雑音ヒーロー【1】
一別階差は怖がりだ。
例えば、彼女は歯磨き粉を使い始めるのが他人より遅かった。歯磨きの最中にうっかり飲み込んでしまったらとか、口をゆすいだ後もどこかに残っていたらとか、そんなことを想像して使いたがらなかった。
虫歯になったのは言うまでも無い。歯の痛みに苦しんで親に泣きつく当時の姿は、今も階差の脳内に時折しつこく蘇る。
他には、鉄棒が大の苦手だった。もちろん運動が苦手というのも理由の1つだが、それだけなら血の滲むような練習によってある程度克服できる。
彼女が鉄棒を嫌った最大の理由は恐怖だ。鉄棒にぶら下がっている途中で手を離してしまい、落ちてしまったら。頭を怪我して死んでしまうのではないか。そんな恐怖が常に階差に纏わりついていた。しかもその恐怖を助長する出来事もあった。あるドラマのワンシーンだ。当時の階差と同い年くらいの子どもが、鉄棒から落ちて頭から血を流していた。小学生の頃に1回見たきりのため、どんな話だったのかは覚えていない。もしかしたら階差の記憶が間違っているかもしれない。しかしそのシーンが階差の中にあった恐怖により鮮明なイメージを与えたのは事実である。
「部長。そろそろ帰りましょうか」
「あ、うん」
今日のスウガク部は休みだ。というかここ数日ずっと休みだ。土日は元々活動をしていなかったため、かれこれ1週間は休みが続いていることになる。
荷物をまとめ、2人は天文部の部室を出る。ガラガラと引き戸を開けて廊下を踏みしめようとしたまさにその時、心音は人とぶつかった。
「うおっ、帰るとこだった?」
「音。いたんすか」
「先生に頼んで送ってもらった」
九ノ東学園の校舎に十二乗音がいる。スウガク部と出会ってからすっかり見慣れた光景であり別に今更驚くことでもないが、やはり心音はどこか異質な感じを覚えた。
「階差ちゃんも一緒?」
「あ、はい」
「私も一緒に帰っていい?」
「おーん……」
心音は階差の方を一瞬振り向き、続いて天井を見上げた。
階差が嫌がっている。一目見て分かった。別に彼女が意図して嫌悪感を露わにしていたとかではないし、赤の他人が見れば単に無表情なだけとしか思わないだろう。しかし心音には分かった。階差は音と一緒に下校することを嫌がっている。人見知り故か、あるいは心音と一緒に帰る予定だったのが関係しているのかもしれない。
どうするべきか。色々考えた挙句、心音は腹を括った。
「いいっすよ。部長はどうします?」
「ああ、うん。いいけど」
こういう時、階差は断らない。何か楽しいことがあったか相当疲れていて判断力が鈍っている時でもない限り、水を差すような真似はしない。心音はそれを分かった上でまず自分が回答した。
(すんません部長! 音なら大丈夫だと思うんで、仲良くなるきっかけだと思って勘弁してください!)
どこか居心地の悪そうな階差を含め、3人は今度こそ家路についた。
同日、鳩乃杜高校。
「縦軸君、ていりちゃん!」
2年の教室に積元微が飛び込んで来た。彼女の目的は後輩の縦軸とていり。1年の時は同じクラスで隣の席だった2人だが、2年になってもまさかの同じクラスだった。ただし流石に席は離れている。
そんな2人の元を3年生の微が訪ねてくるのはもはや日常の風景と化していた。彼らと初めて同じクラスになった生徒の中には驚く者も多少いたが、数日経つ頃には誰も反応を示さなくなっていた。
「あ、先輩」
「一緒に帰ろ! って、あれ? ていりちゃんは?」
「平方さんと一緒に帰っちゃいました。先輩には謝っておいてくれ、だそうです。ちなみに十二乗は梶尾さんの所です」
「そっか。オッケー! ……はあ、全くあの子たちは」
微の目つきが変化した。彼女の中に宿るもう1人の人格、ディファレと入れ替わった証だ。
「微は気にしてないみたいだけど、せめて自分たちで一声かけてよね」
「ディファレ、寂しいの?」
「そうだけど? んんっ、急に撫でないでよ」
「あはは。ごめんね」
微の体は信じられないくらい強い。作子の作った怪獣やそれよりもっとずっと強い怪物を1発殴るだけで倒せるくらいには力持ちだ。その気になれば1秒以内に縦軸の全身の骨を折ることだってできる。しかしディファレは微塵も抵抗しようとしなかった。愛する妹の頭を撫でる兄の手を、少しも退かそうとはしなかった。
「帰ろっか。一緒にお姉ちゃん迎えに行こう?」
「うん……」
どこか恥ずかしそうに頷く。顔が赤くなっていないか不安になりながら、ディファレは縦軸と手を繋いで教室を出ていった。
廊下を渡り、階段を下り、下駄箱で一旦手を離して上履きから靴に履き替え、再び手を繋ぐ。いつもと変わらぬ2人の家路が始まった。
帰り道は学校から離れるにつれ、自分と同じ制服を着た人間が少なくなっていく。人によっては自分以外誰も見当たらなくなる。
2人の周りには最早誰の気配すらも感じられない。人目が無いことを注意深く確かめた後、縦軸と微は互いの手を一層強く握り合った。
「じゃあ行くよ」
「うん」
「〈転生師〉」
地面から発せられる光に包まれ、2人の姿が消失する。ついさっきまで町中にいた筈だというのに、彼らはどこかも分からない山の中に何故かいた。
ただし縦軸はそんなことなど気にも留めず、再び能力を行使した。
「〈転生師〉」
縦軸の能力――『取り返しがつかない事象を取り返す』能力。それは死者を生まれ変わらせる他、自分が今いる世界とは別の世界、一般に異世界やパラレルワールドなどと呼ばれる場所へと転移する力を持っている。そして移動先の座標は、縦軸の意思によって自由に決めることができる。
例えば異世界にある雪山の頂上に行きたいと念じてある程度正確な場所を意識すれば、山登りをすること無くそこへ行くことができる。あるいは王族が住む城に転移したいと願えば、数多の警備に遭遇することなくそれを実行できる。そしてこの性質は異世界から元いた世界に戻る時も同様だ。故に一瞬だけ異世界に転移する手間さえ挟めば、縦軸の能力は瞬間移動が可能なものとなる。
時間にしてみればほんの3秒も費やすこと無く、縦軸とディファレは電車で十分に昼寝できるくらいの時間移動した先にある十彩町へ到着した。
「やっぱり降ってる」
ディファレが空を見上げて呟いた。
今日は晴天だった鳩乃杜町と打って変わって、暗くどんよりとした雲が覆う空から雨粒が落ちてきている。まだ衣服が濡れたと認識できる程ではないが、いずれ傘や雨合羽無しでは風邪をひいてしまうようになるだろう。
「傘、持ってきておいてよかったね」
ディファレの手を握っていたのとは反対側、縦軸のもう片方の手に握られていた傘の出番がやってきた。
「おいで」
縦軸はディファレの身体を引き寄せた。
「行こっか」
「うん!」
縦軸はディファレに近い方の手へと傘を持ち替え、ディファレは縦軸の歩く速さに自分を合わせ、2人はまた一緒に歩き出した。
心音と階差が帰り支度を始める少し前のこと。九ノ東学園中等部1年のとあるクラスにて。窓の外を見た誰かが不満そうに溢した。
「えー、雨?」
天気予報さえ見ていれば今日雨が降るかもしれないことなど容易に知れたが、それをうっかり忘れてしまうことも別に珍しくはない。
虚愛もそうだった。
「うぅ……やってしまいました」
窓際の席、すなわち肝心な日に傘を忘れた事実を最も強く叩きつけられる場所で愛は頭を抱えていた。いざという時の為に日頃から折りたたみ傘を携帯しておこうかと考えていた矢先にこれである。別に学校に愛着など無いというのに、家族のことが大好きだというのに、帰りたくないという思いが浮かんでしまう。
奇跡的にすぐ止んでくれないかと窓の外を眺めていて、ふと空ではなく下の方へと目をやった時に、その人影は目に入った。
「おや……あれは!」
愛のクラスの教室は校門が見える場所にあるのだが、そこから見下ろした先に愛にとって希望とも言える人物がいたのだ。
教科書、ノート等をリュックに放り込み、愛は一目散に教室を飛び出した。
廊下を走るのは良くないが、今の愛にはそんな決まりなど無いも同然だ。かつての自分とは似ても似つかない俊足で廊下を駆け抜け、階段を走り去り、目には見えない速さで靴に履き替え、まさに一瞬で弟と妹の元まで駆け寄ってきた。
「縦軸! ディファレ!」
2人にまとめて抱きついた。勢いで縦軸が転びそうになったが、ディファレがそっと支えて事なきを得た。
「迎えに来てくれたの?」
「うん。お姉ちゃん、傘忘れてたでしょ? はいこれ」
縦軸は自分の折りたたみ傘を差し出した。
しかし愛は縦軸とディファレを2、3回見回した後、頬を膨らませて折りたたみ傘の受け取りを拒否した。
「お姉ちゃんも一緒の傘に入る」
「狭いけどいいの?」
「いい」
「ディファレ、いい?」
「ん? いいよ」
「じゃあ、どうぞ」
姉と妹におしくらまんじゅう同然の状態にされながら、縦軸は九ノ東学園を後にした。
3人別々に傘を差しているために、心音たちは互いに距離が空いていた。
「へえ、階差ちゃんもあのアニメ見てるんだ」
「ああ、はい」
「私の周りだと見てる人いないのよね。話ができるのは心音と階差ちゃんくらいよ」
「あー、はあ」
心音は2人の1歩後ろで何も言わず微笑んでいた。階差の受け答えは一見素っ気ないように見えるが、自分の好きなものについて語り合える相手ができて内心ではこの上無い程喜んでいる。心音には分かった。
音なら階差と仲良くなれる。階差が一緒にいて嫌になったり怯えたり、そんな言動は音ならきっとしない。
「ん? どうしたのよ心音。そんなニヤニヤして」
「何でもないっすよ」
「怪しいわね……」
音がじっとりとした視線を心音に向ける中、3人は長い上り坂に差し掛かった。階差が自転車通学を微塵も考えない大きな理由だ。行きは下り坂でスピードが出過ぎるのが怖く、帰りは押した方が楽なくらいしんどい。
これから始まる面倒くさい道のりに階差がうんざりしていたその時――
「部長! 音!」
後ろにいた心音が叫んだ。階差と音は咄嗟に振り返った。
雨で多少視界が悪くなった先、何かが猛スピードでこちらに向かってきている。大きい。人間ではない。ワニやトカゲに似た何かが2足歩行になったかのような姿だ。
「怪獣⁉︎ 何でいるのよ!」
「今日って先生から連絡あったっすか?」
「無いわよ! てかこっち来てるけど⁉︎」
今日はスウガク部の予定が無かった。つまり誰も武器を持っていない。
怪獣はどんどん迫って来ている。
「やばいやばいやばい! 逃げるわよ!」
傘を差しながら走るのは面倒くさい。風で傘がひっくり返るかもしれない。では傘を一旦閉じるか? それはそれでリュックの中の教科書が濡れてしまう。そもそもこの雨の中走れば転んでしまうかもしれない。
――などと考えていたばかりに階差の反応は遅れてしまった。
「まずい。部長!」
「……っ!」
気づけば怪獣がすぐそこまで来ていた。大口を開けて階差を食おうとしている。
心音と音は慌てて傘を放り投げ、階差に駆け寄ろうとした。
「!」
時として、良くも悪くも階差は何も考えない。後先考えず行動できる人間だ。物語の主人公でもない彼女がそんな真似をしても無論良い結果になることは無に等しい程少ないが、今はいい結果に繋がろうとしていた。
身を翻す。逃げようとする。
「とりゃああああああ!」
だがその必要は無かった。空高くからディファレが現れ、怪獣に強烈な飛び蹴りを加えた。
「皆さん! 大丈夫ですか?」
縦軸を背負った愛も現れた。
「作子から連絡があって来てみたんですが、何とか間に合ったみたいですね」
「愛さん、あの怪獣って何なんすか?」
「作子が監禁していた内の1人が脱走したようです。怪獣になったのも今回は作子の仕業ではないとか」
「つまりあれって」
「怪獣リロードの影響。そうよね、愛さん」
「ええ。おそらく」
怪獣リロード。最初の怪獣、原点怪獣レイベクター復活の予兆として発生する異常現象。作子が名づけたものであり、スウガク部が相対する現状最大の敵だった。
「どうするの? 先生が作った怪獣じゃないなら弱くないかもだし、下手すると死ぬわよ」
「私とディファレが何とかします。皆さんは逃げてください」
「それはダメだよお姉ちゃん」
腕を振り下ろす怪獣の攻撃を素手で受け止めながらディファレが口を挟んだ。
「こいつ以外の怪獣が現れるかもしれない。ワタシとお姉ちゃんが両方こいつと戦うのはまずいよ。皆が危ない」
「じゃあ」
「お姉ちゃんの方が魔法使えて色々できるでしょ。お兄ちゃんたちを守って。こいつはワタシが倒す」
建物を易々と破壊できそうな怪獣の腕を尚も掴みながらディファレが提案した。確かに彼女なら倒せそうだ。彼女は単純な力比べならここにいる誰にも負けない。説得力がある。
「分かりました。ではそれで――」
「ちょっと待てええええええ!」
大人しく背負われていた縦軸が絶叫した。
「お、お兄ちゃん?」
「縦軸?」
「うっさいわね。どうしたのよ急に」
「この怪獣はきっと人を洗脳できる」
縦軸は鬼気迫る顔で語り出した。
「僕たちを引き離して邪魔が入らないようにしたところでディファレと先輩を洗脳するつもりなんだ。そうすれば2人を人質に取られた僕たちは数然さんに従わざるを得なくなる。僕の能力も数然さんの思うがままだ」
「またお兄ちゃんがおかしくなった」
「悪いがその手には乗らない。〈転生師〉!」
縦軸の能力が行使された。
ディファレを含め彼らの姿が消えるや否や、怪獣は動かなくなった。
「うぅ……ここは?」
心音は目を開けた。そして同時に自分が屋内にいることに気づいた。雨に濡れた体を温めるかのように、今の季節には出番がない筈の暖かい空気が部屋を満たしている。
「タテさんが能力を使ったってことは……異世界っすか」
誰かの家のようだ。とても広い。
「いっけね。靴」
ここが土足が許される風習の場所なのか分からない。もし違ってた場合、自分は雨に濡れた靴で堂々と上がり込むという無礼を働いたことになる。
大急ぎで靴を脱ごうとする。
「慌てなくても大丈夫だよ」
優しい声がした。
隣にひとがいた。
「へ?」
「確かにうちでは靴を脱ぐけど、そのくらいで怒ったりしないから」
「はあ……どうも」
パンツスーツを纏った女性がいた。見た目は20代前半といったところ。生きているのか怪しいくらいに肌が白い。
そして何より心音の目を惹いたのは、彼女の髪と目だった。髪は雪のように美しくどこか高貴さが漂う銀髪で、目は血を垂らしたかのように真っ赤な色をしている。彼女が人ならざる者だと、その目が伝えているようだった。
「ちょっと待っててね。タオルと着替えを持って来てもらってるから。それよりほら、早く服脱がないと風邪引いちゃうよ?」
「あの、あなたは……」
「私? まあ、王様かな」
女性は子どものような笑顔を浮かべた。
「君、別の世界の人だよね」
「分かるんすか?」
「うん。会ったことあるから。あ、脱いだ服とかはその辺に置いといて」
心音が靴や靴下、制服などをその辺に放っておいても、女性は特に気にしていない様子だった。
「自己紹介がまだだったね」
「はっ……! 自分は梶尾心音です」
「カジオさんだね。そんなに固くならなくていいんだよ」
不思議な人物だと心音は思った。どこか得体の知れない雰囲気がありつつも、一緒にいて恐怖を感じることは無い。心を許せてしまう。
「次は私の番だね。私の名前はリカイ」
「リカイさん……?」
「うん。『理解する』って意味のリカイ」
ふふ、とリカイの口から穏やかな笑い声が漏れる。
「変わった名前でしょ。でも気に入ってるんだ」




