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夜空のスピカ 後


 そう、私が初めてアレックス様と出会ったのは9歳の時ですの。

 あの日は朝から最高の日で……ええそうですわ。あの日もこんな色のドレスを着ていましたわ。


 青いドレスを着た私に、アレックス様はおっしゃいましたわ。私は夜空で一等輝く星の様だと、一目でその眩さに恋に落ちたのだと。私の美しさを星に例えるだなんて、ロマンチックな方ですわよね。ふふ。

 あら、なんですの貴女その顔は。気のせい?そうですの?

 ……ええ、勿論。私子供の頃から大好きですのよ、青いドレス。

 

 私もアレックス様も好きな色が同じだなんて、本当に運命を感じませんこと?……ねぇ?

 





「……ねぇ、お兄様もこのドレス変だと思いますわよね」


 ガタガタと揺れる馬車の中、不貞腐れた気分で紺色のスカートを眺めながら兄に問うた。限りなく黒に近いそれは、ずしりと重たく足にのしかかってくるようで気分が滅入る。

 今日の為にとお母様が新調したドレスは、明るく煌びやかな装飾を好む私の趣味とは真逆のものだった。直前まで着たくないと駄々を捏ねたが許されず、侍女たちに無理矢理着つけられお兄様と共に馬車へと放り込まれたのが先程だ。普段は通る我儘が通らなかった事と、気に入らないドレスでパーティに参加しなければいけない事で、私の気分は下降の一途を辿っている。

 だからお兄様が変だと言ってくれさえすれば、それを理由にすぐにでも屋敷に帰ろうと思っていた。


「ああ、良く似合っているよ」


 けれどお兄様はちらりともこちらを見ずに、私の望まない言葉を返してくれた。

 こんな時でなければ、兄の珍しい誉め言葉に喜んだかもしれない。けれど今は、この変なドレスを似合うだなんて言われても全然嬉しくなかった。

 

「……これが私に似合うだなんて、お兄様の目は節穴ですわね」

 

 お兄様の態度と返事に、いよいよ私の機嫌は底を這う。せめてもの意趣返しにと吐き捨てるように返事をしたものの、非常に虚しい。

 お兄様が厳しい方なのはわかっているけれど、今日くらいは優しくしてくれたっていいはずなのに。だって今日は、私の初めてのパーティデビューなのだ。……とは言っても、社交界デビューの予行練習のようなものだけれど。それでも私だって緊張くらいする。


「……私、こんなドレスでパーティになんか行きたくありませんわ」


 結局我慢できずに本音を零した。そもそも私に我慢なんてできないし、する必要だってないはずなのだ。

 俯いて小さな声でそう言う私に、お兄様が動く気配を感じて顔を上げる。


「じゃあ、行くのをやめるかい」


 目の前に、とても綺麗な翠があった。前に見たグリーンサファイアという宝石が、確かこんな色だったと思いだす。


「アメリアが本当に行きたくないのなら、俺は行かなくてもいいと思う」


 綺麗な宝石がゆっくりと瞬いた。どうやら宝石かと思った翠は、お兄様の瞳だったらしい。あまりにお兄様との距離が近かったから、気が付かなかった。


「え、本当に?」


 本当なら望んだ言葉を貰えて喜ぶところなのだけれど、喜びよりも驚きが優ってしまって、つい頷くよりも先にそんな事を聞いてしまう。

 だって、まさかお兄様が賛成なさるとは思っていなかったのだ。どうせまた説教をされて終わるのだろうと、心のどこかでは思っていた。お兄様が私の我儘を聞いて、あまつさえ味方をしてくれるなんてそんな事、今まで無かったのだから……。


「でも、お母様もお父様も……行きなさいって……」


「ああ、だから行かなくてもいいんじゃないだろうか」


 そう言うとお兄様は私からゆっくりと離れ、腕を組んで考え込むように俯いてしまった。

 普段から折り目正しく、我儘を言わず、お父様とお母様に逆らった事の無いお兄様がそんな事を言うので、いよいよ私の驚きは混乱へと転じる。

 

「お父上とお母上がアメリアの我儘を無視するだなんて、あの人達のそんなまともな対応は初めて見た」


 何だか馬鹿にされているような気がするけれど、たしかにここ数日のお父様とお母様は様子がおかしかった。なんだかピリピリしていたし、ドレスを着たくないと言う私の我儘も決して聞いてはくれなかったのだ。

 

「……嫌な予感がするんだ」


 真剣な表情でポツリとお兄様が零した言葉に、混乱していた頭が凍り付く。お父様とお母様はこれから行くのはとても素敵なパーティだと言っていたけれど、本当はそうじゃないのだろうか?

 なんだか言いようのない不安に襲われ、無意識にお兄様の燕尾服の袖を掴んでしまった。それにお兄様も気が付いたのだろう、俯かせていた顔を上げて振り向く。


「……ああ、すまない」


「いえ」


「俺の考えすぎだな、気にしないでくれ。馬鹿な事を言った」


 結局お兄様は、また前を向いて黙り込んでしまった。これで会話は終わりだという事だろう。帰る帰らないの話も、もう口にだせる雰囲気ではなくなってしまった。……あの時すぐに頷いていれば、帰る事ができたのだろうか。


「……アメリア」


 けれどまたすぐにかかったお兄様の声に、パッと顔を向ける。まだ話は続いていた様だ。


「アレキサンダー様には、あまり近づかない方がいいかもしれない」


「……え」


 顔は前を向いたまま、驚くほど真剣な声色でお兄様は言った。

 アレキサンダー……お兄様の口から出た名前は、今回のパーティの主役であるはずの人物だった。

 



 □ 




「……すごいですわ」


 ヴォルフガング様のお屋敷に着いた途端、その大きさと装飾に目を奪われた。 

 家のお屋敷も随分と大きく立派なものだけれど、こことは比べる事もできない。


「アメリア、行きますよ」


 見事な外観に呆気にとられる私に、お兄様が声をかけてきた。

 最近お兄様はお家用とお外用で言葉使いを変えている。私はお家用のく砕けたお兄様が好きなのだけれど、人が居るとお兄様は私にもお外用の言葉使いでしか喋ってくれない。

 

「ええ、ごめんなさい。行きましょうお兄様」


 兄の差し出した腕に、私の腕を絡めて歩き出す。お兄様のエスコートは完璧だから、私さえ変な事をしなければ大丈夫だと気合を入れる。

 けれど一歩二歩と歩き出し、ホールの中心に来る頃には顔が上げられなくなっていた。

 周りには、同い年くらいの子供達が沢山いる。女の子達は皆可愛らしいドレスを着ていて、やはり一人暗く地味なドレスを着ている自分に場違い感を覚えてしまったのだ。


(……どうして私が、こんなに惨めな気持ちにならないといけませんの)


 やはり一刻も早く屋敷に帰りたい。お父様とお母様は先に会場へ着いているはずなのだけれど、人が多くて見つけることは難しそうだ。どうにもできない現状に、どんどんと心が焦れていく。

 一度気になりだすと、どうしてもその事ばかりが頭を占めてしまうのは何故なのだろう? 先程抱えた羞恥心は、今にもはちきれんばかりに膨らんでしまってる。

 

(帰りたい……私は嫌だって言ったのに……これも全部お父様とお母様のせいですわ!!)

 

 やがて羞恥は苛立ちに変わり、一連の責任をお父様とお母様に転化する。そうするとなんだか両親にさえ裏切られた気持ちになって、じわりと目頭が熱くなった。

 ……でももしここで泣き出すなんて失態を晒したら、それこそ私は憤死してしまうだろう。

 もう、どうしたらいいのかわからない。

 

 

「胸を張れアメリア」


 ふいに隣から聞こえてきた小さな、でも優しく力強い声に弾かれた様に顔を上げる。


「人は着ている服でなく、着ている人間を見ているものだ」


 滲んだ視線の先で、背筋を伸ばし前を向くお兄様は、その場に居るどの殿方よりも堂々として輝いて見えた。

 お兄様だって正式なパーティは初めてで、燕尾服も着慣れていないだろうに、決して服に着られる事無く自分を魅せる事が出来ている。


(どうしてお兄様は、いつも揺らがないでいられるのかしら)


 堂々とした立ち振る舞いのお兄様の姿を前に、滲んだ視界が晴れていく。

 誰かに間違っていると言われても、変だと指をさされても、お兄様は気にしない。どんな服にもどんな食べ物にも、お兄様が文句を言うところを見た事が無い。

 だってどんな服でも似合ってしまうし、どんなものでも残さず食べる事が出来るからだ。もしかしたらお兄様なら、私のドレスだって堂々と着こなすことができるのかもしれない。


「……ねぇお兄様、このドレス変じゃないかしら」


 もう一度、馬車でした問いを投げかけた。

 今度は、同意を得る為じゃない。

 

「俺は似合うと言っただろう」


 果たしてお兄様は望む言葉を、今度は私の目を見てはっきりと言ってくれた。

 お兄様は私に慰めを言ったりはしない。だからきっと、お兄様がそう言うのなら本当に似合うのだろうとふと思った。

 馬車の中で聞いた時はただ癪に触っただけの誉め言葉を、今度は素直に受け取ることができる。


「……そう」


 それまでひたすら重く感じたドレスが、ふわりと軽くなった気がした。

 もう一度視線を落として紺色のスカートを見る。黒だか青だかよくわからないと思ったそれは、シャンデリアの光の下ではたしかに深く奇麗な青色に見える。


「……なら、もう気にしませんわ」


 お兄様を見上げてぽつりとそう呟いた。お兄様が着こなせるのなら、私にだって着こなせるはずなのだ。だって私はお兄様の妹なのだから。

 そう思えば、今まで気になっていた周りの目も一切気にならなくなった。自然と背筋を伸ばし、胸を張る。


「ありがとうございます。お兄様」


 お兄様が隣に居る事が心強くて、珍しく素直に感謝の言葉がこぼれ出る。

 その言葉にお兄様も少し驚いた様だったけれど、珍しく微笑みを浮かべて頷いてくれた。

 

「……アメリア、」

 

 しかしお兄様が何か言おうとしたその瞬間、会場に流れていた音楽がピタリと止んだ。それまで談笑や立食を楽しんでいた来客者達も、動きを止めて辺りを見回している。

 静まり返るホールに、どこからかコツコツと靴音が響き渡った。

 

「本日は、私の為にお集まりいただきましてありがとうございます」


 子供の声だった。男の子の、高い声。だけどひどく落ち着いていて、よく通る声だ。

 声の出所を追うと子供が一人、二階から階段を降りてくるのが見えた。私達の場所からは少し遠いけれど、真っ赤な髪とすらりとした肢体。服に着られる事無く堂々と歩くその姿は、お兄様に負けず劣らず輝いて見えた。

 

 やがて彼がホールに到着すると、自然と人々が退き周りに空間ができる。

 静まり返った衆人環視の中彼はひるむことなく歩を進め、ホールの中央までくるとこちらを振り返った。刹那、赤い髪から覗く金色の瞳とバチリと視線が絡み合ったように錯覚する。

 その強い視線にドキリと胸が高鳴るけれど、あちらこちらから息を飲んだようなため息が聞こえて、どうやらそう思ったのは私だけではないのだと知れる。

 

「……綺麗……」


 けれど彼らを責められる人間は居ないだろう。綺麗なお兄様を見慣れているはずの私も、思わずそんな言葉が口をついてしまったぐらいだ。

 真っ赤な髪に煌めく瞳は、神話にでてくる太陽の神様を思い起こさせる。強く逞しく、けれど美しいその輝きに、私は目が離せなくなった。……けれど彼もこちらをじっと見ていると感じるのは、やはり気のせいなのだろうか。


「どうぞ皆様、本日は心行くまでお楽しみください」


 恐らく、彼がアレキサンダー……アレキサンダー・ヴォルフガングなのだろう。今日は、彼の為のパーティだ。挨拶をする所作の一つ一つも美しく、言葉の端々から自信と魅力が溢れ出ている。

 ドキドキする胸を押さえながらその様子を見ていると、やがて挨拶を終えた彼が優雅な仕草でこちらに歩いてきた。騒めきの中人々が道を開け、私と彼の間に遮るものが無くなる。

 まるでおとぎ話のような展開に、期待で胸が弾んだ。

 

「なるほど、夜空に浮かぶスピカ、ね」

 

 彼は私の目の前までやってきて立ち止まると、口に笑みの形を作ってぽつりと呟いた。小さな声だったけれど、隣にいたお兄様には聞こえたのだろう。小さく息をのむ声が聞こえたけれど、最早私はそれに構ってはいられなかった。

 何故なら私の視線は、目の前のアレキサンダー様に釘付けだったからだ。


「星の様に美しい姫君、よろしければ私と一曲踊ってはいただけないでしょうか」

 

 アレキサンダー様はそう言って跪き、私の手を取った。周囲の騒めきが一層大きくなる。あの令嬢はどなただの、どういうことだだの、そんな雑音すらも耳に心地よい。

 遠く視界の端で、指揮者が大きく腕を振るのが見えた。騒めきに溢れていたホールに、美しい音楽が流れ出す。あたかも恋物語のようなシチュエーションに、私の気分は高揚した。

 

(いいえ、恋物語のような、ではありませんわ。まさに私の恋物語なのですわ!)


 そう、これは運命なのだろう。パーティでお互い一目惚れをして恋に落ちるなんて、そんなの運命に決まっているではないか!!これは私と彼の恋物語で、その序章なのだ。

 私はこの物語のヒロインで、だからこそこんなに大きなお屋敷に住むこの綺麗な男が、私に跪いて乞うているのだ。ああ、私は神に愛されている。


 この瞬間、世界とは私を中心に回っているのだと知った。


「……ええ、喜んで」


 お兄様の腕をスルリと解いて、夢心地で彼の手を掴む。お兄様が私を呼ぶ声が聞こえたけれど、最早それは唯の雑音だ。

 お兄様を残し、彼と二人で歩き出す。後ろを振り向く事はなかった。だってお兄様には悪いけれど、今はヒーローとヒロインの時間なのだ。脇役のお兄様が、二人の間に割り込む資格はない。

 

 

「どうして私に声を?」


 沢山の注目を浴びながらホールの中央へ向かう最中、彼に問いかける。

 

「君のドレスとその髪は会場の誰よりも目を惹いた……それではいけないかな」

 

「いいえ、全く」

 

 アレキサンダー様の言葉に、首を振ってほほ笑む。

 つまり一目惚れされたのだろうと、私にはわかったからだ。


「私も、このドレスはお気に入りですの」


 周囲の騒めきは、ただの嫉妬。そう、最初から周りなんて気にする必要は無かったのだ。

 だって、この世界の主役は私なのだから。

 

「ねぇアレキサンダー様、アレックスってお呼びしてもよろしいかしら?」


 ワルツの最中、彼にそう言いニコリと笑う。アレックスの返事を待つまでも無く、私の中では決定事項だった。

 何故なら私とアレックスは、赤い糸で結ばれた運命の王子様とお姫様なのだから。


 誰もが羨む彼の愛を一心に受けた私は、間違いなく世界で一番幸せなお姫様になれるだろう。


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