第2話 現場検証(前編)
死体が発見された一軒家の門の前でタクシーを降り、颯爽と登場した俺(桜井桂)は辺りを見回した。雪で若干隠れているが、一軒家が面する路地はアスファルトで舗装されておらず、地面の土がむき出しになっているようだ。俺の乗ってきたタクシーだけでなく、既に到着していた複数のパトカーのタイヤ痕で、雪で湿った地面の泥が飛び跳ね、地面がぐちゃぐちゃになっている。
うわっ、汚ねえ……、と思わず口に出した俺は、入り口付近で待機していた部下に声を掛けた。
「お疲れ、羽田さん! 調子はどうだい?」
「警部! 今何時だと思っているんですか!」
事件通報から六時間経って、ゆっくりと現場に登場した俺が呑気に挨拶したので、つい声を荒げて返事をしたこの女性の名前は羽田静香 (はねだしずか)。
俺とは異なり、ノンキャリア警察官として警視庁に入って、もう三年。警察で働いている年数からすると、俺より一つ先輩だが、ノンキャリアとして就職したために、キャリア警察官の俺が上司となり、階級も俺が警部、羽田は巡査と、確固たる差が存在していた。
「そう朝から怒鳴るなって。午前三時に連絡をもらってもなあ。よくお前ら集まれたな。上司として誇り高いぜ」
「誇るだけでなく、現場にきちんと来てください! 警部が捜査一課に赴任してから、もう二ヶ月が経っています。いい加減に捜査一課のやり方に慣れてください。いかなる時でも通報があれば、すぐに現場に急行! これが刑事の鉄則です!」
「わかってるって。最低限の指示はしたんだから、そう怒るなよ」
「最低限の指示って、『うわっ、こんな時間に事件発生かよ……。俺が行くまでに片付いていると、とても嬉しい』っていう警部のボヤキのことですか! これのどこが指示なんですか!」
「落ち着いてくれ、羽田さん。現場検証に、捜査一課にやってきたばかりの俺が行っても大して役には立てないだろう。最初は捜査経験が豊富な君達、優秀な部下に任せたってことさ」
「それはそうですけど……。警部が遅れてくるようでは、捜査員の士気が下がります!」
「あの……。羽田刑事。桜井警部へのお叱りはその辺にして、そろそろ現場に入ったらいかがですか?」
死体が発見された一軒家の前の路上で、部下に叱られている俺に、周りにいた刑事が助け舟を出した。
「それもそうね。そろそろ中に入りましょうか、警部」
「そうだな」
俺は羽田を連れて、死体が発見された住宅の家屋の中に入った。靴を脱いで玄関を上がり、リビングに入った。リビングは十畳程度といったところか。但し、キッチンが併設されており、部屋の広さ自体は十五畳程度ある。
キッチンのシンクを覗くと、洗われていない食器が積み重なっている。他にも、リビングを見回すと、ところどころに服や雑誌が散らかっている。
家族写真がリビングに飾られているため、この家の持ち主は最近奥さんと離婚した、もしくは別居中であると俺は勝手に推測した。
リビングを簡単に歩き回り観察してから、黒い革張りのソファーに腰を下ろした。ソファーの前には大きめの長方形の机が設置されており、文房具、爪切り、エアコンのリモコン等身の回りのものが置かれている。
「それにしても寒いな。暖房でも効かせるか」
俺は机の上にあるエアコンのリモコンに手を伸ばし、まるで自宅のように気軽に電源を入れた。
「って何をやっているんですか、警部!」
しかし、すぐさま羽田が俺の手からリモコンを奪い取り、急いでエアコンの電源を切った。
「おいおい。そんなに慌ててどうしたんだ」
「正気ですか警部! ここは死体の発見現場ですよ! 現場維持は刑事の基本です!」
「鉄則とか基本とか、小学校の先生かお前は……。暖房くらい、いいじゃないか。どうせ俺が来るまでに現場検証は終わっているんだろう? 現場の写真もたんまり撮っているんだし、小さいことを気にするなって」
「確かに現場検証は終わっていますが、そう簡単に現場の物を動かさないでください!」
「わかったって。そう何度も怒鳴らないでくれ」
どうもこの部下は優秀で真面目だが、若干頭が固い。俺の迂闊な行動にしょっちゅう文句を言っている。まあ、何度怒られても懲りない俺も俺だが。真面目な部下ほどからかうのは面白いのである。
誰のせいだと思っているんですか、という羽田の小言に、両手で耳を押さえながら、周囲の状況を確認した。
俺達が入ってきたリビングは、見たところ、確かに散らかっているが、それは日常生活の範囲内であり、誰かが争った形跡のような、特に不自然な点はなかった。
「死体が発見されたとのことだが、いったいどこで発見されたんだ? 見たところ、部屋の中は至って普通だが……」
「あ、はい。死体はこの家の中庭で発見されました」
急に仕事の話を始めた俺に動じることなく、羽田は冷静に事件の詳細について報告する。
俺はソファーから窓の向こうに見える中庭を、首だけを動かし確認した。
「中庭か。死んでいたのは、この家の住人か?」
「はい。死体となって発見された人物は橋本祐介。都内の出版会社の会社員を務める四十五歳の男性です。妻と二人の子供がいるようですが、彼女達とは別居中で、現在のところは一人暮らしだったようです」
別居中という推測は当たっていたようだ。
「ふむ、死因は?」
「どうやら二階のベランダから落ちて、地面に頭を打ち付けて死亡したようです。検視官の方は脳挫傷が死因で、即死との判断です」
「脳挫傷で即死か。発見者は?」
「発見者はこの近くの交番の巡査です。巡査が発見した時には、既に死亡していたそうです。発見時刻は午前三時五分、巡査が現場に到着する少し前の午前三時に、この家の中庭で倒れている人間がいるとの通報があったそうです」
おや、中庭に人が倒れていたとしても、通報者は、それをどこから目撃したのだろうか。この家の中庭は、リビングからは窓を通してよく見えるが、入り口の前の道からは塀が遮って見ることはできない。ビルやマンションなど、どこか高いところから、この家の中庭を見下ろし、倒れている橋本を発見したのだろうか。
「通報を受けて巡査が中庭に駆けつけ、死体となった橋本を発見したわけか。通報者は誰だ? 事情聴取はしたのか?」
俺は通報者を確認した。
「はい。捜査員が現場に到着した、午前四時過ぎに事情聴取しまして、既に自宅に帰ってもらいました。といっても、通報者は隣のマンションに住んでいる二人の住人の方なので、自宅といっても隣ですが。警部、この家の隣にマンションがありましたよね?」
「ああ。来る途中で見たよ。隣に建ってるから嫌でも目に入ったさ」
死体が発見された、橋本の家は、十二階建てのマンションに隣接している。
「通報者はそのマンションの住人です。深夜の三時頃に、マンションの自分の部屋のベランダの向こう側から、鈍い音が聞こえて、不審に思って窓を開けて外を見たそうです。そして、橋本の家の中庭を覗き、倒れている人影を発見して、ベランダから警察に通報したとのことです」
死亡した橋本の家は二階にベランダが設置されており、隣のマンションの各部屋にも設置されたベランダと向かい合っている。中庭を挟んだベランダ間の距離は四メートル程しかない。
中庭は、橋本の家のベランダの下に広がっており、マンションのベランダからは、橋本宅のベランダ及び中庭がよく見渡すことができる。
「通報者の二人は物音が聞こえた時、一緒にいたのか?」
「いえ。正確には、まず三階に住んでいた住人が窓の外で不審な物音を聞いて、自室のベランダから橋本の家の方を覗き、倒れている人影を発見したそうです。それで、もっと近くに寄って確認しようと思い、二階に降りて、真下の住民を叩き起こし、状況を伝えて、二人でその部屋のベランダから改めて橋本宅の中庭を見下ろした。通報はこの時に行われたと、二人は証言しています」
「ということは、通報者は橋本の傍に寄っていないんだな?」
「はい。二階から覗くと血を流して倒れているように見えたので、怖くなって駆け寄らなかったそうです」
「その判断は正解だったな。橋本は即死だったんだから、通報者が駆け寄っても助かった可能性はなかっただろう。まっ、いずれにせよ、橋本の死亡時刻は午前三時でいいのか」
「いえ、正確には違います。通報があったのが午前三時、付近の交番から巡査が駆けつけたのが午前三時五分。三階の住人が発見してから通報するまで五分程度の時間が掛かったとのことなので、正確な死亡時間は、通報者の一人が鈍い物音を聞いた午前二時五十五分になるかと思われます。おそらく、鈍い物音とは、橋本が自宅の二階のベランダから転落した時の音でしょう。その時間に起きていた付近の住民も同様の音を聞いたとのことですから、死亡時間は午前二時五十五分で間違いないかと」
「なるほど、死体は見れるか?」
「警部が来るまでに片付けましたよ」
「おいおい、捜査責任者の俺が来るまでに片付けたのか?」
「だって、警部がそう言ったんじゃありませんか。『片付けといてくれ』って。捜査員が警部に何度も連絡したのですが、警部は一向に電話に出なかったと聞きましたが……」
そう言えば、深夜にそんな電話があった気がする。寝ぼけて適当に返事をしたような記憶が微かにあるな。
俺はごまかすように返事をした。
「はははっ、深夜の三時過ぎに電話をもらっても、寝てるに決まっているじゃないか。歌舞伎町だってそんな時間には寝てるぜ」
「……警部」
再三再四に渡る捜査要請を無視し、のほほんと朝まで惰眠を貪り、現場検証が終わった午前九時過ぎにへらへら現場にやってきた俺に対して、羽田は不満を述べる。
「正直な話、私はがっかりしています」
「おいおい。どうしたんだ突然」
「私だけではありません。警部が捜査一課に配属された時、一課の誰もが期待に胸を踊らせました」
「そりゃ光栄だ」
「……何せ今度配属された警部は、東京大学法学部を主席で卒業、国家公務員第一種試験をトップで合格。鳴り物入りで警察庁に入庁した超大型新人だと聞いていました。真面目で優秀な方が来るって、署の皆は騒いでいましたよ」
「そりゃ光栄だ」
羽田が言った警察庁は、警視庁の言い間違いではない。警視庁が東京都を所管する警察であることに対して、警察庁は霞が関にある国の機関を指す。
警視庁は、神奈川県警や静岡県警と同様、地方自治体の警察であることに対して、警察庁は国の機関であり、治安維持に関する法案を策定したり、各都道府県を指揮統括したりする。都道府県警察が手足ならば、警察庁は頭脳といったところだ。
警察庁の職員は基本的にキャリア警察官で構成されており、これがいわゆる警察官僚である。キャリア警察官として警察庁に入庁した俺は、まだ若いが、幹部候補生、平たく言えばエリートなのである。
そんな将来有望なエリートの現実の姿にがっかりしたと、羽田は俺に不満を述べる。
「それが実際はどうですか……。警部が捜査一課に配属されてから、もう二ヶ月。裁判に必要な証拠集めや報告書作成などの面倒な事は全部部下任せ、勤務時間中にもかかわらず、ソファーで寝そべりだらだら漫画を読む。勤務時間が終了すれば、手当たり次第に婦警を口説いては手をつないで帰る。これでは単に遊び人ではありませんか」
「何だ、お前も口説いてほしかったのか?」
目の前でこれだけ小言を言われておきながら、一向に反省する様子もなく、あまつさえ軽口までたたくに俺の態度に、羽田は怒りで肩を震わせている。
「そういうことを言っているんではありません! もっと警部としての自覚を持ってほしいと言っているんです!」
「だってなあ。せっかく念願の捜査一課に配属されたものの、やって来る仕事といえば、検察の使い走りのような証拠探しとか、事故の後片付けとか、地味な仕事ばっかりじゃないか。俺はもっと殺人事件とか鮮やかに解決できるのかと思ってたぜ」
はあー、と羽田は俺の発言に呆れている。
「警部。殺人事件なんて、うちの管轄では一ヶ月に一件あれば多い方です。ドラマや小説に出てくるような殺人事件なんて、この平和な日本でめったに起こりませんよ」
「そうなんだよなあ。それで完全に拍子抜けしたというか、やる気がなくなっちゃってさ」
俺の腑抜けた発言にもう我慢ならない羽田は声を荒げて怒鳴りつける
「警部! いい加減しっかりしてください!」
「わかったわかった。俺が悪かったって。そろそろ仕事の話に戻ろうぜ」
羽田の文句がまだまだ続きそうなので、真面目な話題に切り替えようとした。
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