ショート・エール 血を狩る者たち 中後編
「ネハン!」
「……ぐ!」
フリーダが叫んだのと、熱感と共にアタシの胸から刃が引かれたのは同時。
完全に無音になった背後からネハンの気配が消えるのを感じながら、アタシは地面に片膝と両手を着いた。
風属性超高位魔導、【鼓破宮】。
この距離ならもはや回避することができないはずの絶対の死を、ネハンは地面に再び潜ることであっさりとかわしていた。
土属性【潜咬】。
ネイ家とそのわずかな近族のみが使用を可能とする、中位魔導。
さらに、三角形を重ねたようなあの奇妙な形の刃はオリハルコン製。
ミスリルや高位魔導を弾く霊竜の鱗も、流石にあの超金属は止められない。
ネハンはそれを利用して、チーチャとアイクロンの崩壊に気を取られたアタシに奇襲を……っ…………!!
「ゴェ……!」
「ハー君!」
慌てて降りてくるフリーダの方に、首を上げることもできない。
胸の奥からこみ上げてきた血の塊が、両手の間にビチャビチャと落ちる。
息も、上手くできない。
胸から滲む血と、その奥で微かに響く笛と泡の音。
やられたのは、左肺か。
だけど、ギリギリ致命傷じゃない。
【完全解癒】をかければ治るし、その陣形布ならフリーダの甲冑に山程仕込まれている。
心臓をやられて即死しなかったのは本当にただの幸運だけれども、……まだ、大丈夫。
いかに相手が獣人で携えているのがオリハルコンの武器であろうと、下から攻撃が来るとわかっていれば次からは対処ができる。
アタシはまだ、戦える。
急降下してくるフリーダにそう言って無理矢理にでも笑ってやろうと顔を上げた、瞬間。
「……フグ、ッァア!!!!」
フリーダ、と叫ぼうとしたアタシの声は大半が血泡になって口元を汚す。
白い帯を置き去りにするほどの速度でアタシに向かってくるフリーダの後には、宙に浮く黒い壁があった。
高さ3メートル、長さは50メートル以上。
それまでなかったはずのその壁は斜めに地面から突き出したまま、フリーダを追いかける。
違う、これは「高さ」じゃない。
「厚み」だ。
土属性高位魔導【拡構】。
それは壁なんかじゃなく、建物のように巨大な剣の刃面なのだ。
しかもこの色、オリハルコンだとすれば剣の重さだけで軽く数万トン。
その一撃を正面から防げるのは、おそらくは大精霊クラスのみ……。
「……!!!!」
そして、それはフリーダには無理だった。
【轟渦繭嵐】をまとったフリーダはその巨大な斬撃の威力を減殺はしたものの、相殺はできなかった。
アタシの頭上を越えて、背後にあった建物を並びごと上下に破断して、その後ろの建物も爆砕して、その後ろの建物も吹き飛ばして。
純白の鳥甲冑を捕らえたまま振り抜かれた漆黒の巨剣は、その基点から半径60メートルに存在した建物を全て打ち砕いた。
「フ、ガアッッッ!!」
「じっとしていてください」
自分の体のことを無視して反射的に立ち上がろうとしたアタシの両足を、灼熱が走り抜ける。
その場に崩れ落ちたアタシが睨む先には、全身を地面の上に出して鎖か鞭のようなものを右手からダラリと垂らすネハンの姿があった。
緑色の頭巾の下からこちらを見下して笑う、黄色い瞳。
「ぅ、あアアァァッ!」
それに応じて上体を起こそうと着いた左腕の、手首が吹き飛ぶ。
アタシの血と肉片を引きずったまま蛇のように地面を這いネハンの手元に戻った黒い刃は、細い持ち主の指に摘まみ上げられた。
「ネイ家に伝わる魔剣で、『六毒』といいます。
いかな霊竜とはいえ、オリハルコンの刃には敵いますまい」
手で握りこめるほどの三角形が数百も重なった、鎖のような剣。
靭剣、連節剣。
あるいは蛇腹剣と呼ばれる奇剣の類のそれを、実戦で見たのはアタシも初めてだ。
しかも、速い。
こうして目の前で振られても、動きが読み切れない。
そして、ネハンの言う通りあの剣を防ぐ術はアタシにはない。
だけど、そんなことは関係ない。
早く、フリーダの元へ行かないと。
静かに、肺へと空気を送る。
胸から溢れる血泡は無視して、力を込める。
周りにも被害が出てしまうけれど、この際仕方がない。
ブレスで、いっ、き、……に!?
「う、ェエ゛……」
喉から上がってきたのは、一帯を吹き飛ばすブレスではなくてどす黒い血の塊だった。
「やはり、霊竜ともなると効きが遅いのですね」
面白がるようなネハンのつぶやきに悔しがることもできないほどの激痛が、胸から上がってくる。
錆きった鉄と、腐敗した肉の臭い。
咳き込みながら地面に吐き出す血には、大小の赤黒い肉片が混じっている。
そうか、『毒』のネイ家……、……か。
「人間なら、とうに死んでいるはずなのですけれどね。
ああ、ちなみに【完全解毒】であれば助かりますよ?」
不親切な含み笑いを無視しして、胸元に目をやる。
傷口の一部は黒く変色し、そこからは茶色い血がジクジクと溢れていた。
最初の一撃が既に致命傷であったことに気付き、力の入らない顎で唇を噛む。
まさか、まさか獣人がここまで強くなっていたなんて。
まさか、たかが獣人に討ち取られるなんて。
……いや。
そんなことよりも、フリーダを……!
「余計なことを言う必要はなかろう、『毒』殿。
戦はまだ終わっておらず、兵たちは各地で命を削っているのだ。
我ら王の為すべきことは、まだ何も終わっておらぬ」
大きな影が、そんなアタシの隣を横切る。
2メートル近い黒い大剣を携えたそれは、アタシの前を通るときにもう片方の手で引きずっていた何かを無造作に捨てた。
「……随分と遅かったですね、ナガラ殿。
フリーダを探すのは、それほどに骨でしたか?」
全てを切り裂かれた白い帯の残骸に、地面とすれて膝の先を汚す砂埃と赤い血。
「違う。
すぐに動けなかったのは『十二牙』を振った直後で、しかも【潜咬】を無理矢理に使ったからだ」
下地ごと甲冑を引きはがされた左腕は、肘の先から潰れている。
「ホホホ……、当家と3族だけにしかできぬ魔導を多少の無理矢理で通すとは、流石に『牙の王』といったところでしょうか」
兜も、ない。
雪のようだった白い髪はやはり黄色と赤に汚れ、頭から流れる血が血の気のない右頬をベッタリと汚している。
「まだ、うまく体が動かぬ。
『翼』や『爪』との戦いは当然のこととして、大戦でも『毒』が落ちなかった理由がよくわかったわ」
閉じられた赤い瞳は、動かない。
「天下のナガラ=イー=パイトス陛下からの言葉、祖にとっても誉れとなることでしょう。
……そちらこそ、見事な一撃でした。
かの『大槍』をもっても足元に及ばないという王の一振、堪能させていただきました」
だけど、かすかに聞こえる浅い呼吸がまだ死んではいないことを教えてくれる。
手首のない腕で必死に抱き寄せたその体は、きちんとあたたかかった。
「フリー、ダ……」
フリーダは、かろうじて生きていた。
だけど。
だけど、それだけだ。
陣形布を仕込んであった甲冑を剥がされている時点で、アタシにもフリーダにも回復の手段がない。
そして、エルダロン兵が近くにいるとしても、生半可な戦力じゃネハンとナガラは止められない。
それに。
「劇ノ途中デ寝ルノハ、失礼」
アタシたちの敵は減りさえしていないのだ。
首を前に向けると、そこには当然のごとくチーチャが立っていた。
瓦礫の中でもよく目立つ、全身赤色の魔人。
ネハンとナガラの後ろからフリーダを睨む瞳には、感情のわからない赤色が揺らめいている。
……シャラン。
さらに瓦礫の後ろからもう1人が歩いて来る気配に、アタシはフリーダを抱く腕を震わせた。
「大概にせよ、戯むれるのも」
それは肌を、その内の肉や骨すらを削られるようなザラついた魔力だった。
ナガラを、ネハンを、アタシを。
どころかフリーダやソーマ、チーチャですらも超えるほどの、膨大な魔力。
抑えつけて尚圧倒的なそれを放つのは、ある意味チーチャ以上に奇妙な姿をした魔人だ。
その登場に唯一何の反応も示さない赤色の少女とは対照的に、全身を白と黒の衣装で包んだ180センチくらいの男。
ネクタの「コロモ」を思わせるその袖から伸びる左手は、先の冷やかな音の正体らしい金属の杖が握っている。
一方で、右手は肘から先がない。
白い衣装の袖はダラリと垂れ下がり、その中身が空洞であることをユラユラと表わしている。
「……元より、このような手筈だったはずでは?
チーチャ殿がフリーダと戦っている隙に、あなたはアイクロンを……落とす。
それに乗じて、私とナガラ殿がフリーダを撃ち落とす。
しかし、最後に手を下すのはチーチャ殿……。
そう譲らなかったのは、他ならぬテンジン殿、あなただったではないですか」
テンジン。
そう呼ばれた魔人は、いぶかしげに反論するネハンの方を見もしようとしなかった。
比喩じゃない。
その顔には、目と耳を覆うようなかたちで黒い布が幾重にも巻かれている。
「故、そう言っている。
貴様の戯れに意は有りや、限りある時の中で」
が、目が見えなかったり耳が聞こえなかったりするわけでもないらしい。
ネハンの言葉に返す形で放たれた言葉は、正確にチーチャの方を向いていた。
「意味ガアルモノヲ、遊ビドハ言ワナイ。
意味ガナイガラゴゾ、遊ビハ楽ジイ」
ただでさえわかりにくいテンジンの問いかけに対するチーチャの答えは、それに輪をかけて意味がよくわからない。
ぼんやりと空を見上げた仮面には、不動のテンジンと困惑したネハンの顔が映りこむ。
「ともかく、少なくとも我ら獣人には時間があまりないのだ。
こちら側はともかく、西にはまだ『魔王』がっっっっ」
振り返ったナガラの血で、それは赤く塗り潰された。
「……は?」
わけがわからないといった表情のネハンの視線の先では、ナガラの背中から小さな爪のない右手が突き出している。
握っている白いものは、掴み出された脊柱だ。
ナガラは、もう動かない。
【吸魔血成】。
フリーダを叩き潰した大剣から放した手は、既に骨と皮だけの有様だった。
「な」
ネハンも、その言葉だけを残して頭が吹き飛んだ。
背後から振り下ろされた黒杖は頭と首を圧砕し、胸にめりこみ鳩尾でようやく止まっている。
首と胸が破壊されながらも、やはりそこから血は出ない。
長きに渡りサリガシアを統治し、世界最強たるフリーダと霊竜のアタシをそれぞれ単騎で破った王。
だけどその2人はあっけないほど簡単に、もはや人のそれとは思えぬ死体となって瓦礫の上に転がっていた。
「どういう……ことなの?」
意味が、わからない。
胸の激痛も息苦しさも忘れて、素直な疑問の言葉だけが口をつく。
「アンタたち魔人は……、獣人と……手を、組んでたんじゃないの?」
獣人が狙っていたのは、当然フリーダとエルダロン。
何故か魔人はそれに手を貸し、何故か獣人はソーマも標的にしていた。
つまり魔人にはソーマを狙う理由があって、獣人に手を貸す代わりに獣人も魔人に手を貸していた。
すなわち、これは「エルダロンとソーマ」対「サリガシアと魔人」という戦い……。
チーチャが登場してからアタシが整理できたのは、この構図だ。
アタシはこれが正しいと数秒前まで絶望し、確信できていた、のに……。
「私ハ、姉様ドマダ一ヅニナリダイダゲ」
意外なことにすぐ応えたチーチャの言葉は、やはりというか全く答えになっていなかった。
「……!」
だけど、それに問い返すことがアタシにはもうできない。
命属性高位呪導【全身痺縛】。
視線を合わせただけでそれを発動させた赤い少女は、アタシ……というよりもフリーダの方へ歩き始めていた。
「獣が我らに望んだのは、声の姫を誅すること。
共なる道を往く由がなし、それを成したならば」
ブレスを撃つ。
立ち上がる。
転がる。
それすら駄目なら、せめてフリーダに覆いかぶさる。
冷やかなテンジンの声の意味を考える余裕などあるはずもなく、アタシは必死に何かをしようとしてその全てをさせてもらえなかった。
「我らと人はわかりあえぬ、往く道が同じだったとして。
……人と人でさえ、そうであるように」
視線すら動かせない目の前の地面を、爪のない裸足の足が踏む。
「デムジン、グジャグジャウルザイ。
モウズグ姉様ドマダオ逢イデギル。
マダ一ヅニナルゴドガデギル。
私ハゾレ以外ハドウデモイイ。
アナダニ従ウノモ、アナダガゾレヲ約束ジダガラ。
私ニドッデ意味ガアルノハ、姉様ダゲ。
他ノ全デハ、遊ビニズギナイ」
肩を蹴られ、仰向けに転がされる。
フリーダが奪われた腕と胸の傷口に、風の冷たさを感じた。
正面から左手で首を、右手で腕を掴まれ持ち上げられた白い少女の姿が、視界の端でまるで磔刑のように映る。
剥き出しにされた、左の首筋。
近づいていく、赤い仮面の赤い口元。
「……早くせよ、『強者』」
「ナラユッグリ味ワウ、『弱者』」
やめて。
やめて。
やめろ!
「イダダギマズ」
「……!」
そう叫ぶことすら許されないアタシの目の前で、フリーダの首にチーチャの白い歯が突き立てられた。
噛み破られたはずの傷口からは、1滴の血も流れない。
それが、たまらなく怖い。
赤い仮面の端から少しだけのぞく傷だらけの白い喉が、小さく動く。
1回。
2回。
フリーダから、一気に血の気が失せていく。
やめろ!
やめろ!
3回。
4…………!
「「「!!!?」」」
それは、一瞬のオレンジ色の光。
だけどその一瞬で、チーチャの頭と両手は木端微塵に粉砕された。
その場で投げ出されるフリーダに手を伸ばそうとして、アタシは【全身痺縛】が解けていることを知る。
「フリーダ!」
軽く、冷たくなったフリーダを抱き締めながら、アタシは無理矢理に膝をついた。
か細い息に、弱々しく伝わる脈。
こうして抱きしめても、もうほとんど魔力が感じられない。
だけど、まだ生きている。
猛烈な吐き気と激痛が襲う中で、アタシは視線を前に向ける。
足と胴体だけになったチーチャ。
その視界を覆う、黒。
白い少女と赤い少女の間を遮るように、アタシの前に誰かが立つ。
その表情は……。
「ふふふ、お久しぶりですわー」
相変わらずの、笑顔。
それは3人目の。
アタシにとっては1人目の魔人。
ウォルから姿を消したはずの、ミレイユだった。




