風一陣
カイラン大陸に住む人間からすれば、エルダロン大陸、そしてエルダロン皇国というのは「よくは知らないが豊からしい国」というのが平均的な印象になるのではないかと思う。
まぁ、世界の西端……とされているカイラン大陸から見れば、北から南へサリガシア、ネクタ、バンと3つの大陸が並んださらにその東にあるのだから、実際イメージはしにくいだろう。
引力が存在する以上この世界も地球のように丸いはずではあるが、『創世』からの歴史、それ以前の神話や伝説といったお伽話まで遡ってもカイランから西に、あるいはエルダロンから東へ向かってそれぞれに辿り着いたという記録はない。
サリガシアかネクタを経由することでしか往来できず、それ以前に遠すぎて交流する必要もあまりなかった両大陸の国々は、お互いにぼんやりしたイメージのまま歴史を並走させていた。
その状況が少し変わったのは、550年前に『浄火』が登場した際だ。
主戦場となったエルダロン大陸は文字通りの灰塵と化し、当時存在していた4つの国家の内3つはそのときに滅んでいる。
バンと合わせ2大陸を包む炎が消された後には旧エルダロン皇国の3割程度と、合計してもそれ以下の数の他3国の生き残りしか世界には残されなかった。
それら全てが統合され今のエルダロン皇国の礎が完成するのは、そこからさらに数年後のことだ。
『世界最大の都市』。
そう称されるエルダロン皇国は、1大陸を有しながらもその全人口を半径50キロという巨大な円の中に集中させ、またそれを前提とした都市設計がなされていた。
これは単純に550年前はその地域くらいしか人が住める場所が残らなかったというのが原因でもあるが、それが今まで続いているのは『浄火』という災いを経験した国民性も大きいのではないかと俺は想像している。
すなわち「集」としての人間の絆を、「種」としての人間の力を。
それらの大半を灰にされた記憶は、エルダロンの人々に、そして歴代の王たちに超単一国家の姿として受け継がれていったのだ。
それはフリーダの治世となった現在でも変わらず、エルダロン皇国は現在も1大陸1国家1都市という特殊すぎる国家構造を保ち続けている。
唯一の例外となる大陸南西の港湾フランドリスを除けば、国家中枢の中央都ウィンダムを中心に4方12周の48区が配置された完全な円形の計画都市。
その外には穏やかな平原をそのまま利用した広大な農地や牧場もあるにはあるが、基本的にそれ以外の人の集落は存在していない。
またそればかりでなく、アーネルに次ぐ水源と小規模な森林が点在する大地には最高でもCクラスに分類される魔物しか生息していない。
皮肉なことにこれも550年前の大炎による魔物の激減が発端ではあったものの、あわせてエルダロンが『静かなる国』と呼ばれる一因となっていた。
「胸が焼ける……」
が、実際にそこを訪れた俺が感じているのは歴史に裏打ちされた静けさでも世界最強の魔導士が放つ圧倒的な魔力でもなく、軽く頭が痛くなるほどの砂糖とバターとチョコレートの匂いだった。
……いや、もうこれは「臭い」だ。
揚げ物の匂いにせよあるいは現世の柔軟剤の匂いにせよ、それ単体が好ましい香りでもあまりに強くなれば等しく苦痛にしかならない。
港ということでごく少数ながら水揚げされている魚の匂いや潮風の匂い……を蹴散らし踏みにじるほどの甘く脂っぽい空気。
エルダロン現皇女、フリーダ=ウェイブ=トレイダ=シスワ=エルダロン。
すなわち『声姫』が無類の菓子好きであり現在のエルダロンの産業の内45パーセント近くが菓子に関することになっていることは、イラなど付き合いのある商会を通じて聞かされてはいた。
また、エルダロンと最も近いカミカサを通じてそれはネクタにも流れており、カミラギの義実家やカンテンの義姉夫婦からご馳走される度にその種類の豊富さやレベルの高さに驚いていたのも事実ではある。
が、正直これは想像以上だ。
呼吸するだけで10グラムずつ太っていきそうな感覚の中で、俺は深く眉をしかめる。
「甘いものは苦手でしたか?」
それを見て含み笑いをするのは、スミレ色の髪と瞳、そしてイヌの耳を垂らす獣人の女剣士だ。
ウルスラ=ファン=オムレット。
かつてウォルとチョーカを行き来する……何とか、というパーティーを率いていたAクラス冒険者。
そして。
ネイ家が率いる『毒』の陣営で最強とされる将軍、『紫電』のウルスラ。
「別に嫌いということはない、人並だ。
が、これだけ店や工房が並んでいるとなるとな……」
当時はフルネームを知らなかったし、1軍の将軍がまさか水運びのアルバイトをしているとは思えずただの同名だと思っていたが、ティアネストでネハンの後ろに立っていた全身甲冑の内の1人、その中からこの顔が出てきたときには流石の俺も絶句した。
「ずっと監視していた」。
それはネハンやオーランドのその言葉に一切の偽りがなく、あまりに俺の認識が欠如していたことにもはや笑いすらこみ上げてきたからだ。
理解している、つもりだった。
だが、実際は何も知らなかった。
心底申し訳なさそうに兜を外すスミレ色の瞳に苦笑を返しながら、俺は自分が獣人の掌に載せられていたことを認めずにはいられなかった。
「むしろ、お前は辛くないのか?
獣人で……、……しかも種族的には鼻が利きそうだが」
「慣れ……ですかね。
ここはまだフランドリスですから、海風もありますし」
その近衛の甲冑から記憶に残る冒険者の軽装に戻り、隣で揺れるイヌ耳に俺は問う。
エルダロンに渡り、『声姫』に会う。
ただし聞くのはミレイユのことだけで、テンジンについては触れない。
またウォルは、今のところはエルダロンとサリガシアの間のことに関知しない。
10日前、胎母の間でそう宣言した俺に対し、ネハンはウルスラを供につけると申し出た。
表向きは面識のない俺をフリーダに紹介するネハンの書状を託すため、ということではあったが、もちろん本当の目的は俺の言行の監視役だ。
ただ、実際に俺の言葉と行動を縛ることができないことなど獣人側もわかりきっている。
かと言って、軍に近い人数や王本人、膨大な魔力を持つエレニアやより事態がややこしくなりかねないチーチャを動かすわけにもいかない。
そもそも、支配側の王に会えるだけの地位がなければ俺を紹介すらできない。
様々な得失を計算、妥協して白羽の矢が立てられたのが、『魔王』とギリギリ面識もあるこの女将軍なのだ。
「エルダロン本国はこんなものではないですよ。
私は初めて3区に入ったとき、もどしてしまいましたから」
軽装ではあるが仕立てのいい旅装に、その上からミスリルの軽甲冑。
腰には、深海のような青い鞘に納められた片刃の剣……、……いや、刀。
それにも似た鋭い眼差しは、しかし今はげんなりと細められている。
「……昼食を遅めにして、ギリギリの時間までここで待ちましょう。
多分、皇国に入ってしまうと何か食べる気がなくなると思いますから」
「フリーダっていうのは、馬鹿なのか?」
先に出た使者を通じ、とりつけた会見の時間は今日の四の鐘の鳴る時間。
街の空気から、その相手があまりに偏った嗜好と思考を持っているかもしれない可能性……。
……いや、魔人を召喚している時点で可能性も何もないのか。
その相手がおそらく相当の難人物であろうことに、俺の溜息にもそこそこの実感がこもる。
「……」
すれ違う人間の商人や冒険者らしき獣人がギョッとした表情を向けてくる中、ウルスラはそれを肯定も否定もせず、ただ苦笑いしていた。
とりあえずはミレイユの確保を優先し、今のところはエルダロンとサリガシアの間のことに関知しない。
ルルのこと。
テンジンのこと。
ヴァルニラのこと。
獣人のこと。
チーチャのこと。
そして、アリスとウォルとミレイユのこと。
それら全てを勘案し胎母の間での会談を終えて俺が出した結論は、ある意味自分勝手で利己的なものだった。
が、『声姫』を失墜させようとする獣人たちの行いを……。
たとえ、その過程と結末が恐ろしくおぞましいものになるとわかっていても。
それが愚行であり凶行だと頭では理解できていても。
それが愚行であり凶行だと断ずることがどうしてもできなかったのは、否定のできない事実だ。
親を、兄弟を、子を、妻を、友を、恋人を、主人を、臣下を。
それらを奪われた痛みと怒りを愚かで凶々しいだけの狂いだと、俺はどうしても嗤うことができなかった。
その怨念が、エルダロン皇国全体に向けられていることも同様だ。
エルベーナで女子供まで嬲り殺し本気でこの世界を滅ぼすつもりだった俺に、それが間違っていると唾棄する資格などない。
闇の深さを理解できるのは、その闇に堕ちた者だけ。
アイザンとアリスに救われたとはいえその色を知っている俺には、獣人たちの想いや覚悟を理解できしまっていた。
サリガシアの企みがどう結実するとしても、おそらくエレニアは自分に幸せな未来が待っているとは考えていないだろう。
友と語らい、恋人と笑い合い、夫と痴話喧嘩をして、子供に絵本を読んで、孫を甘やかして……。
そういう自分の未来の全てと引き換えに、エレニアはフリーダの、エルダロンの未来を奪うつもりなのだ。
共にヴァルニラの復興をしている間も聞きはしなかったが、アネモネたちと別れたのもそれと無関係ではあるまい。
全てを捨て、失うことを覚悟する。
道を外すとは、そういうことなのだ。
それはネハンも、オーランドも、ウルスラも。
この件に関わっている獣人の全員ができているであろう、覚悟だろう。
もはや、エレニアたちにとって自分たちの将来になど意味はない。
ただ漆黒の世界の中で、死と共に歩んでいくだけだ。
が、そうしなければ得られないものが、この世界には確かに存在する。
俺は、それを知っている。
そして、世界とはそれでも手が届かないほど無慈悲だということも。
世界を統べ、戦争をなくす。
俺とアリスのその目的を達成するために、遠くとも年内には起こるであろうサリガシアとエルダロンの争いを俺は「今のところは」見過ごすことにした。
おそらくは数千の獣人が死に数万の人間が何かを失うであろう凶事を、知って尚止めないことにした。
互いに王と大精霊を殺し合い疲弊しきった後の両大陸を制圧するという、愚行を犯すことにした。
世界を統べ、戦争をなくす。
その目的のためには、それが最も効率的で早い道だと算じたからだ。
……無論、これが最適ではあっても最善でないことくらい、俺も理解はできている。
かつてのカイラン南北戦争のように両方を相手に回しても圧勝できる戦力差があるのであれば、俺とアリスは万難を排して両大陸の調停役を買って出たことだろう。
が、今回は両陣営共に俺と同格の大精霊が存在している。
フォーリアルを含むウォルの全戦力で当たればそれでも敗北はないだろうが、そのために誰かを喪うかもしれないリスクを取る理由を、俺はこの件に見い出せなかった。
さらに、ミレイユたち魔人の存在もある。
この薄氷の状況下において、ミレイユたち3人は完全な不確定要素だ。
正直なところ誰の味方で敵なのか、あるいはそもそもその判定基準で考えていいものなのかどうかすらも怪しい。
最悪を考えるならば、ウォル、サリガシア、エルダロン。
その全員の認識が間違っている、という可能性すらもあるのだ。
だから今回、俺は誰とも戦わない。
フリーダとは当たり障りのない会話だけを交わし、ミレイユを探し出せた段階ですぐにネクタからウォルへ帰る。
自分の目的のためだけに発言し、自分の理想のためだけに行動する。
また同様に、俺は誰かを救わない。
エレニアやウルスラと会うのはこれが最後になるかもしれないが、彼女らの覚悟に水を差すつもりはない。
サリガシアとエルダロンを包むであろう阿鼻叫喚も、聞かないと決めればただの遠い風音だ。
無関係な争いのために、俺は俺の家族を危険に晒せない。
このため、俺はサリガシアの真実をアリスにもフォーリアルにも伝えなかった。
知ったところで心を痛めることしかできない情報と……俺の冷徹を今のアリスに伝えることが、どうしても良いことだと思えなかったからだ。
ウォルにいるアネモネたち「オレンジシャドー」を、実体化させていない上位精霊を監視につけるだけで放置したのも同じ理由だ。
沈んでいるアリスや子供たちの気晴らしとして使えるならば、牽制だろうがスパイだろうがとりあえずは構わない。
来訪を知らされた時点で、シムカに命じて5人の魔力は体感で測らせている。
いずれも5万前後しかない以上その気になればいつでも排除できるし、その程度でフォーリアルやシムカに守られたアリスを殺すことはどの道不可能だ。
「そろそろ、参りましょうか」
「……ああ」
最も海に近い、船員目当てのそれほど高くない大衆食堂の1軒。
甘い香りから少しでも離れようとそこに避難していた俺に、正面で4杯目のカティを飲み干したウルスラが声をかける。
この世界に時計はない。
が、妙な時間に食事をしようともこの世界の人間、特に軍人が体感時間を大きく間違うことはあまりない。
沈んでいた思考から抜け出すように席から立つと、会計を済ませたウルスラと共に食堂の裏の空地へと回った。
さて、鬼が出るのか蛇が出るのか。
……いや、もう両方とも出ているのか。
テンジンにチーチャ、そしてネハンの顔を思い浮かべながら、俺はウルスラと黒い霊墨で【時空間転移】の魔法陣を描いていく。
そう言えば、結局チーチャとはあまり話をしないまま別れてしまった。
まぁ、ミレイユを「姉様」と呼んでいたことを掘り下げようとして、「血を分けたわけではない」が「身と心を1つにした」と説明された時点で俺が会話を打ち切ったのだが……。
結局のところよくわからないが、……まぁ、もう無理にわかろうとしなくてもいいだろう。
ミレイユが本当に同性小児性愛者だとしたら大問題だが、それも無事にウォルに帰ってから考えればいい問題……だしな。
「では」
「行くか」
ウルスラの声に、思考も切り替える。
白と、黒と、紫。
これから会見する3人の行く末を暗示するかのように3色の光は溶け合う。
そして、互いの色を殺し合った。
「……!」
エルダロン皇国中央都、ウィンダム。
白を基調として完璧な円形で整備された、『世界最大の都市』の中心。
その冒険者ギルドに転移した俺が息を詰まらせたのは、そこに漂う空気がフランドリスとは比べものにならないほど甘かったからではない。
美しく整然とした街並みに満ちるその「空気」に、強烈な圧迫感……。
いや、「異物」感を感じたからだ。
「……」
風、すなわち空気というのはもちろん分子で構成される物質だ。
そういう意味では、俺が操る水やそれこそ人体などあらゆる物質と同じカテゴリーのものであることに間違いはない。
あるいは同じ気体として身近なもので言えば、湯気やプロパンガスなども挙げられる。
それでも人間が普段空気という物質を意識しないのは、不可視であるからだけではなく、自身にとってあまりに身近な存在だからだ。
原則として動物が活動、すなわち細胞内でエネルギーを産生するためには酸素が必要であり、ゆえに動物は呼吸する。
食べ物なら断たれても1週間以上。
水ですら最大でも3日。
それほどの耐久力と貯蓄性を誇る人体が、空気なしでは200秒の生存すら危うい。
空気。
それは知識であるとか文化であるとか本能であるとか以前の問題で、人間にとってあまりに必須であり考えるまでもなく当然のものなのだ。
……それが、自分以外の何かに支配されているという緊張感。
「……ここが、エルダロンです」
隣で同じく鋭い表情となっていたウルスラが小さく囁き、その視線をゆっくりと空へ上げていく。
つられて見上げた先に映るのは、白い街並みと対をなすような黒い塔。
クレーンや鉄骨などないこの世界では破格と言える60メートルの高さを誇る、まるで天から地を睥睨するかのような無機質な玉座。
すなわちエルダロン皇国の。
エルダロンとサリガシア両大陸の中心、「皇塔アイクロン」。
ガローーーン、ガローーーン……。
近くの時計塔で四の鐘が鳴り始める。
見上げていたアイクロンの中ほどの大窓から、全身を白で包んだ長身の騎士が跳び下りてくるのと。
「!!!?」
エルダロン中を、立っていられないほどの地響が襲ったのは同時だった。
「!!!!」
膝を突き体を手で支えながらも保たれた【水覚】の中では、数百に及ぶ建物が倒壊、ないしは断裂し陥没した地面に吸い込まれていく光景が映る。
ガローーーン、ガローーーン……。
空中の白い騎士の唖然とした表情の下で、ウィンダムの崩壊はさらに加速した。
この状況でも変わらない爆音を響かせる時計塔の鐘の音が、ひどく無責任なものに聞こえる。
時間にして数十秒。
鐘が鳴りやむとほぼ同時に、その崩壊は停止した。
「……何だ、これは…………?」
まだそこかしこで砕け斜めとなる建物に隠れもうもうと舞う土埃に霞むのは、まるで歯抜けのようになったウィンダムの姿。
この状況下で1ミリも揺らいでいない時計塔とアイクロンを嘲うかのように、穴だらけとなった地盤の残骸。
「アンタたち、何をしたぁあっっっっ!!」
「!!」
それを突っ切って振り抜かれた騎士の銀閃を、スミレ色の残像が金属音と共に叩き返す。
まき上がる土埃に、それぞれのブーツが石を踏み砕き止まる硬い音。
……まるで、全身を、締、め、上げられる、よう、な…………!
「……さて、説明してくれないかな?」
呼吸できない俺の耳元で、怒りを押し殺した少女の声が響いた。




