北よりの使者
ウォルの領主館は、ウォルポート最西端の連絡水路の係留所と港湾都市であることの証明でもある巨大な停泊地のちょうど中間、すなわちウォルポート中央のやや南側に位置している。
イラ商会をはじめとして今は軽く20以上に増えている各商会の商館や、商職娼人の3大ギルドとその傘下に連なる無数のギルドの支部が規則的に軒を連ねる、この大陸の活気の心臓部。
その中心で人口の増加や扱う業務の拡大、さらにはそれに対応する人員を納めるために増築と改築を重ねた領主館……。
正確には領主館兼冒険者ギルドウォルポート支部は、現在領内で最も人口密度が高い建物でもあった。
「……!?
お、おはようございます!」
ほぼ1日中開放されているその1階、正面玄関から入ると、広がっているのは小さな公園ほどはある巨大なスペース。
直径1メートル近い丸太の列で支えられた広大な空間には、しかしそれを感じさせないほどの人間……、【水覚】で見てみると軽く100人以上の来館者が存在している。
その最も入口付近にいたおそらく冒険者らしい男の魔導士は、玄関に立つ俺を見て慌てて道を開けた。
同時に、殺到する100以上の視線。
「ああ、おはよう」
領主様、ソーマ、『水の大精霊』、『魔王』……。
ざわめきが一瞬だけ収まり、その後に俺を示す無数の単語が、やはり無数の小声でささやかれる。
「ふふふ、今日もよいお天気ですね」
さらにその後に領主代行であるミレイユが続いたことで、そこには『先生』、『鬼火』などの声が混ざった。
……そのミレイユであるが、今の服装は肩や胸の上を大胆に露出し深いスリットから足を覗かせる、例の黒いドレスだ。
指抜きのロンググローブに足首までのショートブーツと全てを闇色に染め、しかしそれでも見えている色としては白の方が多い。
色欲、賛美、憧憬、嫉妬。
まるで重力がはたらいているかのようにそこへ集中する男女からの視線は、俺の背後で赤い瞳がふふふ、と細められると一気に霧散した。
弛緩する男たちと、圧倒的すぎる敗北感にむしろ清々しさを浮かべる女たち。
「……通るぞ?」
「「……」」
が、その汗ばんだ空気は俺が1歩を踏み出した瞬間にその硬度を増した。
部下、あるいは従者としてミレイユもそれに続く。
「「「……」」」
黒と、黒。
自分で言うのもどうかとは思うが、確かにこの画はゴシックホラーだ。
俺とアリスが2人並んで歩くのとは全く違う種類の威圧感を受けて、人でごった返していた領主館の1階には自然と道、そして沈黙が生まれていた。
「「「「…………」」」」
多くの人間が訪れたことですっかり傷だらけに、しかしそれもまた1つの風格であるかのように感じられる「鉄の木」の床。
そこを進みながら左に目をやれば、ラルクスや王都のギルドでも見た巨大なコルクボードが3枚とそこにピンで留められた無数の依頼書の前で数組の冒険者たちがグッと拳を握っている。
周囲に大した魔物のいないウォルでは駆け出し冒険者でも務まる仕事が多いため、おそらく彼らもそうなのだろう。
かつての俺とそう変わらない年齢の若者から向けられる、恐怖ではない純粋な尊敬や憧れの眼差しは、俺の唇をさらに固く結ばせていた。
自分が一応ここの支部長でもあることを思い出して奥のフロントへ目を向けると、受付をしていた2人のギルド職員が腰を折ってくる。
赤と緑のラインが入った、クリーム色のローブ。
全世界で共通の冒険者ギルド職員の制服を見て、俺はまだこの世界に来たばかりの頃……。
ラルクスでの日々や、つい先日冒険者と結婚したテレジアの顔を思い出していた。
一方で右を向くと、そちらには商会から遣わされた商人や空いている建物を探しに来た職人、船から降りて旅装のままの家族や結婚の届け出をしにきたらしいカップルなどが列を作っている。
こちら側は領主館としての主業務である徴税や不動産管理、宿泊と観光案内や身分手続きの総合受付を行う、要するに行政としてのエリアだ。
奥でそれらを処理しているのは全員がウォルの住民で、今は元班長のネルがそのまとめ役に就いている。
当然のごとく、元は全員が奴隷か孤児でミレイユの教え子だったわけだが、視線の先で俺と『先生』に小さく目礼だけを返し仕事の手を休めないその姿は、メガバンクの大都市基幹店を任されるベテラン行員をイメージさせた。
「ふふふ……。
あの子たちも、すっかり立派になりましたわー」
「だな」
人波を縦断し、前後のまま老夫婦のような会話を交わしながら俺とミレイユはフロントの脇にある階段を昇って行く。
目指すは、2階の床面積の4分の1を占める領主館応接室。
「であれば、それは全てソーマ様とアリス様……。
そして、先生のおかげです」
その前で待ち構えていたのは、背中でひとまとめにした穏やかな輝きを放つ金髪に、強い意志と高い知性を宿す紫色の瞳。
19歳という年齢と、その落ち着き払った佇まいから『十姉弟』の中でも特に『長姉』。
あるいは、その契約属性から『係命』の二つ名を冠せられる、命属性としては世界6位に座する高位魔導士。
すなわちウォルポート町長代行、アンゼリカ=イルフォース。
今は外交で留守にすることも多い俺よりもこの領主館にいることが多い、実質的なウォルポートの最高責任者だ。
「お疲れ様です、ソーマ様、先生。
先方様は既にお出でになられていますので、どうぞこちらへ。
……ただ、その前に先生?」
「はい?」
白い風布のブラウスに黒いロングスカートという飾り気のない、しかしそれでも充分に美しい気品に溢れたその町長代行はドアに手を伸ばし……、しかし、途中でその動きを止める。
「村の中では……、……いえ、村の中でも本当はダメなんですけど。
とにかく、ウォルポートにその服で来るのは止めてほしい、と前にお願いしましたよね?
商会長の奥様方や観光に来た森人の方々が驚かれますし、娼館からは営業妨害だとこっちに苦情が来るんです。
私もネルたちも説明できないですし、どうしてもその服で町を歩きたいならせめて上に何か羽織ってください」
「……はい、以後気をつけますわー」
思わず、関係のない俺も背筋を伸ばしてしまう。
そんな年下とは思えない風格に満ちたアメジストの視線を受けて、かつての師も素直に頭を下げていた。
元の位置に戻った肩には謝罪の言葉通り真紅のショールが出現しており、豊かな胸と白い肌を艶めかしく飾っている。
「……」
「……そろそろ開けろ、アンゼリカ。
客をあまり待たせるのは、よくない」
露出度が下がっても、さらに扇情的になるんじゃ意味がないんです!
そう言いた気に痙攣するアンゼリカの口元を無視して、俺は小さく顎を振った。
外交の場ではこれが自身の正装だと主張するミレイユやそれに慣れていない来訪者への対応も確かに必要だが、今は目の前の来客への対応が先だ。
「待たせてしまい、申し訳ない。
領主のソーマ=カンナルコだ」
出会ったばかりの頃から比べれば別人のように立派になったアンゼリカの姿と、あまりにこの吸血鬼との付き合いが長い故に麻痺してしまった己の価値観に思いを馳せながら、俺はアンゼリカの押さえるドアをくぐった。
こちらもすっかり違和感のなくなった自身のフルネームを名乗りながら、イスから立ち上がった来客たちへ目礼を送る。
「いやいや、ウチらもついさっき着いたとこですから」
ルル=フォン=ティティ。
上品な笑顔を浮かべて謙遜するその獣人は、藍色の瞳を俺へ。
そして、続くミレイユへと向けていた。
言い訳をするわけではないが、俺はこの3年の間サリガシアとエルダロンのことを忘れていたわけではない。
世界最強の魔導士にして風の大精霊の契約者、そしてエルダロン皇国皇女であるフリーダへは何度も会談を申し込んでいたし、それはアーネルやチョーカ、ギルドを通じても行っていた。
そもそも、話し合える相手なのか。
そして、戦って勝てる相手なのか。
いずれにせよ、それを判断する基準がどうしても欲しかったからである。
が、10近く送ったエルダロンへの親書は、結局その全てが完全に無視され続けた。
何かを試されているのか、あるいは明確な拒絶なのか。
はたまた不精の極みなのか、そもそも関心がないのか。
国内では比較的饒舌らしいが国外へはその意思すら表わさない『声姫』の真意を、残念ながら俺は推定すらすることができなかった。
そんな折に、隣国のチョーカが傾いたのである。
ウォルポートの整備や不妊の問題も合わせて余裕がなくなっていた俺は、それ以降エルダロンに向けていた視線を自身の足元に移さざるを得なくなった。
また、フリーダの真意が量れないという状況は、その支配下にあるサリガシアへの接し方にも少なからず影響を与えていた。
水の大精霊であり、木の大精霊の契約者の夫。
俺が無数に持つ肩書きの中でも特にこの2つは、誇張でも何でもなく世界のパワーバランスを揺るがしかねない力と重みを持つ。
他の大陸から完全に隔離されていたネクタならともかく、他勢力であるエルダロンの傘下にある獣人の3国。
これらとの安易な、すなわちフリーダに断っていない状態での政治的接触に、他大陸を含む各陣営にどのような反応を起こすか。
こちらもまた予想がつかなかった結果、俺はサリガシアを訪れることも各陣営の王たちと直接の連絡をとることも自重していた。
……が、それが経済的なもの。
自領の発展のため各商会や職人を誘致している領主と、新興都市で新しく商館を開くために挨拶に訪れた商会長との間での純粋な商談ということならば、話はそこまでデリケートにはならない。
右隣のミレイユ、左隣のアンゼリカと共に水天石の長テーブルに向かう俺。
「ああ、お話の前にまずは奥様がご懐妊やそうでして、おめでとうございます。
たいした物やありませんけど、これはお祝いの品ということで」
「気を遣わせてしまって申し訳ない。
……これは、ショールか?」
その正面の席で頬笑んでいるのは、山吹色の長い髪にやや黒っぽい毛で覆われた三角の耳。
そして、イスの背もたれの横でユラユラと揺れる巨大な筆のような尻尾、すなわちキツネのそれを持つ女の獣人だ。
ルル=フォン=ティティ。
エルダロンの併合されるまでは『爪』の陣営で軍師、それも『金色』のオーランドや『画場』のポプラと並び『描戦』の二つ名を冠せられていたという、商人としては異例の経歴の持ち主。
率いるデクルマ商会を、創会からわずか2年半で商人ギルド副マスターの席を窺うまでに成長させた、気鋭の女商会長。
かつては戦場で無数の策を張り巡らせ、今はその場を他商会との商戦に移して繰り広げる、希代の天才。
「いえいえ、コーソンの膝掛けですわ。
カイランといえど雨の日や夜は冷えるでしょうし、どうぞ普段使いにしてください」
俺から見て左手には、……おそらくは何か爬虫類系の獣人なのであろう、デクルマ商会副会長のキャメロン。
ルルを挟み、同様に右手には獣人の商会員が2人。
ウォル側を含め計7人が囲む青みがかった乳白色のテーブルの上では、俺とルルとの間で「贈り物」という会話が進められていく。
白木の箱の中の、黄色のリボンで飾られた深緑の膝掛け。
最初の内は俺も慣れなかったが、外交の上ではこれもまた交わされる内の言葉の1つに過ぎない。
コーソン……、確かサリガシアで衣食住全てに利用されるジャコウウシに似たやつ、だったか?
ギルドの書庫で見た巨大な牛にモップをかぶせたようなその絵姿を思い出しながら、俺はビロードのような膝掛けを撫でつつ【水覚】で布以外の異物が仕込まれていないかを確認した。
これは針や毒を疑っているのではなく、言外の言葉としてミスリル貨や貴金属の類、そして密書が忍ばされていないかをチェックするためだ。
「そうか……、では遠慮なく。
時期的に体を冷やすのはよくないらしいし、妻も喜ぶだろう。
心遣い、感謝する」
水分子によるスキャンを終えた俺は、箱を戻しつつルルへ笑顔を返した。
「それから失礼やなかったら、代行様と町長様へも後でお近づきの品をお持ちしますわ。
お揃いの色の……、そう、紫色のショールなんてどうですやろ?」
それを受けたルルは、カティの杯を持ち上げながらニマリと口元を上げる。
「っ」
「……ふふふ」
数年前、ラルポートで最初に耳にしたときは思わず二度見してしまった大阪弁……とほぼ同じ言葉遣い。
サリガシアのナゴンという小国、その一部地域でのみ受け継がれているという独特の方言は、さらりと「入室前のやりとりは聞こえていたぞ」と告白した。
ただの悪戯心か、もしくは獣人の聴力をなめるな、という今後の交渉を有利にするための牽制か。
ないしはその両方ともとれる品のいい笑顔を前に、アンゼリカは思わず表情を固め、ミレイユは向けられたものと同様の微笑みを浮かべて軽く受け流した。
「よう似合うと思いますよ?」
「それは流石に甘えすぎだろう。
後日、店の方で世話になるとしよう」
「……」
この辺りは場数の、そして年齢の差だ。
それがどうした、というメッセージを込めて軽く手を振る俺の左右で、アンゼリカは作り笑いを浮かべ。
「ふふふ」
ミレイユは、普段の通り笑っていた。
こちらの気候や、今日の天気のこと。
サリガシアのヴァルニラから、ラルポートを経由してウォルポートまでの道中のこと。
ヴァルニラの気候から、サリガシアのさらに北の地域での雪の中の暮らしのこと。
氷火酒と紅肉のこと。
外交、そして商談とは言葉を使ったチェス、あるいはそのまま戦争に似ている。
いきなり相手の本拠地にちょっかいをかけるようなことはせず、まずはどうでもいい内容で距離を詰め、やがてお互いの制空権が触れ合って小手調べの打ち合いとなる……。
このとき注目すべきは相手が今話しているその内容ではなく、それを話しているときの相手の表情や同席者の仕草だ。
こちらも同様に誠実と笑顔で武装しながら、両者は互いの喉元に刃が届く位置まで駒を進めていく。
サリガシアの3つの港湾都市、ヴァルニラ、コモス、バルナバでの最近の商いのトレンドのこと。
アーネルとチョーカの政治情勢と、それに対する4大ギルドの見解のこと。
ウォルポートでの最近の出来事と、各商会の動静や展開のこと。
デクルマ商会が売り込みたいものが何で、ウォルが欲しいものが何かということ……。
店で品物を買うにはお金がいるように、相手から情報を出してもらうためには対価となる情報が必要だ。
もし、仮に何の対価もなく相手が何かをくれるというのなら、それは善意ではなく投資、あるいは悪意であることの方が多い。
まずは広域に知られている公然の事実でこちらがきちんとした目と耳を持っていることを示し、そこからやや踏み込んだ真実をこぼすことで自分の耳の大きさと舌のしなやかさをアピールする。
嘘は言わない。
が、本当のことを全て言う必要もない。
アーネル王国。
チョーカ帝国。
4大ギルド。
そしてイラ商会をはじめとする、ウォルポートに出入りする他の「友人」たち。
彼ら彼女らと同じようなゲームで得た情報、もしくは与えた情報を駆使しながら、しかし彼らへの信義は通せるレベルで。
「では、そういう感じで進めさしてもらいます」
「ああ、こちらとしてもそれでいい」
同じくサリガシアやこれまでの商戦で得た人脈と信義を盤面に並べていた『描戦』との会談は、終わる頃には軽く2時間近くが経過していた。
「では、今回のお約束事の内容を簡単な書面にさせていただければと思います。
用意して参りますので、しばらくお待ちください」
ずっと同席していたアンゼリカにとってもかなり疲れる時間だったはずだが、若き町長代行はそんな様子を絶対に見せない。
背筋を伸ばしたり腰を捻る獣人たちに一礼して、美しい金髪は扉から出て行く。
「ああ、そう言えば……」
互いに緊張が解け、背もたれに体重を預けて首をクキクキと鳴らしていた俺にルルが声をかけたのは、そのときだった。
巨大な尻尾と一緒に軽く背伸びをしていたルルはテーブルに両肘をつき、癖なのか、両手指を複雑に絡ませた上に細いあごを乗せる。
「最近、サリガシアの北部で冒険者やエルダロンの駐留騎士の行方不明が頻発してる件……聞いてはりますか?」
その藍色の瞳に浮かぶのは商人の油断ならないにこやかさではなく、戦者としての刃のような輝きだった。
「ギルドが把握しているレベルでならな。
Bクラス以上の魔物の群れの仕業だろう、という話で、もうすぐ大規模な調査が始まる……だったか?」
それを受け取った俺も、体重を少し前に戻す。
雑務や大陸一退屈な護衛任務しか依頼がない、冒険者ギルドのウォルポート支部。
そんな程度の新興弱小ではあっても一応は支部を預かる身として、俺は頻繁に王都や帝都の中心支部で開催される支部会議には出席している。
大陸中、そして世界中の冒険者から寄せられた情報について話し合うその席上でここ最近、最も多くの時間が割かれているのがこのニュースだった。
曰く、サリガシアのチェイズ、ヨルトゴ、チョウミンなど雪深い北西部地域を中心に2ヶ月ほど前から獣人の冒険者パーティーや駐留しているエルダロン皇国騎士の失踪が相次いでおり、かれこれ60名近くが行方不明になっている。
しかし、想定される現場に向かっても死体はおろか装備や衣服、戦闘の形跡すら残っていない。
確かに、世界レベルで見てもサリガシアの該当地域に生息する魔物は非常に強く、これらは決してあり得ないことではない。
が、ここまで頻発すのはそれを差し引いてもあまりに異常であり、早急に大規模調査と、必要ならば討伐作戦を実施する必要がある……。
そんな内容だったはずだ。
確かにこれは異常な事態ではあったが、しかし決して不可思議な事態ではなかった。
俺もサリガシアの魔物は文献でしか見たことがないが、雪国の生き物ということで総じて巨大なそれらのクラスはアベレージがBだ。
純粋にクラスだけで考えるならネクタ深奥のカミノザ近辺と同じレベルであり、これはギルドの基準で個人での立ち入りを禁止すべき難易度だった。
あるいは、あの鎧を食いちぎるガブラですらCクラスだと言った方がわかりやすいだろうか。
竜に代表されるようなあまりに非常識な生き物も数多く君臨しているこの世界において、残念ながら現世の常識は全く当てにならない。
ましてや、その現世でさえホッキョクグマのような巨獣に進化し得る寒冷地域においては、さらにその非常識さは顕著になる。
Bクラスでも上位に位置する魔物や数少ないAクラスの魔物であれば、このような事件を引き起こすことは決して不可能では……ない。
「確かに難儀な話ではあるが、それだけだろう。
『金色』、『黒』、『赤土』……、……いや、そこまで言わないでも、今のサリガシアには優秀な冒険者が多いと記憶しているが?」
が、それは同様に人間側にも言えた。
実際に剣や盾を振り回し、魔法まで使えるこの世界の冒険者たち。
中でも獣人はその身体能力に加えて10年前までひたすら戦争に明け暮れていたこともあって、魔力重視の基準であるクラス以上の戦闘能力を誇る者が非常に多い。
それこそ眼前の『描戦』のように実際に戦場に立っていた名のある将や戦士たちがこぞって民間に鞍替えしたため、サリガシアで活躍する冒険者たちのアベレージの非常識さは魔物側とどっこいどっこいだ。
よって、俺を含めたカイランのギルド各支部は、この話題に注目はしていても心配はしていなかった。
『金色』、オーランド=モン=ルキルザー。
『黒』の、ケイナス=シオ=ペイン。
『赤土』、キリ=サラン=マーカス。
冒険者なら誰でも知っているサリガシア3王都の3支部長を筆頭に、『二爪』、『大槍』、『断空』と俺の頭の中にはそうそうたる二つ名が並んでいく。
仮にAクラスの怪物がでてきたとしても、今挙げた獣人たちならば個人討伐も決して夢物語ではないだろう。
「それですけどねぇ……、……獣人の間では、他の噂も出てるんですわ」
しかし、そこに並び得る実力を持つはずのルルの瞳には、もっと深く重たい藍色が浮かんでいた。
「噂?」
「あれは魔物やなくて、1人の人間の仕業や。
魔物よりもはるかに強い、化け物の仕業や……、と」
その舌が紡いだ言葉は、俺の瞳から少しだけ熱を奪う。
キャメロンに、ハルキとゴードン。
一瞬、ルルがふざけているのかと思って同席者の表情を確認したが、どうやらそうではないらしかった。
「……雪原や山中でBクラスを含む冒険者のパーティーを複数全滅させ、他国の騎士隊にまで手を出すような馬鹿がいると?」
冒険者としての客観的な分析を口にしつつも、俺の表情からは笑みが完全に消える。
同じクラスの、魔物と人間。
この場合、恐ろしいのは圧倒的に後者だ。
知能が高いとはいえ本能に従って生きる動植物と、愛や悪意のために狂うことができる人間の危険度は次元が違う。
Aクラスの赤字ともなれば、Aクラスだけで構成したパーティー……。
それこそ、軍の1部隊と渡り合える戦力が必要となる事案だ。
ましてや、……これはあくまでも仮の話だが。
上位精霊と契約し魔力10万を超える魔導士の極み、俗に「決戦級」と称されるこれらの超高位魔導士になれば、それこそ、かつての俺自身のように個人で都市すらも落とす天災になり得てしまう。
そして。
そんな存在が自陣片に登録されないまま存在し、獣人の冒険者やエルダロンの騎士を大量に消している……。
これが事実であれば、難儀や心配で片づけられるような事態ではない。
正体も所在もわからない以上は、船を使ってカイランやネクタに渡る可能性もあるのだ。
少なくとも、港湾都市では何らかの対策が必要になる。
「……根拠は?」
「生き残りがおったらしいんですわ」
ウォルポート町長として、ネクタと盟を結ぶウォルの領主として、ギルドの支部長として。
この情報をどこまで本気にしてどこまで伝えるかを真剣に検討し始めた俺の問いに、ルルは静かに口を開いた。
「……で、代行様?」
「……何でしょう?」
しかし。
その視線は俺ではなく、俺の右隣に座っていた領主代行。
すなわち、口を挟まず優雅に話を聞いていたミレイユへと向いている。
「テンジンっていう名前、知ってはりますか?」
「!!!!」
静かな藍の瞳と、大きく見開かれた赤の瞳。
完全に笑みの消えたミレイユの白い顔には、驚愕とも動揺とも……。
……そして、激怒もとれる無表情が張り付いていた。
「その『化け物』の名前やそうですが……、……ご存じないです?」
「……」
「……ミレイユ?」
空気が軋み、熱を持つ。
テンジン。
俺の知らないその単語を、明らかにミレイユは知っていた。
知っていて、「それをルルが知っていること」に激しく反応していた。
藍色の笑顔に、赤の無表情。
困惑する俺を無視して、ルルは邪気のない笑顔を深くする。
「ほんなら、こっちはどうでしょう?
…………ルァ゛!!!!」
おそらくは、「ラ」。
そんな形に舌を動かそうとしたルルの言葉は、しかし続かなかった。
苦痛に歪む藍色の下で、まるで肋骨のように喉元を掴む白い右手。
「ミ、レイユ!?」
呆然とする俺の隣で、ミレイユは大きく身を乗り出し。
悪鬼のような形相で、ルルの首を握り潰そうとしていたからだ。
「テンジン」の発音は、エンジンと同じで先頭にアクセントがきます。




