さいごのおかえり
自称無職の彼女とは近所に酒屋で偶然遭遇し、相席となり、共通の話題と言えばこむぎちゃんだったので、彼女について根掘り葉掘りどう思っているのかを掘り出されたところだった。
「家庭を顧みない親がいる子で、拠り所となる愛犬を飼うに至る手助けをしてくれた、しかもその後の何かと気を利かせて様子を見て? 手助けして? 下心なく褒めてくれる近所のお兄さん? 幼気な子にとっては初恋案件だろうがこの泥棒め」
「俺は何も盗んでいません……!」
「触れる触れないなんてな、関係ないんだよ。心に触れるか触れないか。これが大事。お前はあの子の心を抱きしめて撫で回したんだから惚れられて当然だろうが。責任取れやヘタレ童貞」
「言葉が強い」
ケッとばかりにビールを飲み干す角部屋お姉さん。お前らが癖と叫んでこむぎちゃんを応援する、こむぎちゃんに変な知識を教える厄介お姉さんだ。
だけどこむぎちゃんが女性として困ったときに助けてくれる筆頭お姉さんでもあった。
「でも俺は年上として子供を守ろうとしたわけで」
「うんうん立派立派。あたしだったら逃げちゃったかも。やっても病院に付き添う所まで。その後ちゃんと気に掛けてて偉い。そこが惚れられたポイントだ馬鹿め」
「いや子供一人で色々するの心配になるでしょ!? 特に夏の熱中症事件は危なかった! 命に関わる!」
「それはそう。涼む場所提供は良いことだけど、公共の施設でもよかったわけよ。そこを、手を上げてうちに来る? って言える男なんだよお前は。あのときのこむぎちゃんは可愛かった。夏の暑さだけじゃなかったね。この罪作り」
「その後もまあご一緒したけれど!? ご飯作ってくれるのは正直ありがたかったけれど!? 貴重な青春の日々を俺に費やしてもいい物かとね!?」
「忙殺されているお前の貴重なお時間を独占したいんだよあの子は。行ってきますと行ってらっしゃいを言える関係になりたいんだよ察しろ社畜め」
「社畜は俺もなんとかしたい……」
社会人がこんなに忙しいなんて思わなかった。
おかげさまで、お隣なのにこむぎちゃんとゆっくり話す時間もない。
「と思うのに、ここに居るわけは?」
「ぎく」
「仕事終わりにさっさと帰ればいい物を、わざわざ居酒屋で時間を潰すその心は?」
「えっとぉ……」
だん、と空のジョッキがテーブルを叩き付けた。
「逃げてるなてめえ」
「ガラが悪い」
目付きも悪い。
角部屋お姉さんは絡み酒お姉さんだった。
「知ってるんだよご近所さんは。わかりやすくほっぺの赤いこむぎちゃんを見ているからな。二歩進んで三歩下がるのやめろ。三歩進んで二歩進め」
「五歩前進してるぅ」
人差し指でぐりぐり肩をつつかれた。長い爪で穴が空きそうだ。
「手を出して放置の無責任野郎なら去勢案件だけど、あんたはそうじゃないでしょ。真剣に悩んで向き合ってるでしょ。というか今更さよならする方が無責任よ。さっさと責任取って孕ませてきなさいよ」
「段階すっ飛ばすのやめてくれません!?」
「こむぎちゃんはいつでもウェルカムって言っていたわよ」
「なんてこと話しているんだ!」
若い子の方が勢いが良い。
つい先日、うっかりキスをしてしまっただけあって、その内押し倒されそうで怖い。本当に怖いのは、そうなれば拒否できなさそうな自分の理性だ。据え膳食わぬは男の恥? 責任取れないのに手を出す方が恥だろ。流されるな。ノーと言える男であれ、俺。
「あんまり避けると、こむぎちゃんが実力行使に出てくるわよ。逃げずにさっさと帰って向き合いなさい」
今となっては、そう言って酒代を奢らせてきた角部屋お姉さんの言葉が正しかった。
ついこむぎちゃんと話し合う機会を伸ばしてしまったから、焦れたこむぎちゃんが俺を迎えに来た。
本当なら、そこで話ができた。きっと俺は戸惑いつつ、真剣な彼女に折れただろう。無邪気なわんちゃんを撫でながら、こむぎちゃんの手を握ることができた。
だけど、現実はとても残酷で。
俺の逃げは、彼女を危険な目にあわせて、愛犬を失う切っ掛けになってしまった。
「う、うぅう……」
こむぎちゃんが泣いている。
引っ越し前に、挨拶に来た彼女。彼女は明日、このアパートから巣立つ。
隣の部屋に住んでいた子が旅立つ。
それを寂しいと思う出所が親心じゃないと、流石にわかっている。
「お兄さん……お願い。お願いがあるの」
「どうしたの」
背中に回った手が、必死に俺にしがみ付いている。
すっかり濡れそぼった肩口に、彼女の柔らかな頬が押しつけられた。
「キスして」
「……んんっ!?」
んーーーー!?
事案ランプが点滅するが、拒否する前にこむぎちゃんの震えに気付いた。
震えながら、こむぎちゃんが俺に縋り付いている。
「わんちゃんが居ないなら、私、一人で頑張らなきゃだから」
しゃがみ込んでいる赤いランドセルが脳裏を過った。
「もう迷惑、掛けないから……」
しゃがみ込んだ子が振り返る。
「最後で良いから、お兄さんの、キスが欲しい」
そこにあるのは泣き顔だ。
「卑怯なやり方だなって思うよ。お兄さんは優しいから、私が泣いてたら、慰めてくれる。わんちゃんが居なくて寂しいって、これから一人だからって、同情を誘うようなこと言ってる。やり口が汚いって思うよ。お兄さんが拒否できない状態で言っているってわかってるよ」
ボソボソ続くのは、と手も小さい声だ。小さけれど、これは叫び声だ。
悲痛な、悲鳴だ。
ボロボロと涙をこぼしながら、こむぎちゃんが顔を上げた。
「でも私、お兄さんのキスが欲しい。キスしてくれたら私、頑張れるから。一人でも、頑張れるから」
子供みたいな泣き顔が、俺を見上げていた。
いつかと同じように、俺を見ていた。
――ああ、これはダメだ。
こむぎちゃんの肩を抱く手に力が籠もる。ぐっとより一層身体が密着した。
ゆっくり近付いた唇に、こむぎちゃんが目を伏せる。
俺たちの距離は、零になった。
ただし、キスはしなかった。
俺は力一杯、こむぎちゃんを抱きしめた。
小さな身体が震える。
「……なんで、だめ? だめ、なの?」
「だめだ」
思いのほか厳しい声が出て、こむぎちゃんの肩が跳ねた。
「独りになろうとするのは、ダメだ」
――ここで俺が、キスをしたら。
この子はこれを最後にして、一人で生きていくつもりだ。
わんちゃんと俺の思い出を胸に、一人で……独りで生きていけるからと。これはそういう宣言だ。
孤独を癒してくれていた存在が居なくなった。
傍にいた温もりがどこにも居ない。
それは、こむぎちゃんをとても孤独にしただろう。言葉では表せないくらいの悲しみが、彼女を臆病にしている。
それは、ダメだ。
わんちゃんが吠えている。
軽やかに、嬉しそうに。
そういう姿を、忘れちゃダメだ。
「ごめん。俺は君を、独りにさせられない」
今までずっと向き合うのを逃げていた癖に。
今更だとしても。
「迷惑なんて思ってなかった。負担になんか思ってない。むしろ、いつも助けられていたよ。俺だって、一人で生活するのは不安だったんだ」
頼りになる存在とは違う、放っておけない存在。
一人が寂しい者同士、俺たちはお互いが必要だった。
俺たちだけじゃない。
「一緒に、わんちゃんの話をしよう。忠犬じゃなくて、無邪気で元気な、こむぎちゃんの妹の話をしよう」
「……っ!」
世間では美化されて、忠犬としての印象が先走っている愛犬のわんちゃん。
その等身大の姿を覚えていて、思い出話ができるのは、もう俺だけだろう。
「泣いたっていいんだよ。我慢しなくていい。俺を、こむぎちゃんの泣き場所にしてよ」
小さい身体を抱きしめる。
成長したはずなのに、それでも相変わらず、俺の腕で閉じ込められる小ささだ。
小さなこむぎちゃんは、声を上げて泣いた。
悼んで泣いた痛々しい声ではない。淀んだ物を発散させるような、堰を切った泣き声だった。
「あとあれだ。そのえーと。キス一つで満足されても困る」
「えっ」
「キスしたらそれ以上もしたくなるから本当に困る」
「あっえっ」
「本当に困る。無理強いしたくない。大事にしたいから、手加減させて欲しい」
「あっあぅ、あぇえ……????」
「責任取るから、お願いだから……キス一つで満足しないで」
「ひえ……っ」
泣き疲れて真っ赤になったこむぎちゃんは、疲れてしまったのかそのまま気絶した。
なんとなく、「なにしているのおまえ」という呆れ顔のわんちゃんが、こっちを見ている気がした。
ちなみにこの後、目を覚ましたこむぎちゃんに襲撃された俺はセカンドキスを失った。
その勢いは、久しぶりに会ったわんちゃんの挨拶ダッシュとよく似ていた。
やっぱり飼い主と愛犬は、似るのだろう。うん。
「そっくりだ」
長い時間が過ぎて、春の陽気も夏の熱気も。秋の夜長も冬の温もりも繰り返した。
年月を忘れるほど繰り返して、沢山の皺を刻んだ。
その皺がなくなり、まるで出会った頃のように若返って。
黄泉路で再会したあの子達は、そっくりの顔で笑った。
会いたかったよ。
「おかえり」
これにて完結になります。
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