花澤彩和(5)
◆登場人物◆
・岡本千夏:高校二年生、文芸部部長。一人称は「わたし」。ちょっと舌足らずな喋り方の小柄な女の子。お茶を淹れる腕は一級品。年下彼氏の大ちゃんとの距離を詰めようと奮戦している。
・里見大作:大ちゃん。千夏の彼氏。一人称は「僕」。二メートルを超す巨漢だが、根は優しい。のほほんとした話し方ののんびり屋さん。その見栄えに反して手先が器用で、多彩な技能を隠し持っている。
・那智しずる:文芸部所属。一人称は「あたし」。人嫌いで有名だが、学業優秀の上、長身でスタイルも申し分のない美少女。丸渕眼鏡と長い黒髪がトレードマーク。妙なところで勘が働く。
・花澤彩和:三年生。写真部の副部長兼スタイリスト。スレンダーなボディーで漢前なお姐さん。ルポライターを目指しているらしいのだが……。
・荒木勉:三年生で写真部部長。芸術家肌で、撮影の総合的技術力はプロ並みと噂されている。文芸部の部員をモデルに写真集を作る企画を進めている。実は舞衣以上の策士で、芸術のためなら悪魔にも魂を売りそうな人。彩和の彼氏だった。
結局、天体観測の夜は「大ちゃんと二人っきり」と言う訳にはいかなくなった。わたし達は、様子を見に来たしずるちゃんや花澤先輩を交えて、流星を観測する事になった。
四人で並んでレジャーシートに寝っ転がると、星がいっぱいの夜空が目の前に広がっている。
「おっとぉ、流れた。二時から八時の方角」
「えっ? どこどこ」
「もう、消えちゃったよ」
「あっ、また流れたんだなぁー」
「わたしにも見えた」
こうして改めて夜空を見ていると、結構流れ星って流れてるんだなぁ。知らなかったよ。
「千夏、お願い事してる?」
「全然ダメ。すぐに消えちゃうし。三回も唱えられないよ」
「カネ・カネ・カネって言えばすぐよ」
「しずるちゃん、夢がないなぁ」
「そうかなぁ。幸せはお金で買えないけど、幸せのお手伝いは出来るんだぞ。お金、ダイジ」
そうだけどさぁ。もっと夢のある事をお願いしたいなぁ。
「じゃぁ、私は、オトコ・オトコ・オトコって言うかぁ」
「花澤先輩も夢がないですよ」
「てか、花澤先輩は、写真部の荒木部長と付き合ってるんだと思っていましたよ、あたし」
「え? そうなの、しずるちゃん」
「なんかさぁ、すぐ横に立つ親密さや言葉のやり取りが、熟成したカップルを連想させられたわ」
(そ、そなんだ。しずるちゃんって、こういう事には鋭いっていうか、勘が働くからなぁ)
すると、花澤先輩は、少し照れながら、こう応えた。
「あは、分っちゃったぁ。私とトムくん……っていうか荒木部長ね、付き合ってたんだぁ。今年の春で別れたけど」
「えー! マジですか! 全然分からなかった。っていうか、何で別れちゃったんですか? 荒木先輩、格好いいのに」
花澤先輩は、「フゥー」と溜息を吐くと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私とトムくんは、一年の頃から写真部でさぁ、どっちも玄人気取りの『写真バカ』だったのよ。それで、最初の半年はケンカばっかだったけど、そのうちに自分達の本当の気持ちに気がついてねぇ。それで、付き合い始めたんだ。付き合ってみれば、彼、写真の技術とか詳しいし、アシストしてもらっても、なんて言うかぁ、『痒いトコロに手が届く』ってやつ。つまり相性良くってね。それで続いてた訳」
「じゃぁ、何で別れちゃったんですかぁ?」
わたしは、何故か二人の事が気になって尋ねた。花澤先輩は、一瞬、言葉に詰まったが、何かを吹っ切るように、溜息を吐くと、次のように語った。
「アンタ達なら言ってもいいかぁ。私ね、今年の春、彼の子供を堕ろしたんだぁ。彼ってさぁ、前にも言ったかも知れないけど、芸術家肌なんだよね。で、芸術の何たるかを追求していくと、絵描きも写真屋も、見事におんなじ所に到達するんだよね。裸婦──つまりは女性のヌードね。で、私がトムくんのモデルになったって訳。でもさぁ、どっちも十代の若い盛りじゃん。裸の女を眼の前にして、本能が黙ったままの訳無いじゃない。まぁ、あいつは『お前だけ裸に剥くのは対等な関係じゃない!』なんて事言ってさ、自分も全裸で写真撮ってるのよ。笑えるでしょう。でも、男の場合はさぁ、欲情すると目に見えて分かるじゃないさぁ。アソコが大きくなっちゃうでしょう。で気がついたら、私達、やっちゃってた訳よ」
花澤先輩の応えに、わたしは驚愕した。何か凄く生臭いが、真実味がある。
「で、出来ちゃったんですか?」
「その通り。で、親にバレて、病院連れてかれて、有無を言わせず堕ろされた訳。彼も、彼の両親も、平謝りでさぁ。もう、昼ドラかっ、って言うくらいの勢いでね。それで、別れちゃったの。正確には別れさせられた、だけれども。でも結局は、私達の気持ちもグラついてさぁ。前のようには、いかないんだわさぁ」
(花澤先輩も、重い過去を背負ってるんだなぁ)
わたしには、遙か遠くの『大人』の世界のようだ。何でだろう? 先輩は淡々と喋ってるのに、わたしはドキドキして顔が赤くなるのが、自分でもよく分かった。
「あれ? 何でかなぁ。もう遠い過去だと思って、振り切ったはずなのに、何で涙が出ちゃうんだろう。お、おかしいよね。……、ウッ、グス、……ヒック」
花澤先輩は目に涙をいっぱい溜めて、上を向いていた。溢れ出た涙は、止めどなく頬を伝わって、流れ落ちていた。
「ゴメン。ゴメンねぇ。もう、過去の事だって割り切った筈なのに。何でかな。何で、こんなに苦しいのかなぁ」
自分の意思とは裏腹に、涙を流し続ける花澤先輩を、しずるちゃんが、その胸に引き寄せて抱きしめていた。先輩は、まるで小さな子供のように、しずるちゃんの胸で嗚咽を漏らしていた。そんな先輩を、わたしも大ちゃんも、何を言ってあげたらいいのか、分らなかった。
わたし達は、先輩を泣かしたかった訳じゃない。でも、自分達にその責任があるように思えた。
「へ、変だよねぇ。人がイチャイチャするところを覗きに来て、自分の方が泣き崩れてんだから。あは、もう大丈夫だって思ってたんだけどなぁ。おかしいなぁ。……ゴメンね、しずるさん。後ちょっと、……ちょっとだけでいいから泣かせて。すぐ止まると思うから」
「ええ、大丈夫です。何も心配ありませんよ。大丈夫、大丈夫です」
静かに泣き続ける花澤先輩を、しずるちゃんは聖母のように胸に包んでいた。
「あのね、『付き合う』って簡単に言うけれど、その中身には私達のようなドロドロした現実もあるんだ。当然、その先には婚約とか結婚とか、出産とかあって、私みたいに途中で落ちこぼれるヤツもいるのよ。てか、ほとんどはそうなのかも知れない。でも、そうじゃないカップルもいるんだって、信じたいじゃない。そうじゃないと夢がないじゃない。『現実ってゆうつまらないモノに押し潰されるヤツばかりじゃない』って思いたいじゃない。私は、それを確かめたかったんだと思う。夢が夢のまま続くカップルだって、あって良いんじゃないかって。じゃなきゃ、報われないでしょう。私も彼も、私達の子供も」
花澤先輩は、泣きながらも、そう言い続けた。
「私、いつかは、トムくんと結婚して、子供も出来て、三人で慎ましく暮らす日が来ると信じてたんだよ。それを無理やり現実に引き戻されて。……私ねぇ、もう子供産めないんだぁ。初めての赤ちゃんを堕ろさせられて、これが最後だったなんて、報われない。私の女としての道は、もう閉じちゃったんだよ。後はどうしようも無いじゃない。仕方ないじゃない。だから私は、一度は諦めかけた『報道カメラマン』の道に進もうと決意したんだ。道は厳しいよ。彼氏とか言ってられない。だからこそ、私はトムくんと別れたの。私は、もう彼の芸術に着いて行ってあげられない。資格が無くなっちゃったから」
わたしは先輩に、『そうじゃない』って言ってあげたかった。でも、あまりにも先輩の現実が重すぎて、その分自分達が薄っぺらく見えてしまって、何も言えなかった。
ふと気が付くと、大ちゃんがシートの上に上半身を起こして座っていた。いつもの細い目が優しく花澤先輩を見つめていた。
「花澤先輩は、それで良いんですかぁ? 荒木部長には、もう脈は無いんですかぁ?」
大ちゃんにそう言われた先輩は、しずるちゃんの胸から顔を上げると、興奮したように叫んだ。
「分かんないわよ! だって、聞いてないし。聞く資格も無いんだから。もう、しょうがないじゃない。これ以上、どうすれば良いって言うのよ!」
そう言われても、大ちゃんは動じずに先輩を見つめていた。凄く穏やかに。
「しずる先輩には、お二人が彼氏彼女に見えたんでしょう。だったら、それが、そのままの真実ですよ」
大ちゃんのその言葉に、先輩は、一瞬呆気に取られていた。
「なっ、まさか、私達が未だ終わってないって言うの?」
「それは、荒木部長と花澤先輩次第です。僕は、そんな将来の事なんて考えられないんだなぁ。もう、頭の中が、千夏さんの事でいっぱいなんだなぁ。それで……それだけで充分幸せなんだなぁ」
「大ちゃん……」
わたしは、それ以上何も言えなかった。好きっていうだけで充分幸せなんて、子供過ぎる。でも、そんな子供みたいな彼に、わたしは恋をしたんだ。だから、わたし達は大丈夫。そんな自信が湧いてくるようだった。
「もう、君等には敵わないなぁ。変わんないね、君等は。何かそれだけで、私、救われたような気になっちゃった。恋する気持ちって、凄いね。私には、到底真似できないわ」
「真似なんか、しなくっていいんですよぉー。荒木部長に会って、ちゃんと話をすればいいだけなんだなぁー。自分に正直に。それだけなんだなぁー」
大ちゃんは、さも当たり前のように、当たり前の事を言った。
(そっか、それで良いんだぁ)
わたしは、胸の内がスッキリしたような気がした。
「花澤先輩、もう大丈夫ですね」
しずるちゃんが先輩に声を掛けた。
「ええ。ゴメンねぇしずるさん。そっちの二人も。変な事を聞かしちゃって、スマンねぇ」
「いえ。あたしには、凄く参考になりました」
「そっか。ならいいんだけど」
花澤先輩は鼻声だったが、もう泣いてはいなかった。
「あーーー、君達に話して、何かスッキリしちゃった。ありがとね」
「そんなことありませんよ、先輩。それで、先輩は荒木部長とは、どうなされるんですか?」
わたしは今後の事が気になって、そう尋ねた。
「うん。最初っから諦めるのは止めた。今度は私の本心を打ち明ける。私は報道カメラマンになりたいって。それでも、付き合っていける? って、訊くんだ」
(そっかぁ。先輩、もう諦めないんだぁ。良かった)
しばらくして、花澤先輩はシートの上で立ち上がった。そして、ふと思い出したように、ワンピースのポケットから何かを取り出すと、わたしに手渡してくれた。
「そうそう、忘れてたよ。千夏さんに会ったら渡そうって思ってたんだ、これを。私には、もう必要ないからね」
そう言って渡された物は……、
「こ、こここ、コンドーさんだぁ」
(何で、こんな所でこんな物を? 何を考えてるの?)
「だからね、ヒ・ニ・ン。これダイジ。覚えとくように」
「はい……」
わたしも大ちゃんも、アルミパックに封入されたコンドーさんを目にして、真っ赤になってそう応える事しかできなかった。




