虚の修復予想【1】
3月某日、とある天文部の部員たちが怪獣に遭遇する少し前のことだ。虚縦軸は自宅の前にいた。隣には手を繋いだ、縦軸よりも背が低い水色の髪の少女。縦軸の手をしきりに握り直し、もう片方の手は服の端を掴んでいる。
「お姉ちゃん、平気?」
「うん……大丈夫」
無駄に明るい声色だった。これで安心できる思考など、縦軸は小学生の時に捨てている。
彼の姉・虚愛は1度死んで別の世界で生まれ変わった。そんな彼女を連れ戻せたのは縦軸の持つ特別な能力によるものであり、ここに辿り着くまで彼は9年以上もの月日を要した。小学1年生から高校1年生――個人の性格や価値観を決めるのには十分な期間だ。その間ずっと最愛の姉がいない、それでいてもしかしたらまた会えるかもしれないという希望がある状態で過ごしていた縦軸にとって、今はこれ以上無いくらい幸せな時間だ。しかしそれでいて一切の油断が許されない時間でもある。
もう姉を失ってはならない。彼女が死にたいと思うような苦しみを、もう2度と背負わせてはならない。故に彼女が無理をして本心を隠す様子を縦軸は決して見逃さない。虚愛がどれだけ必死で笑顔を取り繕ってもだ。
「お姉ちゃん」
「……っ」
愛は途端に足がすくんで動けなくなった。縦軸が笑っていない。口元だけを見れば口角が上がっていてまるで微笑んでいるかのようだが、どう見ても目が笑っていない。光が取り払われた瞳をしている。
「僕、お姉ちゃんに嘘つかれるのは嫌だな」
「いや、あの」
「もう1回訊くけど、大丈夫?」
愛は気づいた。『これ』から逃げることは不可能だと。
「……ちょっと、不安かも」
「そっか」
縦軸がそっとしゃがみ、愛に視線を合わせる。
また笑った。今度は怖くない。愛の心を落ち着かせるためのような穏やかな笑顔だ。
「ありがとう、教えてくれて。僕、すっごく嬉しい」
「縦軸」
「大丈夫。母さんも父さんも、大丈夫だから」
頭を撫でられる。愛の中の何かが和らいでいく。服を掴んでいた片手を愛は手放した。
「うん」
「いこっか」
「うん」
あの頃と変わらない玄関のドアが開く音がする。
愛の視界に飛び込んできたのは、まさしく日常だった。物の配置も、電球の色も、何も変わらない玄関。帰って来たんだという事実が愛の元へと押し寄せてくる。
だんだんと足音が近づいてくる。2人分だ。誰なのかは考えるまでも無い。愛の予想していた2人は、何一つ期待を裏切らずにその姿を現した。
最初に一瞬だけ驚いたような表情。その後すぐに何かを期待するような眼差しへと変わり、2人は縦軸を強く見つめた。言ってくれと。自分たちにその答えを教えてくれと。
縦軸は応えた。
「母さん、父さん、ただいま。帰ったよ」
2人はいつの間にか涙を流していた。止まらない。いつまで経っても止まらない。だがそれでも縦軸たちの母は、涙を拭うより先に愛に話しかけた。
「愛、おかえり。ご飯できてるよ」
遅れてなるものかと父も口を開く。
「疲れただろ。好きなだけだらだらしてくれ」
何も変わらない。あの頃と全てが同じだ。ただ今朝学校へ行っていつものように帰って来たかのよう。特別なことなど何も無い。
それ故にこの時初めて、愛は心の底から安心することができた。
目尻に涙が浮かぶ。視界が涙であやふやになる。しかし滲んだその景色がどんな形なのか、愛は一切疑わない。全てを込めてその言葉を言える。
「ただいま!」
虚愛は家に帰った。
電気を消して瞼を閉じ、意識が沈んでいくのを縦軸はただ待っていた。そんな時だった。彼の部屋のドアがノックされたのは。
「お姉ちゃん?」
パジャマ姿の愛が枕を持って立っていた。申し訳なさそうに上目遣いで縦軸を見つめている。
縦軸は大体の察しがついた。
「いいよ。入って」
「うん。ありがと」
愛が部屋に入ると同時に縦軸は彼女へ手を伸ばした。縦軸に手を引かれながら愛は部屋を進む。
「座って」
縦軸に促され、一緒にベッドへ腰掛ける。抱えていた枕をそばに置く。暗くて顔がよく見えない部屋の中、それでも愛は縦軸の顔を覗き込んだ。
「一緒に寝ていい?」
「いいよ。狭いけど平気?」
「平気。ありがとう」
縦軸はゆっくりと愛の体を横にした。彼女の横へ、あともう少しで触れてしまいそうな程の近くへ自分も横になる。1枚の掛け布団で自分と愛をまとめて覆った。愛がすぐ近くにいるのだと、そんな実感が強くなった。
「えへへっ」
笑い声がする。直後、愛は縦軸の体へ腕を回し引き寄せた。互いの体が触れ合い、衣服を通って体温が伝わってくる。とても温かい。何にも代えられないくらい心地がいい。
「大きくなったね、縦軸。前はお姉ちゃんの方が大きかったのに」
「確かに。前と逆かも」
「昔は縦軸がお姉ちゃんの部屋に来てたよね」
「お姉ちゃんと一緒に寝るの、すごく安心するから」
「私も。縦軸が私のそばで寝てるの、可愛くて大好き」
愛は縦軸の頭を撫でた。どれだけ背が伸びようと、彼女にとって可愛い弟であることには変わりない。
ふと、この現在をもたらしてくれた恩人の1人の顔が愛の頭に浮かんだ。
「作子には感謝しないとね」
「だね。まさか残ってたなんて」
愛の死から数年後、虚家は別の町へと引っ越した。しかし今いる家は愛にとって慣れ親しんだものであり、その風景は彼女の記憶にあるものと何も変わっていない。
これは何故か。彼女の親友・原前作子のおかげだ。縦軸たちの家が誰かの物にならないように、愛が帰ってくる場所であるために、作子がこっそり縦軸たちの家だった建物を買っていたのだ。
どうやったのかは縦軸も愛も知らない。作子も、彼女の実家も、いきなり新しい家を買える程金持ちではない。かといって根気強く貯金したという話を作子の両親から聞いたことも無い。何かしたとしたら作子本人だ。縦軸は流石に気になって何をしたのか以前訊ねたが、法には触れていないとだけ伝えられた。
ちなみに現在の愛の衣服も作子が用意した物だ。
「ふう。ちょっと疲れたかも」
「そうだね。色々あったもんね。もう寝よっか」
「うん。おやすみ、縦軸」
「おやすみ、お姉ちゃん」
2人とも気がついたら目を閉じていた。
別の世界に生まれ変わった影響で、愛は魔法が使えるようになった。便利な魔法は色々あるが、特に使っているのが瞬間移動の魔法だ。かつて住んでいた家に戻って来たはいいものの、縦軸は引っ越した先の町の高校に通っている身でもある。毎日その学校と現在の家を行き来しなければならない。
それを可能にしたのが瞬間移動の魔法だ。引越し先の家と現在の家を自由に行き来できる。縦軸が学校に通うだけでなく、彼の友達と会うためにもこの上なく重宝していた。
「うぎぎぎぎ……びくともしないいい」
「やるね。お姉ちゃん」
愛をお姉ちゃんと呼ぶ少女の名は積元微。いや、厳密にはディファレという名だ。彼女は二重人格であり、現在表に出ている人格の名がディファレなのである。
「なあ、作子」
「ん?」
作子と呼ばれた褐色肌の女性は何故か着ている白衣のポケットに両手を突っ込み、愛とディファレを眺めていた。隣には困惑気味の縦軸がいる。
「何やってんのあれ」
「どう見ても腕相撲でしょ」
「うぐぅぅぅぅ……」
どちらもびくともしない。互角だ。だかよく見ると愛は歯を食いしばりながら大粒の汗を流しているのに対し、ディファレは表情ひとつ動かしていない。とても余裕に見える。
「何で腕相撲?」
「ディファレのやつ、本気で体を動かしたり力を込めたりする機会に飢えてんのよ。ほら、微ってクッソ速くてクッソ力持ちだから」
「お姉ちゃんあんな顔してるのにディファレは眉ひとつ動かしてないんだけど? どこが本気なんだよあれ」
「普段よりは全力。普段よりは」
「ぐああああっ!」
近所に聞かれたら通報されそうな悲鳴が上がる。腕をぺたりと机につけて動かなくなった愛がそこにいた。ディファレは椅子から立ち上がって背筋を伸ばしている。満足そうだ。
「いやーお姉ちゃんと遊ぶのって楽しいね。微って一人っ子だからこういうの新鮮!」
「ディファレは前世で僕がいたじゃん」
「お兄ちゃんずっとベッドで横になってたじゃん。ワタシは忙しくて全然会えなかったし」
「おーいてめえら。切ない話はそこで終わりねー」
作子が手を叩いて縦軸たちの注意を引いた。
「愛、お疲れのところ悪いけどちょっといい?」
「はあ、はあ、何ですか?」
「ちょいと相談がある」
愛は息を切らしながらも作子の言葉に耳を傾けている。作子は淡々と話を続けた。
「私は仕事、縦軸と微は学校。全員昼間はいねえのよ」
「あはは……そうですね。頑張って……はあ……ください」
「その間あんたずっと家に引き篭もる気? あんたはどっかの学校の生徒でもないから不登校どころかニートだぜ?」
「ウッ……!」
愛は苦しそうに胸を押さえた。本当に苦しそうだ。
そんな彼女に苦笑しつつ、作子は言い放った。
「そこで提案なんだけどさ――また学校行かない?」




