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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐

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それから 中後編

無数の水路を跨ぎ、あるいは橋代わりに架けられている「鉄の木」の板を踏みしめながら。

小エルベ湖の上で跪礼するセリアースたち上位精霊に片手で返事をしながら俺が向かっているのは、人口に合わせて増設、ないしは新設した村の建物の内でも最大級のものだ。


学校。


設計に1ヶ月、建築に2週間を費やしさらにその後も増築に増築を重ねたそれは、村では唯一の2階建ての建物でもある。

最大収容人数400人を誇るそれは上から見るとまるで漢字の「口」のような姿をしており、平日の午前中には村の中で最も騒がしくなる施設でもあった。

が、現在は既に昼食が終わってしばらく経った時間であり、ここの占有者たちは各組の担任教師か、あるいは臨時にサーヴェラに連れられ畑なり牧場なり森なりへ出払っている。

今は完全に無人の正方形の中庭を眺めながら歩む俺の耳に聞こえるのは、静かな廊下に響く自身の足音だけだ。


首を逆に傾ければ、見えるのは廊下側の壁がないために丸見えとなっている教室の風景。

壁の一方にはめ込まれた巨大な石板と、教壇と教卓。

その前には大人が使うには少し窮屈なサイズの机とイスが少し歪んだ4×5の列を成して並んでいて、それぞれA4ほどの大きさの石板と数本の石筆せきひつが置かれている。

20の机の横には布製の20の白い手提げが吊られており、そこには大小整乱の様々な文字でその持ち主の名前が黒書されていた。


整然、とは言い難いもののきちんと清掃、そして整理整頓された教室の1つ1つを覗き込みながら、俺はやがて「職員室」の札が下げられた扉の前に辿り着く。


「……」


この扉を造ったのも、「職員室」の文字を書いたのも、もっと言えばこの学校の設置を決めたのも……。

その全てが俺であるはずなのに、どうしてもこの扉の前では未だに緊張してしまう。

意外なところで再発見する現世の名残に苦笑しながら、それでもやや丁寧に俺は扉を引いた。


「入るぞ」


教室のものとは違う、大人が使っても充分な広さがある事務机が4つ向き合って、1つの島。

それが6つ、壁一面に造りつけられた棚にぐるりと囲まれている光景の中にも、やはり持ち主たちの姿はない。

子供たち同様、教員たちも午後からはそれぞれの農作業に出ているからだ。


「おい」


絨毯のように丸めて立てかけられた6畳ほどの大きさがある世界地図や、棚の最下段を軒並み占領している新品の石板と石筆の束。

各属性の霊墨イリスが納められた7色の壺と、日用霊術を中心にほぼ全種類が揃っている魔法陣の見本木板。

ズラリと並んだ吊皿天秤と珠算盤に、計算を実演するために使う大量の小石とそれを10ずつ詰めた袋。

木のそれに混ざって微かに漂うインクの甘い香りと、どこか背筋をシャンとさせる空気。


「……取り込み中か?」


そういったものをかわしながら進んだその最奥には、ひときわ大きな25台めの机があった。


女性としてはかなり高い部類に入る長身に、軽く腰までを隠すまっすぐ長い闇のような黒髪。

それと対をなすかのような病人のように白い肌と、万人が美しいと断言するであろう艶やかな顔立ち。

その身を包むのはいつもの扇情的なドレスではなく、まるで近代の家庭教師を思わせる漆黒のロングワンピース。

肩どころか首元、そして手首や足首まで髪と同じ闇色でしっかりと隠したその姿は、しかしそれでもどこか艶めかしい。


そして、そこだけは不変の。

血の色そのものの赤い唇と、赤い瞳。


「おい!」


「……は、だ、旦那様!?

た、大変失礼いたしましたわー」


部屋全体を見渡す位置、まるで教室の学習机を見渡す教卓のようなその位置で……何故か頭を抱えていたのは、ミレイユ。

この学校の責任者たる学校長にして、領主代行。

この『魔王領』で唯一俺やアリスとほぼ対等の権限を有し、万事に笑顔で接する……、……はずの、『ウォルの先生』である。





しかし、俺が机の前に立つその瞬間までミレイユが浮かべていたのは、そのトレードマークの笑顔ではなかった。

眉間にはしわが寄り、常にやわらかな弧を描いているはずの唇は「~」の形。

世間一般で言えば懊悩、あるいは苦悶と呼ばれる類の表情だ。


「どうした?

……何か相当に不味いことでも起きたのか?」


誤解のないように言っておくならば、もちろんミレイユとて笑顔以外の表情を浮かべないわけではない。

チョーカの山中で契約を交わして以来共に過ごした4年以上という時間の中では、意外と幼い感じになる素の表情や文字通りの烈火となる怒りの顔を目にすることも数度ずつはあった。

同様に普段の笑顔とは違う……、……すなわち本心からの笑顔というものも、区別できるようになる程度には向けられている。

俺の不在時にはよくサシで、あるいはアンゼリカたち女班長を交えた女子会で杯を酌み交わしていたというアリスならば、おそらくもっとたくさんその機会もあったことだろう。


ただ、それでもこのように周りに気を払えなくなるほどの難しい表情を浮かべていたのは見たことがない。


「はい?

……ああ、いえ、そういうわけではないのですが」


すわ何事か。

領主としての真剣な光を宿す俺の瞳を直視した後、何度か掻き毟ったらしく左側だけがグチャグチャに乱れている髪を手櫛で直しながら。


「午前の授業が終わった後に、エフィから問題を出されたのですけれど……、……それが全然解けませんでして。

ふふふ、少し没頭してしまっていただけですわー」


しかし、ミレイユは笑顔を捏造しようとした。


「……」


「……」


……どうやら、本当にそうらしい。

数枚の石板や皮紙が散乱した机に両肘をつき、黒の長袖から覗く白い両手に口元を埋めて俺の視線から瞳をそらすミレイユの顔は……、……若干赤い。


「ふ、ふふ、ふふ……、……ふ」


「……っ」


「……旦那様、お願いですから……忘れて下さい……」


よほど深刻な問題が起こったのかと思えば、ただ子供からの挑戦にムキになっていただけ。

『先生』を自認しときには主人である『魔王』にすら諫言する賢者としてはよほどきまりが悪かったらしく、俯いて肩を震わせる俺の前で作り笑いを失敗したミレイユは肩を落とした。

まぁ、流石に俺も、これを村中に喧伝するほど子供ではない。


「……少、し、……時かふっ!

……時間を、貰う」


素直に忘れてやるほどに、性格がいいわけでもないが。


「……はぁ…………」


背を向けて笑いの衝動に屈する俺の後ろでは、ミレイユが魂ごと吐き出すように溜息をついていた。

















「……で、どんな難問だよ?」


「……いえ、問題自体はシンプルなのですが……。

どう頑張っても、条件をクリアできないのですわー」


数分を経て平静を装えるだけの気力を整えた俺が振り返ると、平静を装ったミレイユは1枚の石板を前に差し出してきた。

参照していたらしい図形の基礎公式が刻まれた皮紙や木板、何度も試行錯誤していたらしくひどく汚れた数枚の石板を押し退けて滑ってきたその板上には3×3で9つの点が等間隔に記されており、その下には……。



『3かいだけまがって、ぜんぶのてんをとおれ!』



エフィ、確かまだ6歳だったはずの少年の自由で元気のいい文字が躍っている。

おそらくは「1本の直線で」が省略されているらしいその問題は、幾何学というよりもむしろ知能パズルの範疇に入るものだった。


「……ああ、あれか」


「知っているのですか!?」


そして、それは常識に囚われない閃きを問うものとして、現世では比較的有名だった代物のはずだ。

それに独力で辿り着いた6歳児の豊かな想像力とそれに見事に囚われてしまっている吸血鬼の意外な頭の固さに驚きながら、俺は興奮しているミレイユの前に石板を押し返した。

続いてその隣の汚れた石板、どうやらこの問題を解くために何かを計算しようとしたらしく細かい文字で数式が並んでいる、を手に取り、布できれいに拭いてから石筆を借りる。

問題と同じく正確に3×3の9つの白点を打った俺は、右列と下段にさらに7点を追加して4×4の点の方陣を作った。


「これはな、発想力の問題なんだ」


その石板を怪訝な顔のミレイユの前に並べ、俺は机を回ってミレイユの右側に立つ。

左上の点に石筆の先を当てた俺は、視界の中だけで再度書順を確認し……、……よし。


「つまり、線はこの点をはみ出してもよく……」


そこから右に、上段の「4つ」目まで石筆の白い先端を水平に移動させ。


「そして、曲がるとは直角だけに限らず……」


そこから左下へ、45度の鋭角を作って左下4つ目までコリコリと白い斜線を描き。


「かつ、同じ点を通ってはならないという制限もなく……」


左下から、起点となった左上の点へとまた4つ分上げて。


「条件さえ、満たせばいいということに」


最後に中央を通る形で、また45度の斜線を引いた。


「……」


口をポカンと開けたミレイユの眼下には、2等分された直角二等辺三角形のような……というかそれそのものの図形が完成されている。

1本の直線を3回だけ曲げて、3×3の9点全てを通る。

しかし、それは方陣の範囲を無視しないと達成できない、というある意味では反則のような解法だ。

点や線を1つ描くだけで、爆発的に世界を広げる。

文字1つを代入するだけで、絶対の法則を逆転させる。

そんな数学の本質をついたような眼下の光景に、ミレイユは赤い目を丸くしていた。


「見えるもの、与えられたものだけが全てじゃないということだ。

限られた場所だけに囚われないで、もっと大きく物事を捉えろ。

俺やお前が想うよりも世界は……広い」


右手の石筆を机に転がしながら、微動だにしない黒い頭に俺はポンと左手を置く。


世界は広いし、世界はそんなに不自由じゃない。


講釈を結ぼうとしたその言葉は、柄でもないだろうと途中で飲み込んだ。


「旦那様は、……少し変わられましたね」


「……そうか?」


まさかそれが伝わったわけでもないだろうが、頭に手を乗せられたまま俺の方を向いたミレイユは、ふふふ、と声を漏らした。

和やかな笑みを浮かべる唇の赤と少女のような無邪気さに、俺の返答もやわらかくなる。


「ええ、アリスさんとご結婚されてから……。

そして、お子様がおできになってから……、……何と言いますか、あたたかくなられましたわー」


「だとすれば、それはアリスのおかげだな。

……あと、お前らの」


「ふふふ、……そういうところです。

随分と素直になられましたし、お優しくなられました」


「……」


やはり、ミレイユは『先生』だ。

全身がムズムズするような居心地の悪さを感じて、俺は楽しそうな笑みを浮かべる赤い瞳から視線をそらした。


ミレイユの言っていることは、きっと正しいのだ。

かつてエルベーナの全員を虐殺した中畑蒼馬は、今や完全にソーマ=カンナルコとして落ち着いてしまっていた。

それはきっとミレイユの言う通り、愛する者が隣にいて、そして守るべきものができたからだろう。


そして、俺が守りたいと思うものは日々大きくなっている。


かつての自分の行動に悔いはないし恐れもないが、……それでも。

今の俺ならばおそらくまた違った方法で答えを求めていただろうと思うのも、また真実だ。


「俺は……弱くなったか?」


「よいではありませんか」


思わずこぼしてしまったつぶやきは、細くなった赤い瞳の中で純粋に肯定された。


「弱く、貧しく、臆病で、渇いていても……、……それでも正しくあろうとするのがわたくしの教える人間というものの姿で、それでも強くあろうとするのが英雄と呼ばれる者のまことです。

……ただ強いだけの者を、わたくしは英雄とは呼びませんわー」


ミレイユには、俺がこことは違う世界の人間であることもエルベーナでのことも話していない。

同様に、ミレイユも未だに召喚される前のことを俺やアリスに教えようとはしない。


それでもどこか見透かされたように感じるのは、単純に生きてきた年数が違うからなのだろう。

師のような、母のような、姉のような、友のような。

アリスのそれとは異なる赤の笑顔は、ときにアリスのそれとは違うあたたかさを俺に与える。


「まぁ、こんなでも一応親になるんでな」


「ふふふ、そうですね……。

……かつての暴れん坊が、随分と大人になられましたわー」


そして、それ故にアリスのそれとは違う角度で俺に刺さることもある。

ウォルポートどころか他の子供たちがいる場では絶対にしない、明らかな年下扱い。

それこそ、子供のからかいのような意趣返しを織り交ぜてきたミレイユに、俺は苦笑せざるを得なかった。

だが、まぁ……。

こういう応酬ができるようになるくらいには、俺たちは近付けたのだろう。


「坊ってお前……、もう21なんだがな」


「わたくしからすればたったの21年ですわー」


氷と、炎。


「そのたった21年……、どころか6年しか生きていない子供の作ったパズルに必死になってたのはどこの魔人ダークスだよ」


「そ……のように些細な部分を、まるで大将首を上げたかのように蒸し返すところがお若いと言っているのです」


黒と、黒。


「まだ、たったの21なんでな。

……というか、そう言うお前は結局何歳なんだよ?」


「25です」


相反し、似ているが故に。


「サバを……、数をごまかそうとする努力くらいはしろ。

最低でも100だと、自分で言ったことがあるだろうが」


「……忘れましたわー」


「ついに痴呆か」


「……殿方の器が小さいというのは、どの時代でも感心されませんよ?」


それは、互いの致命傷となることもあるが。


「…………ほう?」


「ふふふ?」


黒と赤が交錯する中で、やわらかかった空気はミシリと音を立てて変質した。


器が小さい。

具体的に人体のどの器官がどういう状態になっているのか全くわからない言葉ではあるが……、実際に言われてみると、なかなかに不愉快になれる言葉だ。

だが、これはあくまでも些細な軽口のキャッチボールであり、俺にもミレイユにも悪意のようなものはない。





もちろん、大人である俺は本気で怒ったり……しません。





「ここに、1つのパンがある」


「……旦那様?」


いつのまにか笑顔でなくなった笑顔の交換を続けながら、俺は別の石板に適当な大きさの丸を描き付けた。

そのまま机の上を滑らせながら、石筆をミレイユの前にコロンと転がす。


「そういうところが大人として……」


「仮にも大人……いや『先生』ともあろう者が、子供に一本取られたままでは不味くないか?

最低限、仰ぎ尊ばれるだけの知は示すべきだと……、俺は思うが」


淡々と質問する俺の声には、表情に反比例する圧倒的な悪意が滲んでいる。


「……」


それに硬直する解答者も、表情だけは確かに笑顔だ。

無言のまま口元をひくつかせるミレイユの瞳の中には先程までなかった爆炎のような光が散っていたが、結局白い指は石筆を拾い上げた。


「2回切って、4つに分けろ」


「……流石に、馬鹿にしすぎでは?」


熾火おきびのような低い声とガリッ、ガリッという乱暴な音の後、俺の前へと押し戻される石板。

「切る」のだから直線しか使えない、などという根本的な注釈は、流石にミレイユには不要だった。


「物事には順序があるんだ、……次、3回切って6つ」


パンを模した丸を縦横断する十字ごと消して、俺はまた新しい丸を返す。


「パズルにムキになるのは、子供だけだったのではないのですか?」


皮肉を返しながらノータイムで突き返された石板には、片仮名の「キ」。

それには答えず、俺は3度目の丸を差し出す。


「3回切って、7つ」


「……っ?」


7、という数を聞き、石筆を持った右手はようやく停止した。


「……、…………あら?

……、…………?

……、……、…………!!

……ふふふ、このわたくしも随分と見くびられたものですわー」


しかし、その間数十秒。

若干の戸惑いと独り言の後、優雅に、かつ悠然と返された石板の丸には7等分されたパン、すなわち「井」のように各辺のはみ出した状態の正三角形が自信満々に描かれていた。

確かに、これは簡単には気付けない。

1分足らずで導いたミレイユは充分にすごいし、大将首を獲ったような態度も納得の結果だろう。





だが、だからこそお前は世界に囚われている。





「最後、3回切って……8つ」


「やっ、つ……?」


都合4度目の丸を渡されたミレイユは、その言葉を最後に今度こそ完全に沈黙した。

既に最大値は出尽くしはず……。

隣から伝わるそんな焦慮と絶望を楽しみながら、俺は鬼の首を取ったような笑みを必死で噛み殺す。

左手は無表情になったミレイユの前を通り、机の端の書簡入れへ。

本来の用件であった、サリガシアのデクルマ商会からの親書。

アンゼリカから預かっていたのだろう、その分厚い皮紙の筒を机の上から拝借すると、俺は悠然と扉に向かって歩き始めた。


「……お、お帰りになるのですか?」


「元々これを取りに来ただけだったからな。

それともミレイユ……『先生』、何か些細な問題でも?」


「……」


歩みを止めずにヒラヒラと親書を振ると、首の後ろにチリチリと怨念のこもった視線が突き刺さる。

……少々、遊びすぎたか。


「想像しろ、ミレイユ。

それは丸じゃない、……パンだ」


一応、公正なヒントも残しながら、俺は木製の扉を後ろ手で閉めた。

まぁ、エフィの問題よりは簡単なはずだし、最悪でも夕食に実物を見れば解ける……、……解けるよな、ミレイユ?


「ロザリアに頼んどく……か?」


紙上の世界ではない廊下に出ると、静かな空気が頬を冷やす。

中庭には、長い影が落ち始めていた。

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