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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐

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ショート・エール 血を狩る者たち 後編

「ふふふ」


アタシより少し低い程度の、女性としては大柄な部類に入る身長。

黒というより闇色の髪は、まっすぐ腰までを覆い隠している。

病的に白い肩や腰骨すら見える露出の激しい黒のドレスに、同色のショートブーツと肘までを覆うロンググローブ。

そして、血そのものの赤い瞳と赤い唇。


姿を消す前、空の上からウォルで最後に見たのと全く同じ姿をしたミレイユは、そのときと変わらない笑顔で笑っていた。


「……!」


フリーダを助けてくれたのか、それともただチーチャを攻撃しただけなのか。

敵なのか味方なのか、あるいはそのどちらでもないのか判断がつかない中で、アタシはとりあえず距離をとる。

フリーダを抱きあげたまま壊死の始まった足を無理矢理に動かし、少しずつその場から後ろに退いた。


「ふふふ、ご安心を。

……今は、別に何もしませんわー」


そんな必死のアタシを一瞥して、赤い唇の描く弧は深くなる。

だけど、その言葉通りミレイユはその場から一歩も動こうとしなかった。


ただ、腕だけを伸ばす。


「……」


「貴様!」


「それに、何もさせません」


テンジンが、左腕で振った黒杖。

一瞬で長さ10メートル近くまで伸び、ジャッ、という短い金属音と共にアタシに向かって振られたそれを、ミレイユは右手1本で止めていた。

ネハンを叩き砕いた一撃をあっさりと掴んだミレイユの手の先では、杖の冠に通された輪がチリチリと小さな音を立てている。


「ですが、わたくしはわたくしであなた方に用があるのですわー。

あまり遠くに行かれても面倒ですので、その辺りで少しおとなしくなさっていてくださいませんか?

……それに、その状態で動き回ると本当に命に関わりますよ?」


「……」


何も、言えなかった。

ミレイユの言ったことは事実で、それに本心だろう。

フリーダはもちろん、アタシももう会話すら苦しい状況だ。

今1、2メートル歩いただけで、膝が崩れそうになっている。


当然、戦うなんてもう無理だ。

チーチャ、テンジン、それにミレイユ。

この中の1人だけを相手にしたとしても、多分5秒ももたない。

一か八かで竜化するだけの力すら、もう残っていなかった。


「最低限の務めは果たしたとしても、どういうつもりか『愚者』よ!」


「……ああ、それから先にお約束しておきましょう。

わたくしは、あなたとフリーダさんをこの場で害するつもりはありません。

知らない仲でもないわけですし……むしろ、今あなた方に死なれる方が困るのですわー。

その場にいてくださるなら、わたくしがこの2人からあなた方を守ります。

……それで、いかがですか?」


背後からのテンジンの怒りと困惑にも、ミレイユはその笑顔を変えない。

微動だにしない杖の輪をチラリと見た後、その笑みはアタシの瞳の奥を見透かすように深くなった。


信じられる保証など、どこにもない。

だけど、他にフリーダを助けられる方法もない。


「……わかったわ」


アタシは、覚悟を決める。


「……逃げないし、アンタの『用』とやらに最後まで付き合うわ。

だから、フリーダの命だけは助けると約束しなさい」


ミレイユが、フリーダとアタシに用がある。

何のことかは、当然察しがついていた。

それでもフリーダを守り通すなら、もうこれしかない。


多分、アタシは今日死ぬ。

だけど、死ぬのはアタシだけだ。


「ふふふ、……わかりましたわー」


その意を、正確に理解しているのだろう。

一瞬だけ、ミレイユの笑みが消える。


「……そうですね。

約束ですから、守りましょう」


すぐに顔に広がった笑みの中で、ミレイユはもうアタシのことを見ていなかった。





「さて、お久しぶりですわー。

チーチャ、……テンジン」


ミレイユは、再びその場で膝をついたアタシにあっさり背を向けた。

右手はようやくテンジンの杖を放し、胸の下でゆったりと腕を組む。

表情は、わからない。

だけど、多分笑顔なのだろう。


「主観としては4年ぶり……なのですが、ふふふ、随分と昔のことのように感じますね」


フリーダとアタシを殺そうとしていた2人。

その魔力と能力、魔人ダークスであることを加味すれば世界すら滅ぼせそうな2人の魔人ダークスに対して、同じ魔人ダークスであるミレイユはウォルで見かけたのと同じ表情で笑っている。


「……どういうつもりか、ミレイユ?」


フリーダを抱く腕に力がこもる中、シャラン、と涼しい音と低い静かな声が響いた。

元の2メートルほどの長さに戻した杖をつき、こちらに歩いてくるテンジン。

ミレイユにつられたのか、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。


「『魔王』に毒されたか、そのわずか4年で?」


だけどミレイユのそれとは違って、テンジンの言葉に満ちているのは濃密な怒りと殺意だった。

肌を、肉を、骨を、血を。

全てを削り、塵になるまですり潰すと言わんばかりの激情。

嫌悪、憎悪。

侮蔑などとうに通り越した言葉は、杖の先端と共にミレイユの喉元に突きつけられる。


両者の間は、1メートルもない。

ミレイユとテンジン、程度の大小はあれ形だけは共に笑顔だ。


「……ところで、右腕はどうしたのですか?

あなたが不覚を取るなんて、こちらに来てから何か問題でも?」


ただ、そこに込められたものが違いすぎる。

自分に向けられる殺意を完全に無視してミレイユの口から出たのは、……こんな立場のアタシからしても無神経なそれだった。

ヴァルニラで、その『魔王』が負わせたという傷。

あの魔人ダークスに何をすれば手傷を負わせられるのかは全く見当がつかないけれど、ともかく簡単には回復できないレベルのダメージを与えたとはソーマから聞いている。


「……貴様」


知っていてわざとやっているのか、それとも本当に知らなかったのか。

ニコニコと針山の上で踊ったミレイユに対して、ついにテンジンから笑みが消えた。


「愚かなり」


膨れ上がる魔力。

握りこまれる左手。

霞んだテンジンの影は……。


姉様ネエザマ!」


「はい、チーチャ。

……ふふふ、あなたも久しぶりですね」


「……」


横からミレイユに飛びついてきた、赤い影の前でピタリと止まった。


姉様ネエザマ姉様ネエザマ姉様ネエザマ!」


「……ハァ」


爪のない両手でミレイユの腰を抱き、豊かな胸に赤い仮面を埋めて飛び跳ね続けるチーチャ。

子供のような、というか完全に子供の喜んでいるそれを見て、杖を下ろしたテンジンからは深い溜息が漏れる。

……よくわからないけれど、『強者』、『弱者』と呼び合っていたし、ひょっとしてチーチャとテンジンの間には上下関係のようなものがあるのかもしれない。

目隠しをしていてもわかる、明らかに面倒くさそうな視線を彼方に向けるテンジンの前で、赤い少女の絶叫はずっと続いていた。


「アア、ゴノガオリ、ゴノヌグモリ、ゴノヤワラガザ!

姉様ネエザマ本当ボンドウ姉様ネエザマナノデズネ!

ズッド、ズッドオイジダガッダ!

ドウジデ、ヂーヂャヲイデッデジマワレダノデズガ!

イエ、ゾンナ些事ザジハモウドウデモイイノデズ!

アア姉様ネエザマ、マダオイデギデヂーヂャハ本当ボンドウウレジイデズ!

ゴウジデオイジデ、ゴウジデ言葉ゴドバヲガゲデイダダイデ、ゴウジデレザゼデイダダイデ、ゴウジデ、ゴウジデギジメデイダダイデ!

ヂーヂャハ果報者ガボウモノデゴザイマズ!

姉様ネエザマ、アアワラズオウヅグジイ!

ドウゾ、ドウゾモッドヅヨグヂーヂャヲイデグダザイマゼ!」


「先程は、申し訳ありませんでしたわー。

ですが、わたくしもまたあなたに逢えてとても嬉しいです」


「アァアァァアアァアァァァアアアアァァアァアァァア!!!!」


「……」


「……」


ボンヤリと空を眺めるテンジンを一瞬だけ盗み見てみるけど、何かをブツブツと呟いているだけで2人の会話に混じろうとはしない。

狂気のようなチーチャの狂喜に、アタシも言葉を発することができなかった。


というか、ここで声をかけた相手をチーチャが許すと思えない。

ましてや、謝罪したとはいえ……フリーダを助けてもらったアタシが言うのもなんだけど、チーチャの頭と両手を吹き飛ばしたのはミレイユなのだ。

もちろん回復できる魔人ダークスだからなのかもしれないけれど、だけどチーチャはそれを一切気にしていない。

そんなことよりも、ただひたすらミレイユに再会できたことを喜んでいる。


テンジンとミレイユを並べた3人の中でも、圧倒的に異質な外見。

命属性の暗部ともいえる【繰糸操相カペリア】を修めた超高位呪導士。

「人形劇」と称し人の命を玩具にできる無邪気さと残酷さ。

同族のテンジンですら意思疎通ができているのか怪しい、危険性。


……怖い。

ミレイユが言葉をかけ頭巾や頭をなでる度に嬌声を上げる傷だらけの赤い少女が、あまりに怖すぎる。


姉様ネエザマ姉様ネエザマ姉様ネエザマ姉様ネエザマ!!」


「チーチャ、少し離れている間に随分と甘えん坊になりましたね?」


姉様ネエザマ一緒イッジョニイラレナイ時間ジガンナド、ゴノ世界ゼガイニドッデ無意味ムイミナノデズ!

アア姉様ネエザマ、マダヂーヂャドビドヅニナリマショウ!

ゾノガオリデ、ゾノヌグモリデ、ゾノヤワラガザデ、ドウガヂーヂャヲヅヅミゴンデグダザイ!

モウ二度ニドドヂーヂャヲ、バナザナイデグダザイ!」


ついには、赤一色で構成されたチーチャの輪郭が崩壊を始めていた。

頭巾やローブは言うに及ばず、その下の身体や手足、仮面とその下の愛らしい、ただし傷だらけの顔から白い灰が舞う。

見たままで言うなら、自殺にしか見えない。

露わになったチーチャの表情が、ものすごく幸せそうだということを除けば。


「チーチャ、その前に1つお願いがあるのですわー」


「……ナンデジョウ!」


白が、瞬時に赤に戻る。

この光景を見て尚笑顔を絶やさなかったミレイユの一言に反応して、チーチャは元の赤い少女の姿となっていた。

尻尾があれば、ちぎれるほどに振っているのだろう。

死ねと言われれば死ぬ勢いでミレイユに応えようとしている狂喜に対して、ミレイユが頼んだのは意外な内容だった。


「この2人を、命に別状がない程度まで回復させてください」


「オヤズ御用ゴヨウデズ!」


「……え?」


アタシが聞き返す前に、フリーダとアタシの傷はほとんどが塞がっていた。

治癒リカバー】と【完全解毒ピュリファイ】。

アタシたちの方を見ることすらなく回復魔導を発動したチーチャに、抵抗や戸惑いというものは一切ない。

この少女にとってさっきまでアタシたちと戦いフリーダにとどめを刺そうとしていた事実は、どうやらミレイユの前にどうでもいい些末な出来事であるらしかった。


ミレイユとの時間以外は、全てが無意味な遊びの時間。


チーチャのその言葉が心からの真実であったことがわかって、アタシは完全に心が折れたのを自覚した。

獣人ビーストたちの復讐心ならともかく、チーチャにとってはただの暇つぶし。

フリーダやアタシの覚悟は、エルダロンは、その程度のものに破れたのだ。


風竜としての誇りも矜持も、全てが砕け散る。

腕の中にフリーダがいなければ、アタシはこの場で涙していたに違いなかった。


「……何故だ?」


疲れ切ったようなテンジンの声が、遠くに響く。


「先程も言いましたが、個人的な用があるからです。

別にもうこの2人は必要ないのですから、構いませんね?」


そのチーチャによって命を救われたということ。

この戦いの当事者中の当事者であるはずが、「もう必要ない」とミレイユが言い捨てたこと。


「……」


エルダロンは。

『声姫』フリーダは、完膚なきまでに敗北した。


その事実を骨の髄まで理解させられて、アタシはうなだれた。


「テンジン、チーチャも。

……申し訳ありませんが、先に行っておいてもらえますか?

わたくしは、この方たちと少しだけお話があるのですわー」


姉様ネエザマ!?」


「大丈夫です、チーチャ。

すぐに追いかけますし、その後は……ずっと一緒ですから」


「……ミレイユよ、一つだけ問おう。

何という、貴様の王の名は?」


「ふふふ……。

ええもちろん、わたくしにとっても『王』はただ1人ですわー」


「……よかろう」


姉様ネエザマ、オヂジデオリマズ!」


振り返らないテンジンと、何度も振り返るチーチャ。

2人が姿を消し、笑顔のままのミレイユだけがこの場に残る。


「では、終わらせましょうか」


「……」


のろのろと顔を上げたアタシの瞳を、赤い瞳が見つめていた。

















「わたくしを召喚したのは、あなたですね?」


「……そうよ」


上下に、交錯する視線。

血のように、熾火おきびのように輝く赤色の瞳には、この期に及んでまだ笑みが浮かんでいる。


アタシとフリーダへの『用』。

それは当然、アタシが立体陣形晶キューブでミレイユを召喚したことについてのものだ。

異時空間転移パールポート】で召喚された側が、どのような想いを抱くか。

経験はなくとも容易に想像はできるその激情に、敗北の底のアタシは自分の死を確信した。


「理由は何ですか?」


「……」


だけど、それはもう構わない。

フリーダの命を助けてもらうこと……現に助けてもらったのだから、それはもう仕方がないことなのだ。

もちろん、心残りが全くないわけじゃない。


一緒に城下で買い物をしてみたかったし、いつかはアタシの故郷を見せてみたかった。

色々言い足りない文句を全部言っておきたかったし、年長者として叱っておくべきことがたくさんあった。

本人は嫌がっていたけど花嫁の衣装を着るフリーダを見てみたかったし、フリーダの子供をあやしてみたかった。

おばさんになって、おばあさんになっていくフリーダと、ずっと口喧嘩をしていたかった。


色々あったけどアタシはアンタのことが結構好きだったわよ、って、言っておきたかった。


「その子の指示、ですか」


だけど、もういい。

この子を守ることができるなら。


「……違う、アタシの独断よ」


アタシは、その全てを諦められる。


「…………まぁ、わかりましたわー。

どうせあってないような、どうでもいい理由だったのでしょう」


「そうね、責任はとるわ」


「……ふふふ」


まっすぐに瞳を見つめ返すアタシを見て、ミレイユは笑みをこぼした。


「とはいえ、……ふふふ、実はですね。

わたくしにとって、そこはもうどうでもいい部分なのですわー」


「?」


そして、破顔する。

口元を押さえてふふふ、と笑い続けるミレイユからは妖艶さや不気味さというものが消え、ただ無邪気な笑みだけが残っていた。


「アーネルで旦那様と出会い、共にウォルを築き、アリスさんとウォルポートで買い物をして、子供たちから『先生』や……、……そう呼ばれて。

わたくしにとってこの4年間は、今まで生きた数百年よりもはるかに価値のある時間でしたわー」


アタシがフリーダとの未来を夢見たように、ミレイユはウォルでの過去を夢見たのだろう。

楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうにそう語るミレイユの前に、さっきまでのアタシの決意が霞んでしまう。


「最初は、八つ裂きにしてあげようかとも思っていたのですけれどね。

ですが、動機はどうであれ、結果的にそのきっかけとなったのはあなた方です。

ですから、……まぁ、それに免じて命くらいは助けてあげようかと思ったのですわー」


「……」


数百年。

それだけを生きてきたと言ったミレイユの顔には、だけど子供か少女のような悪戯っぽさがあった。

チーチャやテンジンを相手にしていたときとは違う。

ウォルで何度か見た、心からの笑顔があった。





「これで終わりですからね。

最後くらい、わたくしの本心を言っておきたかったのです」


だけど、あたたかかったそれは不意に温度を下げる。


「ままならないものですね。

あれだけ欲しかったものがようやく手に入ったのに、またすぐに失わなければならないのですから」


赤い瞳は静かに閉じられ、笑顔には一挙に数百年分の影が差し込んでいた。


「世界というのは、本当に残酷です。

……そうですね。

もうこれであなた方と会うこともないでしょうから、最後に1つだけ……『先生』として死人のわたくしからアドバイスを送りましょう」


そして、笑みが消える。

















「これから、この世界は滅びます」

















「……」


問い返すことも、聞き返すこともできなかった。

突拍子のない冗談だと笑い、あるいは息をのんで驚愕することもできなかった。


それは事実で真実なのだと、笑顔という仮面を脱いだ本当のミレイユが。

あの無邪気な笑顔を浮かべていたのと同じミレイユが、そう告げていた。


「そして、動機はどうであれそのきっかけを作ったのは、その子です」


それは、母が子を包み込むような。


「それが何故起きたのか、そしてどうすればそれを防ぐことができたのか。

その日以降の日々、未来のために何をすべきだったのか。

この日以降の日々、未来のために何をすべきなのか。

その子と一緒に、あなたは考えなければなりませんわー」


正しい、とは何かを教えるような。


「生きるというのは、そういうことです」


慈愛と、厳しさに満ちた赤色だった。


「どう、いう……」


「わたくしの授業はこれで終わりですわー。

せっかく守り通した命なのです、どうぞしっかりと生きてください」


最後にふふふ、と小さく笑い、ミレイユの全身が白い灰に変わる。


「ちょっと!」


その場には、フリーダを抱くアタシの声だけが残っていた。

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