十二乗音の悪足掻き2
夢を決めた私の行動は早かった。早速インターネットで必要なソフト一式を購入し、曲作りに関する本を書店で漁りまくった。家が比較的裕福な方だったので全て自分の小遣いで事足りた。
ポチポチと音の出る長方形を画面に打ち込んでいく。音は鳴った。およそ曲とは言えない3音がヘッドフォン越しに順番に伝達され、謎の脱力感を覚えた。
難しい。難しすぎる。ドーレーミー(多分)と再生させるためだけにここまで苦労するのか。私が動画サイトでなんとなく聴き流していたあの名曲たちはこんなものではなかったというのに。
「厳しいよぉ……」
床に寝そべり、パソコンを視界から消した。
こんな調子では学校やめて2年間引き籠って曲作りに専念しようとも完成させる自信がない。慣れれば早くなるのだろうか。そもそも「慣れる」ことができるのだろうか。
いや、前向きに考えよう。今の私は言ってみれば釘の打ち方を覚えたようなものだ。そんな人間に家の建て方なんて分かるわけがない。分からないのが自然なんだ。そもそも音楽とはバッハとかベートーヴェンとかを経由し、長い時間をかけて作られてきたものだ。そんな大それた物を1日で習得できるわけがない。そんなことができるのは天才だけだろう。
どこかでセミの声がする。エアコンの効いた室内でさえ、彼らの声は熱気の満ちた空間に錯覚させる力がある。こめかみの辺りから頬を伝って首筋をゆっくり流れる汗と、事実ではない歪む空間がズームされてしまうのだ。
(喉乾いたな)
確か冷蔵庫に麦茶があったはずだ。本当はオレンジジュースがいいのだが、無いものをどうこういっても仕方ない。我が家の冷蔵庫は才能とオレンジジュースに共通点を作ってしまったようだ。
「……て、何考えてんだろ」
きっと私は疲れているんだ。麦茶だけでなく何か小腹を満たす物も調達しよう。甘い物は気分じゃない。煎餅みたいなしょっぱい物が欲しいな。
少し長い廊下を歩きながらこれからのことを考える。
今の私は中学1年生。ダメとまではいかないが将来を見据える必要も無くはない時期だ。ボカロPになりたいとは言ったけどそれで食べていく光景は浮かんでこない。ただあの曲に感化されて漠然と憧れただけに過ぎない。
何も見えない。曲の作り方も、いい曲の作り方も、いい曲を作り続ける方法も、それ全部を知った私の姿も。見えないのはまだ始まったばかりだからか、あるはずの無い光景だからか。
仮にそれら全てが分かったとして、私は何がしたい?あの曲の主人公みたいに救われたいのか?救われたらそれで終わりなのか?
本当に何も分からない。才能の世界に飛び込んで最初に味わう苦しさは、きっと「分からない」から来るんだ。自分の立ち位置が分からず、天才の姿だけが見えてしまって不安になる。そんな状況が私たちに不安だけをもたらし続けるのだ。
長い廊下も間もなく終盤戦。後一部屋通り過ぎると台所だ。死んだ目で冷蔵庫を目指す少女の姿がそこにあった。200年前に比べたらずっと快適に違いない空間にいながらの不満げな表情、我ながら情けないと思う。
和室が目に入る(元々我が家は和風建築なので全部屋和室であり、ある和室という方が適切なのだが)。襖が開いていた。私ではない。両親は今も仕事をしているはずなのでおそらく違う。では幽霊か?いや、この家は新築だしこの土地では愛憎劇も殺戮も発生していない。相手は人間だ。見当はついている。
そっと部屋の中を覗き込む。黄土色(多分あの色はそれで合ってる)の畳の上、現実よりは絵画の夜空のような藍っぽい黒の布が広がっている。さらにその上にはまだ真っ白な紙が広がっており、人1人が寝そべれそうなほどの大きさだ。
美しさすらあるその白の上、突如として黒が落とされた。その黒は線扱いされる面を広げながら、血管のようにうねり曲がり紙を駆けていく。
時折黒は紙を離れた。筆が持ち上げられたのだ。筆は2次元で考えればテレポートにあたる位置に再び現れ、速く進み、時にどんと止まる。全ての操作が意味を持っていた。全ての動きが書を生み出していた。
数分後、書は生まれた。この場所からは何と書いてあるかは分からない。最期の画の終点では、所々が墨で黒くなった女性が息を切らしていた。墨と五十歩百歩な黒髪を後ろで1束にまとめ、メイクの一切をしていないその顔は独裁国家のように完璧な秩序を保っている。
その女はまず眼球を、次に首をゆっくりと動かしながら、虚な目の私を見据えた。




