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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐

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モノクローム 中前編

黒い錫杖。

その先端にまるで悪趣味な装飾の一部であるかのように縫いとめられたハルキの心臓は、弱々しい痙攣を最後にその拍動を止めた。

こぶし大のそれは、灰色に近い色になりながらどんどんと萎びていく。

引きちぎられ、途中までぶら下がったままだった数本の大動脈に静脈、肺に繋がる太い血管。

もう糸くずのようになったそれらごと全ての水分と血液を奪われた生命の源は、まるで新聞紙の端をクシャクシャに丸めたような濁った小さな塊に変化していた。


それを冠したままの錫杖の途中、やはり黒の杖身の部分。

その途中には枯れ木を無理矢理人間の形に削って服を着せたような、ハルキだったものが苦悶の表情のまま貫かれている。

木乃伊ミイラか、あるいは案山子カカシか。

心臓同様に全ての血液を奪われたために眼球が萎縮し黒い眼窩をポッカリと空けて叫ぶ黄土色の顔には、かろうじてあの気弱な獣人ビーストの面影が残っていた。


「……ぅ、げえぇぇ…………」


ハルキが死ぬまでの、おそらく数十秒。

命属性霊術【視力強化ホークアイ】で視力を強化していた見張員にとって、その光景はやはりむごすぎたのだろう。

押さえた口の端からこぼれマストの上からビチャビチャと落ちてくる黄色い吐瀉物が、甲板の上に置かれていた積荷の木箱の端に汚いしみを作る。

こちらもえずいてしまいそうな酸の臭いと音が混ざった海風の中で、しかし俺はその全てを知覚の対象から追い出していた。


それはマストの上で腰を抜かし失禁している風属性の魔導士の心中よりも、無残にすぎるハルキの死に様よりも、……その背後。





何無なん


皮膚を削られるような莫大な魔力をまき散らすその「人物」から視線をそらすことを、俺の全神経が許さなかったからだ。





全体の姿から総合的に判断するならば、それは現世で仏教を信仰する僧侶か、あるいは修験道に身を投じる山伏のようであると言えた。

今も波で揺れ続ける船の上で真っ直ぐに背筋を伸ばして立つその身長は、185センチ程度か。

アーネル軍のナンキや義父のマックスと比べればかなりの細身ではあるが、肩幅や、そして発した声の低さからしても男で間違いないだろう。

髪は錫杖と同じく艶やかな黒、短く刈られている。


そして黒は、白い首から下をまさしくミイラのように隠しきっていた。

指2本、3か4センチ程度の幅の黒く細長い布は、おそらくこの男の全身を巻き包んでいる。

ある程度は規則正しく、しかし一部は雑然と、錫杖を握る指先から爪さえも出さないように。

僧侶ならば法衣、山伏ならば篠懸すずかけ

上に着込んでいるコロモ、すなわち浴衣のようにも見える純白のころも以外で白が再び現れるのは、黒い布に包まれた両足が履く白い草鞋わらじくらいのものだ。


その上に再度目を戻すと、やはり黒がまた目に入る。

錫杖と、衣の下を覆う黒い帯布と同じく、闇夜から上澄みをすくいとって染めたかのような袈裟けさ

海風にハタハタとはためくそれにはしかし袖にあたる部分がなく、やはり細身のの腕を隠すのは白い衣だった。


シャラン、と涼しい金属音。


ハルキを貫いた錫杖の先端からカサリと音を立てて心臓が外れ、丸めた紙が落ちたのと同じ音を立てて甲板に転がる。

長さ2メートル近いその先端は真円になっており、そこに通るのは杖頭のそれより小さい12の輪。

6割近くの重量を失いそれでも30キロはあるはずのハルキを杖越しに片手で完全に持ち上げながら、その黒い先端が。


「……」


「……」


出現時からずっと俺の眉間の中央を指し示して動かないことに、俺は少しだけ息を短くした。


「……乗船料、持ってるのか?」


「……」


どうでもいい言葉と共に突き刺す黒い視線は、相手の瞳を見つけられない。

同じく、男も言葉を返さない。

王都の舞台俳優やAクラスの男娼ですら比肩できないだろうその美しい目鼻立ちの上半分は、異様この上ないことに体を覆うのと同じ黒い布が幾重にも巻かれていた。

目と耳。

それを執拗に、完全に封印するように往復する布の端が、冷たい潮風で袈裟と同じ方向に揺れる。


「坊主だか修験者だかは知らんが、きちんと払うものは払っておけよ?

……それから後で必要になるかもしれないから、銅貨6枚だけは別で持っておけ。

生きてようが死んでようが、水の上を渡るには金がかかるんだろう?」


僧侶か、山伏。

安い挑発と共に口にしつつも、まぁ、流石にいきなり人を殺すようなこの男がそのどちらかだろうとは俺も思っていない。


そもそも、『創世』後のこの世界にはメジャーな宗教というもの自体がない。

子供でも視認でき機会があれば会話すらできる精霊という存在が、この世界から概念にすぎない神仏の必要性を排除したからだ。

が、それもまた完全なものではない。

例えば、この世界にも「天使と悪魔」や「天罰」といった概念くらいは残っている。

あるいは、「生贄」も宗教的な考え方の一端であると言える。


『創世』以前の、この世界。

あるいは、……俺のように異世界から召喚された者が残したもの。

今は存在しないものであっても、その痕跡は何らかの形で残っている。


……もっとも、それが本人たちが望んだ形の通りなのかどうかは、また別の話なのかもしれないが。


「……」


「……喋る気がないなら、口にも封を……、……」


……確かに、ままならない。


男の登場、すなわちハルキの死から2、3分。

こちらの時間軸にも、望まぬノイズが現われる。


右に10メートル、薙刀を構えるルル。

マストの見張台下、短刀を握るキャメロン。

背後の木箱の裏側、トンファーをかざすゴードン。


出現位置から動かない男を、音もなく立体的に包囲しジリジリと距離を詰めてくる3人に……。


「「「!!!?」」」


俺は視線さえも向けず、それぞれの頭上に10リットルほどの水の塊を落とした。


「……どういうつもりや!?」


「こちらの台詞だ」


冷水を落とされて水浸しのまま怒声をあげるルルに、俺は続けて同じくらい冷たい言葉をぶつける。


「こいつは魔人ダークスで、ここは海の上……。

……この状況でお前らが武器を持って囲むことが上策だと、本当に思うのか?」


この男が魔人ダークスであること。

であれば斬撃や打撃にほとんど意味はないこと。

3人は足手まといどころか、魔力源にされかねないこと。

それ以前に、土属性魔導しか使えない獣人ビーストに船上では地の利がないこと。


そしてここが海の上で、俺が水の大精霊であること。


「失望させるな、『描戦びょうせん』」


淡々と事実を積み重ねた上での戦力外通告を出しながら、俺は一瞬だけルルの瞳に視線を移す。


武威を全否定された屈辱。

部下であるハルキを守れなかった自責。

それに何の感慨も抱いていない俺への怒り。

未だ速贄はやにえのようにハルキを貫いたまま自分たちの方すら振り返らない、魔人ダークスへの憎悪。


それ以上の感情を読み取ることも。


俺にとって、ルルにとって、この男にとって。

果たして、この状況は偶然なのか必然なのか。


それに対する明確な判断を下すこともできないまま、俺は瞳に反射する光を藍から黒へと戻した。


「……」


特に問題なのは、これがルルにとってどちらなのか、ということだ。


もしも、これがルルにとって偶然の状況なのだとしたら、不愉快極まりないことだが俺はルルを守らなければならない。

俺やアリスですら知らないミレイユの過去、あるいはその手がかりを何故か知っているルルを、今この場で死なせるわけにはいかないからだ。


一方で、これがルルにとって必然の状況なのだとしたら、この魔人ダークス獣人ビースト3人はグル。

すなわち、その標的は消去法で俺ということになる。

俺に心当たりはない。

が、ならばとにかくこの3人に武装させておくのはまずい。

俺の目的は、あくまでもこの男を捕縛すること。

殺すよりもはるかに難しいそれを実行するにあたって、邪魔になりそうな不確定要素はどんな小さなものでも排除しておくべきだ。


……ただ。

仮にこれがルルにとって必然だとするならば、そこにはハルキの、すなわち自分の部下の死すらも組み込まれていたことになる。

果たして、そんな策があり得るのか?

あるいは、これは完全なアクシデントか?

だとしても、それほどの代償を払うほどにこの現状に価値があるのか……。


……いや、考えるだけ無駄か。


これが偶然だったとして。

あるいは必然か、アクシデントの混じった必然だったとして。

いずれにせよ、俺がルルにそれを問う意味はもうないだろう。


なぜなら、ルルが仮に真実を語ったとして、もう俺にはそれを信じることができないからだ。

「敵にする」とは、そういうことだからだ。


それにどうせ、……やることは同じなんだしな。


「そこで、大人しくしていろ」


「「!!」」


ルル、キャメロン、ゴードン。

3人とさらに船内の全船員を納めるように、それぞれの足元から氷が伸び上がる。

厚さ5センチ、2から3メートル四方の立方体。


守護するための盾。

隔離するための檻。


相反する可能性を同時に封じ込める氷の繭は、戦場から俺と魔人ダークス以外の全員を透明に切り取った。


「……悪い、待たせたな」


そして、その端からは水の帯が床を伝い、それは船の外、海面へと垂れ落ちる。

翻って船尾、帯は再び甲板を登り、【氷鎧凍装コキュートス】をまといゆっくりと立ち上がった俺の足元へと繋がっていた。


「で、結局お前は何だよ?」


あらためて、眼下の男へ意識を集中させる。


ミレイユ以外で初めて見た魔人ダークス

550年前の『浄火』の乱以降、ほとんど見なくなったはずの魔人ダークス

何の兆候もなく現れ、躊躇なく1人を殺した魔人ダークス

このタイミングで、この場所に現れた魔人ダークス


逃がすわけには、いかない。


「……不遜な御仁ごじんであるな、聞いていた通り」


ハルキを殺した後の一言以降、俺の軽口やルルたちとのやりとりにも一切口を開かず……。

どころか、殺したハルキを含む俺以外の人物には顔すら向けなかったその男がようやく発した声には、静けさの中にわずかな呆れが含まれていた。


「『魔王』を名乗るだけのことはあるか、軽々に」


そして、それはすぐに怒りを内包したものへと変わる。


「誰に聞いたのかは知らんが、別に俺が自分でそう名乗り始めたわけじゃない。

紹介は必要なさそうだが……、……当代の水の大精霊、ソーマ=カンナルコだ」


「否定はせぬか、『魔の王』であることを」


俺の今更のような自己紹介に、男の声が低くなる。


冷たい俺の魔力と、ザラリとした男の魔力。

激突したそれは嵐となり、甲板の上には重たい圧迫感が渦巻いた。


「……ああ、王の御前なんだ、名乗りくらいあげろ。

不敬だろう」


どうも、俺が『魔王』と呼ばれていることが気に食わないらしい。

目隠しの下にあるとすればおそらくは赤なのであろう男の瞳は見えずとも、ここまで露骨な魔力をぶつけられればそれくらいはわかる。


が、だからこそそれには意味がある。

人間は、どうでもいいことに怒ることはできないからだ。


……しかし。


「テンジン」


男が低い声でろうじた名前。

サリガシアの失踪事件の主犯とされていた名前。

ルルが口にした名前。


ミレイユが知っていた名前。


ぎゃく、我が王は……」


この男がそうだと。

やはり魔人ダークスだったとわかっても、俺はそれを喜べなかった。


「貴様にあらず」


落ち着いた様相ながらも、どんどん声が低く大きくなっていくテンジン。

そこから放たれる魔力が。


「……!」


急激に、大きくなり始めたからだ。


マストの上、氷の中で震えるCクラス魔導士の操船技師を超え。

テンジンの背後で蒼白となりつつある、Aクラスのルルを超え。


一般人としては最大の約30万を誇るアーネルのマモーを超え。


記憶の中にあるミレイユを超え。


忘れるはずもないアリスを超え。


400万。

500万。

600万……。


そして、6,614,365。

世界3位、約110万のアリスに6倍の差をつけ、それでも700万を超えるフリーダには届かない、俺の現在の魔力に限りなく近づいてくる。


「……なら、お前の王とは?」


感覚でしか感じられない、その肌を削るような魔力は、俺とそう変わらないところでようやく上昇を止めた。


「ミレイユか?」


本当に、最悪の事態だ。


失踪したミレイユに繋がる者があまりに不自然なタイミングで見つかり。

それがいきなり人を殺すようなサイコ野郎で。

しかも、俺並みに強い。


「……誰が仕えるか、あのような愚者に」


救いは、こいつがミレイユの関係者で間違いなさそうなことか。

……いや、それは救いなのか?


「……そうか。

まぁ、それはこの際どっちでも……!!」





視界に広がる黄土色!


左腕、振り払う!





ジャ……、ゴ!!!!


顔の高さに掲げた肘から、血のように水が流れ落ちる。

砕けた氷はその中に落ち、踏ん張った足を中心に深い亀裂の入った屋根板に跳ね返った。

ハルキを貫いたまま、一瞬でその長さを5倍以上に伸ばした黒杖。

角度はそのまま俺の眉間を貫こうとした先端部分は、掲げた左腕の【氷鎧凍装コキュートス】を砕いて停止している。


「……!!!!」


砕かれたのは表面だけで、貫通したのは数ミリほど。

中身の腕に損傷はないし、ダメージ自体もない。


が、【氷鎧凍装コキュートス】を破られた、……か。


「……クソ」


動揺を隠すように腕の穴を塞ぎ、さらに全身を包む氷を厚くする俺の視界の端で、ハルキの死体が遠ざかっていく。


かたくなであるな」


それは残像と共に左に弧を描き、胸から2つにちぎれながら船の外へと消えた。

パシャリ、と渇いた水音。

一瞥もくれずハルキを投棄した当の本人は、何事もなかったかのように、シャラン、と甲板を叩く。


ぎゃく、この世に永遠とわなどなし。

山が削れ国が破れ炎が尽き人が滅ぶように、全ては刹那の命なり」


美しくよく通る声でありながら、それは酷く冷たく響いた。


、『魔王』を名乗る不遜な氷よ。

愚者を求める、肉叢ししむらよ」


叩きつけられる魔力の余波だけで、船員の人間たちが気を失っていく。


ことわりの、糧となれ」


シャラン、と鳴る黒杖を腰だめに引き、テンジンは影となる。


まわり、悟りて、鬼命きみょうせよ」


続く声は、俺の真後ろで発せられた。


「!!!!」


背中まで振りかぶり、音速を超える速度で叩きつけられた錫杖を轟音と共に止めたのは、やはり氷だった。


「……ほう?」


だがそれは、俺の首や後頭部を守る【氷鎧凍装コキュートス】の氷ではない。


「流石は『氷』か、不遜であっても」


それは最大径1メートルを超える、柱のような氷の円錐。


「ようやく悟れたか?」


振り返った俺と無表情のテンジンを隔てるそれは、水平に空間を横断している。

巨大な蛇のように鎌首をもたげるその根元が船の下、海に続いていることを。

そして、その先。


「……大概にせよ、あじゃるの…………も?」


数百メートル先の全周囲から空の全てまでを覆う巨大な白い壁が押し寄せてくる光景に気が付いて、魔人ダークスはこの日初めて絶句した。





固体、液体、気体。

三態といわれるこの物質の3状態にはいくつかの例外があるが、その1つに過冷却というものがある。


これは凝固点を過ぎても凝固せずに尚冷却された状態のことだ。

例えば、水は本来0度で凝固し、固体、すなわち氷に変わる。

ところが、過冷却状態になった水は0度を超え、氷点下になっても凍ることがない。

液体である水のままに、凝固点を過ぎてしまうのである。


ただし、これは物質の状態としては極めて不自然な状態であるため、軽い衝撃を与えられるだけで瞬時に凝固が始まってしまう。

グラスに注ぐ、あるいは軽く揺らす程度でも結晶化してしまい、本来の姿である氷へとその姿を変えてしまうのだ。


一方、アイザンから譲られた当初は半径200メートルに過ぎなかった、俺の【水覚アイズ】。

すなわち俺の支配領域の面積は今や半径2千メートル、面積としては東京都の豊島区とほぼ変わらない広さにまで拡大していた。

個人の知覚できる範囲としてはもはや異常とも言えるこの領域は同じ長さで上下にも伸びており、真球状のその全てを満たす水量は日本最大の湖である琵琶湖すら凌駕するものとなっている。


そんな俺がテンジンがハルキを殺した瞬間にまずもって実行したのは、この巨大な支配領域の全てを過冷却状態の霧で封鎖することだった。

海面から上の半球状、半径2キロに渡る巨大な純白のドーム。

それがゆっくりと、しかし確実に中心に向かって小さくなっていく光景。

この『プーレイ』の付近を通る船や魔物がいたならば、そんな超常現象に肝を冷やしていたはずだ。


が、もちろん、俺がくだらない挑発を重ねて時間を稼いでまでこのような大規模魔導を発現させたのは、珍景を披露するためではない。

全ては、テンジンを確実に捕縛するためだ。


俺は過去に王都でミレイユと戦ったことがあるが、そのときは最終的にミレイユをとり逃がした。

それは【散闇思遠バッティング】、すなわち全身の体組成を数マイクロメートルの灰のような物質に変化させて飛散するという、おおよそ高等生物とは思えないような魔人ダークスの特殊能力に対応できなかったからだ。

剛力、【吸魔血成ヴァンピング】による回復と再生、存在しない急所、大半の攻撃の無効化……。

魔人ダークスの兼ね備える異質な能力の中でも、神出鬼没を可能とする【散闇思遠バッティング】は別格の厄介さを誇る。


実際、テンジンがこの船に侵入した手段もそれだ。

千分の数ミリという極微の灰に変えて全周囲から少しずつ移動させた右腕を一気に再構成し、ハルキを殺害。

そのままハルキの血から魔力を奪いつつ、同じ方法で残る全身を集結させ再構成したのだ。


すなわち、こと戦闘においては、魔人ダークスは人型の単体生物として見るべきではない。

アメーバや藻類などと同じ、原生生物の群体として見るべきなのである。


「……テンジン、もう1度だけ聞いておこうか?」


その集合体を見据えたまま、俺は唇の端をつり上げる。

見た目にはただの霧でありながら実際はマイナス200度近い絶対の白が迫ることで、船上の気温が急激に下がりだした。


過冷却水は衝撃を受けると氷結するが、その原因となり得るのは外円からこの船上の間に存在する全てのものだ。

たまたま巻きこまれた海鳥や、それほど遠くないサリガシアから巻きあげられて風の一部となっていた土埃や。

そして、たとえ【散闇思遠バッティング】で逃げようとするテンジンの全てにしても。


「悟ったか?」


「おの……!!」


2キロに渡って全てを凍らせながら海面を走る霧。

2キロ上空から全てを凍らせながら天を降りる霧がついに1点に着弾し、視界の全てが白く爆発する!

俺が氷で守るもの以外の全てが一気に氷結していく中で、怒りに震えるテンジンの声も凝固した。


どんなに不確定なものであれ、その領域内の全てを凍てつかせる極寒の檻。

気付いたところで逃げ場もなく、ただ氷結するしかない純白の嵐。


氷霧宙ミスト


それは、魔さえ封じる巨大なてのひらである。





「ふー……」


その極低温をいかんなく炸裂させた【氷霧宙ミスト】が晴れていく中、俺の視界に映るのは文字通り氷漬けになった『プーレイ』の姿だった。

帆も、マストも、積荷も、それらを縛るロープや鎖も、甲板も。

視界には入らない船体や船室、どころか付近数百メートルの海面に至るまで、その全てが白く分厚い氷に覆われている。

俺が氷で守っていなければ、ルルたちや船員たちも同じ運命を辿っていたことだろう。


さしずめ極地で難破した幽霊船といった様相を呈する光景の中心、俺の背後では、1体の見事な氷像ができ上がっていた。

白と黒。

味気のない2色だけで彩られていたはずのその中身には、どうやら衝撃で目元の布が解けてしまったらしく、鮮やかな1色が追加されていた。


赤。


血の色そのものの、鮮やかなテンジンの左目。


「本当に何なんだよ、……お前は?」


足元の氷を通してテンジンを縛る氷を強化しながら、寒さで震えているルルたちの氷は解除していく。

白い溜息混じりに口をついたのは、ここにはいない、同じ色の目をした元領主代行への愚痴だった。


どうして、こんな奴と知り合いなんだ。


「……!」


そう疲れた顔で見上げた俺に、氷越しのテンジンの瞳がまたたく。


「!?!?」


次の瞬間、俺の右半身に巨大な壁が叩きつけられた。


「な、に!?」


壁は丁寧に木材を貼り合わせて作られ、何かがぶつかったのか中央に亀裂の入った……。

……いや、違う!

これは『プーレイ』の屋根板、俺が立っていた場所!


壁がぶつかったのではなく、俺が……倒れたのか!?


慌てて体を起こそうとするが、それができない。

まるで屋根板と磁石で引き合っているように、俺は自分の体を持ち上げることができなかった。

90度横になった状態の船上では、同じようにルルや船員たちももがいている。

全員が立てない。

体を起こすことすら、できない。


「う……」


無理矢理に頭を上げた瞬間に猛烈な吐き気がこみ上げてきて、俺は壁に……、……いや、屋根板に手を突く。


船自体が傾いているわけではない。

船全体に重圧がかかっているわけではない。

感覚器を破壊する毒に侵されているわけでもない。


だが、立てない。

視界と【水覚アイズ】で知覚する光景が照合できず、船酔いを何倍にも酷くしたような不快感と頭痛が俺を襲う。


何だ、これは?

俺は何をされた?


こいつは、テンジンは何をした!?


「地を這う者よ……」


当然のごとく制御が乱れたために氷の封印が解け、その隙間からテンジンが脱出してくる。


ざっっっっ!!!?」


それを見た瞬間に、俺はテンジンを包んでいた氷像を全て気化させた。

ゆうに千倍を軽く超えるその膨張はあっさりと音速を超え、水蒸気爆発となって『プーレイ』の船尾ごと黒杖をかざしたテンジンを吹き飛ばす!


「……無様だな?」


「……おのれ」


文字通り粉砕され、船から10メートルほど離れた空の上で再生していくテンジンをにらみながら、俺はようやく立ち上がった。

全身の【精霊化】。

毒であろうが怪我であろうが病気であろうが、全てをリセットできる切り札を使った、……いや、使わされた俺に、しかし決して余裕はない。


「後半戦、始めるか?」


ポケットに手を入れて傲然と微笑みながらも、俺は心身共にフルマラソンを走った後のような極大の疲労に苛まれていた。

神経戦に超広域魔導である【氷霧宙ミスト】の使用、自分以外に数十人を守るための氷壁に先程のわけのわからない魔導によるダメージ……。

そして何より、全身の完全な【精霊化】はその万能性の代償として、大きく魔力と体力を消耗する。


……本当に後半戦が始まるなら、もう『プーレイ』は見捨てるしかないか。


テンジンを相手に余力を持っての戦闘は不可能だと判断した、そのときだった。


「よろしい。

……ぎゃく、それは今ではない」


左目の布まできっちりと修復したテンジンが、……再び、その組成を崩しだす。


「小腹が空いた、我も少々。

、続きはその後、始めるとしよう」


足が消え、膝が消え、腰が消えていく中で、灰が混ざったようなその風は『プーレイ』の船首と同じ方向。


「さて、地を這う者どもよ」


王都、ヴァルニラへと流れていた。


しんありか、日々のぎょうに?」


シャラン。


最後に錫杖の音だけを残して、テンジンは完全にその姿を消す。


「……」


「は、早よ出せ!!」


苦々しく唇を噛む俺の視界の端では、蒼白となったルルが船員への指図を叫んでいた。

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