

今のデューク自体はルミーナと同じでほぼ何もない状態だけど、この後出会う森人エルフ……ネクタを飛び出してきたと出会って新しい……人間と共に生きようとする人格が形成されていくの」


ほんの少しだけ、救いがあった話。

地下室の中、消えかけた火の光と熱をわずかに感じる中で、それはゆっくりと立ち上がった。


「で、あれがチーチャよ」


マキナの視線の先で、赤い少女が体を揺らす。

140センチ程度の姿を包むボロボロの修道服は、頭巾ウィンプルもベールもローブも、全てが赤。

細い首元と手足は大小無数の切り傷と痣、火傷に内出血で覆われ、その先端の爪先にもあるべき爪がない。


「……!」


なぜか今は着けていない、赤い仮面の下はさらに壮絶。

手足以上の傷や欠損に覆われたそれは、辛うじて残るルミーナの面影を完全に破壊し尽くしている。

白よりも赤の面積の方が多い顔の中心で、輝くのは赤い、赤い瞳。


「チーチャに残されたのは、地下室の中の記憶の断片だけよ。

人の形がするものを分解した、人の形がするものを操作した、人の形がするものを破壊した……。

その記憶だけが残っているんだから、自分はそれを楽しんだに違いない。

そうでなければ、辻褄が合わない。

だから、自分はそれを好きなはず……」


それでもわかる、あの純白の少女と同じ、空っぽの表情。


「……そして、人の形をしている自分も、そうであるべきはず」


不幸と不愉快、不実と不条理を煮詰めきったような論理展開の果てで、赤い少女は解剖台に手を伸ばした。


「それ以外には……何もない」


爪のない手が握っていたのは、もはや誰のものなのかもわからない炭化した骨だった。

さらに幾つかの骨片を拾い集めたチーチャは命属性【白錬ホルケール】を発動させ、それらを1つに繋ぎ合わせる。

光が収まりできあがったのは、辛うじて人の形をした10センチほどの白い人形。


「千年後までは、ね」


誰もいなくなった地下室で無音の人形遊びを始めたチーチャを、マキナは無色の視線で眺める。


「オルカンともデュークとも違って、チーチャはこの後ずっとこの場所で、たまに迷い込んでくる冒険者や盗賊や旅人をかてにして生きていくの。

好きであるはずのことだけをやってるんだから……、……彼女は絶望すらもできなかったのよ」


世界から、完全に音が消えた。

再び加速していく光景の中で、確かにほとんど赤い少女は移動していない。

コンマ数秒で1年が経過していく主観の中で、解剖台の前からほとんど動かない赤色。

変化の、あまりに何もなさすぎる数分間に、見ている方が絶望したくなる。


「そして、1482年」


目をえぐりたい気分で見つめていた世界が、マキナの声と共に静止した。

……いや、通常の速度に戻ったものの、チーチャに変化がなさすぎてそう感じただけか。

こめかみや目の奥どころか首の骨や心臓すらも重たく感じる疲労感の中で、カツカツと小さな足音が階段を降りてくる。





「……ふふふ」





「……」


正直に言えば、安堵していた。

久しぶりに、本当に久しぶりに見た気がするミレイユの笑顔は、相変わらず捏造されたものだ。

実際には、「困惑」。

ウォルで暮らしていた間に見分けられるようになったその瞳の先では、チーチャが別々の白い人形を持った両手を動かしている。


「同族がいる、という噂を聞いて来てみたのですが……、……どうしたものでしょうね」


ミゼットからピエッタとなり、そのピエッタから200年を経てエルダロンを南下しきったミレイユ。

その口調や雰囲気は、既に俺が知るミレイユのものと何の変わりもない。

すなわち、数十の絶望を経ても求め続けた他者への慈愛を、ミレイユは既に備え持っていた。


「その子たちのお名前は、何というのですか?」


「……ナマエ…………」


ゆっくりと歩み寄ったミレイユは少しだけ間を空けてチーチャの隣に座り、穏やかに微笑みかける。


「わたくしも、一緒に遊びたいですわー」


「……」


無言で差し出された人形の1体を受け取ったミレイユは、チーチャの様子を確かめながらそれに命を吹き込み始めた。


「さてさて、今日は何をして遊ぼうか!」


人形劇ニンギョウゲギ……」


「ぇ…………よ、よし、やってやろうじゃないか!

さぁさぁ、今日は人形たちが色んな芸を披露してくれるよ!」


結局無名のままの人形をロールしたまま、予想外のお題に一瞬だけ怯んだミレイユは火を極小の人型に変えて器用に操り出す。

最初は優雅な一礼、台をゆっくり歩いた後は、ジャンプに逆立ち……。

コントロールを丁寧に安定させるに連れ、炎の人形はその数と高度さを増していく。

玉乗りにジャグリング、宙返りにパントマイム。


「さぁさぁ、盛り上がって参りましたよ!」


「……!」


笛を吹く横では手品で鳥を飛ばし、ついには50に達した全員が参加しての盛大なダンスが始まる。

地下室は、ひどく明るい。

いつの間にかミレイユにぴったりと寄り添っていたチーチャの前では、小さな炎の小人たちが踊り狂っていた。

解剖台で燃え上がる光と熱は赤い瞳に乱反射し、その視線をキラキラと輝かせる。

それは、まるで電気を消した部屋で家族に囲まれ、バスデーケーキの蝋燭を吹き消そうとする子供のよう。

ミレイユが撫でる赤い髪の下の表情は、傷まみれでもわかるほどに笑顔だった。


「楽しいですか?」


「ウン、ダノジイ!!」


チーチャが乞うままに、ミレイユは炎で遊び続ける。

2対の赤い光と熱は、間違いなく互いの心の奥底へと届いていた。





「……姉様ネエザマ!」


「は、はい?」


結果、数日を経て人形遊び以外は何もなかったチーチャの中に、唯一それよりも大切なものが思い出される。


姉様。

誰よりも、守りたかった人。


「ヨウヤグ、ゴノドドギマジダ!

アア、ヂーヂャハジアワゼデズ!

モウズッドズッド、バナレマゼン!

ヂーヂャハ、生涯ジョウガイ姉様ネエザマアドヲヅイデイギマズ!!」


完全に困惑の隠蔽を失敗したミレイユに抱きついたチーチャは、グシグシと満面の笑みを擦りつける。

千年を経て初めて手に入れた感情は、その全てが「姉様」たるミレイユと共にいられる幸せに塗り潰されていた。





他のものなんて、もうどうでもいい。

自分も世界も、どうなったっていい。


私はきっと、自分も殺せる。

全てを捨てて、諦められる。





「……後を、ですか……」


が、そんな絶対の愛情をぶつけられたミレイユの笑顔には、明らかに険しいものが混じる。


「……!?!?

駄目ダメナノデズガ、姉様ネエザマ!?

イヤデズ、ヂーヂャヲデナイデグダザイ!

ギライニナラナイデグダザイ!!

イヤイヤデズ!!!!」


「だ、大丈夫ですわー、チーチャ!

捨てませんし、嫌いにもなっていません!

お、落ち着いてください!!」


イヤアアアア!!」


ただ、それはすぐに、ウォルでも滅多に見せなかった本気の焦りの表情へと変わった。

一瞬でパニックを起こしたチーチャからは灰が舞い、千年間の孤独にも揺らぎさえしなかった自我があっさり崩壊の兆しを見せる。

必死でで、なだめ、抱きしめ、笑いかけるミレイユの腕の中でチーチャが落ち着きを取り戻すまでには、千年と比べれば一瞬でも激しく動きのある時間が費やされた。


「……そういうつもりではなかったのですわー、チーチャ」


「……」


それは若干の不安を覚えても、不幸でも不愉快でも不実でも不条理でもなかった5分間の後。

ミレイユのお腹に顔を埋めたまま離れようとしない赤い瞳が、おそるおそる上を向く。


「ただ……、わたくしがこれから向かおうと思っていたのは、バン大陸ですので」


それにあたたかい赤色を返しながら、ミレイユの唇はその形を作った。





「わたくしたち魔人ダークスに……、……『王』が生まれたらしいのです」

Lumina=ルーマニア語で「光」の意。

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