ショート・エール 地を駆る者たち 後編
闇の中で、長い時間が経っていた。
「『魔王』……、……それに仕えていると、ミレイユは?」
今、この場所、エレニアを筆頭とした獣人がおかれている状況。
それを成した『声姫』フリーダとハイア、その力を与えたレム。
現状、そのいずれとも関わりを持たないアーネルとチョーカ、そして『水の大精霊』ソーマ。
そのソーマの『最愛』であるアリスと、盟約を結んだネクタのフォーリアル。
フリーダの命を受けたハイアに召喚され今は『魔王』に忠誠を誓う魔人、ミレイユ。
「……あの愚者め」
精霊歴2040年のサリガシアから見たこの世界の状況と、ウチら獣人が望む結末。
足に強張りを感じ喉が渇きを覚えるくらいの時間を使って説明されたそれにほとんど口を挟まず耳を傾けていた男が発したのは、サリガシアへの同情や身勝手に召喚されたことへの憤怒ではなく、端的なミレイユへの罵倒だった。
「女々しいわ、その賢しさも。
況、その身を寄せているのが『魔の王』の下とは……。
……愚かなり、どこまでも」
そして、何故かそれは『魔王』と称されるソーマへの憎悪へと続く。
「……知り合いなのかニャ、ソーマと?」
「知らぬ。
知りたくもない」
叩きつけられる魔力が痛みを感じるレベルまでその密度を増す。
拒絶というよりは、否定。
それは難解で芝居がかった口調のこの男にしてはわかりやすい、明確な意思の表明だった。
「「……」」
「逆、まま解することはできた」
が、その意思を表出させてしまったことすら不快らしく、男はシャランと杖を鳴らす。
暗黒の中に反響する涼しい音にかき消されるように、鑢のような空気がひやりと消えた。
同時に、調子を戻した男の声が警戒というよりは困惑に近かったウチらの沈黙を終わらせる。
「空、あらためて。
……地に伏す肉叢の徒よ、血を流して乞い願う畜生共よ。
このテンジンを求むるか、理を曲げ道を外るるために?」
「「……!」」
テンジン。
そう男が名乗った瞬間、空洞を満たす闇が一段と深くなった気がした。
「弱者の運命も歪むるか、仇を獄にて苛むために?」
低いがよく通る、凛としたテンジンの言葉が重ねられる度、体の内からフツフツと何かが湧き上がってくる。
それは何かを変えられるという狂喜の予感と、何かが変わってしまうという恐怖の予感だ。
「成、我と三つを契れ。
共に理を曲げ道を外れ、乞い願う価の証を示せ」
「「……」」
再び湧き上がってくるザラつく魔力に肌を削られながら、偉大なる王や百戦錬磨の将、上位精霊たちすらがたった1人の魔人から目を離せない。
200万を超えるテンジンの魔力は、確かに脅威だ。
が、ウチらが動けないのはそんな即物的な理由ではない。
おそらくは永い時間をかけてテンジンの中に降り積もり圧し固められたその「何か」に、本能が恐怖と。
そして、認めたくはないが……敬意のようなものを覚えてしまっているからだ。
「一つ、我を召いたその魔具を二つ渡せ。
貴様らの仇の鬼命、そのためには強者の力が必要なり」
「1つはウチらが持ってるから、すぐにでも渡してやれるニャ」
おぞましくそして神聖な闇の中で、冷たい金色の輝きだけがかろうじてそれに面と向かう精神力を有していた。
「……もう1つは、場所だけなら教えてやれるニャー」
立体陣形晶の譲渡を即決した土の大精霊はさらに剛気に、ニヤリと口元を上げて嗤う。
「何処か」
「アイクロン、フリーダの居城だニャ」
「成、好し」
「「……」」
地を貫く巨大な奈落。
天を衝く巨大な岩山。
ほとんどの魔力をテンジンの召喚に費やしながらも、腕を組み犬歯を覗かせるエレニアの声には大精霊としての圧力が満ちていた。
さらにテンジンの布越しの視線を直接『声姫』に誘導できたことで、ウチらもまた体に力を入れ直す。
「二つ、『魔王』を殺せ」
「……ニャ?」
「「!!!?」」
が、次にテンジンが発した言葉には流石に全員がその体を凍てつかせた。
誤解のないように言っておくならば、ウチらはもちろん【異時空間転移】で召喚した相手の要求に対しては最大限報いるつもりだった。
金か女か、血か命か。
相手の場所か時間、どころか世界すらも奪う外道に対して、その代償となるものはいくらでも捧げる覚悟でいたのだ。
ただ、それでも想定していたのはウチら獣人のものか『声姫』亡き後のエルダロンのものでしかない。
「その血を捧げよ、共に外道を求むるならば」
しかし、テンジンが求めたのはソーマ=カンナルコの殺害。
すなわち、当代の水の大精霊を相手取っての『精霊殺し』だった。
「……即決はできんニャ」
「成、我も即断はできぬ」
エレニアにネハン、オーランドをもってしても、これは流石に即答できない代償だった。
ただし、それは無関係なものを巻き込みたくはない、などというくだらない甘さからではない。
そもそもこの世界でこの戦いに無関係なものなど、それこそ今の瞬間に召喚されたテンジンくらいしか存在しない。
『服従の日』とその後のサリガシアの扱いを、この世界はもう何年も黙認してきたのだ。
もちろん、アーネルやチョーカ、ネクタを積極的に害する理由はウチらにはない。
が、絶対的に守らなければならない義理も同様にない。
彼らがそうであったように、獣人から見ても彼らは「助けなければいけない相手ではない」からだ。
それは、ソーマにしても同じだ。
サリガシアに介入するどころか、むしろエルダロンとサリガシアが共倒れすればいいとすら考えている『黒衣の虐殺者』の命を斟酌する必要などサリガシアにはない。
理由はどうあれ、獣人がフリーダを憎むようにテンジンがソーマを憎むことをウチらが詰る道理もない。
そもそも振り返ればウチらこそテンジンに『声姫』を殺させようとしており、最初はそれこそ『魔王』をぶつけるつもりだったのだ。
ソーマ=カンナルコを殺せ。
これを悪だと唾棄して首を横に振る資格など、『大獣』の全員にあるわけがない。
問題なのは、単純にソーマを殺すことがあまりに難しいことだった。
世界2位で、フリーダよりは弱い。
そうは言っても、人間からすれば大差のない天災だ。
『金色』『画場』『描戦』が揃って考え続けて彼を従わせることを諦めたのは、決してこの3人が無能だったからではない。
盟を結ぶフォーリアルや配下の水の上位精霊たちの存在を差し引いても、『魔王』はあまりに強すぎたからだ。
「……少し、考えさせていただきたいですね」
「好きにせよ。
逆、道は示せ、外れたなりの」
ネハン王がとりあえず時間を延ばし、テンジンはそれにそっけなく応じる。
「で、最後は何ニャ?」
この魔人、やはり人には理解できぬ化け物か。
鼻を鳴らしたエレニアが催促した最後の条件も、やはりウチらにとっては意外なものだった。
「諦むるな」
それは願いであり、祈りだった。
「理を曲げ、道を外れ、乞い願う。
己と他者にそれを強いてまで求むその果てを、滅ぶその刹那まで決して諦むるな」
それは諭すような言葉であり、悟ったような言葉だった。
「見聞するに値せぬこの世の中で、唯一それだけが真であり信である」
シャランと杖が鳴り、闇の底で白い唇が外れた道を説く。
「我に道を示せ、地を駆る者共よ」
それは、やはり化け物じみていて。
「我もまた、希う弱者である」
どこか、人間に似ていた。
テンジンと契約した後の3年、『声姫』と『魔王』を倒すべくウチらはまさしく地を駆け回っていた。
まず、エルダロン地下の地形や地質を綿密に調査し、その全域にトンネルを掘り広げた。
フリーダの感知が地下には及ばないことなど、『大獣』結成の翌年にはわかっていたことだ。
迂回路やダミーを含め小さいものを入れれば数千を超えた地下通路の柱には、さらに事前に作成されていたエルダロンの地図に従って幾つもの【召転】の霊字が刻まれた。
同大陸内にある無生物であれば、瞬時に召喚することができる時属性霊術。
騎士団の詰所やギルドの支部を中心に数百近く仕掛けられたそれが全て完成し全ての設計図が廃棄されたのは、それが起動しエルダロンを半壊させる4ヶ月前だった。
同時に、その3年間は力を蓄える3年間でもあった。
地下でトンネルを掘り進めながらエレニアは毎日昏倒するまで血を絞り続け、外部の人間と直接会う必要のない戦支は順番にそれを飲み続けた。
さらに個人の訓練とは別に様々な模擬戦を繰り返し行い、時間をかけて決戦級の魔力と将級の経験を持つ精鋭を量産し続ける。
『爪』に『牙』に『毒』を備えた戦支たちは、全員が個人でAクラスの魔物を屠れるほどには強くなっていった。
その間、八番の戦支長であるウチは九番のオーランドやポプラと合同で、ソーマを殺す方法をひたすら考え続けていた。
半径1キロ以上の感知能力とその中の水の支配能力を持ち、絶対の防御力と精霊としての回復力を併せ持つ大精霊。
仮に同じ大精霊であり知己であるエレニアをぶつけたとしても暗殺は無理だろう、というのが3人の一致した見解だった。
かといって、『大獣』全軍でウォルに攻め込むなど論外だ。
ソーマ本人に、対動物に限ればそれ以上の殺傷能力を持つアリスとフォーリアル。
テンジンと同じく不死身のミレイユに2匹の霊竜、さらにシムカとムーを筆頭とする200を超える上位精霊たち。
千回を予定していた盤上戦での検討は、あまりに一方的な展開が続いたためわずか46度目で中止になってしまった。
サリガシアに誘い込んでの殲滅戦は、さらにその半分以下の17回で諦めることになった。
雪のない南部を戦場に限定しても、開始数手であの大波魔導が炸裂して終了。
奇跡に奇跡が重なってソーマを殺せるとしてもその数十手前でサリガシア大陸自体が滅んでしまう以上、検討する意味は皆無に等しかった。
そうなると、方法はほぼ1つに絞られる。
すなわち、戦場をエルダロンにすることだ。
軍師として語らせてもらうのならば、敵に仕掛けられたくない策の条件の3つの内1つに「味方がどう動いても敵にメリットが出る」というものがある。
他国の中枢ならば、ソーマの大規模魔法を封じることができる。
また、仮にソーマが気にせず攻撃してきたとしても被害を受けるのはエルダロンだけであり、サリガシアには関係がない。
200回を超えても獣人は全滅していたる盤上の上で、しかし同時に150回以上エルダロンも滅亡していた。
一方、このケースの最大のデメリットはソーマとフリーダを同時に敵に回さなければならないことだったが、見ようによってはそれは最大のメリットであるとも言えた。
フリーダはエルダロンから絶対に動かない以上ソーマをエルダロンに引き入れると自動的にこの2人は揃ってしまうわけだが、しかしそれは必ずしもこの2人の共闘を意味するものではないからだ。
世界1位の風の大精霊の契約者と、世界2位の水の大精霊。
この2人は、個人としてはあまりに強すぎる。
大陸すら滅ぼせるお互いにとって、世界で唯一の同等クラスの敵だといってもいい。
そんな存在が近くにいる前で、全力で戦う。
すなわち、大きく自分の力を削るような真似を果たしてできるだろうか。
『牙』と『毒』と『爪』。
サリガシアでこの3王家の支配体制が数百年続いたのは、勢力が3王家に集約されて以降に決定的な戦いが起こらなかったからに他ならない。
どちらか一方と戦えば残った一方が疲弊した方を、あるいは両方を狩りに来る。
そんな不信が、数百年に渡る三竦みを保っていたからだ。
そして、これはそのまま『大獣』と『声姫』、『魔王』に当てはまる。
直接両者をぶつけ合わせずお互いの枷として配置するだけでも、盤上の獣人の生存率は劇的に上昇した。
とはいえ、カンナルコ夫妻という前例もある以上は大精霊同士の盟約の可能性を完全に排除するわけにはいかない。
むしろ、そうなれば戦場をエルダロンにしたとしても最終手で滅ぶのはサリガシア大陸だ。
フリーダとの間に信を結ばせぬまま、ソーマをエルダロンに誘い込む。
エルダロンでの盤上戦が850を超えた段階で初めて、エルダロンの7割と共にソーマは死んだ。
そうなれば、後はどうとでもなる問題だ。
ミレイユが消えてソーマが死ねば、ウォルに残る脅威はアリスとフォーリアル、上位精霊と霊竜たちのみ。
この内最大の戦力であるアリスは身重の体であり、フォーリアルもまたそこから離れられない。
本体に至ってはネクタから動くことすらできない以上、こちらから攻め込まない限りはこの2人に会うこと自体がないはずだ。
加えて、『魔王』亡き後のウォルが待っているのはカイランでの復権を狙うアーネル、チョーカ両国とのバランスゲームだ。
ウォルが守りの要たる上位精霊や霊竜を安直にサリガシアに向けることは、一方で両国にやわらかい腹を見せる行為に他ならない。
ウォルの敵は、決してサリガシアだけではないのだ。
新しい水の大精霊がウォルに誕生するとしても、この状況はすぐには変えられないだろう。
よって、ソーマさえ殺せばウォルへの対処はそれほど難しくはない。
少なくとも、すぐに総力戦になるようなことはない。
あるいは、テンジンやチーチャに任せてしまうという手もある。
そして、その時間を稼げれば稼げるほど『大獣』は失った戦力を取り戻すことができる。
となると、後はソーマだけをエルダロンに連れてくる方法だ。
「使え、このテンジンの名を」
そのときの盤上を眺めながらそう微笑んだ白い口元には、闇よりも深い悪意があった。
おそらくは、ウチの生涯で最後の策。
大陸3つと大精霊3柱を使った『金色』『描戦』『画場』による最悪で最大のこの策も、しかしもうすぐ終わる。
テンジンが駐留隊や冒険者を血祭りにあげ、無人にしておいた集落を更地に変えている間、ウチとキャメロン、ハルキ、ゴードンはウォルポートに向かう船の上でずっと他愛のない話をしていた。
ダミーとして立ち上げたデクルマ商会が予想外に軌道に乗ってしまったことや戦場での武勇伝、食べ物と酒の話や子供には聞かせられないような猥談……。
ウォルポートでアリスが身重でありウォルから動けないことを確認し、テンジンの名でミレイユを離岸させ、憮然としたソーマと共にサリガシアへ向かい。
そして、「予定通り」テンジンがハルキを殺し……。
……テンジンがサリガシアにとっても絶対的な敵であるという印象操作と、あの霧の魔導を十番に観察させることでの能力範囲の割り出し。
ヴァルニラでの実際の市街戦のシミュレーションと、本気のソーマがどれだけの戦闘能力を持つかの観察。
テンジンの言っていた通り完全に行方を眩ませたミレイユを口実にしての、ティアネストでの情報操作とウィンダムへの誘導。
コーリーと時計を使っての宣戦布告同時攻撃。
敵に仕掛けられたくない、すなわち恐ろしい策の条件の残り2つは「それが策と気付けない策」。
そして「最初から敵自身の犠牲を織り込まれた策」だ。
これまでの出来事が全て。
ハルキの、ヴァルニラ市民の、コーリーの。
その死が全てソーマをエルダロンに連れてくるためだけのものであり、その死が全て獣人の勝利を願って志願されたものだと知って。
それでも、あの『魔王』は生きていられるだろうか。
「東6区、……フリーダが、白が網にかかりました!」
「西1区、九番の8、十一番の3、十二番の1、2が死亡。
ウルスラ戦支長は黒の魔導内で無力化、サマー副戦支長は死亡した模様です……!」
そう、こうなることなどわかっていた。
『声姫』と『魔王』、あれらはもはや天災に等しい力の権化だ。
手も届かず、正面から止められない相手に、獣風情が何をできるというのか。
「よっしゃ、東の3千はもう用済みや。
それぞれ、所定位置に転移した後は別命あるまで遊撃しろ」
だから、こうするしかなかった。
鳥を止める方法は、方法だけなら単純だ。
翼をもいで、小うるさい嘴は縛ってしまえばいい。
空を飛ぶことも囀ることもできず地を這いずるだけになってしまえば、鳥など地を駆ける獣の小腹の足しになってそれで終わりだ。
「サマーが逝ったか……、……やはり、一筋縄ではいかんな」
だから、こうするしかなかった。
そして古今東西、水の止め方というのも決まっている。
都合のよいところに引き込んでから、少しずつその流れを削っていくのだ。
流れを失くした水は勝手に淀み、いずれは土の下へと消えていく。
『描戦』の指が、白い駒の前に大きな赤い駒を。
力を蓄えたテンジンが呼び出した、……あの語るもおぞましい『強者』の駒を置く。
『画場』の指が、黒の駒の前に3つの青い駒を。
すなわち削った流れをさらに削るための大きな岩を、3つ置く。
「……全区全隊へ通達や。
状況はまもなく最終段階に入る。
これより『2名』を除く全部隊は各自の戦闘行動を終了させ、西1区の周囲に転移の準備!
『合図』をもって、全戦力で圧し潰せ!!」
駒からそれぞれの指が離れ、伝令が駆け出していく。
理を曲げ。
道を外れ。
それでも、乞い願う。
「獣風情の覚悟、甘く見んなよ?」
戦場の上で、それは新しい死を意味していた。




