第1話 事件の始まり
桜井桂 二十四歳
二月十日、雪の降り積もる、真冬の夜にその事件は発生した。
事件発覚の契機は、一人の男性が倒れているとの通報が警察に寄せられたことだった。通報があった時刻は午前三時。
通報を受けた警察が、通報現場の最寄りの交番から夜勤をしていた巡査を派遣し、とある一軒家の中庭で死んでいる男性を発見した。発見時刻は午前三時五分。
男性の死体を発見した巡査は、犯人の姿を探して周囲を見回した。通報を受けて十分も経たないうちに駆けつけたにもかかわらず、犯人らしき人影は見えず、真夜中であるためか、周囲は静まり返っていた。
犯人の姿の代わりに、巡査は別の事柄を発見した。それは、死体が発見された一軒家の前の路地には、足跡が二つしかないことである。足跡は、路地がアスファルトで舗装されておらず地面の土がむき出しの状態であり、さらに雪が積もっていたため残っていた。
そのうちの一つは自分の足跡、もう一つの足跡は、どうやら死体の履いている靴と一致することを巡査は確認した。死体の靴の足跡は多少時間が経っているせいか、少しにじんでいたが、靴の識別には充分だった。つまり、死体の付近には発見者の自分と被害者の足跡しかなかったのである。
もしこの死体が誰かに殺された、いわゆる殺人事件だとすれば犯人はどこから入り、どこへ逃げたのだろうか。本来あるべきはずの犯人の足跡が見つからない。
そして、巡査は気付いた。もし、死体となって発見された人物が誰かに殺されたとすると、犯行は雪で覆われた密室で起きている、いわゆる密室殺人事件であることに……。
時刻は午前九時。
昨夜の通報を受けて、警察が駆けつけた時から、既に六時間程が経過していた。
捜査官や検視官による現場検証も粗方終わり、パトカーが押し寄せ野次馬が殺到して騒然としていた早朝の雰囲気は一段落して、付近には日々の静寂が戻りつつあった。
周囲の雰囲気が一段落したことの連絡を受けて、一人の男が現場に到着した。警察官らしく、黒の地味なスーツを着用しているが、身長は高く、美しく端正な顔立ちで、女性にはさぞかし人気があるだろう。
派手な服を身につければまるでホストのようである。地味な服を身に着けても彼が本来有している華やかさはまるで隠れていない。
その男の名前は、桜井桂。
東京大学を卒業し、国家公務員第一種試験(※現在の国家公務員総合職試験)に合格して、警察庁に入庁した警察官、いわゆるキャリア警察官である。通常の警察官試験を受けて合格した警察官が巡査からスタートするのと異なり、キャリア警察官は警察学校を卒業した時点から警部補の階級が与えられる。
警察に入ってから二年が経過し、二十四歳となった彼は警部に昇進し、現在、警視庁の管轄内のとある警察署で、刑事部捜査第一課、いわゆる捜査一課で、殺人・強盗等凶悪犯罪を担当する部署に所属している。
事件現場は彼の所属する警察署の管轄内にあり、桜井は通報を受けた事件の捜査責任者の立場にあった。死体を発見した巡査の連絡を受け、彼の部下である刑事が、早朝にも至らない時刻であるにもかかわらず、午前四時にはほとんど集結していた。
しかし、午前三時過ぎに死体発見の報告を受けた桜井は、現場に急行せよとの要請を無視し、低血圧だの、早朝は寒いからヤダだの、現場がうるさいだの、適当なゴタクを並べて、現場検証には参加せず、一段落してから、のそのそと現場に参上したのである。
彼が登場し、ようやく物語は動き始める。




