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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐

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地を駆る者たち 中前編

「久しぶり、だな」


「……ええ、お変わりないようで何よりです」


5メートルほど先に転がるミスリルの白銀と、頸動脈から噴水のように爆発する血の赤。

軽甲冑が地面とぶつかる薄い金属音と赤い水たまりに波紋を作り続ける6人の死体の中心で、スミレ色の瞳は俺の皮肉に小さな苦笑いを返した。


倒壊したギルドや周囲の建物の瓦礫に2割ほどを占領されながらも、まだ充分に転移先としての機能を残している冒険者ギルド、ウィンダム支部の中庭。

黄色い土埃がまだ微かに舞うその中心で、ウルスラはゆったりと、どこか優雅さと気品すら漂ってくるようなスピードで右手の黒刀を納刀する。

太陽の光が届くか届かないか、ちょうどその狭間の暗さの海の中をイメージさせる深い青色の鞘。


カチリ。


6人を斬り伏せながら肉辺や血の1滴も残していない闇色の刃は、鯉口とつばがぶつかる影のような音だけを残してその姿を青の中に消した。


「フリーダの声は聞こえたと思うが……、俺としてはお前らから説明をして欲しいんだがな。

……で?

これは、何の真似だ?」


「……」


動きやすさを重視するため薄く造られているとはいえ、高純度のミスリルで仕立てられた甲冑。

血で汚れて尚白い輝きを返すその断面は、まるでレーザーか何かで焼き切られたように滑らかだ。

それに続いて皮膚と黄色の脂肪層、薄い朱色の筋肉にまるでプラスチックのような頸椎の断面が、まるで絵のように水平に続く。


それらをなした刃渡り80センチ程度の、おそらくは超一級の魔装備であろう刀。

そして、左腰のその柄にかけられたままの右手を視線から外さないよう最大限の警戒を絶やさぬまま、俺はウルスラに冷やかな視線を叩きつけた。


「それとも、『敵』にはその説明をする気もないか?

まぁ、だったらだったで構わんが……」


『紫電』、ウルスラ=ファン=オムレット。

転移後のその魔力が15万ほどまで増えている事実よりも、オリハルコンの刀とはいえミスリルを。

仮にも世界で2番目に硬い金属の鎧ごと人体をまるで羊羹ようかんか何かのように斬ったその身体能力と技術こそが、目の前で未だ微笑し続けるこの獣人ビーストの最大の武器だ。

おそらくはエレニアの血によるものであろうドーピングも確かに看過はできないが、俺からすればそれは大きな問題ではない。


問題なのは……、……!!!!


「……敵であるならば、することは1つでしょう?」


そんな笑みを含んだウルスラの言葉よりも先に、俺の首には黒刀の刃先が届いていた。

刀身に精緻に刻まれた霊字ルーンの全てが青く発光し、おそらくは加速か重量軽減の霊術が発動しているらしい。

が、ウルスラにとってそれは決して大きな補助ではないのだろう。

視界に収まるようにしていたはずの微笑みは俺の1メートル先に現れており、目を離さないようにしていたはずの刀は既に斬った動作を終えている。

氷鎧凍装コキュートス】の表面でキリキリと音を立てるそれに、しかし俺は全く反応できていなかった。

その前で、微笑は溶け落ちるように……無表情へと変わる。


「死んでください、ソーマ=カンナルコ」


速さ。

大精霊とはいえ人間でしかない俺と、将として獣人ビーストの頂きにまで昇ったウルスラのそれには、それほどまでの開きがあったのだ。


「っ!」


「遅すぎます」


右手で斬り払った【白響剣ソー】を、『紫電』と謳われた女将軍は自身の刀を納刀しながらあっさりとかわす。

再度放たれた抜刀は空を切る白刃、それを握る俺の手首を正確に追撃。

衝撃で開いた手からは【白響剣ソー】がこぼれ、制御を失った水と氷のチェーンソーはただの水と氷に還る。

それを待たずに黒刃は納刀され、再度抜刀。

ガラ空きになった俺の脇から逆袈裟に黒い雷が通り抜け、剣撃に負けて俺の右足が1歩下がる。

やはりそれを待たずに納刀、抜刀。

雷は弧というよりももはや直線の軌道で俺の首元に……。


「だから、どうした?」


「!」


吸いこまれようとして、それはスミレ色の残像と共に後ろに飛び退いた。

それを追う【氷霰弾ショットガン】は地面を黄色く炸裂させ、あるいはオリハルコンの硬度を利用した刀の腹で払い落される。

右足を戻し元の位置に立つ俺に対し、ウルスラは転移してきた場所、いまだ首から血を流し続ける6人の死体の輪からは4メートルほど右に離れた場所へ着地していた。


「……確かにお前は速いが、それだけだな」


「やはり、十一尾よいちびでも斬れませんか」


わずか数秒間の激突を終えてお互いの口から漏れたのは、独り言のようなお互いへの感想だった。


刹那の間に4回も斬りつけられ【白響剣ソー】と【氷霰弾ショットガン】すら迎撃された俺に対し、しかしウルスラは勝ち誇るようなことはない。

世界最硬の物質であるオリハルコンの刀であっても、【氷鎧凍装コキュートス】を斬ることはできない。

確かに俺は『紫電』の速度についていけてはいないが、それはウルスラの勝利を意味するわけではないのだ。


そして、ウルスラもそんなことはもう理解できている。


十一尾よいちび

おそらくは銘であるらしいそれを呟きながら、スミレ色の視線は俺を捉えつつも右手に掲げた黒刀の刀身を睨んでいた。


「……『創世』時代の神話で、大獣キマイラせつを御存じですか?」


「いいや」


ふっと力を抜いたウルスラが、その視線を刀から外す。


大獣キマイラは『創世』の前、神話の時代に世界を喰らっていたという12の頭を持つ怪物です。

……まぁ、絵が描かれた文献はありませんから、実際にどんな姿をしていたのかはわからないんですけどね。

その大獣キマイラは『創世』時代にヤタ様に倒されるんですけど、そのときに頭からそれぞれ魔装備が生まれたとされています。

現存しているのは5ふりだけですけど……、……一応、この十一尾よいちびはその1振なんですよ」


「……」


突然始まった神話の講義を、俺は黙って見送った。

ヤタ、すなわち立体陣形晶キューブを作り出した『創世の大賢者』。

俺にとってはあまり愉快ではない名前が唐突に出てきたことを鬱陶しく思いながらも、俺は【水覚アイズ】の範囲を500メートルまで狭めて代わりに周囲の大気への干渉を強めた。


「それでも、あなたには通用しないわけですから……。

世界を喰らった、というわりには大したこともないですね」


ウルスラの目が、気に入らなかったからだ。

文字だけを追えばおそらく自嘲や自虐なのであろう言葉を吐きながらも、眼前の女将軍の瞳に宿っている光はそんな感情ではない。

憤怒、悲哀、憎悪、絶望。

俺がこれまで目にしてきた敗者が浮かべるはずのそんな感情が、『紫電』のスミレ色の輝きには含まれていない。

そう、これはどちらかと言えば……。


「まぁ、頭1つで勝てるほど、あなたが弱いとも思っていませんが」


「……ちっ!」


その敗者を見下ろす、勝者の瞳!


ウルスラに集中するため、半径を絞り込んでしまった俺の【水覚アイズ】。

そこに映りこみ1秒後に着弾したのは、音速に達しようかという銀槍の雨だった。





この世界では火薬が発見されていないため、銃は存在しない。

遠距離武器と呼べるものは弓矢でも長弓やあるいは【火炎球ファイアボール】に代表される魔法であり、そのどれもが最大でも200メートル先に届くのが限界という代物ばかりだ。

半径400メートルに赤潮を引き起こす【赤獄之召喚サ・ブランド】を使うアリスや数キロ先に【氷艦砲シーカノン】で艦砲射撃を加える俺、あるいは半径50キロを【音届リーヴァ】や【声吸ライム】の有効範囲としているフリーダ。

そういった超高位魔導士こそ例外に入るが、この世界の基準においてそれはあくまでも非常識な存在に過ぎない。

が、獣人ビーストという元々が例外的な身体能力を持つ種族の中で、さらに非常識な遠距離攻撃方法を持つ一族が存在する。


断空だんくう』ヨンク=イゴン=レイモンドを擁する、イゴン家の者たちだ。

獣人ビーストの中でも最も優れた視力を持つという彼らは、同時に獣人ビーストで最も強い肩を持つ種族でもある。

その真髄は文字通り人外の視力と肩力を活用した、槍の遠投だ。


現世においても槍投げという競技は存在するが、それは800グラムの競技用槍を投げるものだ。

ちなみに、世界記録は約100メートルである。

対して、イゴン家の者が投げる槍は全てが【創構グラクト】で石か金属から造られた武器としての槍であり、2メートル近いそれは重量500キログラムに達する。

イゴン家はそれを200から300メートル先に投げ、しかも標的に命中させるコントロールも兼ね備えているのだ。


当然ながら、こんなものは体を掠めただけでも即死する。

『断空』。

その二つ名は、空より敵の命運を断つイゴン家の目に贈られた称号なのだ。





「面、倒、くせぇ……!!」


最悪であることに今現在、そのイゴン家の目は俺に集中しているようだった。

刃先から柄まで全てが銀、……いや、これはミスリルか!?

とにかく、もはや槍の形をした砲弾の雨は、その全てが俺を中心とした半径10メートルの狭い範囲に降り注いでいる。

衝撃、衝撃、衝撃、衝撃……!

テンジン以外には破られたことのない【氷鎧凍装コキュートス】をまとって尚防御態勢を取らなければならない金属の嵐は、周囲の瓦礫や6人の騎士の死体を塵に変えながらまだ途切れない。


ちなみにこれがイゴン家の仕業であるとわかるのは、単純に【水覚アイズ】を半径2キロまで延長しても射手を捉えることができないからだ。

軌道を考えるに、実に2500メートルは離れた場所からの槍の遠投。

おそらくは魔力のドーピングを行っての重力操作と、金属としては異常なまでに軽いミスリルの特性を活かして可能にしている荒技なのだろうが、……厄介にもほどがある!

いくらミスリルが軽いとはいえ、それを槍にして音速で投げられれば結果としてはあまり変わらない。

着弾点を貫通し、その周辺に衝撃をばらまいて爆砕するだけだ!!


「……くそっ!」


破壊の雨が降りやみようやく俺が立ち上がれた頃には、周囲はまるで荒野のような有様に変わっていた。

実に100を超えるミスリルの集中豪雨が墓標のように突き立ち転がる光景は、ここが世界最大の都市の中心であることを忘れさせるほどに殺風景だ。

そして、その中にスミレ色の姿はない。

俺が必死の雨宿りをしている間に、範囲外にいたウルスラはさっさと転移で退避している。


「……」


事は想像以上に深刻で、厄介なものになり始めようとしていた。

イゴン家の狙撃を感知するためには常に【水覚アイズ】を全開にしておかなければならないが、それでもこちらから【氷艦砲シーカノン】を撃ち返すなどの反撃はできない。

半径数百メートルを巻きこむ大規模魔導を使えばウルスラや他の獣人ビーストを倒すことも簡単だが、それもできない。


なぜなら、ここは他国の都市の中枢だからだ。


事実、俺の【水覚アイズ】には生死を問わず軽く数千人の人間の姿が映りこんでいる。

地上のみならず地下に埋もれている人間も大量におり、これが獣人ビーストとの区別を非常に難しくしていた。

また、それ故に俺が得意とする広範囲を一気に制圧する大規模魔導もここでは使用できない。

不用意に【氷艦砲シーカノン】など使おうものなら、百人単位で住民の死者が出てしまう。

そうなってしまえばフリーダと激突するだけでなく、俺自身が赤字レッドになってしまうことすらあり得るからだ。


かと言って、白兵戦では手詰まりになるのはウルスラとやり合った通りだ。

あのまま1日続けても俺が傷を負うことはないだろうが、ウルスラを仕留められるかと言われれば疑問符をつけざるを得ない。

白響剣ソー】の斬撃はともかくとして、【氷撃砲カノン】や【氷霰弾ショットガン】すら回避する相手をただの人間にどうしろというのか。

完全に、相手の得意分野に持ち込まれてしまっている。


……そう。

俺はウィンダムに連れ込まれた時点で、攻撃力の大半を封じられていた。

いや、こうなってくるとこれ自体がサリガシアの策だったのだろう。

平原や海上での激突ならば相手が何であれ俺に負ける要素はないが、単純な市街戦ともなればせいぜいが防御力の高い一般人に過ぎない。

単純な身体能力ならば、騎士や前衛の冒険者にすら劣るだろう。


「……」


が、それを前提に考えると、もう1つの可能性についても考えざるを得なくなってくる。

正直に言えば、それは俺が考えてもいなかった可能性であり……、……そして、だとすると非常に危険な状況だ。


ならば……。


「!」


転移の光が顔に射したことで、俺はそこで思考を中断した。

本来ならばすぐさま【氷霰弾ショットガン】を叩きこんでしまいたいところだが、相手がエルダロン兵や一般市民かもしれない以上それもできない。

時空間転移テレポート】。

サリガシア側にとっても不利になりかねないその都市機能を残すことで、結果俺はいいように翻弄……【氷撃砲カノン】!


「が……!!」


光の中から現れたそのシルエットが完全武装した獣人ビーストだった段階で俺は最も得意とする対戦車砲を撃ちこんだ、が吹き飛ばされたのは俺の方だった。

正確に鳩尾を捉えた岩の先端からかかる圧力は俺の背が倒壊を免れていた商店の壁に激突しても弱まらず、さらに圧迫!

ついには石造りの外壁が砕け、俺の体は霊墨イリスの並ぶ棚に叩きこまれる!!


「偉大なる『牙の王』ナガラ=イー=パイトス陛下に仕えし、『大槍』サマー=ワイ=ハッセオン。

王命により、参上……!?

……参上せり」


壁をくぐり律義にも名乗りを上げたのは、ウルスラとは対照的に分厚い全身甲冑を着込んだ鉄球のような大男だった。

途中で俺が撃ちこんだ【氷霰弾ショットガン】にたたらを踏みながらも、二つ名の通り巨大な槍を構え直したのは、本人の言を信じるならばサマー。

ウルスラと同じく、確か『牙』の陣営で将軍を務めていたはずのサリガシアの英雄だ。


「ソーマだ、よろし、くっ!」


「!!」


起き上がりながら振り抜いた【白響剣ソー】は、その二つ名の通り2メートルを軽く超えようかという槍に受け止められる。

一般に騎兵槍、すなわちランスと呼ばれる円錐形の刺突槍は、そのすべてが岩石から削り出されたかのような質感だった。

というよりも、ランス型の岩石と言った方が正しいかもしれない。

甲高い悲鳴のような切削音と共にその半ばまで【白響剣ソー】を食い込ませながら……!


「無駄、なりっ!」


「っ!!」


しかし、サマーはそのまま腰だめに再度刺突を放つ。

同時に【重撃ヘイトー】、【拡構エクスト】が発動し、ランスはそのまま相似拡大。

もはや岩石そのものを叩きつけられる勢いで、俺は再度壁に激突し、今度は外に叩き出される。

体験したことはないが、トラックに轢かれるというのはおそらくこんな感じなのだろう。


そんな【氷鎧凍装コキュートス】をまとっていなければ4回は死んでいた俺を、外で待っていたのは……。


「お久しぶりです」


「!」


正確に首に伸びる、ウルスラの黒刀だった。


さらに、【水覚アイズ】に映る30ほどの影。

納刀と共に後ろに飛びのいたウルスラと入れ替わりに俺の目に映ったのは銀色の点……すなわち、ミスリルの槍。

サマーの刺突とウルスラの抜刀で完全にバランスを崩していた無防備な俺に、それは容赦なく降り注ぐ。

俺が貫通した商店の半分を瓦礫に変えながら、銀の雨は数秒間でまた降り止んだ。


「……」


仰向けのまま空を見上げる俺の【水覚アイズ】にはウルスラとサマー、さらに15人の獣人ビーストが俺を包囲している光景が映りこむ。

さらに攻勢を強めるか、あるいは詰めの段階に入るつもりなのだろう。

最も近いのが、ウルスラでおよそ8メートル。

最も遠いのが、角の生えた若い女の獣人ビーストで15メートル先の建物の屋根の上。

……ついでに地下に2人、か。


円というより球で俺を包囲するその無駄のない動きは軍事に明るくない俺から見ても見事であり、ウルスラとサマーを軸にしたヒットアンドアウェイ、さらにイゴン家の援護射撃でさらに俺を追い詰めようとするその手腕は敵ながら褒めてやりたいくらいだ。

事実、俺は何の反撃もできないままにただ転がされている。

氷鎧凍装コキュートス】で直接的なダメージこそ免れているとはいえ、流石にこれを「敗北ではない」と言うほど俺も厚顔無恥ではない。


認めよう。

獣人ビーストを相手に、ソーマ=カンナルコは手も足も出せていない。

完敗だ。


ウルスラの筋肉がたわみ、姿勢を落とし重心が低くなる。

サマーがランスを構えなおし、前傾姿勢をとる。

他の獣人ビーストたちも、俺に向けて距離を詰めようと全身を緊張させる。


残念だが、俺は獣人ビーストには勝てない。

……ただし。





白兵戦では。





「さて、と」


見上げていた空が「揺らめいた」のを横目に、俺は唇をつり上げながら立ち上がる。

その周囲では、16人の獣人ビーストが敗者にふさわしい、絶望の表情を浮かべていた。

















それは、厚さ数センチの水の壁に過ぎなかった。

俺を中心に半径7メートルと、17メートル。

10メートルほど間をとり途中にある建物を器用に避けて現れたのは、地面から空を半球状に覆う2枚の水の壁だ。

微かに揺らめき、太陽の光を白く反射させる。

その優れた感覚故にその存在に気付いてしまった虜囚たちは、そのために一瞬の迷いと警戒を、そして数秒とはいえ俺への突進を躊躇するという愚を犯してしまう。

例外は、ウルスラだけだ。

内側の壁に最も近かった女将軍は咄嗟に前の水に飛び込んで、それを突破し……。


そして、その軽装故の激痛に膝を折りながら、他の16人がもう助からないことを知った。


壁の厚みはすでに50センチを超え、1メートルを超え、3メートルを超えようとしていた。

水が水を生むように分厚くなっていく前後の壁の間で、サマーを筆頭とした16人は全員が手近な壁の突破を決意する。

実際、最も外周にいた若い女の獣人ビーストは全身の筋肉をたわませ外側の水の壁に突進した。


せいぜいが、3メートルを少し超えた程度の水の壁。

獣人ビーストの筋力を持ってすれば、一瞬で突破できるはず。


そう思っていたであろうその女は、しかし透明な壁の中程で突進した姿勢のまま他の15人と同様に完全に停止していた。





俺が作り出した2枚の水の壁は、ただの水の平面ではない。

正確にはそれぞれ1本の水の帯、それを左右上下に編みこんで造り上げた、いわば水でできた織布である。

横、縦、横、縦……。

透明な水であるためその見分けは全くつかないが、この壁は水の塊ではなく複合多層構造の水の繊維の重なりなのだ。


が、それだけではただの水の壁と大差はない。

その程度のもので頑健な獣人ビーストを止められないことは、実際に身を削り合った俺が誰よりもよくわかっていた。

銃弾を回避あるいは迎撃し、その膂力のみで石の壁に穴を開け、さらには重力すらも味方につける……。


そんな獣人ビーストたちを完全に拘束しているのは、その断面わずか1センチ四方にすぎない水の帯が持つ「流れ」の力だ。


普段は気付きにくいが、水とはそれなりに重たい物体である。

比重に置いて石や金属にこそ及ばないものの、1立方メートルでちょうど1トン。

さらりと言われるとイメージがしにくいが、これは軽自動車の車体重量よりも大きい数字だ。

すなわち、1立方メートルの水が「ぶつかる」とは、軽自動車にぶつかられるに等しい状況なのである。

しかしながら、風呂やプールなど閉鎖された空間に満ちた水の中において人々がその影響を大きく意識することはまずない。


その例外となるのが、その水が流れを持っている場合である。


意外に思うかもしれないが、自身の膝丈までの水が流れを持っている場合、人間は確実に歩けなくなる。

これは水が横向きにぶつかる力が足を上に挙げようとする筋力を上回り、水から足を抜くことができなくなるためだ。

ちなみにこの状態で転倒してしまうと同じ力が起き上がろうとしたり立ち上がろうとする力を相殺してしまうため、その人間はかなりの確率で溺死することになる。

水が膝丈まで達したら自力での避難をしてはいけない、とされているのはこのためである。


また、より大きな流れる水の力の例として川の氾濫や鉄砲水による建造物の破壊や倒壊が挙げられる。

これは流速が高くなることにより水が剛性を持つことも1つの理由ではあるが、根本的には水の重量それ自体がぶつかることによる横向きの破壊力が石や金属の強度を上回るために起きていることだ。

流れを持つ水は、家やビルでさえ薙ぎ倒す。

俺たちが何気なく渇きを潤したり手を清めている水は、条件さえ揃えば嵐のごとき大破壊を引き起こすのである。


そして、それはどれほどの英雄であろうと、1人の人間が抗えるようなものではない。


「「……、……!!」」


ウルスラを除く16名を完全に取り込んだ水の壁、正確には水の帯は、実に時速100キロ、一般に激流と呼ばれる川のおよそ3倍の速度でその流れを循環させていた。

それが左から、右から、上から、下から……。

外壁と内壁の厚みが増し続けたことでいまや厚さ10メートルの1つの歪な半球と化した水のドームの中では、実に千近い層となって縦横無尽に重なっているのである。

当然、そんなものの中に体を捉えられれば、脱出どころか身動きすらとれなくなる。


およそ8200トン。

放っておけば溺死するしかない16名、一騎当千の獣人ビーストたちを拘束どころか完全に停止させているのは、この半球状の水の全重量なのだ。


……ただ、1つだけ訂正しておくならば、俺は溺死を待ってやるほど気が長くはない。


「「…………!!!!!!」」


外壁に囚われた若い女が。

ウルスラ同様に刀を腰に帯びたネコ耳の男が。

携えていた大剣を手放し小手に包まれた手を痙攣させる女が。


「……、……!!!!」


そして、全身甲冑と兜の隙間から激しく泡を噴き出すサマー将軍が。


その全員が目に見える範囲の全身を赤く爛れさせながら、白く濁った眼球で無音の絶叫を上げていた。


熱湯。

摂氏99度という水が液体を保つギリギリの温度まで上昇させたその防壁は、囚人たちを監禁するのではなく獄死させるのが目的の攻撃魔導だ。

死波シナミ】と同様に人間が、もっと根本的に言えばタンパク質が耐えられない高温に浸されれば、いかに人知を凌駕する身体能力を持った獣人ビーストであろうが熱死する。

ついに漏れなくなった白い泡を周囲の水の流れに連れ去られながら、将軍を含む16人は捕らえられた姿勢のまま全員が絶命していた。


水の物量でも氷の硬度でもなく、その流れをもって織り上げた重たき迷宮。

不動の檻であり非情な刑の執行場所となる、冷たき焦熱。


流宮廻牢オケアノス】。


それは、英雄すら喰らう無形のごくである。





「ぐ、ぅ……」


「これで邪魔は入らないし、ちょうどいいな」


突破したとはいえ熱湯に突っ込んだことで全身に火傷を負ったウルスラに、俺は独り言のような呟きを発した。

事態を把握して、すぐさま援護射撃を行ったのだろう。

50ほどのミスリルの槍が【流宮廻牢オケアノス】に着弾するが、そのいずれもが半分ほどを過ぎたところで16の熱死体と同様に硬直する。

比重の軽いミスリルであることが、今回は完全に裏目に出ていた。


「……ああ、忘れてた」


さらに、地下で身を潜めていた2人の獣人ビーストの周囲にも大量の熱湯を発生させる。

水覚アイズ】で知覚する限りどうやら即席の地下通路のようなものが張り巡らせてあるらしいが、フリーダと違い領域内であれば俺はその感知が可能だ。

この状況下で俺のすぐ足元の地下で武装している獣人ビーストを生かしておく理由がないため、それぞれ10トンほどの熱湯をプレゼントしておいた。


非道、非情。

ないし卑怯。


武人としての戦い方に誇りを持つ種類の人間には、おそらく俺の悪魔のような戦い方が理解できないだろう。

が、俺に言わせればそんなどうでもいい誇りのために死ぬ人間たちの方が理解できない。


これは戦争であり、殺し合いだ。

そんなものに、美しさなど必要ない。

効率的かつ安全に。

可能な限り、一方的に敵は殺していくべきなのだ。


獣人ビーストたちには申し訳ないが、これが水の大精霊の。

すなわち、俺の戦い方なのだ。


「じゃあ、本題に入ろうか?」


錦玉羹きんぎょくかん、アクリルの封入標本、あるいは時間の止まった水族館。

自然界ではあり得ない上下左右からの流れが共存する【流宮廻牢オケアノス】の中では、その俺に屈した16人の死体が浮くことも沈むことも許されず赤い苦悶の表情のまま停止していた。

その中央で【氷鎧凍装コキュートス】をまとい重傷の女剣士を尋問しようとする俺は、確かに悪魔に見えるかもしれない。


「お前ら、本当は……」


その横顔を、光が照らす。


白と、黒と、紫。

今日何度目になるかわからない転移の光が、【流宮廻牢オケアノス】の表面を揺らめかせた。

現れた3人。

すなわち『金色』のオーランド、『黒』のケイナス、『赤土』のキリから放たれる膨大な魔力と殺気を感じて、俺はウルスラへの問いを中止する。


……答えのわかった問いかけなど、もうする必要もない。

理由こそわからないが、聞いたところでどうせ俺は納得できない理由だろう。


すなわち、この戦争で獣人ビーストたちが狙うのはフリーダだけではなかった。





俺をもまた、殺すつもりだったのだ。

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