雑音ヒーロー【3】
九ノ東学園は制服に関してそれなりに自由がある方だ。例えば衣替えの日付けは明確に決められておらず、長袖を着るか半袖を着るかは各々の判断に任せられている。シャツは流石に着なければいけないが、ネクタイ、ベスト、ブレザーのうちどれを身につけてどれを身につけないかはこれもまた各々が好きにしていい。せいぜい全校集会の時にはネクタイを着けなければいけないと決められているくらいだ。
半袖シャツでないと耐えられないくらい暑い日を除き、一別階差は好んでベストを着用していた。シャツだけだとその下が透けて見えてしまわないか不安で恥ずかしかったからだ。しかしネクタイは着けなかった。クラスメイトの定義に当てはまる連中が面白がって彼女のネクタイをベストの下から引っ張り出す遊びを始めたからだ。一々直すのが面倒だったので、彼女はネクタイを着けなくなった。執事みたいだと茶化す連中は相変わらずいたものの、かなりマシになった。
登校してから朝のホームルームが始まるまではいくらか時間がある。生徒たちが自由にできる時間だ。よって階差はこの時間、自分の席でただじっとしている。誰にも目をつけられないように。誰からもターゲットにされないように。
少なくとも階差の認識において、彼女のクラスメイトは2種類に分けられた。いじめっ子と見て見ぬ振りをする者たちだ。別に彼らを友達だと思っていたわけではない。裏切られたとかそんな風には思っていない。そういう意味での心の痛みというのは無く、ただただ目障りだった。
しばらくしてチャイムが鳴る。そして担任が教室に入ってくる。幸い今日の朝は何もされなかった。
ホームルームが終わると1時限目までの休み時間に入る。教室移動は無い。再び階差は息を潜めた。
授業中でも気は抜けない。自分が何か少しでもおかしな行動をしてしまえば、彼らが自分を馬鹿にするためのきっかけを作ってしまえば、授業中であろうと不快な言葉は容赦無く降り注いでくる。わざとかどうかは分からないが、教師は案外私語を見逃すものだ。
というか、学校にいる間は気が休まるタイミングなどほとんど無い。階差を笑いものにしている彼らは別に階差を24時間監視しているわけでもないし、たまたま彼らにとって面白いことをしている様が目に入った時にだけ階差で遊んでいるのだろう。しかし階差にとってはそれがいつどこで発生するかなど予測できたものじゃない。
最近見たテレビで聞いたセリフ、好きな曲、とにかくどうでもいい情報で脳を誤魔化しながら、階差は放課後までの長い長い時間を過ごした。
やっとの思いで放課後まで辿り着く。本当なら一目散に家に帰りたいところではあるが、今の階差には部活がある。それも心音と一緒の部活だ。今日はスウガク部の方があるとは聞いてないので、天文部の方に顔を出すことになっている。ちなみに天文部は休日と水曜日が休みなのだが、これらの日にスウガク部の活動が入らないようにと階差はいつも必死に願っている。休日はなるべく家にいたいし、水曜は普段より早く帰ることができる貴重な日だからだ。
まずは部室の鍵が保管されている職員室に向かう。ノックをして、戸を開けた。
「失礼します2年1組の一別階差です部室の鍵を取りに来ました」
「はーい、どうぞー」
教師の1人が返した。担任でも顧問でもないので、別に親しくはない。担任ともそこまで親しい間柄ではないが。
入り口近くの壁にかけられていたいくつもの鍵の中から部室の鍵を取り、特定の誰かというよりは職員室という空間全体に対して軽く礼をした。
「失礼しました」
階差は職員室を後にした。
ここまでの流れは既に何度も経験した作業だからか、今ではあまり怖くはない。初めて自分から鍵を取りに行く時は心臓が激しく鼓動すると共に汗が止まらなくなったかのような感覚に見舞われたが、いつからかその現象は起きなくなってくれた。
5階の1番奥。隣に『空き教室』がある天文部の部室。適当な場所にリュックを置き、階差はパソコンの画面を取り敢えず立ち上げてはいた。
つい癖で貧乏ゆすりをしてしまう。しきりに時計を確認する。かれこれこうして1時間が経過した。
心音が来ない。焦りと罪悪感が募る。間違えたのではないかと。
天文部の活動予定は基本的に水曜日以外の平日で固定されており、予定の変更があった場合には顧問の千歳から連絡が入る。ただしその方法は口頭である。今日は天文部の活動があるものだと階差は思っていたが、それを証明する物はどこにあるだろうか。どこにも無い。
自分が間違えた可能性が階差の中で存在感を増していく。心音が学校を休んでいるとか何かの用事で部活に来るのが遅れているとかの可能性ももちろんあるにはある。しかし階差にとってはそんなのより自分の記憶違いの方が圧倒的にあり得る話だった。
千歳に確認するべきか? そんなことができたら苦労は無い。千歳にはある程度慣れているとはいえ、階差は小等部にいた頃からずっと、教師が怖くて仕方ないのだから。
自分勝手な理由があらゆる道を塞いでいた。教師が怖いなど他人には関係無い事情であり、故に誰かに頼ることはできない。仮に開き直って打ち明けるにしても、それを真剣に受け止め助けになってくれて、かつ今からすぐに会える生徒など階差には思いつかない。
1年の時の記憶、ある日の体育の授業を唐突に思い出した。簡単に言えば本来は体育館で行われることになっていたその日の授業を階差だけが運動場で行われると勘違いしていたという話なのだが、彼女にとっては忘れたいのに忘れられてくれない大きな恥の1つだ。
その日、いつもの体育の授業と同じように、階差は誰かと喋ったりすることも無くさっさと着替えを終えた。体育の時のために配られた2足のシューズのうち、外で使う用の物を手に取り、1人そそくさと運動場へ移動した。体育教師により体育館の時は3周、運動場の時は1周のランニングを休み時間のうちに済ませておくことが決められていたため、足の遅い階差は早めにランニングを始めるようにしていた。息が上がりながらも何とか1周走り切った頃、ようやく誰も来ていないことに気がついた。周りを見渡し、少し待ち、チャイムが鳴ってしばらくした後、彼女は慌てて教室に戻った。誰もいなかった。何が起きたのか当時の階差にはさっぱり分からなかった。
その後名前すら覚えていない教師の誰かが通りがかったことで階差は自分の勘違いに気づくことになる。クラスメイトたちから笑いものにされたのは言うまでもない。
「一別さん?」
その声が階差を回想から引き戻した。
いつの間にか千歳がいた。
「あ、こんにちは」
「どう? 作業は進んでる?」
「あー、いやー」
「もう、またぁ? ふふ」
千歳の様子から察するに、自分が今ここにいることはおかしなことではないらしい。階差はひとまず安堵した。
「あ、先生。心音ちゃんは」
「ああ。梶尾さんね、今日は体調不良で休みなの」
「ああ」
自分があり得ないと切り捨てた可能性こそが正解だった。誰にもバレていないというのに、階差はそのことが恥ずかしくて仕方なくなった。
「ところで一別さん、どうして昨日はスウガク部に来なかったの?」
「え――」
安心したのも束の間、別の恥が判明した。確かに昨日、階差は真っ直ぐ家に帰った。何か理由があったわけではない。かといってサボったわけでもない。単に忘れていただけだ。スウガク部に行く日だということも、そもそも放課後は部活に行くのが自分の習慣だったということも。
それを伝えるために、などという考えが思考としてはっきり脳に浮かんでくるよりも早く、階差は何も考えず咄嗟に返答した。
「――昨日あったんですか」
「あったわよ。もー」
千歳は苦笑こそしていたが本気で怒っているようには見えなかった。幸いにも階差は怖がらずに済んだ。
「まあ原前先生全然怒ってなかったから、安心して」
「あーはい」
結局この日、階差はいつも通りの作業をしていつも通りの時刻に下校することになった。しかし隣には、いつも一緒に帰ってくれていた心音がいない。階差は暗い夜道が苦手だ。故に日が沈んでしまわないうちに、疲れない程度の急ぎ足で家まで帰った。




