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クール・エール  作者: 砂押 司
第4部 嵐

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102/179

それから 中前編

賑わいと共に巨大化し続けたウォルポートには、今や造成した俺も把握できないほど膨大な数の水路が張り巡らされている。

が、その中で名前が付けられているものとなるとその数は3つしかない。


1つは、ウォルポートの中心である船の停泊地から緩やかに蛇行しながら海へと繋がる「ウォル小運河」だ。

……まぁ、これを水路のカテゴリーに入れるのはどうかとも思うが。

全長およそ5キロ、大型船が鼻歌交じりでもすれ違える幅と100人を超える土属性魔導士の汗と涙と【創構グラクト】で固められた頑丈な岸と石底。

カイラン大陸に存在する人工物の中でも群を抜いて巨大で大規模なこの建造物……というよりも地形は、武力、財力、権力。

それら『魔王』の圧倒的な力を象徴する『魔王領』の玄関口として、目にした数多の人間を驚愕させ続けている。


その停泊地の隣を掠め運河とは別に海まで続いているのが、2つめの「小エルベ川」だ。

ウォルの核でありカイラン大荒野最大の水源である「小エルベ湖」を満たした水は4つの小湖からウォル中の水路を巡り、村の東端で全てがこの川に束ねられる。

かつて、海までおよそ10キロメートルに渡る地面を火竜サラスナが1日で蒸発させて生まれたこの川の役割は、純粋な生活用水の排水路だ。

途中のウォルポートからの排水の全ても集めて海までをほぼ完全な直線で貫く平均幅10メートルのこの幾何学的な河川には、最近になって魚や小エビ、……おそらく村から逃げ出したグリッドなどが棲みつくようにもなっていた。


そして、3つめが「連絡水路」である。

村からウォルポートまでを5キロに渡って走るこの水路の幅は約5メートル、深さは1メートル程度しかない。

所々に待避所まで設けたこの水路には現在6艘の舟が就航しており、1艘につき1人の水の上位精霊が船頭となって村とウォルポートの間を往復している。

片道30分程度のこの移動手段は毎朝ウォルポートに出勤し、そして夕方に村へと帰ってくる住民たちのために整備したものだ。


尚、同様の水路は村の周囲にも走らせており、こちらは農地や森林で作業する際の移動、輸送用だ。

村を中心にクモの巣のように広がる水路ではこちらの倍、すなわち12の舟と上位精霊が子供たちや野菜、たまにヤギと共に行き交っている。


「ん、足元気を付けて」


「うん」


その連絡水路のウォルポート側船着場。

すなわち港町の西端に位置するその場所で俺は黒い手袋に包まれた右手を差し伸べ、アリスを舟の上へと招き入れた。

大精霊としての支配能力でその流動性を奪われ、液体でありながら完全に固定された水面。

まるで寒天か羊羹の上に安置されたかのように不動の舟の上には、俺を含めても3人しかいない。


「……!

…………」


「……!

……出せ」


「御意に」


その1人であるアリスがストンと下ろそうとした腰を、……途中からゆっくりとした動作で造りつけの腰かけの座面に着け。

その動作に一瞬焦った俺が、息を整えながら短く命令し。

アリスの後に俺が座るまでガラス像のように美しい跪礼姿勢をとっていたシャフス、女性型の上位精霊が前へと振り返ると、舟は滑るように水路を進み出した。


小走りほどの速度で進む俺たちの視界からはすぐに建造物が消え、上と左右は無数の茶色と濃淡鮮やかな緑色に覆われていく。

ウォル領内の荒れ地だった部分の全ては、3年を経て村か畑か町。

それ以外は、ネクタさながらの深い森となっていた。

こちらを窺う視線をたまに感じるが、それは全てノウサギなどの小動物か、神域を守護する木の上位精霊たちのものだ。

元々が不毛の大地だったこのウォルに、Dクラス以上の魔物は棲息していない。

その中を舟は、ほとんど無音で進んでいく。


静かで濃密な空気の中、右隣に目をやるとうっすらと瑠璃色がかった銀髪、今は背中の中ほどまでを隠す長さに伸びた髪の先がやわらかな風に揺れ、その下では緑色の目が心地よさそうに閉じられていた。

深い森の奥の、優しい大樹の葉のような緑色。

水と森の匂いがどんどんと濃くなっていく中で、そのあたたかい色は俺の密やかな視線に気付く。


「ソーマ……、あなたの気遣いは嬉しいし助かってるけど、心配しすぎだから。

妊娠は病気じゃないんだし、私自身苦しさや辛さは感じてない。

それに、本当に手伝いが必要なときはちゃんとあなたにお願いするから」


そして、不満げに俺を見上げるものとなる。


「お母さんやメリンダからも、ミレイユとアンゼリカからも、無理のない範囲で運動するようにさえ言われてる。

……それとも、あなたは私を散々に甘やかしてお姉ちゃんみたいに難産にさせたいの?」


「まさか……」


それを受けてムスッとする俺に軽くもたれかかり、妊娠2ヶ月の、まだこれまでと何も変わっていないように見える自分のお腹を撫でながら……。

冗談、とアリスは小さく笑った。





アリスの言葉の通り、義姉であるマリア=カミュは1年ほど前に娘のリリアを出産し、俺は父になるよりも先に叔父ともなっていた。

マリアの夫であるユリアンの実家、すなわちカンテンのカミュ家にとってもこちらの義両親夫妻にとっても初孫であるリリアは、現在両家のアイドルだ。

初めて親となったマリアとユリアンも夜泣きなどかんの虫に悪戦苦闘しながら、日々に新たな幸福が増えたことを共に喜んでいた。


ただ、姪のリリアの可愛さ以上に俺の心象に残っているのはその出産に至るまで、破水から都合1日に渡ったマリアの苦しみぶりだ。

手伝い、そしていずれ経験するであろう自分たちの際の予習のために、それこそ【完全解癒リザレクション】など各命属性の陣形布シール霊墨イリスを山のように揃え、予定日の1週間ほど前からカミラギのカンナルコ家に滞在していた俺であるが……。

……実際に出産が始まってからできたことといえばユリアン、そしてマックスと一緒にオロオロしていることくらいだった。


無論、あのアリアが険しい表情を浮かべるほどの難産中の難産だったとはいえ、結果として回復魔法は使わずに済んだし、母子ともに無事に出産を終えている。

淡々とアリアや産婆の指示に従って動いていたアリスからすれば、もう冗談にできるほどの「普通の」出来事だったと言えるのかもしれない。


確かに、妊娠は病気ではない。

有性生殖を行う哺乳類の雌性体なら大多数が経験する、動物としての進化と本能に基づいた繁殖方法だ。

仮に最低限の条件下でしかなかったとしても、基本的には成功するのが自然の摂理だろう。

むしろ、エコーや帝王切開といった概念はなくとも回復魔法などという馬鹿げた技術が実在するこの世界の方が、不幸な事故は少ないのかもしれない。


が、それでもあの20時間に渡る義姉の苦鳴と絶叫は俺の心に深い恐怖を植え付けていた。

夫であるユリアンにとっては、それこそ生涯最大の恐怖だったことだろう。

かつて2度の妻の出産に立ち合い普段は泰然自若としているマックスですら、半日を越えた辺りからは落ち着きをなくしていたのだ。


……無知。

あの日、産婆を含めたマリアたち4人が籠っている寝室の扉を睨みながら、俺は手の中に溜まり続ける汗にそれを感じ……。

そして、反省していた。


例えば……、妊娠何週目、何ヶ月という言い方をするが、ではその1日目はどこで起算するか?

つわりの症状には、吐き気や食欲減退以外でどのようなものがあるか?

安定期とは一般に妊娠何ヶ月からか?

通常時は問題ないが、妊娠中は避けた方が良いとされている和食でよく見られる海産物2つは何か?


医学関係者以外の未婚の男で、これに即答できる人間はどれくらいいるだろうか。

あるいは、胎児を出産した後には臍の緒の残りと胎盤を排出する後産あとざんという工程があるのだが、これを知っていた男はどれくらいいるだろうか。


……正直に告白するならば、俺がこれらを知ったのはマリアの妊娠を聞かされた後に勉強してからだ。

あれほどアリスに自分の子供を望んでおきながら、その後の知識が全くない。

……いや、懺悔も込めてあえて正確に言うならば、興味を持ったことがない。


例えば、パソコンのCドライブ。

例えば、名前の意味も組成も効果もよくわからない化学物質。

例えば、名刺を差し出し微笑んでくる弁護士。

例えば、中学高校で受験のためにだけ勉強した英語。


全く知識がないものに初めて触れたとき、往々にして人間は必要以上の恐怖を感じる。

それは、自分がその対象とは全く関わりにならないはずだという、何の根拠もない自信を崩されるからだ。

理解できないものは、理解しない。

時間と金銭、そして心に限界のある人間としてその姿勢を俺も否定はできないが……、しかしその無関心のツケは往々にしてそれ以上の時間と金銭、そして心を喪失させる、というのもまた真実だ。


であれば、人間は無知と無関心を言い訳にしてはならない。


アリスに最も望んでいたようで、その実それがただの曖昧な抜け殻だったことに……。

「変態」と詰られるような知識や、科学や歴史、数学や言語への興味はあっても、おそらく人間として最も重要な知識を自分が全く持ち合わせず、しかもそれに疑問すら抱いていなかったことに、その瞬間の俺は殺意に近い自己嫌悪を感じていた。


だから、俺は勉強した。

アリアや産婆、メリッサを含む2男4女をもうけているメリンダに話を聞き。

ギルドで人体の勉強と傷病治療の経験を積んだアンゼリカと、広範に豊富な知識を持つミレイユに教えを乞い。

ギルドから水天宮、カカの帝城の書庫まで押しかけ、関連する書物を読み耽り。

実際に身ごもっている村の住人の下を定期的に訪れ、【水覚アイズ】で胎内と胎児の様子を経過観察させてもらった。


それこそ、アリスやミレイユに心配しすぎだと笑われ、サーヴェラやアンゼリカに軽く引かれるくらいに徹底的に勉強した。


例えば、スマートフォンのセキュリティ。

例えば、レーシック手術のリスク。

例えば、付き合って1、2ヶ月の恋人。

例えば、FX取引の仕組み。


なぜなら、全くの無知とは反対に。

理解しているはずだ、という過信は、さらに取り返しのつかない失敗を招くからだ。

案ずるより産むが易し、とは言うものの、だからといって事前に全く「案ずる」ことをしないのはただの不用心であり、ただの不始末でしかない。


そして、残念ながら。

たとえどれほど強かろうと大精霊だろうと、俺が父として今できることは勉強することと案ずることくらいでしかないのだ。


「……気を付けるよ」


「そうして。

……多分、長くは続かないんだろうけれど」


ゆっくりと水を進む舟の上で、俺は神妙に首肯する。

苦笑交じりのアリスが付け加えた言葉には、聞こえなかったふりをした。

















「おかえり、ねーちゃ……。

……にーちゃん、過保護すぎない?」


森を抜け、村側の船着場。

5キロの船旅を終えて跪礼するシャフスに背を向けた俺たちを最初に見つけたのは、200人ほどの子供たちを引率するサーヴェラだった。


金髪に、太陽のように明るい金色の瞳。

しかしその瞳の位置は正対する俺の胸より下ではなく、もう首くらいには届きそうになっている。

細く頼りなかった手足は成長期を迎えて一気に伸び、全身を覆うのは少し日に焼けた肌としなやかな筋肉。

15歳になり少年から青年への階段を駆け昇っているウォルの若き村長代行は、相変わらず手ぶらのアリスと、……その背後で相変わらず全ての荷物を抱える俺に呆れたような笑いを向ける。


「サーヴェラ、もっと言ってあげて」


「……気を付けた結果だ」


俺とアリスに下げた頭を戻していく子供たちの持ち物からして、森にノウサギを獲る罠を仕掛けに行くのだろう。


「ニアに頼まれたから、臨時作業を入れたんだよ。

ついでにそのまま草摘みと間伐、それから水路の掃除……。

今日いっぱいは西側の連絡水路は使えないから、にーちゃんたちも覚えといてね」


俺の視線に気づいたらしく、サーヴェラは数日前に挙げた報告から変わった点と注意すべき点をサラサラと列挙した。





3年という時間は俺とアリス、ウォルポートだけでなく、ウォルにも大きな変化をもたらしている。

その中でも最も大きなものがウォルポートとの完全な役割の分担であり、そして班長たちを筆頭とするかつての子供たちの成長だった。


まず、ウォルポートの発展と人口の増加、それに伴う各種商店や宿屋の増加に合わせて、それまで村で受け入れていた騎士の宿泊や行商の依頼を停止したのが2年前だ。

これによって、村はあくまでも住居であり未成年の教育の場、商工業関係や外部の人間への対応は全てウォルポートで行う、という大きな性質の変更が成されていた。


また対外向けの機能を全てウォルポートに集約したことは、これまでウォル本体でそれに割いていたコストを浮かせることにも繋がっていた。

人員、労力、時間などに大きな余裕が生まれた結果、現在ウォルでは1200人を超える元奴隷や孤児、貧民街の子供たちを受け入れるに至っている。

今の村の住民数は2500より少し多い程度だが、その中にはほぼ大陸中の「元」不幸な子供たちが含まれていた。

同時に、アーネルとチョーカに限ってはほぼこういった子供たちを0にすることができたとも言える。


一方で、「渇かず、飢えず、凍えないことを約束する代わりに、裏切らず、怠けず、そして強くなり続けろ」……。

ウォルの発足から不変の絶対の掟に従う限りはお腹一杯の食事と大陸最高水準の教育、そして世界の核たる大精霊の内2柱の加護を受けられる。

さらに無事成年を迎えれば『魔王』から血の祝福も受けられ、いずれは『十姉弟じゅっきょうだい』のような高位魔導士にすらなれるかもしれない……。

そんな村での暮らしをどう曲解したものか、最近のウォルポートでは他の都市から来た貧しくも何ともない親が我が子を捨てていく、という苦々しい事件もたまに起きていた。


そして、そんなウォルとウォルポートの今を実質的に運営しているのがサーヴェラたちかつての10人の班長、巷で『十姉弟』と称されている若きリーダーたちだ。

サーヴェラ、アンゼリカ、ロザリア、タニヤ、ルーイー、ランティア、ニア、ネル、ガラ、ヨーキ。

採掘集落民や性奴だったかつての少年少女たちも、今はもうすぐ19歳となるアンゼリカから15歳のサーヴェラとタニヤまで平均17歳。

つまり、かつて彼女らを救った俺とアリスの年齢にもう追いついている。

細くか弱く、俺とアリス、ミレイユに教え導かれるばかりだった10人の子供たちは、3年を経て逆に他の子供たちを教え導き、2千人以上の集団や大陸随一の港町を取り仕切る存在となっていた。


「ああ、それから先生が……、……どっかの商会からの手紙を預かってるって言ってたよ。

ちゃんと伝えたから、忘れないでね?」


子供たちが続く、出会ったばかりの頃から比べれば別人のように逞しくなったサーヴェラの後ろ姿が森の中へと消えていく。

多少危なっかしい部分があるとはいえミレイユの補助を受けながら村長を立派に務めているその姿は、かつての俺に似てきているような気が……しないでもない。


半年前に没したホズミの後にウォルポートの町長代行を務めるアンゼリカに、村の台所とウォルポートの領主館の厨房で育ち盛りの子供たちから贅を知り尽くした商会長の舌まで唸らせているロザリア。

元気な喧騒を極め、あるいはその過去から深く傷ついていることもある村の子供たちの面倒を見るタニヤとルーイーに、日々凄まじい数で増減を繰り返している村の家畜の全てを知り尽くすガラ。

ウォルの防衛網である森林とウォルの生命線である畑の全体を管理し、そして俺とアリスよりも早く両親ともなっているニアとランティアの夫婦。

雑多を極める領主館の窓口業務の一切を取り仕切るネルに、同じく3大陸からの船が行き来する停泊地と交易を取り締まるヨーキ。


この10人をはじめとするかつての子供たちも、もう立派な「大人たち」だ。





「じゃあ、俺は学校に行ってくる。

……一旦帰って、少し休憩してから」


「だから、私は別に疲れてない。

1人で帰れるから荷物を渡して、あなたはすぐに学校へ行く!」


昨日から今日へ。

今日から明日へ。


まるで奔流のような時間の中で、俺たちは。

そして、ウォルは確かに成長し続けていた。

ちなみに、途中の妊娠に関するクイズ、皆様は答えられるでしょうか?

あえて解答は掲載いたしませんので、興味を持たれた方はご自身で調べてみてください。



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