雑音ヒーロー【4】
できる限り楽をしたい。それが一別階差の行動原理だ。だがそれでも、楽な天文部の活動を犠牲にしてでも、階差は作子の授業を放課後に受けていた。つまりは部活をサボって勉強していることになる。
どうせ天文部の活動など暇な時間ばかりな上、階差のためになるからと顧問の千歳も了承してくれた。相手が作子なせいで渋々ではあったが。教わっているのは主に数学と理科。好きな科目を訊かれた階差が取り敢えず挙げてみたところ、あっさり教えてもらえることになった。作子曰く、高校レベルまでなら大体どの教科でも教えられるらしい。
そうしていつもの光景となった個人授業を受けると思っていた矢先のことだ。
「君の先輩に会わせてあげようか」
原前作子が唐突に提案してきた。
「ああ……はい」
階差がそう答えた後、彼女は3秒程かけてようやく作子の言ったことを理解した。つまりは何も考えず返事をしたことになる。良くも悪くも考え無しに行動してしまう。悪い面の方が圧倒的に多い階差の『個性』だ。
階差が理解するまでの間、作子は何も言わずに待っててくれていた。
「…………初項一さんって子だよね。去年卒業したの」
「はい」
「その子、鳩乃杜高校ってところに進学したんだ。聞いてない?」
「あー、聞いてたかもです」
あまり覚えてはいない。
「私普段はその鳩乃杜で働いててね。初項一さんとも知り合いなの」
「はあ」
「今はそれなりに暇してるみたいだし、明日にでもこっち来れるかもよ」
初項一とはそれなりに仲が良かった。彼女が天文部からいなくなる時に寂しく感じたのは紛れもない事実だ。だがそれでも、作子の提案は階差にとって面倒くさいものだった。
初項一は仲の良い先輩だ。友達と言える可能性だってある。しかし階差は人付き合いが苦手だ。誰かと会うことを強要されるなど、喜べなくても不思議ではなかった。
「はいどーも! 初項一見言ですっ! ミコトって呼んでね!」
病み上がりで疲弊しきった心音の脳みそに、そのやたらと五月蝿い声は容赦なく襲いかかった。
「はあ……誰っすか」
通学路で不審者に会ったと学園に相談するべきか心音は悩んでいた。
鮮やかな水色の髪。自分と同じ制服を着ているが、正直見覚えが無い。というか彼女のような髪色の人物は心音の周りにはいないため、彼女がいたら確実に目立つ筈だ。それなのに心当たりが無い。転校生の類だろうか。心做しか自分よりも少し歳上に見える気もする。
「アタシね、今日からスウガク部に入ることになったから」
「ああ」
只者でないことは何となく察した。
「君が心音ちゃんでしょ? 作子先生から話は聞いてるよ。ツッコミ担当の子がいるって」
「あーそうっすか」
ツッコミを入れる気力など無かった。何となく体が重い。昨日まで自分を苦しめていた頭痛が蘇ったような気さえしてくる。とっとと教室の机に突っ伏して、ホームルームまで居眠りしたい気分だった。
「ねーねー反応薄いよー。心音ちゃんってばー!」
やはり五月蝿い。脳に響く。もういっそ殴ってやろうかという考えが心音の頭に浮かぶ。
「ねーえー! こーこーねーちゃーん!」
我慢の限界。暴力を選択。
「あーもう黙って――」
「やめとけ。疲れるだけだぞ」
「ココちゃん。ストップ」
手が出る寸前で体が止まった。世間一般においては幻覚として扱われる存在の幼馴染たちが心音の肩を掴んでいた。
(ヨータロー、ススキ)
「あの積元って奴は意外と色々考えてるし、話もそれなりに通じる。でもこいつはダメだ。相手にすると疲れるぞ」
(そうっすね)
「今日はもう帰って寝ちゃお? 2日休んだんだから3日休んだって変わんないよ」
(人殺しが言い訳によく使うやつっすね。了解っす)
「おーい心音ちゃん? 急に止まってどうしたの?」
踵を返す。
「心音ちゃん? 学園はそっちじゃないよ。心音ちゃーん」
この日も心音は休んだ。
虚縦軸は不機嫌だった。ここは鳩乃杜高校の片隅、民間伝承研究部という部活が使っている部屋――の隣の空き教室。縦軸が九ノ東学園中等部に通う姉に対し、帰りが遅くなりそうだと連絡したのが数分前。それから今に至るまで、縦軸は本来ならば姉と一緒にいられた筈の時間を1秒1秒削られていた。目の前の後輩によって。
「うおおおおめっちゃ分かる! あざます縦軸センパイ」
「分かったんならもういいだろ。帰る」
「あーん待ってくださいよ〜」
袖を掴まれる。体力の欠片も無い縦軸はあっさり捕まった。
「もうちょい勉強教えてくれたっていいじゃないですかぁ」
「初項一、お前元々勉強得意だろ。作子から聞いてるぞ」
「えー、センパイって先生のこと『作子』って呼んでるんですかぁ?」
「何で今初めて知ったみたいな反応してんだそれと話逸らすな僕がいなくてもいいだろ」
「やーだやだやだ! 1人で宿題とか面倒くさくて嫌です! 手伝ってくださーいー!」
「うっざ」
ぼそりと呟かれた縦軸の暴言は、ひたすらに騒ぎ立てる見言の声にあっさりかき消された。不満げに再び着席する。
「そもそもお前、今日は一別さんに会うんじゃなかったのか」
「ああ、あれ無しになりました」
「何で?」
「なーんか気乗りしてなさそうって作子先生から聞きまして」
「お前はいいのか」
「うーん、まあいいかなって」
「いいのかよ」
見言は本当に何も気にしてなさそうな様子だった。好きな食べ物だとか趣味だとかを質問されたものの何かのこだわりや回答などが思いつかなかったために取り敢えず適当な返答をした時のような答え方だ。何も思いつかない、すなわち特にこれといった感情を抱いていないということだ。
誰か来てくれないか、こいつをどうにかしてくれないか。縦軸はそんな祈りを込めて教室の扉にさりげなく目をやった。残念ながら誰かが扉を開く気配は無い。
「センパイ、そんなに帰りたいんですか?」
「そうだと言ったら帰してくれるのか」
「アタシと一緒に帰ってくれるっておっしゃるなら」
「謹んでやだ」
「まあまあそう言わずに」
見言は机に広げられていたノートや筆記用具を手際よく片付け始めた。
「可愛い後輩の頼みですよ」
「もっと可愛い姉の方が大事だ」
「んもー。デート行きましょうよセンパーイ」
「お前とデートする仲になった記憶は無い」
「あそぼあそぼあそぼー!」
さっさと帰ろうとする縦軸。見言がその脚にしがみつく。その場から全く動けない。それだけ見言の力が強いのか、縦軸が弱いだけなのか。後者の可能性が極めて高い。
「はあ、仕方ないか」
「おお! ということは!」
「これで諦めろ。〈転生師〉」
縦軸の姿が消えた。彼の脚を掴んでいた見言の手も、今や空気に触れているだけだった。
「ええええええ⁉︎ センパーーーーーイ!」
地面に寝転がったせいで埃のような汚れがつきまくった制服にはまだ気づかず、初項一見言は絶叫した。
日がほとんど沈みきった頃。見言は縦軸と会話していた部屋で、椅子に座ったまま人形のように動かないでいた。
「入るよー」
ガラガラと扉が開く。電気がつく。作子の顔が見えた。
「調子はどう? 初項一さん」
「問題ありません! めちゃめちゃ元気です!」
「いいことだ。うん」
廊下には誰の気配も無い。放課後と呼ばれる時間はとうに過ぎたようだ。
「困ったことがあったらオレに言うこと。いいね?」
「はーい」
「それと確認だけど、これからちょくちょく怪獣になってもらうと思うから。そのつもりで」
「はーい!」
とても素直な返事だった。彼女を確保してよかったと、ノヴァは自身の選択と幸運を心の中で褒めた。




