わんちゃんとこむぎちゃんと、
ジアンが鳴き声の、大学生で社会人な旦那の回想。
「わんちゃん、わんちゃん……」
しくしくと腕の中で泣くこむぎちゃん。
すっかり背が伸びて大人っぽくなった彼女だけど、この時ばかりは昔に戻り、小さな子供のようだった。
愛犬のわんちゃんが死んだ。
彼女を守って。
日が落ちるのが早くなった、秋の夜長を実感する夜だった。
彼女と愛犬のわんちゃんは、俺の帰宅を出迎えようと外に出た。褒められた行為では無いが、迎えに出たのは人通りの多い場所だった。本来だったら、夜に外へ出てはいけないと説教をしながら、一緒に帰ることができるはずだった。
しかし、できなかった。
ナイフを持って暴れる男が現われたから。
監視カメラの映像を見た。
そいつは駅の裏側から現われて、街灯の下で立ち止まった彼女に真っ直ぐ近付いた。近付いて、ナイフを振り下ろした。
咄嗟に腕を突き出して顔を庇ったこむぎちゃんの腕にナイフが擦り、体勢を崩して尻餅をつく。腰が抜けたのか逃げられない彼女に再度ナイフが振りかぶられ……振り下ろす前に、愛犬が弾丸のように飛び出した。
主人への害意をしっかり理解したあの子は、勢いよく男の足に齧り付いた。
男が悲鳴を上げて足を振り回し、引き離そうとナイフで刺しても。何度も何度も背中を刺されても、決して男の足を離さなかった。
犯人が取り押さえられた後も。
命尽きるまで、犯人の足を離さなかった。
その後、わんちゃんは「飼い主を命がけで守った忠犬」としてメディアに取り上げられた。
その結果、警察関係者だけでなく、マスコミや全く関係のない野次馬まで詰めかけてきてわんちゃんのことを根掘り葉掘り調査しにやって来た。
愛犬を失った飼い主に対して、周囲は「驚きの忠誠心だ」「飼うならやっぱり犬だよね」「飼い主を守ってこそ犬冥利に尽きる」などと囃し立てた。悼む声よりも讃える声が大きくて、まるでわんちゃんの死が民衆の娯楽として食い潰されるようだった。
こむぎちゃんは愛犬を失ったのに、静かに悼む時間を得られなかった。
更に悪かったのが、こむぎちゃんの両親。彼らはわんちゃんが褒め称えられると、まるで今まで自分達が大事に世話をしていた犬を失ったかのように周囲に語り出した。
一度も世話などしたことがないのに、自分達の躾がよかったから娘を守る犬になったのだと主張しだしたのだ。
しかしそんな事実はどこにも無いから、ボロが出るのも早かった。
事情を身近で見ていたアパート関係者だけでなく、一度も会話をしたことのない近所の人まで両親の発言が嘘であると証言しまくり、わんちゃんの悲劇に便乗した売名行為にネットは大炎上した。
彼らの評判などどうでもいいが、両親のネグレクトでこむぎちゃんとわんちゃんが孤立無援だった事実まで発覚し、こむぎちゃんの周囲はとても騒がしくなった。
俺にできたのは、追いかけてくるカメラやマイクを近所の人達と一緒に遮り続けることだけ。
そして幸いなのは、彼女が独立できる年齢になったことだけだった。
「わんちゃん……っ」
高校を卒業して就職が決まり、一人暮らしで引っ越しを決めたこむぎちゃん。
彼女はやっと、周囲を気にせず、愛犬を悼むことができている。
俺の、腕の中で。
自宅のソファで寄り添って、涙をこぼす彼女を抱きしめる。肩の辺りを彼女の涙で濡らしながら、俺は叫びたい衝動を抑えていた。
(じーーーーあーーーーんーーーー!!)
それどころじゃないことくらい、わかっている。
彼女はやっと、落ち着いて愛犬を悼んでいるのだと、わかっている。
通り魔事件。愛犬の雄姿を讃える報道。過度な取材。調子に乗った両親。ネグレクト発覚からの誹謗中傷。やけに神聖化されたわんちゃんの一生。
親から独立し、これを機会に縁を切り、このアパートから巣立っていく。
ここまでの流れが、長かった。
彼女がこうして泣けるまで、本当に長かった。
こむぎちゃんは、素直に泣けない子供だった。
いつも元気に笑うこむぎちゃんがご近所では通例だが、俺の中でこむぎちゃんと言えば、頼りなく泣いている姿が印象深かった。
だって出会ったときから、この子は泣いていたから。
俺が彼女たちと出会ったのは、今から七年前。
高校卒業前に一人暮らしする予定のアパートを下見した帰り道。しゃがみ込んで動かない赤いランドセルを見付けたのが始まりだった。
ぶっちゃけ、一度は素通りした。見知らぬ他人に声を掛けるだけで訝しがられるご時世だ。特に男から女に声を掛けるなら、十分注意して不審者と思われないように行動しなくてはならない。
同年代に声を掛けてもなんだこいつって目で見られるのに、今時の小賢しい小学生に声を掛けられるはずがない。小学生マジ怖い。なんなの罵倒に対する語彙がストレートすぎて火事じゃなくて大爆発起こすんだけど。
だけど通り過ぎて、チラリと見えたランドセルが震えていてぎょっとした。
赤いランドセルは女の子だった。女の子の前には薄汚れた段ボール。
その段ボールに、生まれたばかりの小犬が詰められていた。
え、これはヤバイ。
でもってどっちだ。
泣く泣く捨てているのか、助けたくてもできなくて泣いているのか。どっちもあり得る。
見てしまった俺はどうしたら。
というか生きてる? 死んでる? 動物の遺体は燃えるゴミ。収集車が持っていく。置き場所によっては嫌がらせ。生きているならどうする。動物病院あったっけ。このあたりの土地勘ない。
一気に沢山の情報が頭を過り、足が止まる。
俺に気付いた女の子が顔を上げてこっちを見た。
ボロボロと大粒の涙をこぼす女の子。
グッと唇を噛み締めて、一匹の仔犬を手の平に抱えている。
その仔犬は、動いていた。
女の子は何も言わなかった。だけど潤んだ目が雄弁だった。
助けて。
目が合った瞬間、俺の足は動いていた。
それから今までにないくらいの速度で動物病院を調べて、その子と一緒に向かった。素手はヤバイからハンカチで包んで、放置もヤバイから段ボールも抱えた。
今思い返せば俺も冷静じゃなかった。見付けたのは少し距離のある動物病院だったというのに、何故か歩いて向かった。小さい女の子の手を引いて沢山歩かせてしまった。
辿り着いたときは寒い季節なのにお互い汗だくで、病院の人達をとても驚かせてしまった。
残念ながら、段ボールの子たちはダメだった。しかし、ずっと女の子が抱えていた命は助かった。
助かったが、それで終わりではない。
世知辛いが、飼い主の居ない仔犬の処遇を、病院側に任せることはできなかった。
「私が飼います」
少女、こむぎちゃんはそう言った。
拾ったのは自分だから、自分が飼うと。
たいした責任感だが、彼女は小学生。保護者の許可なく決めることはできない。
かといって、俺が飼うこともできない。来年の春から新生活。器用でない自分が、学業家事飼い犬の世話を熟せるとは思えなかった。バイトもしなくちゃだし。命に責任が持てると思えなかった。
「私が飼います」
だけどこむぎちゃんは、ぴすぴす鼻を鳴らす仔犬を潤んだ目で見ながら、譲らなかった。
幸いだったのは、連絡の取れたこむぎちゃんの両親が拒否しなかったことだろう。
ただ、世話は自分でするようにとか、生活費から差し引くとか、なかなか厳しいことを言っているのがとても気になった。特に後半。小学生へ告げる言葉ではない。
だから俺は、メモ帳を破って電話番号を書いて、こむぎちゃんに渡した。
「こいつは、俺も一緒に拾ったようなもんだから……何かあったら連絡して」
そうは言っても知らない男に連絡などし辛いだろうから、定期的に連絡が取れたら良いなぁ……なんて思っていた俺だったが。
まさか下見した部屋の隣がこむぎちゃんの家だったなんて、春になるまで気付かなかった。
そこから始まったこむぎちゃんと、命名わんちゃん(名前を付け忘れているのかと思えばこれが名前でびびった)との生活は、悪い物ではなかった。
慣れない生活と度重なる課題で疲弊しても、お兄さんと見上げてくるこむぎちゃんと全力で懐いてくるわんちゃんにはとても癒された。兄弟が居ないから、妹が居ればこんな感じかとも思った。
まあ、世知辛い世の中だから、血の繋がらない赤の他人の俺がそう思っていても、過度な接触は事案。
そう、こむぎちゃんは女の子だから特に気を遣い、なるべく触れないように気を付けていたのだが。
「触れなきゃ惚れないと思っているあたりが童貞」
「おぐっ」
焼き鳥を囓りながらそう言ったのは、同じアパートの角部屋に住む女性だった。
責任を考えすぎて動けなくなるタイプの男。
でも、泣いている女の子を放置できない男。
ただしやっぱりヘタレ。
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