虚像
「……オールストン、様?」
振り向いた先に居たのは、ここに居るはずが無い人物……アーサー・オールストンだった。
「? ……ああ、ウェルベルズリー嬢か」
名前を呼ばれた事で初めてそこに私が居るのに気が付いたのか、アーサーが少しばかり驚いたような表情でこちらを見下ろしてきた。どう考えても、驚くべきはずなのはこちらなのだけれど……。その役にたたない眼鏡のレンズを抜いてやろうかしら。
「貴方、どこから入ってきましたの?」
言いたい事は山のようにあるけれど、とりあえず一番の疑問を口にする。そもそもこの場所は私有地であり、他人が簡単に入って来れるような場所では決してないのだ。
周りは植え込みに囲まれているし、その外側には頑丈な柵もある。屋敷へと続く道は一つだけで、それも先程まで私の目の前にあったのだから、彼が屋敷から来たのなら私が彼の姿を見ていないのはおかしい。それに正しく玄関から訪れたのなら、誰かしら知らせにくるはずだろう。
(ならばこの眼鏡は……いったいどこから湧いてきましたの?)
知らず眉間に皴が寄る。私の後ろにはアーサー、アーサーの後ろには立派な植え込み。現状答えなど一つしかないではないか。……不法侵入だ。
「気にするな、少し用事があって邪魔させてもらっている」
「……気にするに決まっていますでしょう。不法侵入者の分際でよくもまぁ、そう堂々としていられますわね」
私の質問には答えずどこか的外れな返答しか返さない彼に、怒りよりも呆れが優る。もしかしたら彼の突飛な言動は、それを狙っているのでなかろうか。
悪びれる様子すら見せないアーサーに、いっそ犯罪者だと衛兵に突き出してやろうかとも思う。どうせ家の力でもみ消され、徒労に終わってしまうのだろうけれど。
「心配無用だ。用事を済ませたらすぐに消える」
「貴方の心配はこれっぽっちもしておりませんわよ。それより、わざわざ、こんな場所までご足労頂くほどの御用事とは何かしら?」
不法侵入への皮肉と苛立ちを込めてそう言ってみるけれど、相変わらずアーサーの表情は崩れない。
「此処というか、用件があるのは……彼だ。どこに居るのかと思えば、こんな所に居たとは」
『彼』、そう言いながらアーサーが視線を向けたのは、勿論私では無く猫ちゃんだ。私の事は気が付きもしなかったくせに、猫ちゃんの事はしっかりと捉えていたらしい。
「オールストン様は、この猫ちゃ……猫の事をご存知なのですの?」
「ああ、こいつはケビンだ」
「……ケビン」
私の方を見向きもせずあっさりと猫ちゃんの名前を答えるアーサーに、複雑な感情が湧き上がってくる。それは猫ちゃんの名前を知っていたアーサーに対してなのか、それともこの猫ちゃんに名前をつけて可愛がっている飼い主が居るという事実に対してか。
「……猫ちゃん」
それにちょっとだけ思ってしまったのだ。猫ちゃんに、ケビンと言う名前は似合わないな、と。
そう思ってぽつりと呟いた呼び親しんだ愛称に、猫ちゃんはちらりと視線を向けてくれた。
「ふむ。どうやら彼はケビンでは無いようだな」
その様子を見ていたアーサーが、至極あっさりとそう言った。
「は?たった今、貴方がケビンだと言ったのではありませんの!」
「ああ。しかしウェルベルズリー嬢が彼をケビンと呼ばないのなら、彼はケビンではないのだろう」
まるで禅問答の様な事を言うアーサーに、彼の言葉を真に受けた自分を恥じる。そうでしたわ……彼はこう言う人間でしたわ。どうせ猫ちゃんの名前に関しても、適当に言っただけなのだろう。
眉間に手をやり黙り込んでいる私を気にすることなく、アーサーは猫ちゃんの前まで来ると、猫ちゃんに向かって話し始めた。
「残念だ。君が一番近いと思っていたのだが」
普段のアーサーとは似つかぬほど真剣な雰囲気を滲ませ語り掛けるその横顔は、もし状況が違っていたならば見惚れてしまうような迫力があった。
そう、それが不法侵入した先で、毛を逆立て威嚇する猫ちゃんを相手に見せたものでいなければ。
(……変人、いえ変人以前の問題かもしれませんわね)
彼と話す様になってから常々変な人だとは思っていたけれど、アーサーは本格的に危ない方の人かもしれない。彼に対する警戒度を上げると同時に、気が付かれない様こっそりとアーサーから距離をとる。
君子危うきに近寄らず。好奇心は猫をも殺すとは、本日身をもって学んだ教訓である。
「ケビンは何処だ」
しかしアーサーの口から出た名前に、思わず後退していた足を止める。ケビンとは、この猫ちゃんの名前ではなかっただろうか?……そもそも猫にものを尋ねたところで、答えが返ってくるはずもないのだけれど。
勿論猫ちゃんはその問いに答える事無く唸っているし、アーサーは静かに猫ちゃんを見つめている。そんな一人と一匹を見守る私という構図に、ここが屋敷から離れていて良かったと思わずにはいられない。
「君が答えないのなら、俺も強行手段に出るしかない」
暫し猫ちゃんとにらみ合っていたアーサーだったけれど、相変わらず低く唸る事しかしない猫ちゃんに流石に焦れたようだ。
私を一瞥すると、人差し指を口元に宛て少しだけ笑みを浮かべる。どこか普段のアーサーとは違う鋭いその視線と、今まで浮かべた事の無い表情に、ゾワリと寒気が駆け上がり身体が震える。
「ウェルベルズリー嬢……君だって、このままで良いとは思っていないのだろう?」
なんの事だ、と聞き返す事すらできなかった。
呼吸の仕方まで忘れてしまったかの様に、アーサーの瞳に縛られる。普段は眼鏡ばかりを気にして、あまり直視する事はなかったその、霧がかった静かな森を思わせるモスグリーンの瞳。けれど時折キラキラと違う色が反射している様に見えるのは、気のせいだろうか。……彼の瞳は、こんなにも不思議な色をしていただろうか?
「だからこそ、君は……」
ージャリー
アーサーが何か言おうと私に向き直り、一歩足を踏み出そうとしたその瞬間……猫ちゃんが勢いよく彼に飛び掛かった。
「猫ちゃん!?」
「っ!まて、勘違いするな。まだ彼女に危害を加えるつもりは無い」
「…………今なんて!?」
先ほどまでの緊張感も忘れ、数刻前に幸せになってほしいとのたまったその口で、真逆の事を言ってのけるアーサーに冷たい視線を送る。あまりにさらりと言ったので、思わず聞き流しかけるところだった。
「勘違いのない様に言っておきますけれど、私は危害を加えられて幸せを感じるような人間ではありませんわよ?」
思わず半眼でアーサーにそう教えておく。万が一誤解でもされていたら、一生ものの汚点になりかねない。
「ああ、危害を加えると言うのはそう言う意味ではなくて……っと」
そんな私の憤りを察してくれたのか、猫ちゃんがアーサーに向かって鋭い爪を出した前足を振るう。ナイス猫ちゃん!!
「……ふむ、だめか」
しかしアーサーはそれをするりと避けてそう呟くと、懐から一冊の本を取り出して私へと投げて寄こした。
「きゃっ!」
「まぁいい、それは返しておこう。残念ながら、俺には読めなかったのでな」
受け取り損ねて膝の上に着地したその本は、返却されるには全く身に覚えのないものだった。本の表紙には何一つ文字が書かれておらず、内容の推察さえできない。
「……ちょっと、何ですのこれ?」
「図書室にあったので少し拝借させてもらった」
「は?返しに行くのなら、ちゃんと自分で返しにいってくださいませ」
図書室で借りてみたものの、読めなかったから私に返しに行けと言う事なのだろう。私を小間使いとして使おうとする度胸だけは、買って差し上げてもいいかもしれないけれど。
けれどそんな私を前に、アーサーは不思議そうに首を傾げる。
「しかしそれはウェルベルズリー嬢のものなのだから、二度手間だろう?」
まるで私の方が間違ってるとでも言いたげに、きょとんとした表情のアーサーに今度はこちらが困惑してしまう。
この本は、私のものではありませんけれど!?
しかし、私がそう口を開くより先に、再び猫ちゃんがアーサーに前足で攻撃を繰り出した。
「仕方ない、また出直すとしよう」
今度は後ろに飛びずさってそれを避けたアーサーは、そのまま踵を返し植え込みへと向かって行く。
「は?ちょっと貴方、本当に碌な説明も無しに帰るおつもりなんですの!?」
ここに来た理由も、どうやって来たのかも、猫ちゃんの事さえ結局よくわからなかった。
彼のあまりの勝手な行動に驚いてそう呼び止めるけれど、アーサーは此方に視線を向ける事なく一言呟いた。
「申し訳ないが、俺は猫が苦手なんだ。くしゃみが止まらなくなるからな」
そう言うと、そのまま植え込みの向こう側に消えていった。
「は……え?」
あまりの事に呆気に取られていると、猫ちゃんもまたアーサーを追って植え込みの中へと飛び込んで行ってしまった。猫ちゃんを追いかけていた身としては、猫ちゃんに追いかけられているアーサーが羨ましいですわね、なんて、現実逃避をしてしまう。
「……っくしゅ」
己が発したくしゃみの音で、我に返る。
しばらくぼんやりとその場に座り込んでいたけれど、いつの間にやら日も傾いてしまっていた。いったいどのくらいぼーっとしていたのかなんて考えたくもなくて、ふらりと立ち上がり屋敷へと戻る道を歩き出す。
「……私の、オアシス」
ぽつりと呟いた言葉は、夕暮れの空へと消えていく。
おかしい。本当ならば、今頃は心も癒され足取りも軽くなっていたはずなのに……。そう考えて、頭を緩く振る。
「いいえ、私の選んだ道に癒しなんて、あるはずがありませんでしたのよね……」
この道を受け入れたのは自分で、全てを捨てると決めたのも、私自身だ。
それなのに、猫ちゃんには随分と甘えてしまっていたのだと気づかされる。
「悲しくなんてありませんわ!!ええ、もう全然!婚約者に裏切られ、お兄様にも裏切られ、猫ちゃんにも見捨てられるなんて!!よくある事ですしね!ええ!」
少なくとも、婚約者の裏切りは3回体験したのだし。
「今更猫ちゃんに置いて行かれたくらい、何てことありませんわ!ふふ……ふふふふ……おーっほっほっほ」
ズシリと、嫌に重く感じる本を抱え、私は声高らかに笑うのだった。
オレンジ色の夕日が滲んで見える気がしたのは、きっと疲れているからだろう。ええ、きっとそうに決まっている。




