雑音ヒーロー【5】
「部長、おはようございます」
玄関に心音がいた。
「あ、あぁ、おはよ――」
「さ、行きましょう」
心音が階差の手を取る。走り出しはせず、ゆっくりと彼女の手を引く。
2人で手を繋いでの登校が始まった。
一別家を出てすぐ左に曲がると坂道がある。階差がどちらかといえばよく使う方の道だ。しかし心音はそちらの道に背を向けて、右手へと歩を進めた。
住宅街をしばらく進む。建物ばかりの道の途中、座るのにちょうど良さそうな石のオブジェが3つ程並んで車を通れないようにした小道への入り口が顔を現した。心音は躊躇いなくそこへ入った。階差も石のオブジェを避けながら、手を繋いだままついていく。
木々に囲まれた小道に出た。しかし道は確かに舗装されており、両脇には側溝もある。この側溝はある程度坂を下ると幅が広がり蓋も無くなる。台風が過ぎ去った直後などのタイミングであれば運がいいとそこに水が流れているのを眺めることができ、周囲の木々から落ちた葉が流されていく様はもはや側溝というよりとても小さな川のようだ。
この道は全体の半分以上が木の影に覆われているため、夏場だとかなり涼しく感じられる。しかし陰になっているということは、夕暮れ時になると他の道よりさらに暗くなることも意味する。夜道が苦手な階差は、何かの理由で下校が早くなった時ぐらいにしか使っていなかった。
そんな非日常と隣り合わせの坂道を下っている。心音に手を引かれながら。朝はいつも決まった時間に、決まった道を通り、一言も発さずに登校するのが習慣だった階差にとって、現在学園に向かっているというのはとても信じられることではなかった。ひょっとしたら今日は休日で、これから心音とどこかに遊びに行こうとしているのではないか。そういう可能性の方を信じたかった。
ただただ足を動かす。違和感を抱こうとも結局は素通りし、最後はその状況を受け入れてしまえる。階差の良いところでもあり悪いところでもあった。心音と手を繋げている今の状況が現実とは思えないのは確かだが、一方ではそういうものかと当然のことのように受け入れてしまってもいた。どうして突然こんなことをしてくれたのか、そんな疑問について思考する余裕などとうに消え失せていた。
「……っ!」
音が聞こえそうなぐらいに心臓の鼓動が激しい。顔が熱くなっているのがうっすら分かる。
心音の手は自分の手より小さく、柔らかく、ひんやりとしているような気がした。
「部長、顔赤いっすよ」
「あ、あぁ……」
汗が止まらなくなる。臭わないか心配になり、気にならないという以前心音が言っていた言葉を思い出す。あれが気を遣った嘘でないようにと祈りながら、階差は心音の手の感触を噛み締めていた。
人通りの多くなりやすい場所に出た。だが人がいない。
死角に怪獣がいた。数日前、心音たちがリカイとタカシの元へ転移した日に遭遇した個体だ。心音と階差を見ている。
「うっわ、朝から怪獣とかだるっ! うーん」
心音が階差から手を離した。彼女のリュックが肩から下ろされ、ファスナーが開く音がする。
「えーと確か筆箱に……あった。ふん!」
心音はハサミを怪獣に向かって投げた。ハサミは怪獣に届く程度に長い放物線を描くことはできた。しかし別に刺さったり怪獣を倒したりすることは無く、虚しい空気を呼びながら地面へと落ちていった。
「やっぱこいつ弱くないっすね。部長、逃げましょう」
階差は目を見開いてその場から動かない。というか 動けないようだ。
「……いや、逃げようと思っても逃げきれないっすよね。とにかくスウガク部の誰かに連絡を――」
それは突然現れた。心音たちは影に覆われた。彼女たちの頭上に巨体があった。
校則で使用が禁止されているために学園内ではずっとリュックに仕舞った状態の携帯電話を心音が取り出そうとした時、2体目の怪獣が姿を現した。
「ほえー、こういうこともあるんすね」
新たに現れた怪獣の容姿は、とても生物とは言い難かった。これまでの怪獣たちは恐竜だの軟体動物だのといった実在の生物を多少作り変えて大きくした程度のような姿をしていた。
しかし今回のは違う。頭や手足、胴体といった『生物』としての常識の範囲内で作られた見た目とは全く違う。ただの真っ黒で幾何学的な形の物体が何個か組み合わさり、たまたま人型とも言えるような並びをしていると説明した方が適当といえよう。
「何というか、ロボットみたいな怪獣っすね」
そいつは何を考えているかすらも推測させないまま、腕と認識できるパーツを1体目の怪獣に叩きつけた。
1体目がたまらず倒れる。2体目はその後も立て続けに腕らしきパーツで1体目を殴り続けた。
「味方、なんすかね」
「あぁ……さあ」
消えそうな声で階差は答えた。本当なら逃げ出したいところだが、寧ろここで勝手な行動をしてしまう方が怖かった。怪獣たちに目をつけられて襲われてしまうのではないか。論理的にそう考えたのではない。そういう光景を脳内で唐突に想像してしまっただけだ。
階差は心音のそばを離れないようにした。いっそのこと肩を掴んで背中に顔を埋めてしまいたい。思いついてしまった欲求が、階差の想像として思考を乱す。
「倒したみたいっすね」
心音の声で階差の意識は現実に戻された。
1体目が倒れて動かなくなっていた。
「残りのあいつっすけど、先生からメールが来てたみたいっす」
心音は携帯電話の画面を階差に見せた。日光のせいで見づらいが、何と書いてあるかは辛うじて読める。どうやら2体目のロボットのような怪獣が敵ではないことを伝える内容のようだ。
「まあ怪獣を作ってるのは先生っすからね。そりゃ味方の怪獣も作れるか」
「あぁ、うん」
黒いロボットのような怪獣は既に動かなくなっている。
「まあいいや。行きましょう、部長」
「あぁ、うん」
心音は再び階差の手を繋ごうとし、硬直した。ロボットのような怪獣の見た目に変化が起こったからだ。人工物のような無機質なパーツたちがぐちゃぐちゃに波打ち、風船のようにしぼみ始めたのだ。
どんどん小さくなっていく。色も変わっていく。だんだんと、人のようになっていく。
怪獣たちは作子が人を変化させたもの。実際に人が怪獣へ、そして怪獣が人へ変わっていく様を心音たちも見たことがある。別にそのこと自体には驚きなど無かった。
驚いたわけではなかったが、心音は思わず言葉を漏らした。
「あんたかよ」
鳩乃杜高校の制服を纏った水色の髪の少女がそこにはいた。彼女は心音たちを見つけるや否や、途端に目に光を宿してやたらと大きな声で叫んだ。
「いやっほおおおおおおおお! 初項一見言ですっ!」
「あ、お久しぶりです」
「うっさいっすね……」
階差は頭を下げ、心音は鬱陶しそうな顔をした。
「いやーどうだったよアタシの活躍は?」
「部長、行きましょう」
「え、ああ、うん」
「おいおいおいおいちょっと。ねえアタシは? アーターシーはー?」
心音は階差の手を引っ張りながら学園へと突き進んだ。その間、見言の方は1回たりとも振り向かなかった。
遅刻はしなかった。




