アナザー・エール 風一陣 中編
【……】
自由。
それを謳いながらいきなり飛び込んできたレム、そう名乗った白い小鳥が嘴を閉じて奇跡的に倒れなかったテーブルの上に着地した後。
「……」
率直な表現をするなら、ボクは無言で困惑の表情を浮かべていた。
【……君は、なかなかに不自由そうだね】
「生憎と、苦労の多い人生を送っていることは確かだね」
現状だけを切り取っても、これは事実で間違いがないと思う。
面白がっているのか呆れているのか、小首を傾げながら軽やかな声で続けたレムの眼前で、相対するボクの姿はシーツの下に埋もれていたからだ。
【まぁ、巣立ちまでまだまだの雛鳥ならば仕方のないことさ】
「そうかい、なかなかに鳥というのも窮屈な人生を送っているんだね」
より厳密に言うならば、さらにそのシーツの上と端にはディアとキティが覆いかぶさっていた。
……別に、2人を非難しているわけじゃない。
むしろ、逆だ。
突然アイクロンの壁を破って飛び込んできた風の塊に、ボクからしてもデタラメと表現するしかない魔力を吹き荒れさせる喋る鳥……。
それを目にしてとっさにボクにシーツをかぶせさらには己の身を盾としたのだから、2人の行動は10歳と8歳としては完璧に近いものだろう。
少なくとも2年前に「首になった」あの4人や、衝撃で今現在も廊下で伸びている近衛兵などよりよほど優秀だ。
「ホットサンドにでもなった気分だよ……」
【地に繋がれ空を知らないという点では、共感できるかもしれないね】
だから、たとえそのままディアとキティが失神していたとしても、ボクが悪感情など抱くはずがない。
布越しの圧力にラビオリもしばらくは食べたくないな、むしろ朝に食べたそれが軽く出そうだな、と思っただけだ。
【に、しても……君は本当に幼いのだね。
それに、あまりに脆弱だ。
正直に言えば、少し予想外だね】
そんな溜息に、レムの静かな声が混じった。
「……あれだけ持ち上げておいて、今更落とす気かい?
空しか知らないにしても、それはあまりに不調法だと思うよ?」
壁の穴から差し込む日光にシーツからの脱出を諦めさせられたボクは、ディアとキティの腕の下で大きく息を吐く。
口から噴き出すのは、かつての騒動以来決して表に出さなかったボクの内心。
小さかった溜息は特大の不機嫌になり、そして静かな怒りへと変わっていく。
「ボクは、確かに幼く脆弱だ。
ついでに憎まれてもいるし、恐れられてもいる。
日にも当たれないし足もないなんて、全く、ボクの先祖はどれだけの罪を犯してきたんだろうね?」
闇と、澱と、不自由な自分。
それを知っているからこそ、ボクは憎んだ。
……いや、それは正しくないのだろう。
「人の家の壁を卵か何かのように砕いておいて、まさかタダで出ていけるとは思っていないだろうね?
自由と無法は、似て非なるものだよ」
光と、風と、自由のにおい。
それを知ってしまったからこそ、ボクは恐れたのだ。
【……フッ】
それが、また自分の前から去ってしまうことに。
ボクを憎まず、恐れない者がいなくなることに。
ボクを、フリーダと呼んでくれなくなることに。
【そう、恐がらなくていい】
「……っ」
そんな虚勢をさらりと流され本心を見透かされていたことに赤面する暇もなく、ボクはその瞬間に自分が「風」となったことを感じた。
同時に体の中で吹き荒れる景色に圧倒され、レムの言う通り矮小な体の中には無数の雷が走る。
錯覚なのか現実なのかわからない変化の中で、ボクはシーツの雲に包まれていた。
【私は、風の大精霊。
この世界で誰よりも透明であり、誰よりも自由な存在。
その自由を制することを、私は私自身にも許さない】
だけど、そこに息苦しさは感じない。
胸を満たすのは、ただ澄みきった空気と光。
【そんな私と契る存在にも、私は同じく自由を求める】
静かで軽やかなレムの声が、ボクの血に溶けていく。
【フリーダ、君は自由だ】
より鮮明になった世界の中で、その声に惹かれるように……。
【君は、自由であるべきだ】
……何か巨大なものが、ここへ近づいていた。
「……レム?」
【……だけど、君はあまりに脆弱だからね】
確認への返答を肯定するかのように、アイクロンの壁に再度大きな穴が開いた。
「御前に、当代様」
【すまないね、ハイア。
君の自由を少しだけ借り受けたい】
「御意のままに」
「……」
結論から言えば、ボクの部屋の壁をさらに削り取ったのは巨大な白竜だった。
下からは市民や冒険者に騎士、貴族や大臣が大騒ぎしたり気絶したりしている声が聞こえるけれども、そこの1羽と1頭にはそれが聞こえていないらしい。
飛びこむと同時に人化し、そのまま優雅な跪礼をとる。
しなやかな身のこなしに合わせたわけでもないだろうけれど、響く声は艶のある男のものだ。
【そこで羽向かわないのが君の悪い癖だよ、ハイア。
以前も言ったと思うけれど、私は眷族たる君が不自由であることを望まない。
コチたちのように、あるがままに振る舞ってくれていいんだよ?】
「いえ、あの……。
こちらも以前にお答えしましたが、仮にもアタシは風竜なわけですから。
当代様をお守りするのが役目ですし、その命に従うのが意義ですので……」
【くだらない】
「……じゃあ、帰ります」
【そうかい、仕方ないね】
「……もう少しだけ、います」
【好きにするといい、ハイア。
私は君に自由であってほしいのだから】
いや……、……うん、霊竜も大変なんだね。
テーブルの上で満足そうに羽づくろいを始めたレムの姿を、ハイアは跪礼のまま疲れた表情で見上げている。
服装としては軽騎士のようなそれに身を包んだ、長身長髪の男。
竜の年齢なんか想像しようもないけれど、見た目だけなら30の手前くらい……だろうか。
髪から軽鎧の飾りに至るまで純白のその姿は、おとぎ話か歌劇に出てくる王子様そのものだ。
……ただ、何故かはわからないけれどそこそこ濃いめの化粧をしている。
娼人や一部の貴族にはそういう趣味の人間もいるけれど、……まさか竜にもそういうことをする者がいるんだろうか。
シーツの隙間からのそんなボクの視線を一瞥し、ハイアは銀色の瞳を細める。
「……で、お呼びの理由は何でしょうか?」
【その子の守役を頼みたい】
「「……」」
翼を広げながらのレムの短い返答に、当事者であるハイアとボクは等しく絶句した。
理由は違えど、お互いに「本気なのか」という想いだけは一致している。
白銀と真紅。
お互いの瞳の色だけを交錯させ、それは揃ってレムの空色の瞳に向かった。
「当代様、アタシは……」
【フリーダは、私の契約者だ】
「「……」」
驚愕と、安堵。
それぞれの理由で言葉を失うハイアとボクに、その軽やかな声が届く。
【だけど、彼女はまだ幼く脆い雛鳥だ。
巣立つまでの間、守ってやる者が必要だろう?】
「「……」」
困惑と、……困惑。
「……御下命とあらば」
数十秒を経てからのハイアの視線には、明らかな迷いが混じっていた。
【そのつもりはないよ、ハイア?】
それを見もせず、今度は反対側の羽に短い嘴を差し入れながらレムは首を傾げる。
【何度も言うけれど、私は君が不自由であることを望まない。
興が乗らないと言うなら断ってくれて構わないし、そんなことで私の君に対する信頼は揺るがないさ。
自由というのはね、選択することだ。
私は、君が君のために下す選択を尊重するし、それが君にとっての自由となることをだけ望んでいる】
だけど、その声だけはまっすぐだ。
【だから、この先君に思うところがあったならば、そのときはいつでも守役を降りてくれて構わない。
いずれ君がフリーダを見切り、見限り、見捨てるというなら、私はその瞬間をも許容する。
反対に、巣立ちを過ぎても君がフリーダの傍にいたいというならそれでもいい。
君がどうしたいか、どうありたいかを私は聞きたいんだ】
「……」
どこまでも透明。
【君の未来の話をしているんだよ、ハイア?
今の君がそれを選択しないことを、私は許さない。
私の竜だと言うならば、だからこそ自由にしたまえ、ハイア】
どこまでも自由。
「「……」」
それに背中を押されるように、再びハイアとボクの視線は交錯した。
戸惑いに、不安に、期待に、決意。
銀色の瞳にはボクの赤が映り込み、そして朝日のように灯る。
「……」
「!」
……あたたかい。
小さく笑ったハイアの顔に、ボクは心の中の闇が晴れていくのを感じた。
「わかりました、お引き受けいたします。
……ただし、アタシのやり方で」
【なら、後は任せるよ】
笑みを含んだようなレムの声の隣で、ハイアはゆっくりと立ち上がる。
ツカツカと歩みを進め、その手はボクを覆うシーツを掴んだ。
「……!」
ここで、ボクは異常事態から説明を忘れていたことを思い出す。
「というわけで、はじめまして契約者さん。
アタシはハイア、当代の風竜で今日からアンタの守役、よっ!」
「ちょっと待……!」
さっさと飛び立っていくレムの影が通過する、アイクロンに空いた大きな穴。
そこから容赦なく差し込んでくる、太陽の光。
「壁を塞いで! シーツをかぶせて! ボクは、日の光に当たれないんだ!」
「ハ!? え、こんなに小っちゃいの!? て、先にそれを言いなさいよ!」
大慌てでシーツを元に戻すハイアと応酬を続けながら、シーツの中でボクの頬には自然と笑みが浮かんでいた。
未来への、希望。
ひょっとしたら雛鳥も卵から孵るときは、こんな気持ちなんだろうか。
「……フリーダ様っ、……な、何だ貴様はぁっ!!!?」
「いや、アタシは風竜で当代様からこの子の守役を……え、当代様は!? もういないの!!!?
ちょ、ちょっとフリーダ、アンタ説明しなさいよ!」
ようやく駆け込んできた衛兵に、ようやくレムの不在に気がつくハイア。
「うるさいよ、君たち」
ボクの記憶にある限り、最もにぎやかで最も眩しいその光景に。
その日、ボクは生まれて初めて心の底から笑った。
それからの日々は、まさに疾風怒濤だったと言っていい。
「アンタ、人間にしては随分変わってるのね……」
「君も竜にしてはかなりのゲテモノじゃないか」
「ぶっ飛ばすわよ、アンタ!?」
お互いの存在に慣れるのに半日とかからなかったボクとハイアは、そこから常に舌戦を繰り広げる仲となった。
……いや、素直に認めるのならハイアはボクにとって初めての対等な存在であり、父と母以外でボクに一切の敬語を使わない初めての存在だった。
そして、ボクが何を言おうともエルダロンから一切の影響を受けない、絶対に自由な存在。
逆に言えば、ボクに自由に何でもできる唯一の存在にして、ボクが自由に何でも言うことができる初めての存在だった。
「フリーダ」
「何だい?」
「アンタ、野菜もちゃんと食べなさい」
「……考えておくよ」
「アンタの考えとやらに興味がないわけじゃないけど、今は聞く気がないわ。
アタシは当代様からアンタの守役を任されてるし、何よりアタシがアンタの守役をすることを選んだの。
だからアンタのために良かれと思うことは勧めるし、ダメだと思うことは引き止めるわ」
「そのレムが、自由を標榜しているんじゃないか。
これもまた、ボクの自由だっ、っ、っ!?」
「ほーら、おいしいおいしい」
「っ、っん、……殺す気かい!? 窒息するところだったよ!」
「だったら、次からは自分で食べることね」
「君はクビだ!」
「お断りよ、このアンポンタン。
第一、アタシはアンタを見限るまでは守役をやると決めたんだからね。
アンタごときにクビにされるいわれはないのよ」
「その守護の対象がボクなんだよ!? 理不尽だ!」
「そう思うなら、実力でアタシを排除できるくらいに強くなりなさい。
自由っていうのは、口の先で振りかざすだけじゃダメなのよ。
それを押しつけられるだけの力がないと、ただの戯言なの。
……というわけで、はーいおいしいおいしい」
「わかったよ! だからそれはやめるんだ!!」
……いや、そんなに堅苦しく考えるようなことじゃなかったのかもしれない。
「外に出られるわけでもないのに、どうして勉強が必要なのさ?
ボクは皇になるどころか、下手をしたら一生この部屋から出ないかもしれないんだよ?」
「……で、アンタ自身はどうしたいのよ?」
「……」
「アンタって、口だけは達者なくせに本っ当に不自由ね。
アンタをこの部屋に閉じ込めてるのは、アタシやこの国じゃなくてアンタ自身よ?
頭のいいアンタだから、本当はもうわかってるんでしょ?」
「……だって」
「……いいわ、じゃあこうしましょう。
アンタがもう少し大きくなったら、アタシの背中に乗せてあげる。
アンタの行きたいところに行ってあげるし、アンタが進みたい方へ飛んであげるわ。
日の光なんてそんなもの、シーツを巻くかそれこそ甲冑でも着とけばいいのよ。
アンタの不自由さなんて、その程度のものよ」
「簡単に言うんだね」
「その代わり、ちゃんと約束は守るわよ」
「そうかい」
「そうよ。
……だから、泣きやみなさい」
ボクにとってハイアは、兄。
あるいは、……お母さんのような存在だった。
少なくとも、ボクはそう思っていた。
ボクが本格的に魔法やエルダロンのことについて勉強を始めたのは、そんなハイアと暮らし始めてから1年を過ぎたあたりからだったと思う。
まず手始めに、【音届】と【声吸】。
それまで何となく使っていたこの2つの魔導を完全に習得した段階で、ある意味ボクという魔導士は完成した。
何せ、ベッドにいながら複数の師と問答することもできるのだ。
腐るほどある時間を使って、広がり続ける感知領域に比例するようにボクは知識を吸い込み続けた。
魔導に関しては、たまに訪れる気まぐれな風の大精霊もボクの師だった。
風が空気の塊であること。
それは力を込めれば小さくもできること。
暖かい空気は上へ、冷たい空気は下へ向かうこと。
音や声と呼ばれるものが、実は空気の震えによるものなのだということ……。
【そうだね、フリーダ。
確かに、弱者には自由がない。
弱いとは、自分の自由を守る強さがないことなのかもしれないね】
レムが語る真理は【鼓破宮】や【天声鳴動】といった超高位魔導に形を変えて、ボクの強さとなっていった。
『声姫』。
そんな生活を送る中でボクは、5歳になる頃には再びそう呼ばれるようになっていた。
だけど、それは無目的に高位魔導を暴発させる恐怖の象徴としてじゃない。
当代の風の大精霊、レムの契約者として。
魔力600万を軽く超える、世界最強の風属性魔導士として。
風竜ハイアに守られた、エルダロンの第1皇女として。
そして、広く市井の声を聞き、その声を確かにアイクロンへと伝える善き姫君として。
「かわいそうな忘れ子」「忌子」「足なし」。
レムと契約しハイアと共に過ごすようになってから、ボクをそう呼ぶ人間はほとんどいなくなっていた。
『声姫』。
それこそが、ボクの新しい名前だった。
「『声姫』……様?」
「だから、そうだよ」
最初に話したとき。
オニキスも、ボクのことをそう呼んでいた。




